魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
フェンリル事件から、三週間。
ゼルベロス艦内、第二ブリーフィングルーム。黒板の前に立ったリョウの手には、チョークが一本。机の向こうには、生徒が一人。
フェイト・T・ハラオウンは、教本と、筆記具と、なぜかストップウォッチを卓上に整然と並べ、背筋を伸ばして着席していた。
「……なんだそのストップウォッチ」
「三秒を、学ぶと伺いましたので」
「計るのか」
「計らないと、身につかないかと」
優等生である。あまりにも優等生であった。リョウは天井を仰ぎ、それから黒板に、大きく三本の線を引いた。
「いいか。ゼロイチの規則は一つだ。撃つ前に、三秒視ろ」
「三秒。……厳密には、三・〇〇秒でしょうか。それとも二・五秒以上を三秒と丸めますか」
「そういうことじゃねえ」
「では、定義を」
真剣そのものの赤色の目が、まっすぐにこちらを見ている。冗談を言っている顔ではない。リョウはチョークを置き、椅子を逆向きに跨いで座り直した。
「三秒ってのはな、時間じゃねえんだ。手順だ」
「手順」
「一秒目に、そこに何があるか視る。二秒目に、それが物か命か決める。三秒目に、撃つか撃たねえか決める。……この三つを飛ばさないための、目安が三秒だ。二秒で終わりゃそれでいい。十秒かかるならかけろ。守るべきは秒数じゃなく、順番だ」
フェイトのペンが、猛然と動いた。書き終えて、顔を上げる。
「……それは、教本のどこにも書いていません」
「そりゃそうだ。うちの教本は俺の頭ん中にしかねえ」
「では、書き起こします。ページ番号は、どうしましょう」
「書くのかよ」
初任務は、その週の後半に来た。
第40管理外世界、放棄されたコンテナ集積場。逃走中の密輸業者の追跡と拘束。難度は低く、教育任務としては理想的な案件だった。
『ヴァレル2、配置に就きました。……あの、確認いたします。目の前のコンテナは、撃っていい物でしょうか』
『撃っていい』
『了解。——では、その隣の作業クレーンは』
『それも物だ』
『了解。——その下の、放置されたドラム缶は』
『トリガーより、ヴァレル2』
リョウは通信機を額に押し当てて、深呼吸を一つした。
『……全部聞かなくていい。俺のクリアは、視界単位で出す。「クリア」って言ったら、その場の物は全部撃っていい。「待て」って言ったら、全部待て』
『了解しました。……効率的です』
『そうだろ。俺も今、そう思った』
なのはが、通信の向こうで小さく笑ったのが、雑音越しに聞こえた。
拘束は、順調に進んだ。順調すぎるくらいに。フェイトの機動は正確で、バインドの精度は教本の図解より美しく、逃走経路の封鎖は数学的だった。密輸業者たちは、金色の光に一人ずつ丁寧に梱包されて、順番に積み上げられていった。
異変は、最後の一人を追い詰めた時に起きた。
『ヴァレル2、そいつで最後だ。——コンテナごと縛れ、クリア』
『了解。バインド、展——』
術式が、途中で止まった。
金色の光帯が、コンテナの手前で行き場を失って、宙で解ける。リョウは飛びながら、その〇・五秒の躊躇の意味を測りかねた。
『ヴァレル2? どうし——』
『——待ってください』
フェイトの声だった。
『そのコンテナ、生体反応が三つ。……子供です。密輸品の陰に、隠れています』
三秒。
彼女は、視ていた。命令が下りた後も、指を止めて、視ていた。教本のどこにも、上官のクリアの後に自分でもう一度視ろとは書いていない。書いていないことを、彼女はやった。
『……クリア、取り消し』
リョウは通信の向こうで、目を細めた。
『よくやった。——ヴァレル1、上から回れ。ヴァレル2、そのまま子供の位置を報告。俺が下から入る』
三十分後、集積場の隅で、三人の痩せた子供が毛布にくるまっていた。密輸業者が「荷」として運んでいた子供たちだった。医療班に引き渡す時、いちばん小さい子が、金色の髪の魔導師の袖を、ぎゅっと掴んで離さなかった。
フェイトは、どうしていいか分からない顔で、その手を見下ろしていた。
帰艦後、格納庫。
「フェイトちゃん、初任務おつかれさま!」
なのはが駆け寄って、両手を握った。フェイトは慌てて敬礼をしようとして、握られた手が塞がっていることに気づき、中途半端な角度で固まった。
「あ、あの、ヴァレル1。報告書の様式について、ご指導を」
「その前に!」
なのはは、リョウを振り返った。リョウは頷き、義手ではない方の手で、拳を作った。
「……これ、何ですか」
「無事帰った時の、確認だ」
