魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
着任から、二十日が過ぎた。
フェイト・テスタロッサは、艦長室の扉の前に立っていた。
艦内の当直表には、もう『フェイト・T・ハラオウン』と書かれている。整備班も、厨房も、通信も、誰一人疑問を持たずにそう呼ぶ。書類はまだすべて通りきっていないというのに、この艦は、彼女をそう呼ぶことを、とっくに決めてしまっていた。
だから、その名前をまだ書けずにいるのは、艦の中で一人だけである。
到着時刻は、指定より十二分早い。早すぎることは分かっていたが、廊下で待つ以外の選択肢を、彼女は思いつかなかった。
手には、手帳。
開いた頁の見出しには、几帳面な字で、こう書かれている。
『第01ロストロギア事件課・慣習一覧』
一、揚げ物は、いちばん大きい個体から順に、他者の皿へ移送される。移送は一巡で完結する。自分の皿に残った分は食べてよい。
二、報告書は三行でよい。ただし三行で通るのはヴァレル1のみ。理由は不明。
三、全員無事で帰投した際、拳を突き合わせる。書類および口頭報告は不要。
四、整備班主任オーバ技師は、廃棄票を三度まで突き返す権利を有する(慣習)。
五、消灯後のドックの常夜灯は、消さない。理由は不明。
六、艦長は緑茶に砂糖を入れる。
六番については、彼女はまだ、実物を確認していない。伝聞である。乗員の複数名から、それぞれ独立に、まったく同じ証言が得られた。証言の一致度が高すぎる情報というのは、往々にして誇張が入っているものだ。フェイトはそう判断し、六番の末尾に『要・現認』と書き添えていた。
本日、〇九〇〇。
艦長室にて、養子縁組手続きの進捗について打ち合わせ。
命令ではなかった。招待だった。
フェイトは、招待というものの標準手順を局内規則で検索し、該当項目がないことを確認し、上官に相談した。上官——クルス・リョウ二等陸士は、書類の山から顔も上げずに、こう答えた。
「お茶飲むだけだろ」
彼女はそれを、そのまま手帳に書き写した。『対処法・お茶を飲む』。
〇八五九。
フェイトは、扉を叩いた。
「入って」
艦長室は、フェイトが想定していたものと、まるで違っていた。
執務机はある。書架もある。ただ、窓辺には鉢植えが四つ並んでいて、そのうち一つは明らかに枯れかけており、しかし処分もされずに世話をされ続けている形跡があった。壁には海図が一枚。額縁ではなく、画鋲で留めてある。
そして、書架の低い段に、湯呑みが並んでいた。
三つ。
二つは、使い込まれて縁が薄くなっている。残る一つだけが、明らかに、新しかった。新しいというより——使われていない。埃はない。誰かが定期的に拭いている。ただ、一度も口をつけられていない器の顔をしていた。
フェイトは〇・八秒それを見て、質問しないことに決めた。
「いらっしゃい。座って、座って」
リンディ・ハラオウンは、来客用の低い卓の前で、急須を温めているところだった。
「あの。制服のままで、よろしかったでしょうか」
「あら、私も制服よ」
「……はい」
フェイトは、指定された座布団の上に、規定通りの姿勢で正座した。膝の上に手帳。背筋は垂直。目線は水平。艦長室に着任報告に来た新任士官として、百点の姿勢だった。
リンディは、それを見て、少しだけ笑った。
「肩、下ろしていいのよ」
「……下ろし方が、分かりません」
「正直ね。じゃあ、そのままでいいわ」
湯呑みが、二つ、卓に置かれた。
書架の三つ目とは、違う二つだった。
注がれた緑茶は、良い色をしていた。香りも、悪くない。フェイトの生体センサーが、遠慮なく成分の推定値を返してくる。彼女の体は六割が機械で、その機械は空気中の揮発成分を勝手に読む。便利ではあるが、味わうという行為とはあまり相性が良くない。
リンディが、卓の端に置かれた小さな陶器の壺の蓋を、開けた。
白い。
「本題からいきましょうか」
砂糖が、スプーン一杯、彼女自身の湯呑みに落ちた。
フェイトの視線が、〇・二秒、そこで止まった。
(……六番。現認)
