魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
目覚めは、風の音と一緒に来た。
名もない星の、乾いた谷底の廃墟。リョウは壁にもたれたまま浅い眠りを三十分刻みで四回繰り返し、五回目をやめて、装備の点検を始めた。水、五日分。糧食、七日分。医療品、少し。通信手段、受信専用の民生受信機が一つ。そして——右腕、一本。
三角巾の中の銀色は、今日も彫刻のままだった。指一本、ぴくりとも動かない。過負荷で焼き切れた駆動系は、専門の工廠で二週間、というのが相場の損傷だった。
「とりがー」
振り向くと、少女が起きていた。十四時間ぶりに開いた赤い目が、まっすぐに三角巾を見ていた。
「うで、こわれてる」
「……ああ。ちょっとな。平気だ、利き手じゃねえ」
「なおすね」
会話の速度ではなかった。少女は毛布から出て、歩いてきて、三角巾の中の銀色の手首に、小さな両手で、触れた。
直った。
過程というものが、ほとんどなかった。触れられた箇所から、焼け焦げた駆動糸が墨流しのようにするすると編み直され、断線が繋がり、歪んだ関節が正しい角度を思い出していく。工具も、部品も、詠唱もなし。壊れている、という記述を、消しゴムで撫でて、壊れていない、と書き直しただけ——そうとしか、見えなかった。
所要、四秒。
「……復元、完了」
少女はそう言って、少し首を傾げた。自分の口から出た言葉に、自分で戸惑う顔だった。復元、という単語を、この子に教えた者は、この宇宙のどこにもいない。
リョウは、右手を握って、開いた。
動く。完璧に動く。完璧すぎるほどに。焼き切れる前より応答が速く、駆動音が静かで、まるで機械ではなく——手だった。生まれつきの、自分の手のように、意図と動作の間に、継ぎ目がなかった。
そして、手首の接合部に。
髪一本ぶんの、黒い線が、走っていた。
銀の装甲の隙間に、墨を一滴落として布で拭ったような、細い、細い黒。リョウは三秒それを見て、袖を下ろした。
「……サンキュな」
「ん」
少女は頷いて、それから朝の糧食の包みを、覚えたての手つきで開け始めた。その手つきは昨日より少しだけ滑らかで、包みを開けながら口にした「配分、のこり六日ぶん、だから、けさは半分こ」という文は、昨日より少しだけ、長かった。
リョウは帳面を開き、新しい頁に、二行の欄を作った。
『黒——手首、髪一本』
『口調——「復元」「配分」』
二つの目盛りを、同じ頁に。理由はまだ書かない。書かないが、勘は言っていた。この二つは、たぶん、同じ一つの何かの、目盛りだ。
同じ頃、ゼルベロスは、猟犬の首輪を着けられていた。
『脱走犯クルス・リョウの捜索において、ゼルベロスおよびゼロイチ残存人員は捜索部隊の先導任務に就くものとする。監督官として本局査察官二名を派遣する』
泥棒を出した家に、捜索の先頭を歩かせる。合理的で、屈辱的な人事だった。リンディは通達を一度読み、「受領しました」とだけ返した。
査問は、初日に行われた。
「射線交差、一・四秒。射撃、実施なし。——理由を聞かせてください、ヴァレル1」
査察官の声は、事務的だった。なのはは、正面を見たまま答えた。
「収束完了の判定に、時間を要しました」
「あなたの過去三百件の射撃記録では、同条件の収束平均は〇・七秒です」
「……はい」
「もう一度聞きます。理由は」
「不明です」
なのはは、まばたきもせずに言った。
「不明です。ですから——次は、交差させません」
査察官が何かを書き込む音だけが、しばらく続いた。退出間際、なのはは付け加えた。志願します、と。追跡部隊の先鋒に。書類は、その日のうちに受理された。