リョウは、拳をなのはの方へ差し出した。こつん、と軽い音が鳴る。
「うちの隊は、全員無事で帰ったら、これをやる。それだけだ。書類も要らねえし、報告も要らねえ。……で、今日は三人だ」
フェイトは、二つの拳を見て、それから自分の右手を見た。おそるおそる握った拳の形は、ぎこちなくて、少し力が入りすぎていた。
こつん。こつん。
「……これは、何のための儀式でしょうか。効果は」
「効果は」なのはが、真面目な顔で答えた。「明日も、みんなで帰りたくなることです」
フェイトは、しばらく自分の拳を見つめていた。
それから、小さな声で言った。
「……記録します」
「書くのかよ」
その夜、食堂に唐揚げの山が着任した。
ゼルベロスの厨房が、帰艦報告の受信と同時に油の温度を上げる習慣は、この頃、まだ「新しい風習」だった。始まりは前月、フェンリルからの帰還の夜である。あの日、厨房長は在庫の鶏肉を全部揚げた。理由を聞かれて彼はこう答えたという。「祝いに決まっとろうが」。以来、ゼロイチの帰艦は、揚げ物の音で艦内に告知されることになった。
その山を前に、フェイトは箸を持ったまま、動かなかった。
「……食べないの?」
「い、いえ。……その、分配の基準が、分からなくて」
「基準?」
「一人あたりの、適正個数です。誰かの取り分を、侵害してしまうかもしれませんし」
なのはは目を丸くして、それから、笑った。この一ヶ月で少しずつ増えてきた、燃費の悪い笑い方で。
「そういうのはね、こうするんだよ」
言うが早いか、なのはは山のてっぺんの一番大きいのを箸で攫って、フェイトの小皿に載せた。フェイトが目を白黒させている間に、リョウが二番目に大きいのを攫い、なのはの皿に載せ返し、なのはが三番目を攫ってリョウの皿に載せ、あっという間に三枚の小皿の上で謎の再配分が完了した。
「……これは、何の手続きですか」
「手続きじゃねえよ。ただの、飯だ」
フェイトは、皿の上の一番大きな唐揚げを、しばらく見ていた。
それから、ふうふうと二回冷まして、齧った。
かり、と音がした。
「…………」
「どう?」
「……熱いです」
「そりゃそうだ」
「熱くて、その」
フェイトは、口元を押さえた。押さえた指の隙間から、少しだけ、声が漏れた。
「……おいしいです。とても」
その日の戦闘詳報が、リョウの卓上に届いたのは、消灯前だった。
一枚は、完璧だった。時系列、座標、魔力消費量、環境要因、そして最後の頁には『新規規則:三秒手順(仮称)。付随記録:拳の儀式(効果:未検証)』という但し書きまで付いていた。フェイト・T・ハラオウン、着任一週間。書類仕事の腕前は、この時点ですでに上官を超えていた。
もう一枚には、三行、書かれていた。
『目標を確認。制圧した。以上』
「……なあ、ヴァレル1」
「はい」
「四年前の第一次大災厄からこっち、お前が書いた報告書、全部これか」
「必要なことは、書いてます」
「必要なことしか書いてねえんだよ」
リョウは三行の紙をひらひらと振り、それから、机の抽斗に仕舞った。捨てはしなかった。文学的価値については、後世の評価を待つことにした。
同じ夜、艦長執務室。
リンディ・ハラオウンは、月次の医療報告書を開いていた。
四年分の、緩やかな右肩下がり。三ヶ月の水平。そして——先月から今月にかけて、線の先端が、ほんの少しだけ。
上を、向いていた。
誤差の範囲だ、と担当医の活字は慎重に述べている。その慎重な活字の下に、この月から、手書きの一行が添えられていた。
『——今月はよく笑っている。継続を推奨する』
医学用語ではなかった。リンディは、その不真面目な所見を三度読んで、砂糖入りの緑茶を一口飲んだ。
そして端末に、新しい人事案を呼び出した。『クルス・リョウ二等陸士:特進推薦(二回目)』。決裁欄の下に、既に本人の署名が入った書類が添付されている。『辞退届』。二度目である。
「……あの子ったら、ほんとに」
リンディは呆れた顔で笑い、二つの書類を並べて処理した。辞退届を受理し、そして、特進推薦の方も——破棄せずに、抽斗に仕舞った。
「三回目も、出しますからね」
消灯後の廊下で、リョウは充電架の前を通りかかった。
ミニットマン051改と、レギンレイヴⅡ。二機は並んで待機し、律儀に鳴き交わしている。
《Ready.》
《Yes, sir.》
整備班によれば、並べて置くと待機演算負荷がほんの少しだけ下がるらしい。会話が成立しているのかは、依然として誰にも分からない。
「……お前ら、仲良くやれよ」
答えはなかった。答えの代わりに、二つの待機音が、消灯後の廊下で、少しだけ拍を揃えて鳴った。