彼女は手帳の六番の『要・現認』を、頭の中で消した。伝聞は事実だった。それだけのことである。文化的な差異は尊重されるべきであり、局員の食習慣に対して部下が意見を述べるのは、規則上も礼儀上も、適切ではない。
フェイトは、そう自分に言い聞かせた。
「本局への申請書はね、三通目まで通っているの。あとは家族登録課の審査だけ」
砂糖が、フェイトの湯呑みにもスプーン一杯、落ちた。
「……あの」
「甘い方が飲みやすいわよ」
そういうものなのかもしれない、とフェイトは思った。第九十七管理外世界の飲料文化については、彼女は何の知識も持っていない。なのはが淹れる茶にも、彼女は特に疑問を持たずに口をつけてきた。この一杯にも、きっと、何か理由がある。
彼女は、湯呑みを両手で持ち、一口飲んだ。
センサーが、糖度を数値で返してきた。
フェイトは、その数値を、〇・五秒見つめた。
それから、静かに、湯呑みを置いた。
「審査に必要なのは、あなたの意思確認だけなの。書式は簡単よ。名前を書いて、丸を一つつけるだけ」
「……はい」
「どうかした?」
「いえ」
嘘だった。彼女の生涯で三番目に下手な嘘だった。
フェイトは、膝の上の手帳を、少しだけ握った。ここで言うべきことがある。二十日かけて、何度も文章を組み直して、それでも一度も口に出せていない言葉が。
言うなら、今だ。
「……良いんでしょうか」
「なあに?」
「こんな……『作り物』の私が、誰かの家族になるなんて……」
言い終わって、彼女は自分の膝を見た。
六割が機械の体。出生記録のない経歴。誰かが設計し、誰かが調整し、誰かの指で引き金を引かされてきた器。それが今、書類一枚で「娘」という項目に収まろうとしている。項目に収めるには、まず、そこに収まる資格の証明が要るはずだった。彼女は規則の人間だったから、そう考えるより他になかった。
顔を上げると、リンディが、こちらを見ていた。
「あら」
彼女は、実に何でもないことのように言った。
「まだ、そんなことを考えていたの?」
そして、砂糖の壺に、スプーンを突っ込んだ。
「だ、だって、私は……」
スプーンが、上がってきた。
山盛りだった。
フェイトの言葉が、途中で消えた。
白い山は、そのまま緑茶の水面へ運ばれ、静かに沈み、そして——
二杯目の砂糖が、続いた。
フェイトは、二度見た。
三度見た。
「あなたはまだ、自分で自分を認められないかもしれない」
リンディの声は、静かだった。
砂糖の壺の底で、スプーンが、かり、と鳴った。
「でも、あの子だって——なのはだって、それを乗り越えてきたわ。四年かけて、ようやく。……だけどね」
彼女は湯呑みを取り上げ、躊躇なく、あおった。
一息だった。
フェイトは、絶句した。
絶句の内訳を、彼女自身、正確には把握できなかった。言葉のせいなのか、いま目の前で行われた行為のせいなのか。胸が詰まっているのは確かで、しかしそれが感情によるものなのか糖分によるものなのか、彼女の優秀な生体センサーは、何一つ答えを返してくれなかった。
「……そう、ですか」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「ここなら」
リンディは、空になった湯呑みを置いた。
「みんなと一緒なら、きっと、道を見つけられると思うわ」
フェイトは、頷いた。
頷きながら、彼女の思考の八割は、まったく別のことを高速で処理していた。
(……話が、入ってこない)
これは異常事態である。フェイト・テスタロッサの情報処理能力は、局の平均を大きく上回る。上官の言葉を取りこぼすなど、通常ありえない。ありえないことが起きているなら、そこには要因がある。
要因は、目の前にある。
(戦術……いや、待って)
彼女の中で、仮説が組み上がっていく。
この艦には、慣習がある。揚げ物の移送。三行の報告書。拳。廃棄票。常夜灯。そのどれも、規則には一行も書かれていない。書かれていないのに、全員が守っている。
新参者が、それを一つずつ通過していくことで、乗員として認められていく——そういう構造なのだとしたら。
(まさか。……これを飲むことが)
フェイトの視線が、自分の湯呑みに落ちた。
まだ、八割残っている。
(ゼロイチの、通過儀礼……?)
