魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
三日目の朝、密航船は二つ目の中継点で二人を降ろした。
第66管理外世界。かつて港湾都市だったものの、骨だけが残る星。次の船まで、砂と錆の街を六キロ、自分の足で渡る必要があった。
出発前に、リョウは少女の前にしゃがんだ。
「道中の契約を決める。一つ、俺から離れない。二つ、俺が隠れろと言ったら、石になる。三つ——」
リョウは、少女の胸の真ん中を、指で軽く突いた。
「——何があっても、術は使うな。お前の術は、狼煙だ。空に上げりゃ、宇宙中の網が、一斉にこっちを向く」
「……わたしが、たすけられるときでも?」
「そのときでもだ。お前が助けた瞬間に、お前が獲られる。それじゃ帳尻が合わねえ」
少女は長いこと、リョウの目を見た。それから、絵本を抱えた腕に力を込めて、頷いた。
「けいやく」
「契約だ」
拳が二つ、朝の錆の匂いの中で、こつんと鳴った。
同じ朝、追う側の帳面にも、一つの契約が書き込まれていた。
『ヴァレル1、独自哨戒案を提出。捜索網第七区外縁——非重点区域の単独先行を志願』
査察官は書類を眺めて、根拠を問うた。なのはの答えは、算式ではなかった。
「リョウさんは、網の濃いところを避けます。網の薄いところも、避けます。薄すぎる場所は、罠を疑うからです。あの人が選ぶのは——濃くも薄くもない、書類の上でいちばん退屈な区域です」
「……予測の根拠は」
「五ヶ月と一年、隣で戦闘詳報を書いてました」
志願は、受理された。退屈な区域の一覧の三番目に、骨だけの港湾都市の名前があった。
網は、正午に閉じた。
最初の兆候は、風だった。砂混じりの風の中に、一瞬、オゾンに似た匂い。リョウは足を止め、次の瞬間、少女を抱えて崩れたアーケードの陰に跳び込んでいた。
三秒後、二人が立っていた交差点に、金色の光帯が、格子状に突き立った。
『——本部へ。ヴァレル2、目標を確認。交戦記録、収録中』
鈴を転がすような声が、砂の空に響いた。頭上、廃ビルの稜線に金色。その対角、給水塔の残骸の上に——桜色。
挟まれていた。
リョウは少女を廃店舗の奥、崩れたカウンターの陰に押し込んだ。
「石になれ。契約だ」
「……けいやく」
絵本を抱えた小さな体が、影の中で丸くなる。リョウは深呼吸を一つして、日射しの下へ、一人で歩き出た。
交差点の真ん中で、三人は向かい合った。
一年間、同じ食卓で唐揚げを分け合った三人だった。
「クルス二等陸士」
なのはの声は、教本の温度だった。収録中の回線に載せるための、完璧な、手続きの声。
「本局の勧告を伝えます。武装を解除し、保護対象を引き渡してください。……その上で」
声が、初めて、手続きから半歩はみ出した。
「——話を、させてください」
リョウは、二人の顔を順番に見た。金色の目は、静かにこちらの答えを待っていた。桜色の後ろの目は、待っている、というより、祈っていた。
説明したいことなら、胸のポケット一枚ぶん、あった。安全ピンの理屈。〇三一一の真実。同居人と、手錠と、分離の当て。だが説明は、証明とセットでなければ通貨にならない。証明はまだ、どこにもない。そして何より——ここで彼女たちが俺の話に頷けば、頷いた記録が残る。収録中の回線に。査問の卓の上に。
俺の言葉は、今この瞬間、この二人にとって毒だ。
だからリョウは、一年ぶんの食卓を胸の奥に畳んで、いちばん硬い声で、言った。
「——話す事は、何もねえ」
「あなたはっ……!!」
破裂した声は、文にならなかった。
ならないまま、桜色が咲いた。
最初の一撃は、警告ですらなかった。リョウの半歩右——回避の初動を潰す位置への、教本にない先読み射。リョウは読まれた初動を空中で捨て、二挙動目で瓦礫の陰に滑り込んだ。着弾の爆風が背中を叩く。
(——速え!)
