魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
残り時限——という数字は、もう意味を失っていた。怪物と化したロキは退避都市の方角へ、一歩ごとに世界を消しながら、歩いている。猶予は時間ではなく、距離だった。
油色の空を、二つの光が並んで翔けた。
桜色と、金色。
「フェイトちゃん、無理はしないで! 引き込むだけでいいから!」
「……うん。なのはちゃんこそ……無茶、しないで」
整備班が徹夜で叩き直したレギンレイヴ——刃も砲も死んだ、飛行補助だけの骨組み——を背に、フェイトは怪物の前面へ躍り出た。そして、ためらいなく、その輪郭の「何もない」の中へ、腕を、突き入れた。
四年間、彼女を漬け込んだ海の位相。世界中の誰もが触れられないその虚無に、彼女の腕だけは——確かに、届いた。
「——雷よ!!」
金色の縛鎖が、彼女自身の変換資質が生む雷が、虚数位相の内側で、怪物の芯に喰らいついた。
『ォ————』
初めて、怪物が、声のようなものを上げた。虚無の輪郭が波打ち、ほどけかけた現実が、雷の鎖に引かれて、軋む。
「引き込みます……!! なのはちゃん——!!」
フェイトが、全身全霊で、鎖を引いた。虚数の狭間から、巨大な虚無の獣が、ずるり、と——実空間の側へ、引きずり出される。
その鼻先に、桜色の砲口が、待っていた。
「動かないで、ロキさん」
なのはは、静かに告げて、引き金を引いた。
「——ここが、あなたの座標です」
収束砲——貫通ではなく、圧殺の設定。夜明け色の奔流が、面となって怪物の巨躯を押し包み、実空間の座標に、万力のように押さえつけた。無尽蔵の魔力が、惜しみなく、圧力に変わり続ける。胸の奥の扉は全開だった。構わなかった。これは、撃つ価値のある一発。世界一つ分の、価値のある。
『——目標、実位相に固定!! 座標、取れます!! 取れてます!!』
グレアの絶叫に、艦橋のリンディが、立ち上がった。
「本局へ最終照会。——第一種戦略魔導兵装、使用の承認を」
返答は、三秒で来た。あの老提督の、短い、掠れた声で。
『……承認する。——撃ち抜け、ゼルベロス』
『——第一種戦略魔導兵装、使用承認』
艦内の全区画に、放送が響き渡った。
『艦内全区画に告ぐ。これより本艦は、主砲発射態勢へ移行する。総員、対時空衝撃姿勢。非戦闘区画を完全閉鎖』
医務室のベッドの上で、リョウは、目を閉じて、その声を聞いていた。
『これより発射される砲撃は、通常の破壊兵器ではない。着弾地点を中心として、空間座標を強制歪曲。領域内部に存在する物質、魔力、および因果的連続性に対し、段階的反応消滅を発生させる。——対象領域の生存性は、保証されない。地形の維持は、保証されない。対象領域が、発射以前と同一の時空へ帰属し続けることも、保証されない』
『——主砲管制、起動』
『第一魔導砲《ウル》、封印解除。空間圧縮術式、展開』
『第二魔導砲《ヴェル》、封印解除。因果遮断術式、展開』
『第三魔導砲《ネグ》、封印解除。時間位相固定術式、展開』
艦首で、四年間眠り続けた三つの砲門が、順番に、目を覚ましていく。
『三門連結——主砲機関、《三位時空環》へ移行。……警告。艦首前方に、未定義空間を形成。射線上から、全友軍を退避させよ。射線上に残留した存在は、敵味方を問わず、消滅対象と認定する』
『目標座標——入力。空間軸、固定。時間軸、固定。因果軸、固定』
荒野の上空では、桜色の圧殺光と金色の縛鎖が、暴れ狂う虚無の獣を、なおも座標に縫い止め続けていた。二人の少女の体は、とうに限界を超えていた。それでも、鎖は緩まず、砲圧は途切れなかった。
