魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~   作:ちょわわ

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第32話「Severance」

 離脱の瞬間を、なのはは後々まで、断片でしか思い出せなかった。

 

 二射目の射撃炎。展開したバリアジャケットが弾いた、魔力の薄い、重い弾。雪崩れ込む本部兵の制止の声。抱え上げた体の、驚くほどの軽さ。そして自分の口が、通信端子に向かって、はっきりと言ったこと。

 

「ヴァレル1より本部。——本日をもって、指揮系統を離脱します」

 

 石炭の匂いの街が、眼下で小さくなった。

 

 夜の雲の上を、桜色の光が一直線に飛ぶ。腕の中の男は、白い顔で浅い呼吸を繰り返し、時折、意識の水面に浮かんでは、切れ切れに同じ言葉を吐いた。

 

「……巣、へ……」

 

「巣?」

 

「……狼の……」

 

 それだけで、十分だった。一年前、彼女自身が戦った場所。世界を終わらせ損ねた祭壇。人のいない場所へ運べという注文に、この星でいちばん合致する座標を、なのはは百キロ先の霊峰の裾野に定めた。

 

 飛びながら、考えないようにしていることが、三つあった。

 

 自分がたった今、何を捨てたか。この人の胸の黒が、飛ぶ間にも銃創へ流れ込み続けていること。そして——「わたしも」の続きを、まだ言えていないこと。

 

 遺構の地下は、一年前と匂いが違った。

 

 埃と焦げの匂いの底に、鉛筆の芯と、インクと、甘い緑茶の匂いが混じっている。狼の巣の最深部——牙の起動基部だった大空洞の床一面に、三角形が咲いていた。

 

 白いチョークと魔導インクで描かれた、幾何学の海。古代ベルカ式の術式文字が、同心の三角を三重に巡り、その一辺一辺を、小さな手が書き足し、消し、計算し直していく。ロキが世界を終わらせるために据えた祭壇の骨組みが、逆向きの式で、塗り替えられていく。

 

「——第三階梯、逆位相の係数、確定。かんちょう、そこの記録、ロキの七番の、うしろから三頁」

 

「はい、先生」

 

 リンディは端末を繰りながら、冗談の温度で答えた。冗談でも言っていなければ、三日間、保たなかった。目の前の小さな設計者は、一日十九時間働き、四時間眠り、眠るたびに、遠い世界のどこかで頁が一枚抜かれた。二十人目の報せは、昨日の夜明けに届いた。少女はそれを聞いて、三十秒だけ目を閉じ、それから係数の検算に戻った。

 

 式は、昨夜、最後の一項を残して完成していた。

 

 そして少女は、その最後の一項の前で、初めて、鉛筆を置いたのだった。

 

「……かんちょう」

 

「ええ」

 

「この式、すてる」

 

 リンディは、少女の目の先を見た。空洞の中央、術式の焦点。抜き出された『呪い』の受け皿となるべき場所に書かれた、一つの空欄。

 

「引き剥がした呪いは、消えない。すぐには。行き場を失ったら——五年前と同じ、一斉選定の放送になる。だから、着地点がいる。避雷針が」

 

 少女の声は、システムの側の正確さで、自分の計算結果を読み上げた。

 

「条件は、登録適性。呪いが『次の主』として認識できる器。適合者の順位表は、計算済み。……第一位」

 

 鉛筆が、空欄の隣の小さな文字を、二重線で消そうとして、消せずに止まっていた。

 

『クルス・リョウ——登録進行度、推定六割』

 

「わたしが、そだてた、適性なの」

 

 声から、システムの正確さが剥がれた。

 

「わたしが腕をなおして、わたしのちからをかしつづけて、だから、あのひとがいちばん『つぎ』にちかい。……そんな式、わたし、つかわない。すてる。ほかの避雷針を、さがす」

 

「ハヤテ」

 

「さがすの!」

 

 その時、空洞の天井の、崩れた採光孔から——桜色の光が、降ってきた。

 

 着地は、静かだった。

 

 なのはは腕の中の男を、術式を踏まないぎりぎりの床に横たえ、それから顔を上げて、目の前の光景を、順番に見た。三重の三角。ロキの祭壇。チョークまみれの銀髪の少女。そして、湯気の立つ魔法瓶を持ったままの、翡翠色の髪の艦長。

 

「……艦長」

 

「ええ」

 

「最初から、ですか」

 

「告白の夜から。……ごめんなさいね、あなたにまで隠して」

 

 なのはの中で、幾つもの感情が順番を争い、そして全部が、腕の中で冷たくなっていく体温の前で、順番を譲った。

 

「——後にします、全部。それより、この人を」

 

 救護は、リンディの野戦キットで始まり、三分で限界に達した。

 

 右肺の貫通創。失血。そして、傷口へ集束し続ける黒。縫合しても、塞いだ端から、黒い根が糸を解いていく。まるで傷を、開けておきたがっているように。

 

