魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
帰りの回収艇の中で、少女は一度も泣かなかった。
泣かず、喚かず、暴れもしなかった。毛布にくるまれて、ただ、見ていた。艇の内壁を。計器の明滅を。フェイトの金色の髪を。リョウの銀色の義手を。生まれて初めて世界を見る者の目で、一つずつ、順番に。
そして気づけば、なのはの隣にいた。
誰が誘導したわけでもない。気づいたら毛布ごと、なのはの肩に寄りかかって、眠っていた。羽根の重さしかない寄りかかり方だった。なのはは身動きを止め、困ったような顔で少女を見下ろし、それから、そのままにした。
『……トリガーより統制。保護対象、睡眠中。バイタル安定。——このまま帰投する』
通信を切って、リョウは窓の外を見た。
眼下を、白い穴が流れ去っていく。
出発前、観測班が過去の測量記録を洗い直していた。環境魔力の空洞域、現在の半径、二・一キロ。一ヶ月前の広域観測では、一・四キロ。——広がっていたのだ。あの穴は、静止した傷ではなく、進行する何かだった。
そして少女を円の外へ運び出した瞬間から、拡大は、止まっていた。
誰もその相関を口にしなかった。口にしないまま、全員が、記録した。
ゼルベロス医務室。検査は、半日かけて行われた。
「結論から言います。健康な、人間の子供です」
医療班の担当官は、投影図を繰りながら、どこか困惑を隠せない声で続けた。
「推定年齢、十歳前後。栄養状態、軽度の不良——ただし飢餓の痕跡はなし。骨格、歯列、臓器、すべて年齢相応。感染症なし、外傷なし、施術痕なし。遺伝子照合は全管理世界の登録簿に該当なし。まあ、これは大災害後の次元流民ならままあることです。問題は……」
担当官は一拍置いて、別の波形図を出した。ほとんど何も描かれていない、白紙に近い図を。
「——魔力出力が、ゼロなんです」
「素質がない、ということ?」
リンディの問いに、担当官は首を振った。
「違います。素質のない子供でも、リンカーコアは微弱に漏れます。呼吸と同じで、止められない。生きている限り、誰でも、必ず。……この子は、漏れない。一滴も。計測値が、綺麗すぎるんです」
綺麗すぎる。
その言葉を、この二週間で何度聞いただろう、とリョウは思った。綺麗すぎる断面。綺麗すぎる消え方。埃ひとつない眠り姿。そして、漏れない子供。
検査の間、少女は一度も声を出さなかった。
痛みには顔をしかめ、光には目を細め、聴診器の冷たさには肩を跳ねさせた。反応はすべて、正しく人間だった。ただ、言葉だけがなかった。担当官は発話機能の未発達を疑い、リョウは別のことを疑い、なのはは何も疑わずに、検査台の傍らで少女の手を握っていた。
少女はその手を、離さなかった。
夕刻、リンディが医務室に降りてきた。
保護継続の判断と、身元照会の方針を決めるためだった。艦長の入室に、担当官が姿勢を正し、フェイトが敬礼し、なのはは少女の手を握ったまま会釈をした。少女はといえば、リンディの顔をじっと見て、それから、なのはの会釈を真似て、ぎこちなく頭を下げた。覚えたての瞬きのような、覚えたての会釈だった。
リンディの目元が、ふ、と緩んだ。
「こんばんは。わたしはリンディ。この船の、艦長です」
返事は、ない。赤い目が、リンディの唇の動きを、真剣に追っている。
なのはが、床に膝をついた。少女と、目の高さを合わせて。
「ねえ。わたしは、なのは。……あなたのお名前、聞いても、いいかな」
沈黙が、あった。
少女の目が、初めて、誰の顔でもないところを見た。自分の内側を——分厚い本の頁を一枚ずつ繰っていくような、時間のかかる、手探りの目。唇が、二度、音にならない形に動いて。
三度目に、声が出た。
「——ヤガミ・ハヤテ」