そ、そんなことが。
「ね?」
「え? あ、は、はい……頑張って、みます……!」
艦長は、たいそう満足そうに頷いた。
フェイトは、湯呑みを両手で持ち上げた。
覚悟を決めた者の顔だった。第68管理外世界で、レギンレイヴの制御を自分の手に取り戻したときと、ほぼ同じ顔である。
二口目を、飲んだ。
三口目を、飲んだ。
扉が、叩かれた。
「課長殿、ちょっと報告が——お、フェイトもいたのか」
リョウが、書類を数枚持って入ってきた。
「あら、何かしら。丁度いいわ、あなたもお茶、飲む?」
フェイトの手が、湯呑みの上で止まった。
(——ここで、確認できる)
彼女の思考は、この瞬間、極めて明晰だった。
もしこれが通過儀礼であるならば、既に通過している先任者は、当然、これを受ける。断ることはできない。慣習とは、そういうものだ。揚げ物の移送を、この男は一度も断ったことがない。
つまり、いま彼が湯呑みを受け取れば、仮説は立証される。
自分は正しい手順を踏んでいる。この苦行には意味がある。
フェイトは、どきどきしながら、上官の返答を待った。
「勘弁してくださいよ」
リョウは、心底うんざりした顔で、手を振った。
「お茶は渋い方が好みなんです、俺ぁ」
がたっ。
フェイトの膝が、卓の脚を蹴った。
湯呑みの白く濁った水面が、危うく波打った。
「……大丈夫? 急に、ガックリきたみたいだけど」
「だ、だいじょうぶ、です……」
大丈夫ではなかった。
彼女の中で、二十日かけて構築されつつあった『第01課・慣習一覧』の、第六項が、いま音を立てて崩壊した。
通過儀礼では、ない。
誰も飲んでいない。誰にも強制されていない。断ることが許されている。つまりこれは慣習でも儀礼でも試験でもなく、ただ——
ただ、この人が、そういう飲み方をするだけの、お茶だった。
リョウが報告を終えて出ていったあと、リンディは何事もなかったように、二杯目を注いだ。フェイトは、それを断ることができなかった。断れることを、たった今学んだばかりだというのに、である。
その日の夕方。
フェイトは自室の机で、手帳を開いていた。
鉛筆を持ち、第六項に、線を引く。
『六、艦長は緑茶に砂糖を入れる。要・現認』
その下に、訂正を書き足した。
『訂正。通過儀礼ではない。艦長の嗜好である』
そこまで書いて、彼女の手が、止まった。
鉛筆の先が、紙の上で、しばらく動かなかった。
通過儀礼ではない。試験ではない。資格の証明でも、適性の判定でもない。
では、今日、自分は、何に呼ばれたのか。
答えは、あまりにも単純だった。
お茶に呼ばれたのだ。
規定の書式もなく、事前の資格審査もなく、合否の判定もない。ただ、九時に来なさいと言われて、座らされて、甘すぎる茶を出されて、「まだそんなことを考えていたの」と一蹴された。それだけだった。
フェイトは、鉛筆を置いた。
(……そうか)
誰も、自分の娘に、通過儀礼など課さない。
胸のあたりで、何かが、ゆっくりと、しかし確実に緩んでいくのが分かった。彼女の生体センサーは、その現象について、今度も何の数値も返さなかった。返さなくても、分かった。
彼女は手帳を持ち直し、第六項の下に、もう一行だけ書き足した。
『——ただし、飲めるようになる必要は、あると思われる』
そして、末尾に、小さく。
『呼び方については、保留。——あの人の呼び方も、自分の呼び方も、まだ決まらない』
艦長室では、リンディが月次の補給要求書に判を捺していた。
品目欄の、上から七番目。
『砂糖(艦長室分)——増量申請』
備考欄には、補給担当官の几帳面な字で、一行だけ、添えられている。
『前月比、二倍。理由の記載を求めます』
リンディは、その几帳面な但し書きを二度読んで、備考欄の余白に、こう書き込んだ。
『来客が増えたため』
それから、書架の低い段を、少しだけ振り返った。
使われていない湯呑みが、一つ。今日も、埃をかぶらないまま、そこに置かれている。
「……三人目のお客さまも、そのうちね」
誰にも聞こえない声でそう言って、彼女は書類の束を、次の頁へ繰った。
フェイトの道のりは、まだまだ遠い。
呼び方も決まっていない。砂糖にも慣れていない。自分を「作り物」と呼ぶ癖も、たぶん、そう簡単には抜けない。
だが、緩んだものは、緩んだままだった。
——一年後、この娘が、誰にも指摘されないまま、自分の湯呑みに砂糖をひと匙だけ入れるようになることを。そしてそれを指摘されたとき、生涯でいちばん下手な嘘をつくことを。
まだ、誰も知らない。