魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
返答は、三秒で来た。
艦長符号での発信から、次元間通信の往復遅延を差し引けば、本局の意思決定に要した時間は、実質、それだけだった。五年前、フェンリルの夜にリンディを救った、あの伝説的な三秒。同じ速さが、今度は、反対側から来た。
『本局より〝ゼルベロス〟へ。報告受理。案件を最優先指定とする。二時間後、査問級会議を接続する。——以上』
署名は、あの老提督だった。
会議は、定刻きっかりに始まった。
ブリーフィングルームの中央に、老提督の立体映像が立つ。皺の刻まれた顔。掠れた声。フェンリルの夜、規定と責任の全てを三秒で呑み込んで「やれ」と言った、あの男だった。リョウは壁際の末席で、密かに安堵すら覚えていた。話の通じる相手だ、と。
その認識が誤りだと分かるまでに、七分かかった。
『——六十日』
老提督は、リンディの報告書を読み上げる代わりに、その数字だけを、ゆっくりと発音した。
『充填完了まで、最短六十日。完了した場合に起きる事象について、貴官の報告書は空欄だ。リンディ・ハラオウン一等海佐。空欄の理由を』
「不明であるからです。憶測を公文書に載せる訳には」
『五年前も、空欄だった』
声は、静かだった。静かなまま、部屋の温度を三度下げた。
『あの夜の前も、我々は空欄を眺めて、検証と観察を具申し合っていた。完了したら何が起きるのか、誰も書けなかった。書けないまま——書かれたのは、九割の死亡者名簿だ』
「提督。本艦の具申は隔離下での分離研究です。核体と蒐集機構が別系統である可能性を示す観測が——」
『添付資料十二、読んだ』
老提督は、手元の何かをめくった。夢の陳述。返したいのに、手が離さない。リョウが押し込んだ、あの一枚。
『「返したい」と、泣くのか。あれは』
一瞬だけ、立体映像の目が、閉じられた。
『……あの夜、私の旗艦の乗員は五百十七名だった。全員、そう言えたらよかったな。返したい、と』
開かれた目に、もう、迷いはなかった。
『本局の決定を伝える。保護対象——識別ナハトヴァール核体の隔離研究案は、却下。第九七管理外世界事案の処理規程に準拠し、強制封印処理を執行する。移送は四十八時間後。執行地は追って指定。ゼルベロスは核体の保護監督権を返上し、移送まで現状を維持せよ』
準拠、という言葉に、リンディの指が、机の上で一度だけ動いた。
「提督。……その規程は、五年前の、あの作戦の規程です」
『そうだ。当時の手順書のまま、封印出力だけを三倍に引き上げる。五年前の失敗は、規模の不足と、着手の遅れだ。同じ轍は踏まん』
「失敗の原因が、それだと——本当に、お考えですか」
部屋の空気が、張り詰めた。二人の間にだけ通じる何かが、立体映像の走査線を挟んで、五年ぶんの重さで揺れた。老提督は、長い沈黙のあと、初めて規定の外の声で言った。
『……リンディ。私と君は、あの夜について、答え合わせのできない反省文を二通、書いた。私の反省文には「遅すぎた」とある。君のには、別のことが書いてあるんだろう。だが決裁欄に載るのは、私のほうだ。——五年前も、今回も』
通信が切れる直前、老提督は、規定外の質問をもう一つだけした。
『その子は……よく、笑うのか』
リンディは、まっすぐに答えた。
「ええ。よく笑って、よく泣きます」
立体映像は三秒黙り、それから、消えた。
決定は、様式に従って、艦内に通達された。
リョウはその日のうちに、異議申立書を書いた。二等陸士に許された、唯一の合法的な抵抗だった。処理の延期と分離研究の先行を求める旨、規定の書式で、一字も乱さずに。提出された書類は受理され、受領印を捺され、分類欄に『参考』と記入されて、書庫の海に沈んだ。
様式は、正しく機能した。正しく機能して、何も変えなかった。
その夜、リョウは艦長執務室に呼ばれた。
部屋にはもう一人、エイミィがいた。リンディは二人に椅子を勧め、自分は座らず、窓の外の星の海を背にして、言った。
「五年前の話をします。……記録にない版を」
語りは、事務的に始まった。事務的にしか、語れない種類の話だった。
「第一次大災厄の八ヶ月後。闇の書の蒐集は、加速期に入っていました。被害者は百を超え、完了予測は目前。本局は強制封印処理を決定した。作戦承認者は七名。私は、その一人です。現地執行隊の指揮系統に——クロノがいました。十九歳の、優秀な、執務官でした」
湯呑みは、机の上で、手を付けられないままだった。
「作戦開始、現地時間〇三〇七。封印術式の第一階梯が『本』の中枢に接触したのが——〇三一一。転生システムの暴走選定は、その直後に始まりました。公式記録は『自壊』。因果関係は『不明』。……そう書いたのは、私たち七人です。書いた、というより——それ以外の文を、誰も書けなかった」
「〇三一一……」
リョウは、呟いていた。第61管理世界の夜から網膜に貼り付いていた、あの数字。影が沈んだ時刻。世界が終わり始めた時刻。そして——処理が、本に触れた時刻。
「クロノは中枢至近で暴走に呑まれ、コアに呪詛が焼き付いた。生きて回収できたのは、執行隊でただ一人。……私は五年間、この読みを誰にも話していません。提督の読みは『遅すぎた』。私の読みは——『私たちが、引き金だった』。どちらの反省文も、証明はできない。できないように、私たち自身が、記録を書いたから」
