魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
三日間は、笑顔で始まった。
「はやてちゃん、今日はね、健康診断の続き。ちょっと長いけど、頑張れる?」
「がんばれる。……けんさ、きょうは、なんかい?」
「え? ……よ、四回、かな」
「わかった。じゃあ、じゅんばん、きめて。ねるやつ、さいご。ねむくなるから」
医療班の担当官は笑顔のまま頷き、笑顔のまま少女を検査台へ案内し、隔壁の外に出てから、笑顔を消した。効率のいい被検体だった。あまりにも、効率がよかった。
検証は、閉じた輪の中で行われた。艦長、分析班長、医療班長、エイミィ、そして観測補助を命じられたリョウ。輪の外の乗員たちにとって、それは「術式発現の精密検査」であり、事実、嘘ではなかった。嘘ではない、というだけだった。
一日目の成果は、ゼロだった。
覚醒時の少女は、完璧に「漏れない」。深部を覗こうとするあらゆる走査が、あの綺麗すぎる無反応の膜に、音もなく吸われて終わる。まるで検査そのものが、給餌のように。
「……夜を、待ちましょう」
エイミィが言った。眠りが蒐集を駆動するなら——眠りの中でだけ、扉は開く。
扉は、二日目の深夜に開いた。
深睡眠への移行と同時に、あの無反応の膜が、薄くなった。走査波が、初めて、膜の内側に届く。分析室のモニターに、少女の「コア」の像が、少しずつ結ばれていく。
人間のリンカーコアは、球だ。大きさも輝度も人それぞれだが、形だけは、誰でも球になる。
結ばれた像は、球ではなかった。
整然と束ねられ、綴じられた、無数の薄い層。層の一枚一枚に、あの古い文字が、几帳面な行列を成して流れている。装丁のない、剥き出しの——
「……頁だ」
誰かが、言った。言ってしまえば、そうとしか見えなかった。眠る少女の胸の中で、一冊の本が、静かに開いたり、閉じたりしていた。
「層の計数、出ます。充填済みの頁——現在、七十九。空白頁を含む総頁数は——」
オペレーターの声が、数字を読む。
「——六百六十六」
リョウの背筋を、細い氷が滑り落ちた。
(……六百六十六?)
焼き捨てた紙に、自分は何と書いた。六百六十五。名鑑の、あのページ。何百回も読んだはずの数字。一頁、ずれている。俺が間違えたのか。それとも——この世界の「これ」が、俺の知ってる版と、違うのか。
どちらでも、結論は同じだった。
(「全部覚えてる」は……今夜で、廃番だ)
完璧なはずの名鑑に、初めて、正誤表が挟まった。
「充填率、約一割二分。増加要因の内訳——蒐集事案由来が推定五十一頁。残りは第61管理世界の環境魔力、つまり『白い穴』からの吸収と整合します。増加速度は……保護時を基準に、現在、約四倍」
「四倍」
「術式発現の夜を境に、跳ねています。このままの加速が続けば、充填完了まで——最短、六十日前後」
六十日。
その数字が投影図に表示された時の室内の温度を、リョウは生涯忘れないだろうと思った。誰も息を吸わなかった。吸えば、次の質問をしなければならないからだ。充填が完了したら、何が起きるのか、という質問を。
三日目に、照合が終わった。
「頁構造の術式署名を、保管庫の残滓データと突き合わせました。セカンド・ショック直後に採取された、あの呪詛痕の大元——署名一致率、九十九・二パーセント。……同一個体です」
分析班長の声は、報告書を読む声というより、判決文を読む声だった。
「該当署名には、五年前の事案記録上の識別コードが存在します。ただし——特級機密。表示には、艦長権限の解錠が必要です」
全員の目が、リンディに集まった。
リンディは何も言わずに端末へ歩み寄り、個人符号を打った。迷いのない指の運びだった。五年間、何度もこの錠の前に立った者の、指の運びだった。
黒塗りが、溶けた。
『識別コード:ナハトヴァール』
『分類:「闇の書」中枢制御・防衛機構。第九七管理外世界事案(セカンド・ショック)の直接原因(推定)』
闇の書の、闇。
誰かがその訳語を呟き、それきり、部屋は長いこと静かだった。リョウは画面の片仮名の名前を見つめていた。設定資料の隅で眠っていたはずの名前が、公文書の書式をまとって、目の前にいた。
