魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
第68管理外世界は、一年経っても、石炭の匂いがした。
ガス灯の街は、生きていた。荷馬車と蒸気トラックが行き交い、鉄道は新しい支線を二本増やし、市場には冬野菜が積まれ、人々は空を見上げても、もう終わりを探さなかった。八百万人の、続いている日常。
リョウは、外套の襟を立てて、その雑踏を歩いた。半歩後ろを、フードを目深に被った小さな影が、袖の端を摘んで付いてくる。
(……手配の網は、この星の「上」までしか届かねえ)
次元航行を持たない世界に、本局の手配書は貼れない。貼れば、存在しないはずの空の上の話を、八百万人に説明する羽目になる。だからこの街では、俺はまだ賞金首じゃない。この街では、俺はまだ——
「——かかりのひと!!」
雑踏の向こうから、声が飛んできた。
すすけた前掛け。配達鞄——ではなく、今は小さな売り台を引いている。一年ぶんだけ背の伸びた新聞売りの少女が、脇目も振らずに駆けてきて、リョウの前で急停止した。
「かかりのひとだ! ほんものだ! ね、おぼえてる? あたし、あたしね——」
「覚えてる。三番倉庫街の、逃げる係。満点だったやつだろ」
「そう!!」
少女は頬を紅潮させ、それから律儀に、売り台から夕刊を一部抜いて突き出した。
「はい、これ。かかりのひとは、はんがく!」
「……半額は取るのかよ」
「しょうばいだもん! あ、あたしね、メアリ! こないだ、なまえきかれなかったから!」
メアリ。
一年前、名前を聞く余裕もなく別れた少女の名前を、リョウは世界の終わりから一年後の路上で、初めて知った。夕刊を受け取り、硬貨を渡す。義手の指先を、メアリは物怖じせずにじっと見て、「ぴかぴかだね」と言った。フードの下の連れには、目もくれなかった。
網が閉じたのは、その三分後だった。
路地の出口に、人影が一つ、立った。
降ってはこなかった。魔導師の降下は、この街の人々を怯えさせる。だから彼女は、ただの通行人の速度で、通りの向こうから歩いてきた。バリアジャケットも展開せず、砲身も背負ったまま。
「……クルス二等陸士」
なのはだった。
距離、八メートル。互いの得物は互いの背中。雑踏は何も知らずに二人の間を流れ、ガス灯が夕方の色に灯り始める。リョウは半歩、フードの影を自分の背に入れた。
「一人か」
「一人です。……この街で網を絞ったら、荷馬車が三十台、立ち往生しますから」
嘘ではなかった。嘘の全部でも、なかった。なのはの左耳の通信端子が、生きている。回線の向こうに誰がいるのかを、リョウは考え、考えるのをやめた。どの道、この盤は俺が選んだ。目撃者八百万人の、撃てない街。撃たない捕り手が来るしかない街を。
「リョウさん」
なのはの声が、手続きの温度を、半分だけ捨てた。
「今度こそ——話を」
「——けんか、してるの?」
二人の間に、するりと小さな体が割り込んだ。
メアリだった。売り台を置き去りに、リョウとなのはを交互に見上げている。なのはの顔が、任務の顔から、覚えのある顔に、音を立てて崩れた。天使さま、と呼ばれた日の顔に。
「メアリちゃん、あのね、これは」
「けんかは、だめなんだよ。かかりのひとどうしなら、なおさらだよ」
「……喧嘩じゃねえよ」
リョウは、しゃがんで目線を合わせた。
「やり方の違いで……ちょっとな」
「ふうん」
メアリは分かったような分からないような顔で頷き、それから、ずっと言いたかったことを思い出した顔になって、なのはの前に仁王立ちした。
「あのね! あたし、きめたの!」
息を吸って、宣言した。
「わたしもね、おわらせないかかりのひとに、なりたいの! なれるかな?」
一年前、この子に「終わらせない係」という言葉を渡したのは、なのは自身だった。神さまでも天使さまでもない名前を探して、彼女が見つけた言葉。それが一年間、この石炭の匂いの街で、小さな胸の中で育てられて、いま、貸し主の前に返しに来た。
なのはは、膝を突いた。目線を、合わせた。
「なれるよ……」
声は、少しだけ掠れていた。
「この世界が好きな人なら、だれだって……」
「ほんと!? やった! じゃああたし、きょうから見習いだから! まずはしんぶん、ぜんぶ売ってくる! じょうほうって、だいじだから!」
メアリは売り台を掴み、車輪を鳴らして、夕暮れの雑踏に消えていった。石炭の匂いの中に、上機嫌な売り声が遠ざかっていく。ゆうかん、ゆうかんはいかがー。
路地に、二人と、一つの影が残された。
沈黙は、長くなかった。
