魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~   作:ちょわわ

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第16話「Ragnarok」

 それは、誰の予測よりも早く、動いた。

 

 霊峰の神殿。確保部隊の包囲の中で、『終末の牙』は、突然、明滅を止めた。止めて——実空間から、消えた。

 

 封鎖結界は、意味をなさなかった。物理隔壁も、意味をなさなかった。牙は虚数位相へと身を沈め、あらゆる壁を「存在しない場所」からすり抜けて——そして、再び実空間に浮かび上がった。

 

 本局への護送を待つ、拘束艇の独房の、その中に。

 

 拘束具に縛られた男の、目の前に。

 

「…………ああ」

 

 ロキは、潰れた鼻のまま、泣き笑いのような声を漏らした。

 

「ああ、ああ……来て、くれたのか。私を——選んで、くれるのか」

 

 黒い牙は、答えるように一度だけ強く明滅し——男の胸へと、沈み込んだ。

 

 拘束艇が内側から裂けたのは、その三秒後だった。

 

『——緊急!! 全艦、全部隊へ!! 拘束艇ロスト!! 反応が——巨大化していきます!!』

 

 油色の空の下、それは、立ち上がった。

 

 全高、百メートルを超える、狼とも竜ともつかない輪郭。だがその体を成しているのは、肉でも機械でもなかった。「何もない」だった。四年前、地球の空の亀裂から覗いた、あの、色という概念を受け付けない虚無が、獣の形を取って、二本の脚で世界の上に立っていた。

 

 輪郭の内側では、現実が、ほどけていた。触れた大地が虚数に呑まれ、踏んだ荒野が「そこに荒野があった」という事実ごと消えていく。歩く、ファースト・ショック。

 

『分析班より全局……! 対象は牙と融合、虚数位相と実位相の狭間に存在しています! 実体弾も魔力砲も、位相がずれて素通りします! 有効打を与えられる兵装は——』

 

 グレアの声が、一度、途切れた。

 

『——理論上、一つだけ。時空そのものを歪曲させる、因果消滅級の……戦略魔導兵装だけです』

 

 ゼルベロス艦橋で、全員の目が、無言のうちに、一つの場所を向いた。

 

 艦首に眠る、三門の主砲を。

 

『だ、だが対象は位相の狭間にいるんだぞ! 座標が定まらない相手に、どうやって照準を——』

 

『——誰かが、実空間に引きずり出して、押さえつけるしか、ありません』

 

 その、誰か。

 

 虚数位相に触れられる者。四年間、虚数の海に漬かり、その位相に体ごと適応してしまった者——この宇宙に、たった一人。

 

 艦橋の空気が、凍った。誰もが答えを知っていて、誰もが、口にできなかった。彼女は昨日、四年ぶりに帰ってきたばかりなのだ。ボロボロの体で、ようやく、眠れたばかりなのだ。

 

 その沈黙を破ったのは——艦橋のハッチが開く音だった。

 

「…………あの」

 

 包帯だらけの、金色の少女が、点滴の管を自分で抜いた腕のまま、そこに立っていた。壁に手をつき、震える脚で、それでも、まっすぐに。

 

「話は……医務室の、放送で……聞きました」

 

 フェイト・テスタロッサは、一同を見回し、最後にリンディを見て、深く、頭を下げた。

 

「まだ……飛べます。私に出来ることは……全部、させてください。……後悔は、したくないから……」

 

 四年ぶりの、彼女自身の意志による、志願だった。

 

「フェイトちゃん……!」

 

 なのはが駆け寄る。だめ、と言いかけて——言えなかった。言えるはずがなかった。ボロボロの体で、それでも誰かのために飛ぶと言い張る少女を止める言葉を、なのは・T・ハラオウンは、この世界で一番、持っていなかった。

 

 だから、代わりに、両手で、包帯の手を握った。

 

「……一緒に、帰ること。それが、条件」

 

「…………うん」

 

 金色の少女は、四年ぶりに、ほんの少しだけ、笑った。

 

「——冗談じゃねえぞ、おい!!」

 

 医務室では、リョウが暴れていた。正確には、暴れようとして、三人がかりの医療班に、ベッドに沈められていた。

 

「離せ! 俺も行く! あいつらだけ行かせられるか——痛っ、おい、点滴増やすな!」

 

「クルス二等陸士。……いい加減になさい」

 

 医務室に入ってきたリンディが、静かに言った。

 

「右腕は使用不能。左脇腹は貫通創。全身の魔力経路は焼け付き寸前。……あなたが今、戦場で出来ることを言ってみなさい」

 

「……っ、それは……」

 

「ないでしょう。——だから、あなたの仕事は、もう終わっているの」

 