「……結論を、まとめます」
リンディが、静かに言った。
「保護対象『ヤガミ・ハヤテ』は、再生途上にある『闇の書』の中枢——制御・防衛機構『ナハトヴァール』の核体である。人間としての生体機能は真正。ただしその胸には、六百六十六頁の器が入っている。……名乗りについての所見は?」
「書の登録簿に由来すると推定します。最終正規登録主の名を、自己識別子として採用した——機構的には、それだけの話です」
機構的には、それだけの話。
(……目が覚めたら、家族欄に、名前が一つだけ残ってたんだ)
リョウは、口の中だけで言った。誰にも聞かせるつもりのない翻訳だった。
「報告書に、一件、添付を具申します」
声に出したのは、別のことだった。分析班長が眉を上げる。
「二十六日目夜の、蒐集中断事案。……被害者側の記録だけじゃなく、あの子の側の記録も添えるべきです。悪夢の観測波形と——本人の、夢の陳述を」
「主観陳述に証拠能力は」
「『返したいのに、手が離さない』。——核体と、蒐集衝動が、分離可能な別系統である可能性を示す、現状唯一の観測です。証拠能力の判定は、受け取った側がやりゃいい。こっちの仕事は、全部載せることでしょう」
沈黙ののち、リンディが頷いた。
「添付を認めます。——三日目、終了。検証を完了とします」
主要人員への開示は、その日の夕刻に行われた。
ブリーフィングルームには、なのはとフェイト、各班の長が呼ばれていた。リンディが事実を、順番に、削らずに話した。頁の像。六百六十六。ナハトヴァール。六十日。
話が終わっても、フェイトはしばらく手元を見ていた。それから、顔を上げた。
「……あの子自身は。自分が何なのか、知っているんですか」
「知らないわ。少なくとも、昼のあの子は」
「知らないまま、なんですね」
フェイトはそれだけ言って、口を閉じた。閉じた口の奥で、何を噛んでいるのかは、誰にも見えなかった。
なのはは、一度も、口を開かなかった。
投影図を見る横顔は、平坦だった。三秒ではなかった。三十秒でも、なかった。説明の間じゅう、ずっと。リョウはその横顔から、温度が抜けていく速度を、為す術もなく測っていた。
解散の号令のあと、なのはは真っ直ぐに扉へ歩き、扉の前で一度だけ止まって、振り向かずに聞いた。
「——あの子には、いつ、話すんですか」
「……まだ、決めていません」
「そうですか」
それだけだった。
空気の変化は、隔壁よりも速く艦内を伝わった。
開示は主要人員までのはずだった。だが警備計画は変わり、少女の居住区画の隅には「転落防止」の名目で立哨が立ち、医務室の検査は「継続」され、そして人間は、命令書がなくても、上官の顔色から真実の輪郭を読み取る生き物だった。
食堂の温度が、変わった。
少女が入ってくると、会話の音量が、一段、下がる。向けられる笑顔の数は減らない。減らないまま、笑顔と少女の間の距離だけが、椅子半分ずつ、遠くなる。この艦の乗員は、一人残らず、五年前のあの夜の生き残りだった。あの夜に、誰かを失っていない人間は、厨房の鍋の数より少なかった。
少女は、聡かった。聡すぎた。
「なのは」
夕食の席で、少女はスープの匙を置いて、言った。
「みんな、わたしをみるとき……めが、しずかになった」
なのはの匙が、止まった。
「きのうまでと、おんなじかおで、わらってくれるのに。めだけ、しずか。……わたし、なにか——」
「——気のせいだよ」
なのはは言った。言って、笑った。あの、燃費の悪い笑い方の、さらに燃費の悪い版だった。少女はしばらくなのはの目を見て、それから小さく頷いて、スープに戻った。聡い子供が、大人のために聡くないふりをする時の、頷き方だった。
オーバ老だけは、何も変わらなかった。
「嬢ちゃん! 今日は手羽先が多めじゃ、育ち盛りは食え食え」
変わらない声で皿に山を築き、変わらない目で少女の頭をわしわしと撫でた。あとで若い整備員が恐る恐る「班長、その、例の話……」と耳打ちした時、老人は油まみれの手を止めずに、こう言ったという。
