魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
戦いが終わって、七日が過ぎた。
第68管理外世界の空から、油の色は、少しずつ抜け始めていた。
霊峰の麓——直径三百キロの、綺麗な半球状に「存在しなかったこと」になった領域では、傷ついた時空の癒着が続いている。分析班の見立てでは、完全な安定まで数十年。それでも龍脈は生きていて、虚数の侵食は二度と起こらず、そして何より——この世界の八百万人は、一人残らず、まだこの世界の上で息をしていた。
南へ逃げた百二十万の退避行は、今、北へ帰る百二十万の帰還行になっていた。
フェンリルは、崩壊した。牙を失い、頭を失った残党は散り散りになり、各世界の管理局に次々と検挙されている。もっとも、とリョウは思う。リバーサーズという麻疹そのものは、また、いつか、どこかで発症するのだろう。この世界は、そういう世界だ。それでも——今回の麻疹は、治った。それで充分だった。
リンディ・ハラオウンの軍法会議は、開かれなかった。
本局から届いた通達には、こうあった。『記録を精査した結果、貴艦の行動は承認済み"回収作戦"の継続遂行の範囲内と認められる』。役人の作文の見本のような一文の下に、あの老提督の個人符号で、短い追伸が付いていた。
『——公式には、何も言わん。以上だ』
「素直じゃないですねえ、あのジジイも」
「あら。素直じゃないのは、お互い様でしょう」
執務室で、リンディは涼しい顔で砂糖入りの緑茶を啜った。リョウの右腕は再生治療槽での処置を終え、今は固定具の中で、数ヶ月がかりのリハビリの初日を迎えている。
「そういえばクルス二等陸士、今月の戦闘詳報だけれど」
「ああ、それなんですがね。右手がこれなんで、代筆を頼みました。……うちの、もう一人の実働に」
リンディが受け取った報告書には、三行、書かれていた。
『目標を確認。制圧した。以上』
「…………軍記文学ね」
「でしょう。俺は五ヶ月かけてあいつに回避を教えたのに、あいつは五ヶ月経っても俺に文章を教わらねえんですよ」
ヴェルデン市は、埃と、槌音と、人の声で満ちていた。
帰還した住民たちが、街の再建を始めている。その雑踏の中を、リョウは吊った右腕で、なのはは私服姿で、歩いていた。管理局の支援任務の合間の、ほんの数時間の外出だった。
「——あーっ!!」
雑踏の向こうから、すすけた前掛けの小さな影が、脇目も振らずに駆けてきた。
「かかりのひと!! かかりのひとだ!!」
新聞売りの少女だった。その後ろから、日に焼けた大柄な男——父親が、慌てて追いかけてくる。少女はなのはの前で急停止して、頬を紅潮させて、叫んだ。
「せかい、おわらなかったね!!」
「……うん」
なのはは、膝を突いて、視線を合わせた。
「終わらなかった。……終わらせない係、みんなで頑張ったから」
「あのねあのね、あたしもがんばったんだよ! ちゃんとにげて、ちゃんといきてた! にげるかかり、まんてんだった!」
「うん。満点。……世界で一番、大事な係だったよ」
父親が、深々と、言葉もなく頭を下げた。リョウは片手を挙げてそれに応え、少女はリョウの吊った腕を見上げて、心配そうに眉を寄せた。
「おけが、いたい?」
「ん? ああ、これか。平気平気。勲章みたいなもんだ」
別れ際、なのはは少女から、新聞を一部買った。刷りたてのインクの匂いのする一面には、この世界の文字で、新しい見出しが躍っていた。翻訳魔法が、読み上げる。
『空ノ軍勢、去ル——世界ハ、続ク』
なのはは、バリアジャケットの内側から、もう一部の新聞を取り出した。あの日買った、くしゃくしゃの、『世界ノ終ワリカ』の一面。二部を丁寧に重ねて畳み、胸元に仕舞い直す。
「……宝物が、増えました」
「そうかい。……高くついた号外だけどな」
「はい。——世界一、高い号外です」
その夜、リョウは医務室の前の通路で、リンディと並んで、壁にもたれていた。
半開きのハッチの向こう、消灯前の病床に、二つの影がある。ベッドの上の金色と、その傍らの椅子の焦げ茶。二人には、廊下の気配など届いていないようだった。
盗み聞きは悪趣味ですよ、と言いかけて、リョウはやめた。言ったところで、この母親は「規則よ」と笑うに決まっているし——何より、自分の足も、その場を離れようとしていなかった。
『……ねえ、フェイトちゃん。手、見せて』
『……こっちの手は、機械だよ。六割、機械なの。私の体……ほとんど、返してもらえないんだって』
『うん。聞いた』
『この手で、私……この世界を、壊そうとした。天翼兵を指揮して、なのはちゃんとも、リョウさんとも戦って……覚えてるの。全部じゃないけど、ところどころ、ずっと、夢みたいに……。私、どうやって、責任を』
『——責任はね、生きてる人の特権なんだって』
なのはの声は、静かで、揺れなかった。
『死んだ人は、責任を取れない。だから、生きて、これから取るの。……えへへ。私の相棒の、受け売りなんだけどね。私も最初、同じことで叱られたの。すっごく、怖い顔で』
廊下で、リンディがリョウを見た。リョウは天井を見上げて、口笛を吹く真似をした。
『それにね、フェイトちゃん。私、知ってるよ。あなたの体が覚えてたこと。四年間、機械にされても、暗いところに閉じ込められても——あなたの太刀筋は、あなたのままだった。分析班のお墨付きだよ。……あなたは、消えてなかった。ずっと、そこにいた』
『…………』
『あのね。……四年前から、ずっと、言いたかったことが、あるの』
衣擦れの音。椅子から、立ち上がる音。
『ジュエルシードの海の上で、何度も戦って、名前を呼び合って……本当は、あの時から、ずっと。言おう言おうって思ってるうちに、あなたは、いなくなっちゃって。四年間、毎晩、探しながら、練習してた言葉があるの。……今、言っても、いい?』
『……う、ん……』
一拍の、沈黙。
それから、四年分の想いを込めた、まっすぐな声が、言った。
『フェイトちゃん。——私と、トモダチに、なってください』
『……っ……』
『返事は、ゆっくりでいいよ。四年、待ったんだもん。あと何年でも——』
『な、るっ……』
涙で崩れた声が、遮った。
『なる……なりたい……! ずっと、私も……海の上で戦ってた時から、ずっと……! こんな、半分機械の私で、よければ……!』
『——フェイトちゃんが、いいの』
ベッドの上で、機械の右手が、おそるおそる、差し出される。焦げ茶の少女は、その手を、一瞬のためらいもなく、両手で包み込んだ。
『ほら。……あったかい』
『……機械、だよ……?』
『ううん。あったかいよ。——だって、フェイトちゃんの手だもん』
あとはもう、言葉にならない泣き声と、それをあやす小さな笑い声だけが、消灯前の医務室に、いつまでも続いた。
廊下で、リンディが、ハンカチを目元に当てていた。
「……見ましたか、課長殿。うちの砲身、いつの間にか、俺の説教を又貸しできるまでに」
「ええ。……ええ、見たわ」
リョウは、鼻の奥がツンとするのを、天井を睨むことで誤魔化した。誤魔化しきれてないわよ、と母親の目が言っていたが、お互い、それ以上は追及しないことにした。