魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~   作:ちょわわ

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第2部
第19話「Pages」


 フェンリル事件から、一年が過ぎた。

 

 艦長執務室の窓の外は、いつもと同じ星の海だった。リンディ・ハラオウンは砂糖入りの緑茶をひと口含み、月次の医療報告書を開いた。

 

 いつもの、あの投影図。

 

 四年分の、緩やかな右肩下がり。三ヶ月の水平。そして、そこから先の——九ヶ月ぶんの、ゆっくりとした上り坂。折れ線は、先月も上を向いていた。先々月も、その前も。担当医の几帳面な活字の下には、今月も手書きの付記がある。もはや所見というより、業務日誌の様式と化した一行が。

 

『——今月もよく笑っている。継続を推奨する』

 

 医学用語はどこへ行ったのかしら、とリンディは思う。思って、頬がゆるむのを、止めない。

 

 それから彼女は、指先ひとつで、もう一枚の投影図を呼び出した。

 

 誰にも見せない、彼女だけの閲覧権限の一枚。

 

 波形は、真っ直ぐだった。四年——いや、もうすぐ五年になる。一度も上がらず、一度も下がらず、生きていることだけを律儀に報告し続ける、水平の線。本局医療棟、長期療養区画、第七病床。測定対象、クロノ・ハラオウン。

 

 リンディは二枚の投影図を、そっと重ねた。

 

 上を向いた線と、動かない線。

 

 同じ夜から始まった、二本の線だった。

 

 彼女は何も言わず、湯呑みの中の甘い緑茶を、静かに飲み干した。

 

 ——第45管理世界、水上プラント。

 

『トリガーより各機。目標は中央塔の駆動炉。周辺の作業機は全部「物」だ。ただし炉は回収指定、原形を残せ。……ヴァレル1、頼めるか』

 

『了解です。——出力二割、収束モード』

 

 桜色の光条は、糸のように細かった。細いまま塔の外壁を正確になぞり、駆動炉の固定基部だけを、外科手術みたいに切り離した。粉塵ひとつ、立たなかった。

 

『ヴァレル2、落下する炉の受け止めを』

 

『——はい。バインド、三重展開』

 

 金色の光帯が編み籠になって、炉をゆっくりと地上へ降ろしていく。リョウは眼下のそれを三秒眺め、通信機に告げた。

 

『本部へ。回収目標、確保。——原形のまま、です』

 

 後日、分析班に引き渡された駆動炉を前に、分析班長は受領印を握ったまま、しばらく動かなかった。原形。原形である。四角いものが、四角いまま届いた。押印の手つきは、わずかに震えていたという。歓喜で。

 

 ——第52管理外世界、峡谷の遺跡。

 

『逸れの飛行体、二時方向に三! 民家区画へ直行——』

 

『ヴァレル2、迎撃。ヴァレル1は正面維持。三秒——クリア、全部物だ! 薙げ!』

 

 桜と、金と、翡翠のマーカー。三色の手順は、もう淀まない。かつて六分待てと言って四秒で更地になった時代を思えば、大した進歩だ——と、リョウは飛びながら思う。いや、思い出は美化するものだ。あれは六分どころか、通信の途中だった。

 

 帰投したゼルベロスの厨房は、ゼロイチの帰艦報告を受信すると同時に、唐揚げを揚げ始めた。もはや誰の指示も要らない。伝統とは、そういうものである。

 

 夕食後、リョウは執務室で戦闘詳報をまとめていた。銀色の義手は、この一年でペン以外の芸も増えた。書類を捌き、栞を挟み、たまに指を鳴らして肩を回す。

 

 卓上には、部下二名分の報告書。

 

 一枚は、完璧だった。時系列、座標、魔力消費量、反省点と改善案まで、教本に載せたいほど整然と並んでいる。フェイト・T・ハラオウン、着任一年。書類仕事の腕前は、とうに上官を越えていた。

 

 もう一枚には、三行、書かれていた。

 

『目標を確認。守った。以上』

 

「……成長したな、お前も」

 

 リョウは天井を仰いだ。「制圧した」が「守った」になった。一年がかりの進歩である。軍記文学は、いまだ健在だった。

 

