魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
天才、という言葉の賞味期限も、また短かった。
保護十四日目。少女の語彙から、子供の輪郭が抜け始めた。
「なのは。きょうの、くんれん、じゅんばん、いれかえたほうがいい」
「ん? どうして?」
「もぎせん、さいしょ。からだ、あたたかいうち。座学、あと。……そのほうが、こうりつ、いい」
なのはは目を丸くし、試しに順番を入れ替え、その日の模擬戦の記録を三項目更新した。効率、という言葉を、誰が教えたのかは分からなかった。
十五日目には、食堂の物資当番表の誤りを指摘した。二週間先の補給周期と当番の休暇が重なっている、という指摘だった。主計担当が三十分かけて検算し、指摘は正しかった。
十六日目の深夜、リョウは第三区画の廊下で、少女に会った。
消灯後の青い薄闇の中、少女は壁の一点を見上げて立っていた。寝間着のまま、裸足で。
「……おい。夜は寝ろ」
「とりがー」
少女は振り向かず、壁——正確には、壁の中を走る導管の位置を、小さな指で差した。
「ここ。ながれ、よどんでる」
「流れ?」
「みっつめの、くだ。ながれるりょう、ほかの、みっつぶんのいち。……びょうき、かも」
声は、いつもの少女のものだった。舌足らずで、眠たげで。ただ、差した指の先だけが、外科医のそれのように、微動もしなかった。
リョウは少女を部屋へ送り届け、それから、報告するかどうかを三分迷い、結局、整備班への「勘ですが」という匿名めいた進言に化けさせた。
翌日、第三区画の壁が開けられた。
第三導管。内壁の魔力伝導膜に、経年の剥離。流量、正常値の三十四パーセント。
「——嬢ちゃんは千年に一人の整備士じゃわい!」
オーバ老は豪快に笑い、整備班は沸き、少女は何のことか分からない顔で手羽先を齧っていた。壁の中の、目に見えない流れの淀みを、裸足の子供が廊下から言い当てた——その事実を、笑わずに嚥下したのは、進言者ただ一人だった。
(学習じゃねえ。あれは——診断だ)
名鑑の付箋が、また一枚、増えた。
オーバ老の作業場は、記録の外にあった。
正確には、老技師の頭の中身が、だ。艦の端末に検索履歴を残せないリョウにとって、五十年分の現場を歩いてきた老人の記憶は、どの書庫より安全な資料庫だった。
「——古代ベルカ式、ですか」
シェイドの解析報告を口実に、リョウは工具を磨きながら、世間話の温度で聞いた。オーバ老は義手の関節に油を差しながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「坊主の腕のこれはミッド式。円環の術式じゃ。ベルカは三角。千年前に滅んだ、戦の体系よ。儂も本物は博物館の硝子越しにしか見とらん」
「どう違うんです」
「思想が違う。ミッド式は、術者が詠み、術者が組む。ベルカ式はな——機械の側が、詠唱を肩代わりする」
油差しの手が、止まる。
「術者は願うだけでええ。組むのも、詠むのも、撃つのも、体系の側がやる。……人に優しい設計と言や聞こえはいいがの。儂に言わせりゃ、あれは魔法というより——祭壇じゃ。人間が上に乗る、でかい、古い、祭壇よ」
願うだけでいい。
リョウはその一句を、磨き上げた工具と一緒に、棚のいちばん奥へ仕舞った。
出動は、十九日目に入った。
『第58管理世界、旧工都。リバーサー残党が旧文明期の遺物——対艦級魔導砲の残骸を解体中に、蓄積炉を誤起動。臨界進行中。現地局は避難誘導で手一杯。ゼロイチ、鎮圧と処理を』
「麻疹どもが……触っちゃいけねえもんに触りやがった」
ゼルベロスは大気圏内、旧工都の南方一二・七キロに占位した。観測ラウンジの窓からは、夕暮れの市街が遠い灯りの帯になって見え、その中央で、遺跡の砲塔が不健康な紫色に明滅していた。
少女は、窓に両手をついて、それを見ていた。
