魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~   作:ちょわわ

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第22話「Guest」

 客人、という言葉の賞味期限は、十日と保たなかった。

 

 保護四日目の朝、少女は医務室の扉の前に立っていた。付添のなのはが目を覚ますより早く起きて、着替えて、扉の前で待っていた。どこへ行きたいのかと問えば、赤い目が廊下の先を指す。船を、見たいらしかった。

 

 かくして艦内見学が始まり、そして艦内の言葉が、彼女に降り積もり始めた。

 

 少女の学習は、鸚鵡返しから始まった。

 

「ここは食堂。ごはんを食べるところ」

 

「……しょくどう。ごはん」

 

「こっちは格納庫。回収艇——じゃなくて、飛ぶやつの、おうち」

 

「かくのうこ」

 

 聞いた音を、完成された発音で、一度で写し取る。写し取った言葉は、二度と落とさない。三日目には二語文になり、五日目には助詞が生えた。医療班は「環境刺激への適応が驚異的に良好」と所見に書き、乗員たちは単に「賢い子だ」と言って目を細めた。

 

 呼び名も、増えた。

 

 なのは、は最初に覚えた名前だった。フェイト、は二番目。リンディは何度教えても「かんちょう」で固定された。そしてリョウはといえば。

 

「とりがー」

 

「……俺だけ職名なのは、なんでだ」

 

 艦内放送も乗員も、寄ると触ると「トリガー」と呼ぶせいだった。三度訂正を試みて、三度「とりがー」が返ってきた時点で、リョウは敗北を認めた。少女は満足そうに頷いた。契約成立、とでも言いたげな頷き方だった。

 

 最初の涙は、五日目の昼に来た。

 

 食堂の隅の席。膳の上には、その日の汁物——具の多い、湯気の立つスープ。少女は匙を握り(この持ち方は三秒で覚えた)、一口すすって、動きを止めた。

 

 二口目で、目が丸くなり。

 

 三口目の途中で——ぽろり、と落ちた。

 

 一粒。続いて、二粒。少女は自分の頬を伝うものに気づき、匙を置き、濡れた指先を見て、それからひどく困った顔で、なのはを見上げた。

 

「……なのは。みず、が。めから」

 

 声が、揺れていた。

 

「こわれた、かも」

 

 食堂の空気が、一瞬で柔らかくざわめいた。なのはは慌てず、ハンカチを出して、少女の頬にそっと当てた。

 

「壊れてないよ」

 

「でも。とまらない」

 

「うん。……それはね、あったかいものが、胸にいっぱいになって、入りきらなくて、こぼれただけ。涙、っていうの。ちゃんとした、人間の機能だよ」

 

「なみだ」

 

 少女は、その言葉を舌の上で転がして、もう一度スープを一口すすった。すすって、またぽろぽろ泣いた。泣きながら、匙は止めなかった。あたたかい、おいしい、と切れ切れに言いながら、器が空になるまで泣き続けた。

 

 その様子を、なのはは頬杖をついて、ずっと見ていた。

 

 (……いいなあ)

 

 と、思ってしまってから、自分で少し驚いた。あたたかいだけで泣ける。おいしいだけで、こぼれる。四年間、一滴も出てこなかった自分の乾いた季節を思えば、それは、目の前で行われる小さな奇跡のようだった。

 

「なのは」

 

「ん?」

 

「なのはも、めが、あかい」

 

「——気のせいだよ」

 

 気のせいではなかった。

 

 六日目は、フェイトの当番だった。

 

「本日の予定を伝達します。〇九〇〇、居住区の案内。一〇〇〇、休憩。一〇一五より文字の学習。一二〇〇、昼食——」

 

「ふぇいと」

 

「はい」

 

「それ、にんむ?」

 

「…………すみません。任務では、ないです」

 

 フェイトは咳払いをして、板のように堅い「予定表」を畳んだ。子供の世話は、彼女の教本のどこにも載っていなかった。載っていないなりに誠実であろうとする結果、案内は行軍になり、休憩は待機になり、少女はそれを面白がって、いちいち復唱しながらついて歩いた。

 

 文字の学習には、絵本が使われた。

 

 リンディが自室から持ってきた、古い、角の丸くなった絵本の束だった。表紙裏に、子供の字で名前が書いてある。

 

『クロノ・ハラオウン』

 

「くろの、って、だれ?」

 

 少女の指が、その文字をなぞった。フェイトは一拍だけ言葉を探して、静かに答えた。

 

「艦長の——息子さんです。今は、遠くの病院で、眠っています」

 

「ねてるの。おきないの?」

 

「……起きるのを、みんなで待っています」

 

「そっか」

 