 執務室の隅の充電架では、051改とレギンレイヴⅡが並んで待機し、律儀に鳴き交わしている。

 

《Ready.》

 

《Yes, sir.》

 

 会話が成立しているのかは、依然として誰にも分からない。ただ整備班の計測によれば、二機の待機演算負荷は、並べて置くと今もほんの少しだけ、下がるらしい。

 

 その通達は、三日後の朝に来た。

 

 ブリーフィングルームの投影図に、三つの世界の地図が並ぶ。第29管理世界。第61管理世界。第77管理世界。リンディが席に着き、オペレーターが読み上げを始めた。

 

「過去二十日間、三つの管理世界で、同種の傷害事案が連続発生しています。被害者は現在までに十四名。全員が生存——ただし、全員が昏睡状態です」

 

 投影図が切り替わり、病床の写真が並んだ。外傷、なし。侵入の痕跡、なし。争った形跡すら、なし。ただ眠りに就くように倒れていた、十四人。

 

「被害者の内訳に、偏りがあります。十四名全員が、訓練された魔導師です。現役局員が九名、退役者が三名、民間の術士が二名。ランクはB+からAA。……無差別ではありません。選んでいます」

 

「共通所見は」

 

 リンディの声に、医療班の担当官が引き継いだ。

 

「全員、リンカーコアの著しい空洞化です。魔力の生成機能が、根こそぎ失われている。ただ——損壊とは違うんです。切除に近い。断面が、こう言うほかないのですが、綺麗すぎる。喩えるなら」

 

 担当官は一拍置いて、言った。

 

「——本から、頁を抜き取ったように」

 

 部屋の温度が、少しだけ下がった気がした。

 

 リョウは手元の被害者カルテを繰った。眠る顔、眠る顔、眠る顔。隣の席で、なのはも同じカルテを見ている。

 

「発生時刻は」

 

「いずれも、現地時間の深夜帯です」

 

 質問したのは、なのはだった。リョウは横目で相棒を見た。カルテを見つめるその横顔は、いつも通りの——いや。

 

 平坦だった。

 

 声も、目も、温度が抜けていた。三秒。きっかり三秒だけ、リョウのよく知る昔の顔がそこにあって、それから、まばたきひとつで戻った。

 

「……被害世界の避難誘導と、警護の割り当ては、どうなりますか」

 

 戻った声は、いつものなのはだった。誰も気づかなかった。気づいたのは、かつてその平坦さと五ヶ月間隣り合わせだった男、一人だけだった。

 

 (……おい。今の、なんだ)

 

「唯一の映像記録が、これです」

 

 投影図に、一枚の静止画が映った。第61管理世界、被害現場付近の防犯記録。粗い、夜の映像。その隅に——何かが、立っていた。

 

 人型。全高およそ二メートル。輪郭は甲冑に似て、しかし既知のどの装備型録とも一致しない。顔にあたる位置には、何もない。解析班があらゆる補正をかけてなお、シルエットは輪郭のまま、一歩も鮮明にならなかったという。

 

「識別、分類不能。魔力反応の記録、なし。……現時点で我々は、これを何と呼ぶべきかすら、決められていません」

 

 テーブルの端で、フェイトが小さく息を吸った。

 

「……あの。三世界とも発生はこの二十日ですが——五年前の、セカンド・ショックの夜と、直接の関係は」

 

 言ってから、フェイトは自分の言葉に、ふ、と目を伏せた。

 

 あの夜。生存人類の九割が同時に「主」に選ばれ、連鎖の爆発で世界が終わった夜。この部屋にいる誰もが、それぞれの場所で、あの夜を浴びている。なのはは故郷の空の下で。リョウは崩れる街の只中で。リンディは——指令席で。

 

 そして、自分だけが、あの夜を知らない。虚数の海の底で、時間ごと眠っていた。皆が終わりを見た夜を、自分は一秒も、見ていない。

 

 誰もそれを責めない。分かっている。分かっていて、それでも、指先が少しだけ冷えた。

 

「関連は、現時点では不明です」オペレーターが、事務的に答えた。「ただし医療班より、断面パターンの類似性について照合の申請が出ています。対象は——保管庫の、五年前の残滓データ」

 

 室内の数人が、僅かに姿勢を硬くした。リンディは表情を変えずに、承認の署名をした。

 

