魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
それは、誰の予測よりも早く、動いた。
霊峰の神殿。確保部隊の包囲の中で、『終末の牙』は、突然、明滅を止めた。止めて——実空間から、消えた。
封鎖結界は、意味をなさなかった。物理隔壁も、意味をなさなかった。牙は虚数位相へと身を沈め、あらゆる壁を「存在しない場所」からすり抜けて——そして、再び実空間に浮かび上がった。
本局への護送を待つ、拘束艇の独房の、その中に。
拘束具に縛られた男の、目の前に。
「…………ああ」
ロキは、潰れた鼻のまま、泣き笑いのような声を漏らした。
「ああ、ああ……来て、くれたのか。私を——選んで、くれるのか」
黒い牙は、答えるように一度だけ強く明滅し——男の胸へと、沈み込んだ。
拘束艇が内側から裂けたのは、その三秒後だった。
『——緊急!! 全艦、全部隊へ!! 拘束艇ロスト!! 反応が——巨大化していきます!!』
油色の空の下、それは、立ち上がった。
全高、百メートルを超える、狼とも竜ともつかない輪郭。だがその体を成しているのは、肉でも機械でもなかった。「何もない」だった。四年前、地球の空の亀裂から覗いた、あの、色という概念を受け付けない虚無が、獣の形を取って、二本の脚で世界の上に立っていた。
輪郭の内側では、現実が、ほどけていた。触れた大地が虚数に呑まれ、踏んだ荒野が「そこに荒野があった」という事実ごと消えていく。歩く、ファースト・ショック。
『分析班より全局……! 対象は牙と融合、虚数位相と実位相の狭間に存在しています! 実体弾も魔力砲も、位相がずれて素通りします! 有効打を与えられる兵装は——』
グレアの声が、一度、途切れた。
『——理論上、一つだけ。時空そのものを歪曲させる、因果消滅級の……戦略魔導兵装だけです』
ゼルベロス艦橋で、全員の目が、無言のうちに、一つの場所を向いた。
艦首に眠る、三門の主砲を。
『だ、だが対象は位相の狭間にいるんだぞ! 座標が定まらない相手に、どうやって照準を——』
『——誰かが、実空間に引きずり出して、押さえつけるしか、ありません』
その、誰か。
虚数位相に触れられる者。四年間、虚数の海に漬かり、その位相に体ごと適応してしまった者——この宇宙に、たった一人。
艦橋の空気が、凍った。誰もが答えを知っていて、誰もが、口にできなかった。彼女は昨日、四年ぶりに帰ってきたばかりなのだ。ボロボロの体で、ようやく、眠れたばかりなのだ。
その沈黙を破ったのは——艦橋のハッチが開く音だった。
「…………あの」
包帯だらけの、金色の少女が、点滴の管を自分で抜いた腕のまま、そこに立っていた。壁に手をつき、震える脚で、それでも、まっすぐに。
「話は……医務室の、放送で……聞きました」
フェイト・テスタロッサは、一同を見回し、最後にリンディを見て、深く、頭を下げた。
「まだ……飛べます。私に出来ることは……全部、させてください。……後悔は、したくないから……」
四年ぶりの、彼女自身の意志による、志願だった。
「フェイトちゃん……!」
なのはが駆け寄る。だめ、と言いかけて——言えなかった。言えるはずがなかった。ボロボロの体で、それでも誰かのために飛ぶと言い張る少女を止める言葉を、なのは・T・ハラオウンは、この世界で一番、持っていなかった。
だから、代わりに、両手で、包帯の手を握った。
「……一緒に、帰ること。それが、条件」
「…………うん」
金色の少女は、四年ぶりに、ほんの少しだけ、笑った。
「——冗談じゃねえぞ、おい!!」
医務室では、リョウが暴れていた。正確には、暴れようとして、三人がかりの医療班に、ベッドに沈められていた。
「離せ! 俺も行く! あいつらだけ行かせられるか——痛っ、おい、点滴増やすな!」
「クルス二等陸士。……いい加減になさい」
医務室に入ってきたリンディが、静かに言った。
「右腕は使用不能。左脇腹は貫通創。全身の魔力経路は焼け付き寸前。……あなたが今、戦場で出来ることを言ってみなさい」
「……っ、それは……」
「ないでしょう。——だから、あなたの仕事は、もう終わっているの」
リンディは、ベッドの脇に立ち、暴れる男の目を、まっすぐに見下ろした。
「首輪を切ったのも、あの子の目を覚まさせたのも、なのはに『撃つ』を教えたのも、あなた。今からあの二人がやることは、全部——あなたが五ヶ月かけて組み上げたものの上で、行われるのよ。……引き金は、もう引かれてる。あとは弾が飛んでいくのを、信じて待つのが、引き金の最後の仕事」
「…………クソ」
リョウは、天井を仰いだ。
「……ずるい大人だよ、ほんと、あんたは」
「ええ。母親ですもの」
リンディは、艦橋へ戻る前に、一度だけ振り返った。
「……艦内放送は、繋いでおくわ。最後まで、聞いていなさい」