魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
第90管理外世界は、死んだ岩の星だった。
大気は薄く、空は常に鉄色で、生命の記録は地質のどこにもない。管理局がこの星を執行地に選んだ理由は、公文書によれば「周辺次元への影響を最小化するため」。距離が意味を持つのは爆発だけだ、という反論を、リョウは胸の内ポケットに畳んだまま、移送艇を降りた。
仮設封印処理場は、岩盤を均した台地の上に組まれていた。
三重の同心円に配置された封印術式の階梯。中心の、小さな拘束台。周囲に管制ユニットと観測班の仮設区画。頭上の鉄色の空には、本局第一線艦隊の艦影が四つ、静かに浮かんでいる。旗艦には、あの老提督が乗っていた。
ゼルベロスの人員が執行地への同行を許されたのは、医療班の具申によるものだった。覚醒維持で消耗した保護対象は、見知らぬ人員の管理下では精神的均衡を維持できない——処置の安定のため、慣れた顔を。様式に則った、正しい具申だった。正しかったので、通った。
同行者、四名。観測補助クルス・リョウ。医療担当一名。そして周辺警戒として、ヴァレル1、ヴァレル2。
二人の砲身は、処理場から一・二キロの外周線に配置された。中心には近づけない。理由は誰も口にしなかったが、書類の行間には書いてあった。情の射程距離の外へ、というのが、本局の人事だった。
管制区画の掲示に、執行時程が映し出されていた。
『作戦開始:現地時間〇三〇七』
『第一階梯接触:同〇三一一』
リョウは、その数字を三度読んだ。
(……手順書ってのは、時刻欄まで、写すのかよ)
準拠、とはそういう意味だった。五年前の作戦計画の、段取りも、間隔も、開始時刻の欄までも、書式ごと複写して、出力だけを三倍にする。世界で一番呪われた四分間が、今夜、同じ時刻に再演される。
端末の隅では、あの夜から残ったままの小さな残余トークンが、今も静かに点っていた。艦長符号の、私的な鍵。機密ファイルと一緒に流れ込んできた、報告すべき異物。リョウは今日も、報告しなかった。
移送艇のタラップで、リンディが待っていた。
「クルス二等陸士」
「はっ」
「あなたの職務は、観測補助です」
リンディの目は、いつも通り穏やかだった。穏やかなまま、三秒、リョウの目を見た。
「——最後まで、よく視なさい」
「……はっ」
敬礼を返しながら、リョウは思った。この人の言葉は、いつも様式に収まっている。収まったまま、行間だけが、規定の外にある。
執行前の最終手順に、「近親者等による面会」という項目はなかった。
代わりに『保護対象の心理的安定化措置』という項目があり、担当はクルス・リョウと記されていた。様式の温度で書かれた、五分間の、お別れだった。
拘束台の上で、少女は静かに座っていた。
目の下の影は、もう化粧のように濃い。四日ぶんの覚醒が小さな体から削り取ったものは、傍目にも分かった。それでも背筋は伸びていて、膝の上には、あの絵本があった。
「とりがー」
「……おう」
「これ。もっててね」
少女は絵本を、両手で差し出した。
「ここ、ほんは、もっちゃだめなんだって。だから——かえってきたら、かえして」
帰ってきたら。
その言葉を口にする時、少女の目は、リョウの目を見なかった。処理場の同心円を見ていた。三重の階梯。収束する術式幾何。彼女の中の、あのシステムの側の目が、それを読み終えるのに、たぶん数秒もかからなかった。
「……とりがー。これ」
声は、囁きより小さかった。
「けんさじゃ、ない」
リョウの喉が、動かなかった。少女はリョウの沈黙を正確に受け取り、それから、膝の上で自分の両手をきゅっと握って、背筋をもう一度、伸ばした。
「だいじょうぶ」
と、少女は言った。
「わたし、じっとしてる。……うごいたら、みんな、あぶないから」
処理される側が、処理する側の安全を、気遣った。