初めて聞くその声は、鈴を転がすようで。
初めて話すはずなのに、発音だけが、完成されていた。
「ヤガミ、ハヤテ」
少女はもう一度、今度は自分の耳で確かめるように、ゆっくりと繰り返した。言い終えて、それが正しかったかを問うように、なのはの顔を見た。
部屋が、止まっていた。
リョウの中で、名鑑が、ひとりでに開いた。
(——八神、はやて)
あのページ。夜天の書の、最後の主。原作では車椅子の、誰よりも優しい少女。四人の騎士を家族に変え、世界を救う側に立った、物語の三人目の主人公。そして——この世界の記録では。
(セカンド・ショックの、中心にいた子供。五年前に、九つで——)
死んだ、はずの名前。
目の前の少女は、十かそこらに見える。生きていれば十四になる計算とも、合わない。銀の短髪。赤い目。名鑑のはやてのページとは、髪の色も目の色も、何もかも違う。似ているのは——別のページだ。装丁の側の。本の意思の側の、あの。
(顔は「本」で、名前は「主」。……おい。冗談だろう)
喉の奥が、砂を噛んだように乾いていた。リョウは表情筋に全権を委任し、顔だけは、任務中の顔を保った。保ちながら、視界の端で、二人の異変を拾った。
なのはの呼吸が、止まっていた。
握ったままの少女の手を、見下ろしている。その唇が、微かに動いて、
「……はやて、ちゃん?」
——ちゃん。
その一音は、明らかに、今この場で生まれた呼び方ではなかった。五年間どこかに仕舞われていて、埃も被らずに、そのままの形で転がり出てきた音だった。少女は小首を傾げ、なのはの顔をじっと見た。なのはは、はっとしたように口を閉じ、それから、笑った。あの、燃費の悪い笑い方で。
そしてリンディは——動いていなかった。
湯呑みを持ち上げかけた姿勢のまま、完全に、静止していた。表情は穏やかなままだった。穏やかなまま、その目だけが、少女ではないどこか——五年前のどこかを、見ていた。湯呑みの中の甘い緑茶は、傾きかけた角度のまま、一滴もこぼれずに止まっていた。
三人分の沈黙の意味を、部屋で一人だけ、測れない者がいた。
「……あの」
フェイトだった。金色の目が、凍りついた三人を順に見て、途方に暮れたように瞬いた。
「どうか、しましたか? ……その、ヤガミ・ハヤテ、さんという名前に、何か」
誰も、すぐには答えなかった。
あの夜を、彼女だけが知らない。虚数の海の底で眠っていた一年のことを、この瞬間ほど残酷に突きつけられたことは、なかったかもしれない。フェイトは答えのない部屋を見回して、静かに口を閉じた。
沈黙を破ったのは、腹の音だった。
く、と。小さく、しかしはっきりと、少女の腹が鳴った。
少女は、自分の腹を見下ろした。それから鳴った箇所を掌で押さえ、何が起きたのか分からない顔で、一同を見回した。世界の側の故障を疑う目だった。
なのはが、ふ、と息を漏らした。フェイトの肩から力が抜けた。担当官が「夕食、持ってきましょう」と席を立ち、張り詰めていた部屋の空気が、その一音で、辛うじて人間の側に引き戻された。
リンディが、湯呑みを、静かに置いた。
「——保護対象として登録します。呼称、『ヤガミ・ハヤテ』。ただし記載は自称扱い、身元照会が済むまで、この名前への照会権限は艦長預かりとします。付添担当、高町——」
言いかけて、リンディは一拍だけ止まり、言い直した。
「……ヴァレル1。当面、この子をお願いね」
「はいっ」
なのはの返事は早かった。少女がその声の速さに驚いて、それから、真似をするように口を開けて——音は出なかった。出なかったが、口の形だけは、確かに「はい」だった。
指示を出し終えたリンディは、いつも通りの穏やかさで医務室を出ていった。
いつも通りすぎる、とリョウは思った。
(……艦長は、いま、何かの蓋を閉めた)
その夜、なのはは自室に戻らなかった。