 リンディは、ベッドの脇に立ち、暴れる男の目を、まっすぐに見下ろした。

 

「首輪を切ったのも、あの子の目を覚まさせたのも、なのはに『撃つ』を教えたのも、あなた。今からあの二人がやることは、全部——あなたが五ヶ月かけて組み上げたものの上で、行われるのよ。……引き金は、もう引かれてる。あとは弾が飛んでいくのを、信じて待つのが、引き金の最後の仕事」

 

「…………クソ」

 

 リョウは、天井を仰いだ。

 

「……ずるい大人だよ、ほんと、あんたは」

 

「ええ。母親ですもの」

 

 リンディは、艦橋へ戻る前に、一度だけ振り返った。

 

「……艦内放送は、繋いでおくわ。最後まで、聞いていなさい」

 

 残り時限——という数字は、もう意味を失っていた。怪物と化したロキは退避都市の方角へ、一歩ごとに世界を消しながら、歩いている。猶予は時間ではなく、距離だった。

 

 油色の空を、二つの光が並んで翔けた。

 

 桜色と、金色。

 

「フェイトちゃん、無理はしないで! 引き込むだけでいいから!」

 

「……うん。なのはちゃんこそ……無茶、しないで」

 

 整備班が徹夜で叩き直したレギンレイヴ——刃も砲も死んだ、飛行補助だけの骨組み——を背に、フェイトは怪物の前面へ躍り出た。そして、ためらいなく、その輪郭の「何もない」の中へ、腕を、突き入れた。

 

 四年間、彼女を漬け込んだ海の位相。世界中の誰もが触れられないその虚無に、彼女の腕だけは——確かに、届いた。

 

「——雷よ!!」

 

 金色の縛鎖が、彼女自身の変換資質が生む雷が、虚数位相の内側で、怪物の芯に喰らいついた。

 

『ォ————』

 

 初めて、怪物が、声のようなものを上げた。虚無の輪郭が波打ち、ほどけかけた現実が、雷の鎖に引かれて、軋む。

 

「引き込みます……!! なのはちゃん——!!」

 

 フェイトが、全身全霊で、鎖を引いた。虚数の狭間から、巨大な虚無の獣が、ずるり、と——実空間の側へ、引きずり出される。

 

 その鼻先に、桜色の砲口が、待っていた。

 

「動かないで、ロキさん」

 

 なのはは、静かに告げて、引き金を引いた。

 

「——ここが、あなたの座標です」

 

 収束砲——貫通ではなく、圧殺の設定。夜明け色の奔流が、面となって怪物の巨躯を押し包み、実空間の座標に、万力のように押さえつけた。無尽蔵の魔力が、惜しみなく、圧力に変わり続ける。胸の奥の扉は全開だった。構わなかった。これは、撃つ価値のある一発。世界一つ分の、価値のある。

 

『——目標、実位相に固定!! 座標、取れます!! 取れてます!!』

 

 グレアの絶叫に、艦橋のリンディが、立ち上がった。

 

「本局へ最終照会。——第一種戦略魔導兵装、使用の承認を」

 

 返答は、三秒で来た。あの老提督の、短い、掠れた声で。

 

『……承認する。——撃ち抜け、ゼルベロス』

 

『——第一種戦略魔導兵装、使用承認』

 

 艦内の全区画に、放送が響き渡った。

 

『艦内全区画に告ぐ。これより本艦は、主砲発射態勢へ移行する。総員、対時空衝撃姿勢。非戦闘区画を完全閉鎖』

 

 医務室のベッドの上で、リョウは、目を閉じて、その声を聞いていた。

 

『これより発射される砲撃は、通常の破壊兵器ではない。着弾地点を中心として、空間座標を強制歪曲。領域内部に存在する物質、魔力、および因果的連続性に対し、段階的反応消滅を発生させる。——対象領域の生存性は、保証されない。地形の維持は、保証されない。対象領域が、発射以前と同一の時空へ帰属し続けることも、保証されない』

 

『——主砲管制、起動』

 

『第一魔導砲《ウル》、封印解除。空間圧縮術式、展開』

 

『第二魔導砲《ヴェル》、封印解除。因果遮断術式、展開』

 

『第三魔導砲《ネグ》、封印解除。時間位相固定術式、展開』

 

 艦首で、四年間眠り続けた三つの砲門が、順番に、目を覚ましていく。

 

『三門連結——主砲機関、《三位時空環》へ移行。……警告。艦首前方に、未定義空間を形成。射線上から、全友軍を退避させよ。射線上に残留した存在は、敵味方を問わず、消滅対象と認定する』

 

『目標座標——入力。空間軸、固定。時間軸、固定。因果軸、固定』

 