少女の部屋は、封鎖こそされなかったが、誰も入らない部屋になっていた。
その扉を、なのはは三日ぶりに開けた。覚えたての畳み方で畳まれた毛布。揃えられた机。左右の逆さまが直る前に書かれた、扉の名札。部屋は、出て行った朝のまま、几帳面に止まっていた。
なのはは毛布を手に取り、畳み直した。皺一つなかった毛布を、もっと皺のない形に。それしか、することがなかった。
「……なのは」
戸口に、フェイトが立っていた。手には、印刷された資料の束。
「リョウさんには——理由が、あるはずです」
「理由なら、あるでしょうね」
なのはの声は、静かだった。毛布の角を、指先が、必要以上の正確さで揃えていく。
「私に言えない理由が。……いつも、そう。疑ってた時も、言わなかった。調べてた時も、言わなかった。決めた時も、言わなかった。守るためなんでしょ? 巻き込まないためなんでしょ? 分かってる。分かってるから——」
毛布が、寝台の上に、置かれた。音もなく、完璧な形で。
「——余計に、許せないんだよ」
置いて行かれた、とは、なのはは言わなかった。言えば、それは弱音になる。弱音は、一・四秒の記録を持つ人間には、許されていない。代わりに、なのはは戸口のフェイトを振り向いて、いつも通りに笑った。燃費の悪い、あの笑い方で。
「次に会ったら、私、ちゃんと任務ができると思う」
「なのは——」
「見つけるのは、私でありたいの」
笑ったまま、なのはは言った。
「他の誰かに、撃たせたくないから」
その言い方が、守る側の文なのか、執行する側の文なのか。フェイトには、最後まで判別がつかなかった。
一人になった部屋で、フェイトは持ってきた資料を、もう一度めくった。
処理場の記録。作戦開始〇三〇七。強奪、〇三一〇:四七。第一階梯接触まで残り一三秒——リョウさんは、接触の前に止めた。誰も撃たず、誰も傷つけず、警備の術士二人の射線の間を、紙一枚で抜けて。暴走と区別のつかない悲鳴を上げさせたのは術式だけで、人間には、掠り傷一つ、負わせていない。
(……これは、壊す人の逃げ方じゃない)
資料の最後に、フェイトが一枚、綴じ直したものがあった。添付資料十二。『返したいのに、手が、離さない』。
(守る人の、逃げ方です)
そして、と、フェイトは自分の胸の内でだけ、続けた。私の到達は〇・八秒遅れた。検証は終わっていない。終わっていないが——検証項目の最後の一行を、私はまだ、直視できていない。
(私は……間に合いたく、なかったのかもしれない)
その行は、報告書には書かなかった。
無認可の中継港は、廃棄採掘場の腹の中にあった。
登録のない船が寄り、登録のない荷が流れ、登録のない人間が飯を食う場所。リョウが少女の手を引いて酒場の戸を潜った瞬間、店内の音という音が、三秒で死んだ。
最初に動いたのは、頬に古傷のある中年の元締めだった。彼はリョウの顔と、翡翠色の識別章の跡と、袖口から覗く銀色の指を順番に見て、飲みかけの杯を、静かに置いた。
「……回避の。あんた、表の稼業は辞めたのか」
「休職中だ。船を探してる。次の便に、大人一人と子供一人」
「あんたを乗せると知って喜ぶ船頭は、この港にゃいねえよ」
「だろうな。喜ばなくていい。黙ってりゃいい」
元締めは唸り、懐から一枚の印刷物を出して、卓に広げた。本局の公報だった。リョウの顔写真。誘拐犯。危険人物。同行する少女は保護対象を装った危険個体であり——賞金の欄には、元締めの月商の三年分が刷ってあった。
「今朝、届いた。港中に貼れとさ」
「……で?」
「うちは、字の読めねえ奴が多くてな」
元締めは公報を二つに畳み、ランプの火に、突っ込んだ。