『ヴァレル2、右翼封鎖! 追い込みます!』
『——はい!』
金色の光帯が、逃走経路の候補を一本ずつ、几帳面に塗り潰していく。教本通りの、美しい封鎖網。リョウは走りながら、その美しさの中の音符を読んだ。フェイトの機動は正確で、正確すぎた。自分の勘を信じていない飛び方だった。勘を封じた機動は、三手先まで読める。
そして、なのは。
「いつも、そう!」
射撃と一緒に、文の破片が飛んでくる。
「疑ってた時も、言わなかった!」
二連。瓦礫が爆ぜる。
「調べてた時も! 決めた時も!」
三連。速い。速いが——荒い。撃つ前に左の踵が浮く癖はそのままで、なのに撃発が半拍、早い。一・四秒を潰しに来ている撃ち方だった。記録を、自分の迷いを、撃つたびに上書きしようとする撃ち方。
「今度も——今度もっ!!」
弾幕の十字の中を、リョウは泳いだ。
拒んだ会話の続きが、火線になって降ってくる。銃撃戦の形をした、これは口論だった。答える言葉を持たないリョウは、回避で応じるしかなかった。一発躱すたびに、一年ぶんの何かが、確実に燃えて減っていった。
網は、しかし、完璧ではなかった。
二人の連携は、教本より速く、以前より硬い。硬いのに——時折、拍子が割れる。なのはが撃ち、フェイトが塞ぎ、その二つの手の間に、半瞬だけ、誰も撃たない空白が生まれる。
誰かがクリアを出すはずの、間。
誰かが「薙げ」と言うはずの、間。
一年かけて練り上げた三人の手順の、三人目の席が、二人の連携の中に、空いたまま残っていた。
(……悪ぃな)
リョウは、その空白へ走り込んだ。
自分の指定席を、通路にして。
二人の射線と光帯が同時に振り向き、同時に半瞬遅れる。抜けた。廃店舗へ。カウンターの陰から丸い影を抱え上げ、裏の搬入路へ。砂塵の盆地まで、あと四百。あそこまで入れば、砂鉄まじりの塵が、あらゆる索敵の目を殺す。
義手が、勝手に動いた。
頭上から降ってきた瓦礫——フェイトの光帯が薙いだビルの外壁——を、リョウの意図より〇・二秒早く、銀色の右手が掴んで逸らしていた。指の駆動が、注文した覚えのない強さで軋む。掌の奥が、他人の手を握ったときのように、温かかった。
(——今のは、俺じゃねえ)
考えるのは後だ。走る。三百。二百。砂塵の壁が、視界の先で黄色く煙っている。背後の射撃音の間隔が開いていく。追いつけない、と数字が告げる距離まで、あと——
射撃音が、止んだ。
止んだことの意味を、リョウの背筋が先に理解した。
振り向かずに分かった。給水塔の上で、桜色が、止まっている。撃ち急ぎの連射をやめて、息を整えて、収束を始めている。踵はもう浮いていない。呼吸が、三つ。
一つ。視ている。
二つ。まだ、視ている。
(——三秒、視てから撃て)
俺が、教えた。
三つ目の呼吸の終わりに、世界から音が消えて、桜色の光条が、砂塵の盆地の入り口で、リョウの背中を正確に捉えた。
躱せない、とS+の全部が言った。抱えた少女を庇う姿勢のまま、リョウは半身を捻り、咄嗟に——右腕を、突き出していた。腕一本で受けて、腕一本で済ませるつもりだった。
着弾は、しなかった。
桜色の光条は、銀色の掌に触れた瞬間、渦を巻いた。
巻いて、細く絞られ、義手の指の間へ、手首へ、吸い込まれていった。爆風も、閃光も、衝撃もなく。ただ、誰かが長い息を呑み込むような、静かな音だけを残して——なのはの全霊の一撃は、リョウの右腕の中に、消えた。
沈黙が、砂の街に落ちた。
給水塔の上で、なのはが、目を見開いたまま止まっていた。あの一撃を、あの吸い込まれ方を、彼女は知っていた。一ヶ月前の夜、星の綺麗な世界で、自分の精密射三連を丸呑みにした、あの——
「その、腕……」
リョウも、自分の右腕を見ていた。
手首の継ぎ目の、髪一本だった黒が——蠢いていた。墨が水に広がるように、装甲の隙間を這い、伸び、繋がり、そして着弾を受け止めた掌の付け根で、ぐるりと。
手首を、一周した。
細い、黒い、輪になった。
枷の形をしていた。
(……あ)
腕の奥が、温かい。満腹の、温かさだった。
(ハヤテの、何かが)
砂塵の壁は、目の前だった。リョウは動かない思考を蹴り飛ばし、少女を抱え直して、黄色い塵の中へ身を投げた。索敵の死んだ砂の海が、二つの体を呑み込んで、隠した。
(——俺すら、呑み込もうとしている)
砂塵の外で、二つの光が、盆地の縁に降り立った。
センサーは全滅。視程は五メートル。追跡は、ここで終わりだった。なのはは自分の右手を——たった今、全霊の一撃を放った右手を——見下ろして、それから、一撃が消えた場所の空白を、長いこと見ていた。
「……ヴァレル1。報告を、まとめます」
フェイトが、静かに言った。端末に打ち込む指は、いつも通り正確だった。
『被疑者は右腕義肢に、吸収性の防御装備を確認。詳細は不明』
防御装備。
あれが装備でないことを、二人とも知っていた。あの吸い込まれ方と署名を、二人とも、報告書の別の頁で読んでいた。フェイトの指は、それでも「装備」と打ち、なのはは、それを訂正しなかった。訂正しない、という三秒が、収録の切れた回線の上を、静かに流れた。
「……フェイト」
「はい」
「さっきの網、私たち——穴、空いてたよね」
「はい。……リョウさんの、定位置に」
なのはは、砂塵の壁を見た。黄色い煙の向こうの、もう追えない背中を。
「次は」
声は、静かだった。静かなまま、温度だけが、抜けていった。
「——塞いで、いくから」
砂塵の底で、リョウは少女を降ろし、黒い輪の巻きついた右腕を、砂の上に投げ出していた。
「とりがー。……うで、へん?」
「平気だ。……平気、だが」
帳面を出す。鉛筆を握る。指は、震えを三秒で殺した。
『三日目。黒——手首、一周。「輪」の形』
『腕が、桜色を喰った。満腹の温度。俺の意図の外で、二度』
書いて、リョウは眠たげな赤い目を見て、書かなかった一行を、胸の中だけで書き足した。
(急げ。……手錠が増える前に)