魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
客人、という言葉の賞味期限は、十日と保たなかった。
保護四日目の朝、少女は医務室の扉の前に立っていた。付添のなのはが目を覚ますより早く起きて、着替えて、扉の前で待っていた。どこへ行きたいのかと問えば、赤い目が廊下の先を指す。船を、見たいらしかった。
かくして艦内見学が始まり、そして艦内の言葉が、彼女に降り積もり始めた。
少女の学習は、鸚鵡返しから始まった。
「ここは食堂。ごはんを食べるところ」
「……しょくどう。ごはん」
「こっちは格納庫。回収艇——じゃなくて、飛ぶやつの、おうち」
「かくのうこ」
聞いた音を、完成された発音で、一度で写し取る。写し取った言葉は、二度と落とさない。三日目には二語文になり、五日目には助詞が生えた。医療班は「環境刺激への適応が驚異的に良好」と所見に書き、乗員たちは単に「賢い子だ」と言って目を細めた。
呼び名も、増えた。
なのは、は最初に覚えた名前だった。フェイト、は二番目。リンディは何度教えても「かんちょう」で固定された。そしてリョウはといえば。
「とりがー」
「……俺だけ職名なのは、なんでだ」
艦内放送も乗員も、寄ると触ると「トリガー」と呼ぶせいだった。三度訂正を試みて、三度「とりがー」が返ってきた時点で、リョウは敗北を認めた。少女は満足そうに頷いた。契約成立、とでも言いたげな頷き方だった。
最初の涙は、五日目の昼に来た。
食堂の隅の席。膳の上には、その日の汁物——具の多い、湯気の立つスープ。少女は匙を握り(この持ち方は三秒で覚えた)、一口すすって、動きを止めた。
二口目で、目が丸くなり。
三口目の途中で——ぽろり、と落ちた。
一粒。続いて、二粒。少女は自分の頬を伝うものに気づき、匙を置き、濡れた指先を見て、それからひどく困った顔で、なのはを見上げた。
「……なのは。みず、が。めから」
声が、揺れていた。
「こわれた、かも」
食堂の空気が、一瞬で柔らかくざわめいた。なのはは慌てず、ハンカチを出して、少女の頬にそっと当てた。
「壊れてないよ」
「でも。とまらない」
「うん。……それはね、あったかいものが、胸にいっぱいになって、入りきらなくて、こぼれただけ。涙、っていうの。ちゃんとした、人間の機能だよ」
「なみだ」
少女は、その言葉を舌の上で転がして、もう一度スープを一口すすった。すすって、またぽろぽろ泣いた。泣きながら、匙は止めなかった。あたたかい、おいしい、と切れ切れに言いながら、器が空になるまで泣き続けた。
その様子を、なのはは頬杖をついて、ずっと見ていた。
(……いいなあ)
と、思ってしまってから、自分で少し驚いた。あたたかいだけで泣ける。おいしいだけで、こぼれる。四年間、一滴も出てこなかった自分の乾いた季節を思えば、それは、目の前で行われる小さな奇跡のようだった。
「なのは」
「ん?」
「なのはも、めが、あかい」
「——気のせいだよ」
気のせいではなかった。
六日目は、フェイトの当番だった。
「本日の予定を伝達します。〇九〇〇、居住区の案内。一〇〇〇、休憩。一〇一五より文字の学習。一二〇〇、昼食——」
「ふぇいと」
「はい」
「それ、にんむ?」
「…………すみません。任務では、ないです」
フェイトは咳払いをして、板のように堅い「予定表」を畳んだ。子供の世話は、彼女の教本のどこにも載っていなかった。載っていないなりに誠実であろうとする結果、案内は行軍になり、休憩は待機になり、少女はそれを面白がって、いちいち復唱しながらついて歩いた。
文字の学習には、絵本が使われた。
リンディが自室から持ってきた、古い、角の丸くなった絵本の束だった。表紙裏に、子供の字で名前が書いてある。
『クロノ・ハラオウン』
「くろの、って、だれ?」
少女の指が、その文字をなぞった。フェイトは一拍だけ言葉を探して、静かに答えた。
「艦長の——息子さんです。今は、遠くの病院で、眠っています」
