魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
子守唄は、なのはの担当だった。
消灯後、少女が寝つくまでの十数分。なのはは寝台の縁に腰掛けて、低く、短い歌を口ずさむ。歌詞のある夜もあれば、鼻歌だけの夜もある。滅んだ故郷の、滅んだ言葉の歌だった。母が歌い、姉が歌い、四年間どこにも仕舞い場所のなかった歌に、五年目にして、ようやく聞き手ができた。
「なのは。それ、なんのうた?」
「んー……おやすみの歌。私の生まれた星の」
「いいうた」
「でしょ」
少女は毛布の中で目を細め、ゆっくりと呼吸を深くしていく。医務室の端末には、その呼吸が波形になって流れていた。二十三日目の夜の、健やかな記録として。
睡眠監視は、術式発現の夜からの「念のため」だった。あの晩、少女は十四時間眠り続けた。以来、眠りは目に見えて深く、長くなっている。一晩十時間。深睡眠の比率、上昇傾向。医療班の所見は穏当だった——『成長期の睡眠として矛盾なし』。
矛盾がないことと、正しいことは、別だった。
リョウの夜の散歩は、続いていた。
消灯後の居住区をひと回りして、逆さまの「ヤ」の名札の前で足を止める。たいていの夜は、寝息だけ。だが週に二度か三度、あの寝言が聞こえた。歌うような、二節か三節の、誰も知らない言葉。
リョウは録音をしなかった。代わりに紙に、鉛筆で、日付と時刻と長さだけを書き付けた。素人の観測記録が、もう十一行になっていた。
それから、灯りのこと。
少女の部屋の前の廊下灯が、深夜のある時間帯だけ、ほんのわずかに暗くなる。計器に出るか出ないかの、二パーセントかそこら。整備班に言えば経年劣化で片付く程度の、些細な、些細な淀み。
リョウはそれも、紙に書いた。書いて、誰にも言わなかった。
ゼロは、二十四日目の夜に死んだ。
『緊急。第29管理世界より入電、蒐集事案発生。被害者一名、リンカーコア空洞化——十六人目です』
ブリーフィングルームに、三週間ぶりの緊張が戻った。投影図に現場写真が並ぶ。見慣れた、綺麗すぎる断面。見慣れた、眠るような昏倒。
そして、読み上げは終わらなかった。
『続報——第83管理世界より同種事案。発生時間帯、重複。……十七人目。二件は、同一夜間の、別世界での発生です』
室内が、静かにざわめいた。同時発生。つまり、実行体は一つではない。あの喰らう影は、単体の怪物ではなく——複製の利く、機能なのだ。
リョウは、室内の誰もが同じ算数を終えるのを、肌で感じていた。
ゼロが二十三日続いた。あの子が来てから、二十三日。そして再開した。誰もがその足し算を終えて、誰も、答えを口にしなかった。口にしない、という形で、全員が答えていた。
「……警護網の再展開を。優先順位表はエイミィの改訂版で」
リンディの声だけが、いつも通りの温度で、会議を前へ進めた。
その夜、分析室では、エイミィが波形と睨み合っていた。
十六人目と十七人目の、コア断面に残る呪詛痕。周期。位相の捩れ。五年間毎朝見てきたものと同じ紋様——のはずが、何かが、引っかかった。
波形の底に、揺れがある。
主波形のさらに下、ゆっくりとした、大きなうねり。九十分ほどの周期で満ち引きする、潮汐のような変調。呪詛の紋様が、この遅いうねりの上に乗っている。まるで、搬送波のように。
(……九十分)
エイミィは、その数字を知っていた。知りすぎるほど、知っていた。
五年間、毎朝見てきたのは、クロノのコアの波形だけではない。その隣に、いつも、もう一本並んでいた線がある。枕元の睡眠モニター。レム睡眠の周期、およそ九十分。
(——これ、眠りの形だ)
誰かの眠りが、術式に、乗っている。
指が、勝手に動いた。医務班のデータベースに較正名目の閲覧申請を一件。対象、保護対象『ヤガミ・ハヤテ』の睡眠記録、直近三夜分。承認が下りるまでの十一分を、エイミィは自分の手を膝の上で握って、待った。
重ねた。
第29管理世界の事案発生時刻。第83管理世界の事案発生時刻。時差を換算し、艦内標準時に揃えて、少女の睡眠曲線の上に置く。
蒐集の開始は、二件とも、少女が深睡眠に入った直後だった。誤差、平均四十秒。
蒐集の終了は、二件とも、彼女の眠りが浅くなる折り返しと重なっていた。
位相同期率、九十八・六パーセント。
エイミィは椅子の背に体を預けて、長いこと、天井を見ていた。五年間、探し続けてきた「原因」の側に、自分はいま、たぶん、指を掛けている。掛けた指の下にあるのが、あの、砂糖入りの緑茶を世界一おいしそうに飲む子だということも、分かっていた。
悪夢は、二十六日目の夜に来た。
最初に気づいたのは、監視端末だった。深睡眠の波形が乱れ、心拍が跳ね、医務室のアラートが鳴るより早く、隣室のなのはが飛び起きていた。
少女は、泣いていた。
眠ったまま、固く目を閉じて、シーツを握りしめて。あの歌うような寝言が、今夜は歌になっていなかった。切れ切れの、怯えた音の連なりが、誰も知らない言葉のまま、悲鳴の抑揚だけを正確になぞっていた。