その瞬間に、リョウの中で最後まで揺れていた何かが、音もなく、固まった。危険の理屈は、紙に書いた。証明のない推論も、書いた。だが引き金を引いたのは、理屈ではなかった。拘束台の上で背筋を伸ばす、この、正しすぎる子供だった。
「……絵本、預かった」
リョウは絵本を受け取り、雑嚢に仕舞い、それから少女の頭に、義手ではない方の手を、一度だけ載せた。
「契約だ。——必ず、返す」
T(タイム)マイナス二分。心理的安定化措置、終了。担当者は外周区画まで退避せよ。
管制の声が、鉄色の空に響いた。
〇三〇七。
作戦は、定刻に始まった。
三重の階梯に、順番に灯が入る。第三円、第二円。管制区画の読み上げが、五年前と同じ間隔で、五年前と同じ文言を消化していく。外周一・二キロの線上で、桜色と金色の二つの光が、直立不動で夜を見ていた。旗艦の艦橋で、老提督が夜を見ていた。観測席で、エイミィが波形を見ていた。
リョウは、退避線の内側、最後の管制ユニットの陰で、足を止めていた。
(相棒)
ポケットの中の051改に、声にならない声で問う。
(……付き合うか)
《Ready.》
即答だった。いつも通りの、たった一言の。リョウは口の端で笑い、銀色の右腕の出力制限を、全段、解除した。
第一階梯、起動。接触まで、四分。
リョウは、走った。
退避とは逆へ。同心円の中心へ。警備の認識が「観測補助の経路逸脱」から「敵性行動」へ書き換わるまでの三秒間で、第二円の縁まで達し、そこで右腕を、術式階梯の基部に、突き立てた。
義手の中で、一年ぶんの雷を、全部、燃やした。
過負荷の白い閃光が、階梯の制御系を駆け上がる。封印術式の整った幾何が、内側から、めちゃくちゃに掻き乱された。管制のあらゆる警報が同時に叫び、そして——観測班の計器は、それを、こう読んだ。
『階梯不安定化! 術式暴走の兆候——反応が、五年前の初期波形と一致!』
嘘ではなかった。リョウが流し込んだのは出鱈目な大電流で、掻き乱された術式が上げる悲鳴は、本物の暴走前兆と、区別がつかなかった。区別がつかない悲鳴に対して、手順書は、たった一つの回答を持っていた。
『緊急退避手順、自動接続! 全人員、退避転送準備——』
安全のための様式が、正しく、起動した。
観測席で、エイミィの指が、止まっていた。
彼女のモニターだけが、知っていた。暴走前兆の波形の下に、もう一本、埋まっている波形がある。魔導師の、電気変換資質の、放電紋。波形は、嘘をつかない。
エイミィは三秒、その紋を見た。
それから、異常フラグを至急報の列ではなく、通常報の列の、いちばん後ろに、そっと置いた。
「——輻輳がひどくて。報告、遅れるかもしれません」
誰にともなく、彼女は言った。
拘束台の上で、少女が目を見開いていた。
白い閃光。鳴り響く警報。そして、こちらへ一直線に走ってくる、銀色の右腕の男。
「とりがー——だめ!」
少女は叫んだ。拘束環の中で、初めて、暴れた。
「だめ、だめだよ、わたし、いかなきゃ! じっとしてなきゃ! わたしがいると、みんなが——」
「お前が消えたら、みんなが危ねえんだよ!」
拘束環の駆動部に義手の指をこじ入れ、残った電荷で焼き切りながら、リョウは怒鳴った。理屈の全部を、子供の言葉に組み直して。
「いいか、よく聞け! お前は今、みんなを守ってる真っ最中だ! 寝てる間も、起きてる間も、ずっとだ! お前がそこにいることが、守りなんだ! ——だから死ぬな! お前が死んだら、守りが終わって、五年前が、もう一回来る!」
少女の目が、限界まで見開かれた。
「わたし、が」
「そうだ」
「……まもってる? いま、もう?」
「ああ。世界で一番でかい守りだ。誰も気づいてねえだけで」
拘束環が、砕けた。少女はほんの一瞬、自由になった自分の両手を見て——それから、その両手で、リョウの首に、しがみついた。
抱え上げて、走る。