「ねてるの。おきないの?」
「……起きるのを、みんなで待っています」
「そっか」
少女は頷いて、それ以上は聞かなかった。聞かない代わりに、絵本の持ち主の名前を、もう一度だけ、そっとなぞった。
五十音の表を、フェイトは一度だけ通して教えた。
翌日、少女は絵本を、声に出して読んでいた。
つっかえもせず、読み飛ばしもせず、頁をめくる指の運びまで滑らかに。フェイトは自分の教え方が天才的だった可能性を〇・五秒だけ検討し、棄却し、正直に報告した。
「一度しか、教えてないんですが」
「天才かもしれないわねえ」とリンディは笑い、「天才だなあ」と整備班は沸き、なのはは拍手をした。
笑わなかったのは、一人だけだった。
(……箸も、そうだった)
初めての食事の席で、誰も教えていないのに、少女は箸を完璧な形で持った。匙より先に、箸に手が伸びた。管理世界の生まれなら、まず出ない手順だった。あの持ち方を躾けるのは——リョウの知る限り、滅んだあの島国の、食卓だけだ。
リョウは拍手の輪の中で拍手をしながら、名鑑の付箋を、一枚増やした。
八日目に、出動が入った。
『第44管理世界、リバーサー残党による輸送路襲撃。ゼロイチ、出られる?』
「麻疹どもか。——行けます」
久々の実戦装備で格納庫に降りると、先客がいた。少女が、射出口の手前の黄色い安全線の、きっちり一歩外側に立っていた(安全線の意味は二日目に覚えた)。なのはの袖を、小さな手が掴んでいる。
「なのは」
「ん?」
「……かえって、くる?」
覚えたての言葉を、いちばん不安な順番に並べた質問だった。なのはは膝を折り、目の高さを合わせた。
「帰ってくるよ。お仕事して、すぐ」
「ぜったい?」
「絶対」
少女はまだ袖を離さなかった。離さないまま、視線が、なのはの後ろの二人へ動く。リョウとフェイトが歩み寄り、三人は少女の目の前で、いつもの儀式を始めた。
拳と、拳と、拳。こつん、こつん、こつん、と三つ。
「契約書代わり、だ」とリョウが言った。「これやった奴は、帰ってくる決まりになってる」
「けいやく」
「おう。うちの船で一番強い決まりだ」
嘘である。決まりも規則もなく、根拠は皆無だが、少女は厳粛な顔で頷き、袖を離した。離して、自分の両手を胸の前できゅっと握って、三人が射出口に消えるまで、そこに立っていた。
任務は、拍子抜けするほど短かった。
輸送路に陣取った麻疹どもは、降下してきた三色の光を見上げ、旗艦の識別コードを照合し、全員がきわめて速やかに武器を捨てて整列した。近頃のリバーサー業界では、翡翠のマーカーを視認した時点で投降するのが賢い経営判断とされているらしい。
『トリガーより本部。制圧完了。……戦闘時間、〇秒です』
『本部、了解。おかえりなさい』
拘束と引き渡しを終えて帰投するまで、正味二時間。ゼルベロスの厨房は帰艦報告の受信と同時に油の温度を上げ、艦内には定刻通り、あの匂いが流れ始めた。
その頃、観測ラウンジでは。
「はい、どうぞ。あたたかいうちに」
リンディと少女が、並んで窓の外を見ていた。少女の前に置かれたのは、湯呑み。中身は緑茶——艦長仕様の、砂糖入りの。乗員一同が五年間、丁重に辞退し続けてきた伝説の一杯である。
少女は両手で湯呑みを包み、一口飲んで、目を見開いた。
「——あまい!」
「あら」
「おちゃ、なのに、あまい! かんちょう、これ、すごい」
「…………そうよねえ。すごいわよねえ」
リンディ・ハラオウンの声が、二度、噛みしめるように繰り返した。五年間、誰一人として言わなかった感想だった。艦長は少女の湯呑みに、心持ち多めのお代わりを注ぎ、この日を境に観測ラウンジの茶葉と砂糖の消費量は、静かに倍増することになる。
匂いに気づいたのは、少女が二杯目を飲み干した時だった。
小さな鼻が、ひく、と動く。同時に、腹が、く、と鳴る。少女は湯呑みを置き、リンディを見上げ、許可を待つ目をした。リンディが頷くより早く、足はもう駆け出していた。
格納庫の扉が開いたとき、少女はいちばん前にいた。