 荒野の上空では、桜色の圧殺光と金色の縛鎖が、暴れ狂う虚無の獣を、なおも座標に縫い止め続けていた。二人の少女の体は、とうに限界を超えていた。それでも、鎖は緩まず、砲圧は途切れなかった。

 

『発射承認符号、照合。——第一承認、艦長。第二承認、魔導統制官。第三承認、時空監察官。……三者承認、成立。戦略魔導兵装、使用制限を解除』

 

『警告。発射後、本艦周辺に最大十八秒間の時間欠落が発生する可能性あり。記憶の断絶、身体時間の不一致が発生しても——持ち場を、離れるな』

 

『主機出力、主砲へ全量転送。推進、停止。兵装、停止』

 

『——主砲発射まで、十秒』

 

『十。三砲門、完全連結』

 

『九。消滅反応、封入完了』

 

『八。空間歪曲領域、目標座標へ接続』

 

『七』

 

『六。——ヴァレル、テスタロッサ両名へ!! 離脱!! 今すぐ離脱!!』

 

 縛鎖と砲圧が、同時に、解かれた。金色がなのはの腕を掴み、最後の全速で、二つの光は消滅予定領域の外縁へと、翔けた。背後で、拘束を解かれた虚無の獣が、咆哮とともに、追いすがろうと——

 

『五。全隔壁、閉鎖確認』

 

『四。発射術式、最終段階』

 

『三。時空環、完全同期』

 

『二。砲門封印——消失』

 

 医務室のベッドの上で。

 

 クルス・リョウは、目を閉じたまま、口の端で笑って——誰にも聞こえない小ささで、呟いた。

 

「————クリア(やっちまえ)」

 

『一』

 

『——全乗員、衝撃に備えよ。艦長命令——』

 

 リンディ・ハラオウンの声が、静かに、告げた。

 

『三連結時空歪曲反応消滅砲、《トライ・アルカンシェル》——』

 

『発射(ファイア)!!』

 

 世界から、音と色が、消えた。

 

 三つの砲門から放たれた光は、光ですらなかった。それは「そこにあったもの」を「最初からなかったこと」へ書き換えていく、巨大な消しゴムの一撫でだった。三重螺旋の虹色が、油色の空を貫き、逃げ遅れた虚無の獣を——牙ごと、正面から、呑み込んだ。

 

 光の中で、一瞬。

 

 ほんの一瞬だけ、獣の輪郭の中に、人の形が、透けた。

 

 凡庸な、疲れた、中年男の形が。その口が、最後に何かを——「私が消えても、絶望は、何度でも」と紡いだのか、それとも、まったく別の、もっと静かな何かを呟いたのか——それを聞き届けた者は、誰もいなかった。

 

 消滅領域が、閉じた。

 

 怪物は、いなかった。牙は、いなかった。荒野の一角が、綺麗な半球状に「存在しなかったこと」になり、その縁で、傷ついた時空が、ゆっくりと、瘡蓋のように癒着を始めていた。

 

 ——そして、艦の記録によれば、そこから十八秒間。

 

 ゼルベロスの乗員全員の記憶と時間は、一様に、欠落している。

 

 誰もが気づいた時には、砲撃は終わっていて、計器は沈黙していて、そして観測員の一人が、涙声で、報告を上げていた。

 

『敵性反応——消滅。……消滅です! 虚数侵食、停止! 龍脈、安定域へ……!!』

 

『——第68管理外世界の、時限を解除します』

 

 オペレーターの、その一言が、全てだった。

 

 残り時限、という数字は、もう、どこにも表示されていなかった。

 

 消滅領域の外縁、癒着していく時空の際(きわ)に、二つの光が、寄り添うように浮かんでいた。

 

 ボロボロの桜色と、ボロボロの金色。

 

「…………終わった、の、かな」

 

「……うん。……終わった、と、思う」

 

 二人は、顔を見合わせた。すすだらけで、包帯だらけで、目の下に隈を作った、ひどい顔が二つ。どちらからともなく、ふ、と息が漏れて——それは四年ぶりに、二人同時の、笑い声になった。

 

 油色だった空の裂け目から、この世界の朝陽が、差し込み始めていた。

 

 ゼルベロスの医務室では、隻腕の男が、艦内放送の歓声を聞きながら、枕に頭を沈めていた。

 

「……ほらな」

 

 誰にともなく、呟く。弾帯の一番深い位置で、罅の入った結晶が、律儀に鳴いた。

 

《Ready.》

 

「……ばーか。もう終わったよ。……お疲れさん、相棒」

 

 クルス・リョウは、笑って、今度こそ、泥のように眠った。

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