「……俺はまだ、『終わらせない係』だ」
リョウは、立ち上がって、言った。証拠も、理屈も、胸のポケットの畳んだ紙も添えずに。それだけを、まっすぐに。
「これからも、ずっと、そのつもりでいる」
なのはの目が、見開かれた。
八メートルの距離の向こうで、一年ぶんの何かが、ゆっくりと解けていく。彼女の唇が動いた。手続きでも、査問対策でもない、彼女自身の言葉が、出てこようとしていた。
「リョウさん……わたしも……」
夕陽が、遠くの給水塔の上で、一度だけ、瞬いた。
リョウがその瞬きを「光の反射」から「射撃炎」に読み替えるのに、〇・三秒かかった。〇・三秒は、彼女の顔を見ていた〇・三秒だった。回避は、間に合わなかった。義手は、動かなかった。飛んできたそれは、魔力の殻を薄く纏っただけの、ほとんどただの、金属だった。
乾いた音が一つ。
リョウの胸を、光弾が貫いた。
「——ッ、あ」
世界が、斜めになった。石畳。ガス灯の色。悲鳴。散っていく雑踏。膝が落ち、視界の端で、桜色が駆け寄ってくる。温かいものが、胸の右側から、外套に広がっていくのが分かった。呼吸をするたび、変な音がした。
「リョウさん!!」
なのはが、崩れる体を抱き留めた。左耳の端子に、指を叩きつけるように触れる。
「話が違います!! 私が合図をするまで、撃たないと——!!」
『——本部より、ヴァレル1』
回線の声は、様式の温度だった。
『容疑者は、民間人を巻き込むことに躊躇がないと判断した。関係のない人々に危害が及ぶ可能性がある。以上の理由により、狙撃班の独自判断を承認する』
「巻き込む——」
なのはは、血の広がる石畳と、逃げ惑う夕刊買いの人々と、腕の中の重さを、順番に見た。
「……いま、この街に撃ち込んだのは、どっちですか!!」
回線は、答えなかった。答える代わりに、街の三方の空間が歪み、転送光が立て続けに開いた。本局の識別を着けた兵たちが、雪崩れ込んでくる。狙撃班——ゼロイチの誰の腕でもない、顔も知らない本部の腕が、遠い給水塔の上で、二射目の照準を継続していた。
「リョウさん、リョウさん!! しっかりしてください!!」
「……ヴァレル、1」
声は、掠れて、泡の音が混じった。リョウは残った左手で、なのはの袖を掴んだ。
「よく、聞け」
「喋らないで、止血を——」
「俺を——どこでもいい。人の、いねえとこまで、運べ」
外套の合わせ目から、覗いていた。鎖骨の黒い根が、増えていた。増えて、太くなって、墨の川になって——銃創へ向かって、流れ込んでいく。開いた傷口を排水口のように目指して、腕の黒が、体の黒が、集まっていく。
「運んで……捨てろ……」
「なにを——なに、言って」
その時、路地の奥で、兵たちの怒号が別の色に変わった。
包囲されていたのは、フードの小さな影だった。十数丁の銃口の輪の中で、影は静かに立っていた。兵の一人が踏み込み、フードに手を掛ける。布が落ちて、銀色の短い髪と、赤い目が現れた。赤い目は、銃口の輪をゆっくりと見渡し——それから、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。
輪郭が、揺らいだ。
足元から、影が解けるように。銀の髪が、白い服が、体温も質量もあったはずのその全部が、夕闇に混ざって、ほどけて——消えた。
『——ダミー、だと!?』
『ありえない! 質量反応もありました、生体波形も……これほどまでに高度な欺瞞なんて……!』
空になった包囲の輪の真ん中で、兵たちが立ち尽くす。なのはは、腕の中の男を見下ろした。血の気の失せていく顔が、口の端だけで、笑っていた。
「……最初から」
この街も。この捕まり方も。この、囮も。
「……全部、あなたの、盤面——」
リョウの意識が、そこで途切れた。なのはは冷たくなっていく重さを抱え直し、二射目の照準が続く給水塔と、雪崩れ込む本部兵と、血の石畳を、三秒で等分に視た。
それから——空を、視た。
同じ夕刻。街から百キロ。霊峰の裾野。
一年前に世界を終わらせ損ねた場所は、風の音しかしなかった。焼け爛れた台地。骨組みだけの祭壇の残骸。管理局の封鎖標識が、点々と、風に鳴っている。
その封鎖線を、小さな影が一つ、まっすぐに歩いていた。
銀色の短い髪。胸に抱えた、角の丸い絵本。四日かけて、貨物と荷馬車と自分の足で、地図どおりに辿り着いた道の終わりで、少女は足を止めた。
——二手に、分かれる。
別れの夜の、あの声を思い出す。
——お前は巣へ行け。俺は、目立つ方をやる。巣で、最後の仕掛け人が待ってる。
——さいごの、しかけにん? だれ?