警備の術士が二人、進路上に展開する。三秒。生体反応、あり。人だ。撃てない。撃てないなら——躱すだけだ。S+の足が、二人の射線と射線の隙間を、紙一枚の厚みで縫った。管制区画の間を抜け、仮設の資材の影を渡り、緊急退避転送の起動陣へ。
転送陣は、手順書どおりに、口を開けて待っていた。退避先座標は、混乱の三十三時間の間に、一件だけ書き換えてある。
チャージ、三秒。
その三秒の間に、外周一・二キロの線上から、桜色の照準が、リョウを捉えた。
距離、射角、偏差。完璧な射線だった。この星でただ一人、転送完了前にリョウを止められる位置に、その砲身は立っていた。夜間照準の向こうで、桜色の光が、収束を始め——
——始めたまま、時間だけが、過ぎた。
転送光が、二人を包んだ。
白に呑まれる最後の〇・五秒、リョウの目は、一・二キロ先の光点を見ていた。撃たれなかった。なぜ撃たれなかったのかを考える資格が自分にないことだけを、正確に理解しながら、リョウは、消えた。
処理場の時計は、〇三一〇:四七で、意味を失った。
第一階梯、接触まで——残り一三秒だった。
旗艦の艦橋は、静かだった。
老提督は、凍りついた執行時程の表示と、空になった拘束台の映像を、長いこと見ていた。
「……砲撃は」
「不可能です、提督。転送痕を撃てば、座標ごと核体を破壊する恐れが——それは、その」
「処理の、統制外執行になる。分かっている」
撃てない。追って、無傷で、取り返すしかない。盗人は、盗んだ品の性質そのものを、盾にしていた。
「賊の名は」
「クルス・リョウ二等陸士。ゼルベロス所属。……先日、処理への異議申立書を提出しています。分類は」
「『参考』——だったな」
老提督は目を閉じ、三秒、開けた。
「全艦隊、追跡態勢。核体は無傷で回収。賊の身柄は——生死を問わず、とは、書くな。……まだ、書くな」
外周線では、なのはが、まだ同じ姿勢で立っていた。
照準を下ろした右手を、顔の高さに上げて、自分の掌を見ている。撃てたはずだった。射線は通っていた。収束も、間に合っていた。間に合っていたはず、だった。
管制記録は、後にこう記す。
『外周警戒ヴァレル1:射線交差時間、一・四秒。射撃、なし』
一・四秒。
なのはは掌を握り込み、開き、もう一度、握り込んだ。何度やっても、答えは掌の中になかった。
半歩後ろで、フェイトが、自分の到達記録を淡々と報告していた。
「……私の迎撃到達は、転送完了に対し〇・八秒、遅延しました。原因は——検証します。私自身を、検証します」
二人の砲身は、鉄色の夜空の下で、それぞれの数字と、二人きりで立っていた。
退避先は、名前もない星の、乾いた谷底だった。
三十三時間の間に一度だけ触れた無人観測所の廃墟。備蓄は水と糧食と医療品が少し。転送の光が消えると、あとは風の音しかなかった。
リョウは装備を降ろし、右腕を確かめた。
応答、なし。指一本、動かない。過負荷で焼き切れた銀色の腕は、ただの重い彫刻になって、肩からぶら下がっていた。リョウは左手だけで三角巾を結び、死んだ右腕を吊った。
腕の中では、少女が眠っていた。
転送の白が消える前に、もう落ちていた。四日ぶんの覚醒の借金が、安全と判断した瞬間に、一括で取り立てに来たのだ。規則正しい、深い、深い寝息。
リョウは廃墟の壁にもたれ、その寝息を聞きながら、夜空を見上げた。
(……眠ってる)
眠れば、蒐集が動く。今夜、どこかの世界で、誰かの頁が抜かれるかもしれない。それを止めるための覚醒維持を、俺はたった今、ぶち壊してきた。この寝息の一つ一つに、値札が付いている。
(だから——急ぐぞ。分離までの時間が、そのまま、被害の数だ)
雑嚢から、紙の帳面と鉛筆を出す。焼かなかった推論の紙の、次の頁。書くべき最初の行は、決まっていた。
膝の上の絵本を、落ちないように抱え直してやってから、リョウは書いた。
『逃避行——一日目』