 その日の深夜、艦長執務室の通信端末が、私的回線の着信を告げた。

 

 発信元、本局医療棟。エイミィ・リミエッタ。

 

『夜分にすみません。……事件公報、見ました』

 

 画面の中のエイミィは、化粧気のない顔をしていた。五年ぶん、疲れの層が積もった顔。それでもその目だけは、リンディのよく知る、あの優秀なオペレーターのままだった。

 

『被害者の医療データ、開示範囲だけ拝見しました。リンカーコアの空洞化。断面に残る、呪詛痕様のパターン。……あの波形』

 

 エイミィは一度、言葉を切った。切って、まっすぐに言った。

 

『私、あの波形を知ってます。五年間、毎朝見てます。クロノのコアに焼き付いている紋様と——同じです。周期も、位相の捩れ方も。素人目の思い込みなら、それでいい。でも、照合する価値は、あるはずです』

 

「……エイミィ」

 

『リンディさん。お願いがあります。本件のデータ支援要員として、私を復帰させてください。休職扱いのままで構いません。嘱託でも、無給でも。……五年間、あの人のコアの波形だけを見て暮らしてきた人間は、たぶん、管理局に私しかいません。この事件のどこかに、クロノの治療に繋がる糸が一本でもあるなら——私は、それを離しません』

 

 リンディは、目を閉じた。

 

 二本の線が、瞼の裏で重なる。上を向いた線と、動かない線。同じ夜から始まった線。

 

「……復帰申請、受理します。配属はゼルベロス、分析班付き。着任は明後日」

 

『っ——ありがとうございます!』

 

「エイミィ」

 

 リンディは、母の声で付け加えた。

 

「——おかえりなさい」

 

 照合結果は、エイミィの着任を待たずに出た。

 

 分析班が保管庫の最深部から引き出したのは、五年前の残滓データ——セカンド・ショック直後、滅んだ地球の各地で採取された、呪詛痕の観測記録だった。触れることすら忌まれ、封印同然に眠っていた記録の束。

 

 被害者十四名の、コア断面のパターンと、突き合わせる。

 

 一致率、九十七パーセント。

 

 深夜の分析室で、リョウはその数字を見た。班長も、担当官も、誰も口を開かなかった。開けば、名前を言わなければならないからだ。五年間、過去形の報告書の中でだけ生きてきた、あの名前を。

 

 やがて班長が、公式記録の入力欄に指を置いた。組織というものは、どれほど恐ろしい名前でも、様式に従って記入しなければならない。

 

 関連事象、の欄。

 

『——闇の書』

 

 五年ぶりに、その名前が、現在進行形の事件記録に載った。

 

 その夜、リョウは観測窓の前に、一人で立っていた。

 

 ポケットの中で051改が、いつもの待機音を刻んでいる。窓の外は星の海。上を向いた折れ線の世界。唐揚げの匂いが残る通路。「守った」と三行で書く相棒。書類仕事が上官を越えた、もう一人の相棒。

 

 (……名鑑の、あのページだ)

 

 思い出す。前世で何百回も読んだ、設定の頁を。夜天の魔導書。頁を蒐めて完成する本。そして——原作で、あの本がどういう扱いだったかを。

 

 (あれは、何度も滅ぼされてるんだ。持ち主ごと焼かれて、砕かれて、消されて……そのたびに、蘇ってきた本だ)

 

 滅ぼされることが、あれの生態ですらある。

 

 管理局の記録は「自壊」と述べている。五年前、闇の書は暴走の果てに連鎖爆発し、世界ごと消え去ったと。誰もが、そう信じてきた。信じたかったのだ。——リョウ自身も、含めて。

 

 (だがもし。砕けたのが、「全部」じゃなかったなら)

 

 どこかで。誰の目も届かない位相のどこかで。頁を失った本が、五年かけて、静かに——

 

 リョウは、窓の中の自分と目を合わせた。去年より少しだけ上背の伸びた、銀の右腕の男が、ひどく嫌な顔でこちらを見ていた。

 

 (——あれは、死なない本だ)

 

 上を向いたばかりの折れ線の世界の片隅で。

 

 何かが、頁を、集め始めている。

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