——会やあ、分かる。……甘い茶ぁ、持ってきてくれるはずだ。
封鎖線の内側、崩れた祭壇の基部に、折り畳みの椅子が二つ、並べて置いてあった。片方に、翡翠色の髪の人が座っていて、膝の上の魔法瓶から、湯呑みに湯気の立つものを注いでいた。
風に乗って、甘い緑茶の匂いがした。
「……かんちょう」
「いらっしゃい、ハヤテ」
リンディ・ハラオウンは、湯呑みを一つ、空いた椅子の前に置いた。
「よく、一人で来たわね。……座って。長い話になるから」
少女は椅子に座り、湯呑みを両手で包み、一口飲んで、それから言った。
「とりがーが、いってた。さいごの、しかけにん」
「あの子ったら、そんな配役を」
リンディは小さく笑い、笑いを畳んで、足元の携行端末を起動した。封鎖された遺構の地下——狼の巣の資料庫から、この三日間の「再調査」で回収した、ロキの研究記録。そして、艦長権限で持ち出した、五年前の全ての封。
「最初に、決めておきましょう。今日わたしは、あなたに、何も隠さない。……どこから聞きたい?」
少女は、湯呑みの中の甘い緑色を、しばらく見ていた。
「——ぜんぶ。わたしの、ことから」
話は、日が落ちても続いた。
六百六十六頁の器のこと。頁と、蒐集と、白い穴のこと。ナハトヴァール、という識別コードのこと。五年前の、〇三〇七と、〇三一一のこと。七つの署名のこと。眠ったままの、絵本の持ち主のこと。処理の決定と、四十八時間と、拘束台のこと。そして——ヤガミ・ハヤテという名前を、最初に持っていた、九歳の女の子のこと。
少女は、一度も泣かなかった。
泣く代わりに、質問をした。静かで、正確で、恐ろしく的を外さない質問を。頁の現在数は。選定範囲の定義は。分離の理論的な障壁は。ロキの記録の欠損部は。リンディは一つずつ答え、答えられないものは答えられないと言った。夜気の中で、湯呑みが二度、注ぎ足された。
少女の手が初めて震えたのは、最後の話の時だった。
「……とりがーは」
「ええ」
「それ、ぜんぶ、しってたの。わたしが、なにか。くろが、なにか。じぶんが、つぎに、えらばれてくことも」
「ええ。全部知っていて——あなたを連れて、逃げたの」
「しってて」
湯呑みの水面が、細かく波立った。
「しってて、わたしに、わらってた」
涙は、三粒で終わった。少女は袖で目元を拭い、拭い終えた顔を上げた。その顔にはもう、子供の輪郭と、システムの静けさが、初めて喧嘩をせずに、並んで座っていた。
「かんちょう。ろきの、きろく、みせて。それと、わたしの、なかみの、ずめん」
「……何をするつもり?」
「かいせき」
少女は、椅子から滑り降りて、崩れた祭壇の残骸——一年前、世界を終わらせるために組まれ、終わらせ損ねた、巨大な術式基部を見上げた。
「ろきは、おわらせる、けんきゅうを、してた。おわらせるしくみを、しらべつくした、ってことだから。……さかさまに、よめば」
赤い目が、夜の中で、静かに燃えた。
「——てを、はなす、ほうほうが、かいてある」
リンディは、その小さな背中を見た。それから端末の封を、一つずつ、解いていった。
「時間は」
「……たりるか、わからない。でも」
少女は、抱えてきた絵本を、椅子の上にそっと置いた。借りたものを返すまでは、終われないから。
「——わたしが、つくる。てを、はなすじゅつしきを」