出撃の見送りは、もう日課だった。拳は四つ、契約は完了している。リンディは携行端末に戦術図を映しながら、少女の隣に立った。
『トリガーより本部。現着。……こいつは酷い。蓄積炉が生きてる。臨界まで、読めて十二分』
『ヴァレル2、基部の伝導索を切断します。順次、減圧を——』
『ヴァレル1は避難回廊の上空維持。市民の頭上には、指一本触れさせません』
三色の光が、遠い市街の上で規則正しく動く。避難の車列が、光の下を蟻の列のように流れていく。順調——に見えたのは、七分間だった。
『——数値が跳ねた! 伝導索の切断で逆流してやがる、臨界が前倒しに——』
『残り、もって九十秒! ヴァレル1、回廊上空に障壁最大! ヴァレル2、構造体ごと縛って指向を上に逸らせ! 俺は取り残しを拾う——!』
『間に合わせます……!』
ラウンジの窓の向こうで、紫色の光が、膨らみ始めた。
リンディが立ち上がり、艦内回線に手を伸ばす。主砲は使えない。防御に転用できる艦載術式の展開時間は、最短で四十秒。届かない。誰の計算でも、届かない——
その時。
隣で、小さな音がした。
少女の両手が、窓を、強く押していた。赤い目が、遠い紫の光だけを映して、見開かれている。唇が動く。この十九日間で覚えた言葉たちの中から、選ばれたのは、たった三文字だった。
「——まもって」
世界の側が、応えた。
ゼルベロスの全観測系が、同時に悲鳴を上げた。窓の外——艦と市街を隔てる一二・七キロの夕空に、光の線が走る。円ではなかった。三角。巨大な三角形が、幾何学の連なりとなって、市街の空を端から端まで覆っていく。大聖堂の天井画のような、古く、精緻で、荘厳な——
そして、空が、詠唱した。
誰のものでもない声だった。男とも女ともつかず、一人とも千人ともつかない声が、鐘の音のような抑揚で、誰も知らない言葉を朗々と唱え上げていく。艦橋の言語解析が追いつくより早く、術式は組み上がり、閉じた。
紫の光が、弾けた。
臨界の爆圧は、三角形の天蓋に触れ——広がらなかった。天蓋の内側で、爆風は音もなく圧し潰され、光だけが硝子細工のように砕けて散った。回廊の障壁を支えていたなのはは、来るはずの衝撃が来ないことに構えを解けず、フェイトは縛り上げた構造体ごと、静かに鎮まっていく砲塔を見下ろし、リョウは最後の取り残しの老人を抱えたまま、頭上の三角形の空を、呆然と見上げていた。
『……本部。こちらトリガー。今のは——艦の、支援ですか』
本部は、答えなかった。
答えられる者が、艦橋にいなかった。
観測ラウンジでは、リンディが、崩れ落ちる小さな体を抱き留めていた。
少女は、窓に手をついた姿勢のまま、糸が切れたように眠りに落ちていた。抱き留めたリンディの腕の中で、薄く目を開け、
「……まもれた?」
とだけ聞いた。
「——ええ。守れたわ。全部」
少女は、笑った。写しではない、彼女自身の笑い方で、ほんの少しだけ。そして今度こそ、眠った。
その夜、艦は二つに割れた。
片方は、食堂だった。死者ゼロ、負傷者ゼロ、避難完了率百パーセント。乾杯の音頭は三回上がり、オーバ老は「艦の守り神」を高らかに宣言し、目を覚ました少女は唐揚げの山と質問の山に埋もれた。
「わたし、なにか、した?」
少女は本気で首を傾げていた。窓に手をついたことは覚えている。まもって、と思ったことも。その先が、ない。頁が一枚、抜けたように。
「したよ。……いっぱい、してくれた」
なのはは少女を抱きしめた。強く、長く。守られたのだ、と思った。四年間、守る側にしか立てなかった自分が、頭上を覆ったあの三角の空の下で、確かに、守られていた。腕の中の温度が、その証拠だった。
もう片方は、分析室だった。
乾杯の音から二枚の隔壁を挟んだ暗い部屋で、モニターの光だけが、数人の顔を照らしていた。
「観測結果を、まとめます」