 少女は頷いて、それ以上は聞かなかった。聞かない代わりに、絵本の持ち主の名前を、もう一度だけ、そっとなぞった。

 

 五十音の表を、フェイトは一度だけ通して教えた。

 

 翌日、少女は絵本を、声に出して読んでいた。

 

 つっかえもせず、読み飛ばしもせず、頁をめくる指の運びまで滑らかに。フェイトは自分の教え方が天才的だった可能性を〇・五秒だけ検討し、棄却し、正直に報告した。

 

「一度しか、教えてないんですが」

 

「天才かもしれないわねえ」とリンディは笑い、「天才だなあ」と整備班は沸き、なのはは拍手をした。

 

 笑わなかったのは、一人だけだった。

 

 (……箸も、そうだった)

 

 初めての食事の席で、誰も教えていないのに、少女は箸を完璧な形で持った。匙より先に、箸に手が伸びた。管理世界の生まれなら、まず出ない手順だった。あの持ち方を躾けるのは——リョウの知る限り、滅んだあの島国の、食卓だけだ。

 

 リョウは拍手の輪の中で拍手をしながら、名鑑の付箋を、一枚増やした。

 

 八日目に、出動が入った。

 

『第44管理世界、リバーサー残党による輸送路襲撃。ゼロイチ、出られる?』

 

「麻疹どもか。——行けます」

 

 久々の実戦装備で格納庫に降りると、先客がいた。少女が、射出口の手前の黄色い安全線の、きっちり一歩外側に立っていた(安全線の意味は二日目に覚えた)。なのはの袖を、小さな手が掴んでいる。

 

「なのは」

 

「ん?」

 

「……かえって、くる?」

 

 覚えたての言葉を、いちばん不安な順番に並べた質問だった。なのはは膝を折り、目の高さを合わせた。

 

「帰ってくるよ。お仕事して、すぐ」

 

「ぜったい?」

 

「絶対」

 

 少女はまだ袖を離さなかった。離さないまま、視線が、なのはの後ろの二人へ動く。リョウとフェイトが歩み寄り、三人は少女の目の前で、いつもの儀式を始めた。

 

 拳と、拳と、拳。こつん、こつん、こつん、と三つ。

 

「契約書代わり、だ」とリョウが言った。「これやった奴は、帰ってくる決まりになってる」

 

「けいやく」

 

「おう。うちの船で一番強い決まりだ」

 

 嘘である。決まりも規則もなく、根拠は皆無だが、少女は厳粛な顔で頷き、袖を離した。離して、自分の両手を胸の前できゅっと握って、三人が射出口に消えるまで、そこに立っていた。

 

 任務は、拍子抜けするほど短かった。

 

 輸送路に陣取った麻疹どもは、降下してきた三色の光を見上げ、旗艦の識別コードを照合し、全員がきわめて速やかに武器を捨てて整列した。近頃のリバーサー業界では、翡翠のマーカーを視認した時点で投降するのが賢い経営判断とされているらしい。

 

『トリガーより本部。制圧完了。……戦闘時間、〇秒です』

 

『本部、了解。おかえりなさい』

 

 拘束と引き渡しを終えて帰投するまで、正味二時間。ゼルベロスの厨房は帰艦報告の受信と同時に油の温度を上げ、艦内には定刻通り、あの匂いが流れ始めた。

 

 その頃、観測ラウンジでは。

 

「はい、どうぞ。あたたかいうちに」

 

 リンディと少女が、並んで窓の外を見ていた。少女の前に置かれたのは、湯呑み。中身は緑茶——艦長仕様の、砂糖入りの。乗員一同が五年間、丁重に辞退し続けてきた伝説の一杯である。

 

 少女は両手で湯呑みを包み、一口飲んで、目を見開いた。

 

「——あまい!」

 

「あら」

 

「おちゃ、なのに、あまい! かんちょう、これ、すごい」

 

「…………そうよねえ。すごいわよねえ」

 

 リンディ・ハラオウンの声が、二度、噛みしめるように繰り返した。五年間、誰一人として言わなかった感想だった。艦長は少女の湯呑みに、心持ち多めのお代わりを注ぎ、この日を境に観測ラウンジの茶葉と砂糖の消費量は、静かに倍増することになる。

 

 匂いに気づいたのは、少女が二杯目を飲み干した時だった。

 

 小さな鼻が、ひく、と動く。同時に、腹が、く、と鳴る。少女は湯呑みを置き、リンディを見上げ、許可を待つ目をした。リンディが頷くより早く、足はもう駆け出していた。

 

 格納庫の扉が開いたとき、少女はいちばん前にいた。

 

 三色の光が着艦し、ハッチが開いて、三人が降りてくる。少女は大きく息を吸い、この八日間で覚えたすべての言葉の中から、たったいま使うべき一語を、正確に選び出した。

 