「はやてちゃん、はやてちゃん——大丈夫、起きて」
肩を揺すって、二度、三度。
少女の目が、開いた。
——そして、同時刻。
第77管理世界、山間の療養所。三週間張り続けた警護網の一つが、その夜、初めて仕事をしていた。
『こちら警護四班! 接敵、接敵! 例の影だ——収容棟に侵入、術士一名が接触されて——』
『撃つな、繰り返す、撃つな! 給餌になるだけだ! 照明弾で影を潰して時間を稼げ!』
『駄目だ、届かない、コアが——』
抜き取られていく光の紙片を、警護班は照明の白い光の中で、なす術もなく見ていた。半分。半分以上。あと数枚で、断面が閉じる——
影の手が、止まった。
紙片が、宙で凍りつく。顔のない頭部が、何かに呼ばれたように、僅かに上を向いた。そして次の瞬間、影は開きかけの頁も、繋ぎかけの糸も、すべてその場に投げ出して——自分の足元へ、崩れるように沈んだ。
取り込まれかけた紙片が、ひらひらと、倒れた術士の胸へ舞い戻っていった。
『……警護四班より本部。敵性体、消失。被害者は——生きてます。コアも、半分、残ってる』
時刻記録、現地時間〇二四七。艦内標準時に換算して——少女が悪夢から揺り起こされた時刻と、誤差、十一秒。
十八人目は、二人目の「途中」になった。
少女は、なのはの腕の中で、しゃくり上げていた。
「こわいゆめ、みた」
「うん。もう大丈夫。どんな夢だった?」
少女は、しばらく言葉を探した。覚えたての語彙の中から、見たものに合う形を、一つずつ拾い集めるように。
「……ゆめのなかで、わたし、だれかの、たいせつなものを、もらってた」
「うん」
「あったかくて、きれいで、ひかってて。……もらっちゃ、だめなやつ。わかってるの。かえしたいの。かえしたいのに——」
小さな両手が、シーツの上で、固く固く握り込まれた。
「——てが、はなさないの」
なのはは、何も言えなかった。言えないまま、震える背中を撫で続けた。廊下の薄闇では、散歩から駆けつけたリョウが、開いた扉の外に立ち尽くしていた。
夢の中で、返したがっている。
手が、離さない。
(……あの子と、あの手は——別、なのか)
その一瞬の直感を、リョウは紙に書くより深いところへ、書き付けた。
夜明け前の艦長執務室に、三人がいた。
リンディ、エイミィ、そして同席を命じられたリョウ。机の上の投影図には、二本の線が重ねられている。少女の睡眠曲線と、蒐集事案の発生記録。四十秒の誤差と、十一秒の誤差と、九十八・六パーセントの同期率。
「……較正異常では、説明がつきません」
エイミィの声は、静かだった。
「彼女の眠りが、蒐集を駆動しています。深く眠るほど、遠く、多く。起こせば、止まる。——今夜、それが実証されました」
リンディは、投影図を長いこと見ていた。それから、聞いた。
「エイミィ。あなたの意見は」
エイミィは、すぐには答えなかった。答える代わりに、一度だけ、窓の外の暗い星の海を見た。
「……十八人の被害者の枕元で、今夜も、誰かが波形を見てます。私がクロノにしてきたのと、同じことを。私と同じ五年が、もう十八件、始まってるんです」
規定は本局への即時報告を求めている——とは、エイミィは言わなかった。言わないことが、彼女の精一杯の、リンディへの猶予だった。
リンディは目を閉じ、開いた。
「三日」
と、艦長は言った。
「三日で、白黒をつけます。あの子が何なのか。何であれ、どうするのか。艦の総力で検証して、答えを出す。……報告は、そのあとに、私の署名で」
「三日を過ぎたら」
「私が自分で、本局に艦長符号を打ちます」
エイミィは、頷いた。頷いてから、退出の敬礼の途中で、一度だけ動きを止めた。
「リンディさん。……あの子の飲みっぷり、見てると」
「ええ」
「クロノの、小さい頃に、ちょっと似てます」
それだけ言って、彼女は出ていった。リンディは、残された湯呑みの中の冷めた緑茶を見下ろして、しばらく、動かなかった。
残ったリョウに、リンディは投影図を消しながら言った。
「クルス二等陸士。三日間、あの子の観測補助に入りなさい。……あなた、どうせもう、自分の帳面を持ってるんでしょう」
「——なんのことだか」
「そういうことに、しておきます」
夜の帳面の存在を、艦長は言い当てて、咎めなかった。蓋を閉めている人間同士の、事務的な握手のようなやり取りだった。
自室に戻る途中、リョウはまた、あの扉の前を通った。
中からは、二人分の寝息と、途切れ途切れの、低い鼻歌。なのはが、まだ枕元にいるのだ。滅んだ星の、滅んだ言葉の子守唄。その合間に、寝返りの衣擦れと、時折、少女の唇からこぼれる小さな寝言——千年前に滅んだ体系の、誰も知らない言葉。
滅んだ世界の歌と、滅んだ体系の歌が、青い常夜灯の下で、交互に、静かに続いていた。
夜想曲、という言葉を、リョウはなぜか思い出した。
(……手を)
廊下の灯りが、今夜も二パーセントだけ、暗い。
(その手を離す方法を、俺は——三日で、見つけなきゃならねえらしい)