エイミィの声は、平坦だった。平坦にしか、できなかった。
「術式基盤——古代ベルカ式。詠唱言語、古ベルカ語。現存資料との文法一致率、九十一パーセント。展開起点、本艦観測ラウンジ。到達距離、一二・七キロ。無詠唱、無デバイス、無施術。展開所要時間——一・四秒」
「出力換算は」
「艦載防御術式を基準にすると……換算表の、外です。それと、もう一点」
投影図が切り替わる。夕空を覆ったあの三角形の天蓋の、観測図。その外周に、赤い円が重ねられた。
「展開半径、二・四キロ。——第61管理世界の、環境魔力空洞域。あの『白い穴』の最終観測半径と、誤差〇・三キロで一致します」
沈黙が、長かった。
「……最後に、術式文字の照合結果です。天蓋を構成していた文字列と、シェイド事案で観測された紙片状発光体の文字様パターン。構造一致率——」
エイミィは、一度だけ、唇を結んだ。
「——九十六パーセント。同一の、体系です」
誰も、何も言わなかった。隔壁の向こうから、くぐもった笑い声と、乾杯の音が、微かに届いていた。
報告書の決裁欄の前で、リンディのペンは、三秒、止まった。
本局への即時報告。規定は、それを求めている。あの数字の並びは、それを求めている。五年前の、あの夜の記憶は——
ペンが、動いた。
『所見:観測機器の較正異常の可能性を排除できず。要追加検証。報告は検証完了後とする』
二つ目の蓋が、閉まる音がした。
決裁画面を閉じたリンディが顔を上げると、分析室の入り口に、リョウが立っていた。いつからいたのか、報告のどこから聞いていたのか、分からない立ち方で。
二人の目が、合った。
艦長は、何も言わなかった。二等陸士も、何も言わなかった。何も言わないまま、互いが互いの沈黙の種類を、正確に見分けたことだけが、分かった。この艦には、蓋を閉めている人間が、少なくとも二人いる。
リョウは敬礼をして、廊下に出た。
自室の机で、リョウは紙を広げた。
電子の記録は残る。だから、紙。前世の受験勉強以来の、鉛筆の芯の匂い。
書き出したのは、名鑑だった。頭の中にしかなかったあのページを、初めて、体系として外に出す。
『闇の書(夜天の書)——三層構造』
『一・意思(管理人格)。温厚。主に仕える』
『二・防衛機構(闇)。暴走の主因。本体は"これ"』
『三・蒐集機構(騎士)。頁を集める。四騎』
その下に、この二十日間の観測を、並べていく。
『少女——顔は一、名は主、力は……体系そのもの』
『シェイド——三の「型」。無人格。頁を集める』
『白い穴——半径二・四キロ。術式天蓋——半径二・四キロ。同じ器の、内と外』
鉛筆が、止まる。最後の行を書くのに、少し、時間がかかった。
『仮説:少女は「本」の核。再生中。蒐集は再生の食事。——では、満腹の先は?』
原作の頁数を、リョウは覚えている。六百六十五。だがあれは原作の、正規の運用での数字だ。五年前に砕けて、五年かけて芽を出した「これ」が、どの版のどの規則で動いているのか、名鑑のどこにも書いていない。
分かっているのは、一つだけ。
(……蒐集ってのは、目次があるから、するんだ)
リョウは紙を四つに畳み、指先に小さな雷を灯して、灰も残らないように焼いた。焦げた匂いを換気口が吸っていくのを見届けて、部屋を出る。
消灯後の居住区。二つ隣の扉の前で、足が、止まった。
左右逆の「ヤ」の名札。その向こうから、寝息に混じって、声がした。
寝言だった。小さな、歌うような。
——ただし、日本語では、なかった。
リョウの足の裏から、体温が抜けた。単語は一つも分からない。分からないのに、抑揚だけは、今日の夕空で聞いた。鐘の音のような、あの。
寝言は、二節で止んだ。あとは、規則正しい、小さな肺の音だけ。
リョウは名札の前に、長いこと立っていた。
(——昼のお前は、日本語で笑う。
夜のお前は……誰の言葉で、歌ってる?)