三色の光が着艦し、ハッチが開いて、三人が降りてくる。少女は大きく息を吸い、この八日間で覚えたすべての言葉の中から、たったいま使うべき一語を、正確に選び出した。
「——おかえりなさい!」
出迎えの乗員たちの間から、笑いと拍手が起きた。なのはが駆け寄って抱き上げ、フェイトが荷物を持ったまま器用に頭を撫で、リョウは。
「……ただいま」
と言ってから、目の前に突き出された小さな拳に気づいた。
少女が、拳を握って、待っていた。
こつん。
なのはが合わせた。こつん。フェイトが合わせた。最後にリョウが、銀色の義手の拳を、そっと合わせた。こつん。——四つ。
「けいやく、かんりょう」
少女は、厳粛に宣言した。
食堂の長机に、山盛りの唐揚げが着任した。
少女の前に、なのはが小皿を置く。揚げたての一個。少女は箸で(完璧な持ち方で)それを摘み、ふうふうと二回冷まし(これはフェイトの真似だった)、齧った。
かり、と音がした。
少女の動きが止まる。また泣くのか、と食卓が身構えた、その時。
「……ふ、」
と、息が漏れた。
「ふふ」
最初のそれは、なのはの笑い方の、写しだった。音の高さも、息の継ぎ方も、隣で聞き覚えた形そのまま。少女は自分の口から出た音に自分で驚き、口を押さえ、押さえた指の間から、
「ふ、ふふ、あはは」
——写しが、崩れた。
崩れて、彼女自身の、誰の真似でもない笑い声になった。唐揚げを握ったまま、少女は笑った。おかしくて笑っているのか、嬉しくて笑っているのか、本人にも分かっていない顔で、ただ、笑った。食堂中がつられて笑い、なのはは笑いすぎて咳き込み、フェイトは目元を緩めて二個目を小皿に載せ、オーバ老は「嬢ちゃん、こっちの手羽も食え」と勝手に増量した。
リョウは、その輪の中で唐揚げを齧りながら、静かに数を数えていた。
初めての涙まで、五日。初めての笑いまで、八日。学習曲線は、垂直に近い。
(……で、あいつは、まだ一度も聞かない)
自分がどこから来たのか。あの廃墟で、なぜ一人で眠っていたのか。ここへ来る前のことを。子供なら真っ先に不思議がるはずのすべてを、あの子は、一度も。
まるで「前」なんてものが、最初から無いみたいに。
「とりがー、たべないの?」
いつの間にか隣に来ていた少女が、リョウの皿を覗き込んでいた。
「食う。食うから俺の皿から離れろ」
「ひとつ、こうかんして。おっきいのと、ちいさいの」
「それは交換って言わねえんだよ」
言いながら、大きいほうを小皿に載せてやると、少女は満足げに「けいやくせいりつ」と頷いた。何かにつけて契約したがるのは、誰の影響なのか。リョウは考え、思い当たり、天井を仰いだ。
その夜、少女の部屋が決まった。
医務室を出て、居住区の一室——なのはの部屋の、二つ隣。備品の寝台と机だけの小さな部屋の扉に、乗員たちが寄ってたかって、手作りの名札を掛けた。
名札の字は、少女自身が書いた。フェイトに教わった五十音で、鉛筆を握りしめて、三十分かけて。
『ヤガミ・ハヤテ』
線はよろけ、大きさも不揃いで、「ヤ」は二つとも左右が逆だった。艦の登録簿に並ぶ活字の『ヤガミ・ハヤテ(自称)』よりも、はるかに不格好で——括弧書きは、どこにもなかった。
消灯後の廊下で、リョウは一人、その名札の前に立った。
部屋の中からは、もう寝息が聞こえる。今日一日でいちばん働いた小さな肺の、規則正しい音。
端末を開く。分析班の定時報が、今日も一行、更新されている。
『「シェイド」関連事案:新規発生ゼロ。——十二日目』
ゼロが積み上がるほど、艦内の空気は緩んでいく。良いことだ。良いことのはずだ。ゼロの意味を、あの白い穴とあの寝息に結びつけて数えているのは、たぶん、この艦で自分だけでいい。
リョウは端末を閉じ、逆さまの「ヤ」を指先でなぞって、自分の部屋へ歩き出した。
(……なあ、相棒)
ポケットの中の051改に、聞こえない声で問う。
(このまま、ゼロのままなら——あの名札のままで、いさせてやれるか)
《Ready.》
いつも通りの返事は、いつも通り、何の保証もしてくれなかった。