告白が終わっても、部屋は静かだった。
沈黙を破ったのは、エイミィだった。静かな、静かな声で。
「——知ってました」
リンディが、振り向いた。
「クロノのコアの呪詛痕、五年分、毎朝見てきましたから。焼き付きの起点時刻は、波形に残ってます。〇三一一。作戦記録の開始時刻は、看護権限で閲覧できる範囲にも載ってます。〇三〇七。……四分後です。波形は、嘘をつかないので」
エイミィは、膝の上で手を組んだまま、リンディの目を見た。
「五年前から、知ってました。知ってて、私は、リンディさんのお茶を飲んできました。……だから今さら、告白なんて、しなくてよかったんですよ」
リンディ・ハラオウンが下を向くところを、リョウは、初めて見た。
自室に戻って、リョウは紙を広げた。
鉛筆を握る。名鑑を開く。今度は正誤表込みで、慎重に。
『防衛機構(ナハトヴァール)の行動原理——原作知識(概要)』
『一・主を守る。二・書を存続させる。三・主を失えば——次の主を、選定する』
三行目の下に、線を引く。二重に。
『転生システム=継承手続き。中枢の破壊は「主の喪失」として解釈される→緊急選定の一斉発動』
『五年前:封印術式が中枢に接触(〇三一一)→システムは「破壊開始」と解釈→生存人類九割を同時選定→過負荷連鎖爆発』
つまり、あの夜は事故ではない。防衛機構は、設計通りに動いたのだ。壊されそうになったから、継承した。それだけの、機構的にはそれだけの話。
鉛筆が、次の行で、少し重くなった。
『現在:核体=あの子。呪い(継承機構)は核体の内側に繋ぎ止められている——「手が離さない」のではない。手錠なのだ。あの子が、呪いの側に掛けられた』
『処理=中枢の破壊=五年前と同じ入力。同じ入力は、同じ出力を返す』
『ただし。五年前の選定範囲は、地球一つ。現在、書の登録簿には十八人ぶんの頁——四つの管理世界の座標が、綴じられている』
最後の一行を書く手が、止まった。書かなければ、結論にならない。リョウは書いた。
『処理は、再演である。今度は——次元世界全域を選定範囲とする、再演である』
紙を見下ろす。窓の外の星の海を見る。あの一つ一つの光の下に、選定範囲がいる。
(……あの子は、爆弾じゃねえ)
爆弾なら、まだよかった。爆弾なら、遠くへ運んで壊せばいい。
(あの子は——安全ピンだ。呪いって爆弾に刺さった、生きてる、安全ピン。あいつらがやろうとしてるのは処理じゃねえ。ピンだけ引っこ抜いて、爆弾を宇宙のど真ん中に置いてく作業だ)
指先に雷を灯しかけて——リョウは、止めた。
この紙は、まだ焼けない。これは俺の推論で、証明はどこにもない。証明はないが、四十八時間しかない。合法の窓口は全部叩いた。全部、様式どおりに受理されて、沈んだ。
(なら、次の書式は——)
リョウは紙を畳み、胸の内ポケットに、仕舞った。
移送前夜、少女は自分の部屋を、片付けていた。
片付ける、といっても、持ち物はほとんどない。覚えたての畳み方で毛布を畳み、机の上を揃え、それから、大事そうに一冊の絵本を抱えて、フェイトの部屋の扉を叩いた。
「ふぇいと。かりてた、これ。……かえす」
角の丸くなった、表紙裏に子供の字で名前の書いてある、あの絵本だった。フェイトは絵本と少女の顔を交互に見て、受け取らなかった。
「——持っていてください」
「でも。かりたものは、かえすの。きまり」
「なら……返すのは、帰ってきてから、で」
帰ってきてから。
その言葉が含む嘘の量を、部屋の外で聞いていたリョウは知っていたし、たぶん、言ったフェイト自身も知っていた。少女だけが、知らない顔で、こくりと頷いた。頷いて、絵本を、胸に抱え直した。
「けいやく、せいりつ」
少女の移送同意は、その日の午後に、記録されていた。
説明はリンディが自ら行った。あなたを別の場所へ移す必要があること。とても大切な検査であること。嘘は、一つも言わなかった。全部は、言わなかっただけで。
少女は最後まで聞いて、一つだけ質問をした。
「わたしがいると……みんな、あぶない?」
リンディは、答えられなかった。答えられない、という答えを、少女は正確に受け取った。それから、この一ヶ月で覚えたすべての言葉の中から、慎重に、選んだ。
「いく。わたし、いくよ。……みんながあぶなくないのが、いちばん、いい」
同意書の署名欄には、左右の逆さまが直ったばかりの「ヤ」で、四文字が書かれた。
その夜から、少女の部屋の常夜灯は、点いたままになった。
『移送完了までの覚醒維持措置』——医療班の様式には、そう記入されている。眠れば、どこかで誰かの頁が抜かれる。だから、眠らせない。理屈は正しく、様式も正しく、そして廊下ですれ違う少女の足取りは、夜を追うごとに、ゆっくりになった。
「ねむくない。だいじょうぶ」
目の下に薄い影を貼り付けたまま、少女は笑った。写しではない、自分の笑い方で。それがいっとう、堪えた。
リョウは廊下の壁にもたれて、移送までの残り時間を表示する掲示を見上げた。
『核体移送まで——三三時間一四分』
様式は、今夜も正しく機能している。正しく機能して、眠い子供を眠らせず、生きてる安全ピンを引き抜く段取りを、一分ずつ、正確に消化していく。
(……宣告ってのはな)
胸の内ポケットの、畳んだ紙が、鼓動のたびに小さく鳴った。
(受け取った側が、次の文を書いていいんだぜ)