医務室の消灯後、簡易寝台を少女の枕元に寄せて、そこにいた。少女はなかなか寝つかず、なのはの髪の先を所在なげに握ったり、離したりしていたが、やがて電池が切れるように、ふつりと眠った。
寝顔を見ながら、なのはは、五年前を思い出していた。
——灰の降る、海鳴の空。
半壊した市庁舎に張られた、管理局の野営天幕。九つのなのはは、その隅で、大人たちの会話を聞くともなしに聞いていた。第一次の大災厄を生き延びた、数少ない「戦える」魔導師として、子供の身でそこに置かれていた。
『——蒐集事件の首謀者側、中核の所在を特定した。「闇の書」の現所有者。名前は、八神はやて。九歳。海鳴市在住——現在、所在不明』
九歳。同い年。同じ町。
名簿の上の、会ったこともないその子の名前が、どうしてか、ずっと耳に残った。世界がこんなになる前なら、同じ学校に通っていたかもしれない、隣の席だったかもしれない、そういう距離の名前だった。
だから、言ったのだ。天幕の入り口で、大人たちを見上げて。
『——わたし、その子と、話がしたいです』
返ってきた言葉を、なのはは、覚えていない。
覚えているのは、その三日後の——午前三時十一分だけ。
寝台の上で、少女が身じろぎをした。なのはは我に返り、ずれた毛布を、そっと掛け直した。
(……五年、遅刻しちゃった)
それが同じ「はやてちゃん」なのかどうか、なのはには分からない。分からないまま、掛け直した毛布の端を、少女の小さな手が、眠ったまま握り込むのを見た。
(でも。今度は、隣にいるよ)
同じ頃、艦長執務室。
リンディは端末に個人符号を打ち込み、五年間開かなかった書庫の、いちばん深い抽斗を開けていた。
『特級機密・事案記録:第九七管理外世界「闇の書」事案』
閲覧権限者、現存三名。頁を繰る指は、迷わなかった。迷わない程度には、何度も、開いたことのある記録だった。目的の頁で、指が止まる。
『闇の書・最終正規登録主:八神はやて(当時九歳)』
『状態:セカンド・ショックに際し死亡と推定』
『——遺体、未確認』
リンディは、その五文字を、長いあいだ見ていた。
それから記録を閉じ、閉じた画面に映る自分の顔を見て、湯呑みに手を伸ばした。緑茶は、とうに冷めていた。冷めた茶は、いつもよりずっと、甘くなかった。
さらに同じ頃、リョウは分析室の隅の端末で、一人、検索窓を睨んでいた。
打ち込みかけては消した検索語が、履歴に三つ並んでいる。『八神』。『闇の書 主』。『古代ベルカ』。三つとも、送信はしていない。この艦の検索記録が誰の目に触れるかを考えれば、送信する馬鹿はいない。
(名前の照会権限は艦長預かり。つまり艦長は、あの名前の意味を「知ってる」側だ。なのはさんの、あの「ちゃん」——あの人も、何かを知ってる。……で、俺は)
俺は、全部知っている。この世界の誰よりも、間違った形で。
(顔は、本の意思。名前は、最後の主。歳は、どっちとも合わない。魔力は、漏れない。埃は、積もらない。そしてあいつを穴から出したら、穴は広がるのをやめて、——蒐集は)
端末の隅で、分析班の定時報が更新された。
『「シェイド」関連事案:少女保護以降、五日間、新規発生ゼロ』
誰も相関を口にしない、二つ目の数字だった。
リョウは検索履歴を三つとも消去し、端末を落とした。暗転した画面に、疲れた顔の男が映る。
(調べるなら、記録の外だ。……誰にも言わずに、まず、俺が)
立ち上がって、医務室の前を通った。観察窓の向こう、常夜灯の青い薄闇の中に、寝台が二つ。毛布の端を握って眠る銀髪の少女と、その隣で、座ったまま舟を漕いでいる相棒。
窓ガラスに義手の指先で触れて、リョウは、しばらくそこに立っていた。
問題は、と思う。
(……あの寝顔が、名鑑のどのページよりも——ただの子供に、見えることだ)