「——おかえりなさい!」

 

 出迎えの乗員たちの間から、笑いと拍手が起きた。なのはが駆け寄って抱き上げ、フェイトが荷物を持ったまま器用に頭を撫で、リョウは。

 

「……ただいま」

 

 と言ってから、目の前に突き出された小さな拳に気づいた。

 

 少女が、拳を握って、待っていた。

 

 こつん。

 

 なのはが合わせた。こつん。フェイトが合わせた。最後にリョウが、銀色の義手の拳を、そっと合わせた。こつん。——四つ。

 

「けいやく、かんりょう」

 

 少女は、厳粛に宣言した。

 

 食堂の長机に、山盛りの唐揚げが着任した。

 

 少女の前に、なのはが小皿を置く。揚げたての一個。少女は箸で(完璧な持ち方で)それを摘み、ふうふうと二回冷まし(これはフェイトの真似だった)、齧った。

 

 かり、と音がした。

 

 少女の動きが止まる。また泣くのか、と食卓が身構えた、その時。

 

「……ふ、」

 

 と、息が漏れた。

 

「ふふ」

 

 最初のそれは、なのはの笑い方の、写しだった。音の高さも、息の継ぎ方も、隣で聞き覚えた形そのまま。少女は自分の口から出た音に自分で驚き、口を押さえ、押さえた指の間から、

 

「ふ、ふふ、あはは」

 

 ——写しが、崩れた。

 

 崩れて、彼女自身の、誰の真似でもない笑い声になった。唐揚げを握ったまま、少女は笑った。おかしくて笑っているのか、嬉しくて笑っているのか、本人にも分かっていない顔で、ただ、笑った。食堂中がつられて笑い、なのはは笑いすぎて咳き込み、フェイトは目元を緩めて二個目を小皿に載せ、オーバ老は「嬢ちゃん、こっちの手羽も食え」と勝手に増量した。

 

 リョウは、その輪の中で唐揚げを齧りながら、静かに数を数えていた。

 

 初めての涙まで、五日。初めての笑いまで、八日。学習曲線は、垂直に近い。

 

 (……で、あいつは、まだ一度も聞かない)

 

 自分がどこから来たのか。あの廃墟で、なぜ一人で眠っていたのか。ここへ来る前のことを。子供なら真っ先に不思議がるはずのすべてを、あの子は、一度も。

 

 まるで「前」なんてものが、最初から無いみたいに。

 

「とりがー、たべないの?」

 

 いつの間にか隣に来ていた少女が、リョウの皿を覗き込んでいた。

 

「食う。食うから俺の皿から離れろ」

 

「ひとつ、こうかんして。おっきいのと、ちいさいの」

 

「それは交換って言わねえんだよ」

 

 言いながら、大きいほうを小皿に載せてやると、少女は満足げに「けいやくせいりつ」と頷いた。何かにつけて契約したがるのは、誰の影響なのか。リョウは考え、思い当たり、天井を仰いだ。

 

 その夜、少女の部屋が決まった。

 

 医務室を出て、居住区の一室——なのはの部屋の、二つ隣。備品の寝台と机だけの小さな部屋の扉に、乗員たちが寄ってたかって、手作りの名札を掛けた。

 

 名札の字は、少女自身が書いた。フェイトに教わった五十音で、鉛筆を握りしめて、三十分かけて。

 

『ヤガミ・ハヤテ』

 

 線はよろけ、大きさも不揃いで、「ヤ」は二つとも左右が逆だった。艦の登録簿に並ぶ活字の『ヤガミ・ハヤテ(自称)』よりも、はるかに不格好で——括弧書きは、どこにもなかった。

 

 消灯後の廊下で、リョウは一人、その名札の前に立った。

 

 部屋の中からは、もう寝息が聞こえる。今日一日でいちばん働いた小さな肺の、規則正しい音。

 

 端末を開く。分析班の定時報が、今日も一行、更新されている。

 

『「シェイド」関連事案:新規発生ゼロ。——十二日目』

 

 ゼロが積み上がるほど、艦内の空気は緩んでいく。良いことだ。良いことのはずだ。ゼロの意味を、あの白い穴とあの寝息に結びつけて数えているのは、たぶん、この艦で自分だけでいい。

 

 リョウは端末を閉じ、逆さまの「ヤ」を指先でなぞって、自分の部屋へ歩き出した。

 

 (……なあ、相棒)

 

 ポケットの中の051改に、聞こえない声で問う。

 

 (このまま、ゼロのままなら——あの名札のままで、いさせてやれるか)

 

《Ready.》

 

 いつも通りの返事は、いつも通り、何の保証もしてくれなかった。

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