『発射承認符号、照合。——第一承認、艦長。第二承認、魔導統制官。第三承認、時空監察官。……三者承認、成立。戦略魔導兵装、使用制限を解除』
『警告。発射後、本艦周辺に最大十八秒間の時間欠落が発生する可能性あり。記憶の断絶、身体時間の不一致が発生しても——持ち場を、離れるな』
『主機出力、主砲へ全量転送。推進、停止。兵装、停止』
『——主砲発射まで、十秒』
『十。三砲門、完全連結』
『九。消滅反応、封入完了』
『八。空間歪曲領域、目標座標へ接続』
『七』
『六。——ヴァレル、テスタロッサ両名へ!! 離脱!! 今すぐ離脱!!』
縛鎖と砲圧が、同時に、解かれた。金色がなのはの腕を掴み、最後の全速で、二つの光は消滅予定領域の外縁へと、翔けた。背後で、拘束を解かれた虚無の獣が、咆哮とともに、追いすがろうと——
『五。全隔壁、閉鎖確認』
『四。発射術式、最終段階』
『三。時空環、完全同期』
『二。砲門封印——消失』
医務室のベッドの上で。
クルス・リョウは、目を閉じたまま、口の端で笑って——誰にも聞こえない小ささで、呟いた。
「————クリア(やっちまえ)」
『一』
『——全乗員、衝撃に備えよ。艦長命令——』
リンディ・ハラオウンの声が、静かに、告げた。
『三連結時空歪曲反応消滅砲、《トライ・アルカンシェル》——』
『発射(ファイア)!!』
世界から、音と色が、消えた。
三つの砲門から放たれた光は、光ですらなかった。それは「そこにあったもの」を「最初からなかったこと」へ書き換えていく、巨大な消しゴムの一撫でだった。三重螺旋の虹色が、油色の空を貫き、逃げ遅れた虚無の獣を——牙ごと、正面から、呑み込んだ。
光の中で、一瞬。
ほんの一瞬だけ、獣の輪郭の中に、人の形が、透けた。
凡庸な、疲れた、中年男の形が。その口が、最後に何かを——「私が消えても、絶望は、何度でも」と紡いだのか、それとも、まったく別の、もっと静かな何かを呟いたのか——それを聞き届けた者は、誰もいなかった。
消滅領域が、閉じた。
怪物は、いなかった。牙は、いなかった。荒野の一角が、綺麗な半球状に「存在しなかったこと」になり、その縁で、傷ついた時空が、ゆっくりと、瘡蓋のように癒着を始めていた。
——そして、艦の記録によれば、そこから十八秒間。
ゼルベロスの乗員全員の記憶と時間は、一様に、欠落している。
誰もが気づいた時には、砲撃は終わっていて、計器は沈黙していて、そして観測員の一人が、涙声で、報告を上げていた。
『敵性反応——消滅。……消滅です! 虚数侵食、停止! 龍脈、安定域へ……!!』
『——第68管理外世界の、時限を解除します』
オペレーターの、その一言が、全てだった。
残り時限、という数字は、もう、どこにも表示されていなかった。
消滅領域の外縁、癒着していく時空の際(きわ)に、二つの光が、寄り添うように浮かんでいた。
ボロボロの桜色と、ボロボロの金色。
「…………終わった、の、かな」
「……うん。……終わった、と、思う」
二人は、顔を見合わせた。すすだらけで、包帯だらけで、目の下に隈を作った、ひどい顔が二つ。どちらからともなく、ふ、と息が漏れて——それは四年ぶりに、二人同時の、笑い声になった。
油色だった空の裂け目から、この世界の朝陽が、差し込み始めていた。
ゼルベロスの医務室では、隻腕の男が、艦内放送の歓声を聞きながら、枕に頭を沈めていた。
「……ほらな」
誰にともなく、呟く。弾帯の一番深い位置で、罅の入った結晶が、律儀に鳴いた。
《Ready.》
「……ばーか。もう終わったよ。……お疲れさん、相棒」
クルス・リョウは、笑って、今度こそ、泥のように眠った。
もうちょっとだけ続くんじゃ。