「儂の守り神は、儂の守り神じゃ。……それとも坊主、お前さんの命の恩人の中身が何だったら、恩を忘れてええんか。言うてみい」
若い整備員は、何も言えなかった。
消灯後、リョウは訓練区画の灯りに気づいた。
射場に、なのはがいた。セブンスウィルを構え、無人の的に向かって、奇妙なリズムの連射を刻んでいる。撃って、半拍置いて、撃って、二連、置いて、三連。的を狙う射撃ではなかった。的の「呑み込みの間」を潰す、飽和のリズムを探す射撃だった。
(……あれは)
喰い切るまで、一瞬止まる。二十日前、リョウ自身が見抜いて、口に出した観察だった。俺が教えた目の付け所で、と思う。俺が教えた目の付け所で、こいつは、二十日間ずっと——
「宿題、って言ったの、リョウさんですよ」
振り向きもせずに、なのはは言った。射撃のリズムは、乱れなかった。
「削れる撃ち方を考えます、って言いました。私、宿題はやる子です」
「……その宿題の的は、シェイドか」
「シェイドです」
撃つ。半拍。撃つ。
「シェイドと、同じ署名のもの、です」
二連。間。三連。薬莢の音だけが、しばらく続いた。やがてなのはは射撃をやめ、銃を下ろし、初めてリョウを振り向いた。平坦な、あの目で。
「リョウさん。一つだけ、聞いていいですか」
「……おう」
「いつから、疑ってたんですか」
射場の空調の音が、急に大きく聞こえた。
「保護した日ですか。名前を聞いた日ですか。箸の持ち方を見た日ですか。——私が毎晩、歌ってた間、リョウさんはずっと、廊下で数を数えてたんですよね」
「……確証は、三日前までなかった」
「確証の話は、してません」
声は、荒らげられもしなかった。それが一番、堪えた。
「私は全部あげてたのに、リョウさんは疑いを持ってて、それを、私にくれなかった。……それだけの、確認です」
なのはは銃を仕舞い、敬礼をして、射場を出ていった。敬礼は、教本通りに正確だった。教本通りであることが、これほど冷たい夜を、リョウは知らなかった。
その夜、子守唄は、なかった。
少女は自室の寝台の上で、膝を抱えて、扉を見ていた。細く開けた扉の隙間から、廊下の灯りが差し込んでいる。十数分。三十分。いつもの足音は、来なかった。
代わりに来た足音は、少し硬くて、扉の前で長いこと躊躇った。
「……入っても、いいですか」
フェイトだった。少女は頷いた。フェイトは寝台の縁に、教本通りの姿勢で腰掛け、それから、困った顔で白状した。
「歌は……知らないんです。子守唄を、歌ってもらったことが、なくて。ごめんなさい」
「そっか」
「かわりに」
フェイトは、持ってきた古い絵本を開いた。角の丸くなった、表紙裏に子供の字で名前の書いてある、あの絵本を。
「……読みます。下手かも、しれませんが」
朗読は、確かに下手だった。抑揚は行進曲で、擬音は棒読みで、頁をめくる手つきだけが妙に丁寧だった。少女は毛布の中でそれを聞きながら、三頁目で、ぽつりと聞いた。
「ふぇいと。……わたし、なにか、わるいこと、した?」
朗読が、止まった。
フェイトは絵本を膝に置き、少女の赤い目を、まっすぐに見た。この三日間で自分が知ったすべてと、五年前に自分だけが眠って知らないすべてを、その一瞬で天秤に載せて——載せ終わって、言った。
「——していません。あなたは、何も」
あなたは。
その四文字にだけ、ほんの少し、力がこもった。少女は気づかなかった。気づかないまま、安心したように目を閉じて、五頁目で、眠った。
同じ頃、艦長執務室。
リンディは書き上げた報告書を、最後にもう一度、頭から読んだ。頁の像。六百六十六。加速。ナハトヴァール。そして末尾の添付——悪夢の波形と、『かえしたいのに、てが、はなさない』の一文。所見欄には、艦長として、こう書いた。
『核体と蒐集機構の分離可能性について検証の余地あり。本艦は保護継続と隔離下研究を具申する』
執務室のモニターの隅には、医務室の監視映像が小さく映っている。絵本を膝に載せたまま寝落ちした金色の頭と、その隣の、銀色の小さな寝息。
リンディはそれを一分間見て、送信欄に、艦長符号を打った。
発信音は、一つ。あとは、静かだった。
その夜、ゼルベロスは一つの名前を覚え——一つの歌を、失った。