「三年前、第51で、あんたはうちの若いのを撃たなかった。撃てる場面で、三秒待って、撃たなかった。若いのは今、堅気で飯を食ってる。……この港の帳簿にゃ、その借りがまだ載ってんだ。今日で、落とすぞ」
「ああ。それでいい」
便は明朝、と決まった。隅の卓で待つ間、少女は酒場の壁の受信機から流れる公共放送を、じっと聞いていた。リョウも、聞いていた。聞きたくない一報は、定時の頭で流れた。
『——管理局は本日、第29管理世界で発生した傷害事案の被害者一名を確認したと発表しました。逃亡中の危険個体による被害は、これで十九人目——』
十九人目。
昨夜、あの十四時間の眠りの間に、どこかで、誰かの頁が抜かれた。分かっていたことだった。分かっていて、値札の数字を実際に聞くのは、別のことだった。
リョウは横目で、少女を見た。
少女は、放送の続きをまっすぐに聞いていた。とうぼうちゅう、のきけんこたい、による、ひがい。覚えた言葉が、一つずつ、意味の場所に嵌まっていく。嵌まり終わった顔が、ゆっくりと、リョウを見上げた。
「……とりがー」
「飯、食っちまえ。船は朝早い」
「わたしが、ねると」
「食えって」
「わたしがねると、だれかが、いたいの?」
卓の下で、小さな両手が、固く握られていた。リョウは匙を置いた。嘘の在庫を頭の中で全部ひっくり返して、使える嘘が一枚もないことを、確認した。この子は、もう、そういう子ではなかった。
出港は、夜明け前だった。
貨物船の船倉の隅、毛布にくるまって、少女は壁に背を付けて座っていた。目の下の影は、また濃くなり始めている。
「ねない」
と、少女は言った。
「わたし、ねない。ねなければ、だれも、いたくない」
「……そりゃ、管理局と同じやり方だぞ」
「でも」
「でもじゃねえ。いいか、一回だけ言うから、よく聞け」
リョウは船倉の床に、少女と同じ高さで、あぐらをかいた。
「お前の中には、お前じゃないものが、一つ入ってる。古くて、でかくて、悪い手癖のついた——同居人だ。夜中に勝手に出歩いて、人の大事なもんを持ってきちまう、質の悪い同居人。……夢ん中で、返したいのに手が離せないって泣いてたのは、お前だ。持ってきてるのは、そいつだ。お前と、そいつは、別なんだよ」
「べつ」
「別だ。だから、俺たちのやることは一つ。そいつの手を、お前から引っ剥がす。方法を探しに行く。この逃避行は、逃げてんじゃねえ——探しに行ってんだ」
少女の赤い目が、揺れた。
「……わたし、わたしで、いい?」
「おう。ヤガミ・ハヤテでいい。名札も書いただろうが」
少女は、しばらく黙った。黙って、それから、握っていた両手をほどいて、小さな拳を一つ、差し出した。
「けいやく、して」
「……内容を言え」
「わたし、ねる。ねてるあいだのぶん、とりがーが、おぼえてて。おきたら、いっしょに、てを、はなしにいく」
「——契約成立だ」
こつん、と。銀色の拳と、小さな拳が、船倉の薄闇の中で、一つ鳴った。
少女が眠りに落ちたあと、リョウは雑嚢の底の受信端末が、一度だけ短く点滅したことに気づいた。
例の、報告しなかった残余トークン。艦長符号の、私的な鍵。着信は無言のデータが一件——明日の捜索網の、哨戒区割と、時間割。署名も、文面も、何もない。ただの、事務的な、一枚の表。
リョウはそれを三度読み、消去し、受信機の側では今夜も何も送らなかった。送らない、ということだけを、送った。
帳面を開く。鉛筆を舐める。
『二日目。黒——手首、髪一本。口調——二語、増』
その下に、一行。
『貸し主は二人になった。返す当てのねえ借りが、今日も増えていく』
船は、夜明けの次元航路に、静かに滑り出した。