「……このままだと、朝まで、保たない」

 

 リンディの宣告に、少女が、一歩前に出た。両手が、上がりかけて——止まった。

 

 治せる。四秒で治せる。治した瞬間、注ぎ込んだ「わたし」のぶんだけ、登録が進む。六割が、七割になる。避雷針が、完成に近づく。治すことと、堕とすことが、同じ手の中にあった。

 

 少女が動けずにいるその手元へ、掠れた声が、届いた。

 

「……解けたんだろ」

 

 リョウの目が、薄く開いていた。焦点の合いきらない目が、それでも少女の顔と、床の術式と、空欄の一項を、順番に読んだ。読み終えて、口の端が、いつもの角度に持ち上がった。

 

「顔に、書いてある。……順位表の、一番上も」

 

「とりがー、ちがう、これは」

 

「直せ」

 

 短く、はっきりと、リョウは言った。

 

「直して、七割にしろ。どうせ俺が、避雷針だ。……なあ、はやて。契約の追加だ。お前は手を離す。離した手を、俺が受け取る。それで、放送は止まる。誰の頁も、もう抜かれない。……悪くねえ取引だろ」

 

「やだ」

 

「はやて」

 

「やだ、やだよ、そんなの、とりがーが」

 

「——俺は死なねえよ」

 

 リョウは、笑った。血の気のない顔で、在庫最後の一つ前くらいの、笑顔で。

 

「受け取って、耐えて、その間にお前らが、あれを消す。二段構えだ。俺の役目は、落ちてくる雷を掴んで、離さねえこと。掴むのは……得意分野じゃねえが、離さねえのは、性分でな」

 

 少女は、泣きながら、両手を傷の上に置いた。

 

 四秒で、肺が塞がった。八秒で、出血が止まった。十二秒で、呼吸から泡の音が消えた。そして治癒の白い光の下で、鎖骨の黒い根が、音もなく、胸の中心線を——越えた。

 

 消せない、と言われた線を。

 

 誰も、何も言わなかった。言う代わりに、なのはは、救護で脱がせた装具の中から転がり出た、一冊の帳面を拾い上げていた。

 

 開くつもりは、なかった。なかったが、開いたところに、鉛筆の字があった。

 

『三日目。黒——手首、一周。「輪」の形』

 

『貸し主は二人になった。返す当てのねえ借りが、今日も増えていく』

 

『六日目。詰みを外したのは、敵の迷い。次は無い』

 

 敵、の字を、なのはは長いこと見ていた。それから帳面を閉じ、装具の元の場所へ、そっと戻した。戻して、手の甲で目元を一度拭い、立ち上がった。

 

「……手伝います。私にできること、全部言ってください」

 

 同じ夜、本局旗艦。

 

「ヴァレル1の離脱、確認しました。これで——」

 

「言うな」

 

 老提督は、報告官を遮った。遮って、机の上の未決裁書類を見た。『目標の処理権限に関する件』。生死を問わず、の一行が、三日前から、彼の署名を待っている。

 

「……追跡部隊の再編を。先導は」

 

「——私に、命じてください」

 

 艦橋の入り口に、金色が立っていた。フェイト・T・ハラオウンは、教本通りの敬礼のまま、まっすぐに老提督を見た。

 

「二人の癖を知る者は、もう、私しか残っていません」

 

 それは事実だった。事実の全部では、なかった。何か理由があるはずだ、と信じ続けた一年ぶんの検証項目の、最後の一行を——彼女は自分の目で、確かめに行くつもりだった。

 

 儀式は、夜明け前に始まった。

 

 少女が中央に立ち、三重の三角に灯が入る。牙の基部が一年ぶりに龍脈と接続し、世界の血流が、低い唸りを上げて式に流れ込んだ。世界を終わらせるために掘られた管を、今夜だけ、逆向きに。

 

 リョウは焦点の空欄——避雷針の座に、自分の足で立った。立てるようになった体で。なのはとリンディは外周の制御点に付き、そして。

 

「——第一階梯、接続」

 

 少女の声が、二重に響いた。子供の声と、システムの声が、初めて完全に重なって、一つの詠唱になる。

 

 引き剥がしは、悲鳴から始まった。

 

 少女の胸の中で、六百六十六頁の器が開き、頁という頁に染みついた黒い文が、浮かび上がる。呪いは、抵抗した。五年間、宿主の芯に指を食い込ませてきた手が、一本ずつ、こじ開けられていく。少女は術式の中心で膝を突き、それでも、詠唱を止めなかった。

 

「はな、す」

 

 夢の中で、何度も何度も、返したいのに離せなかった手。

 

「わたし、が——はなすの!!」

 

 最後の指が、剥がれた。

 

 黒い文の奔流が、頁から引き抜かれ、術式の導管を走り、うねり、そして——空洞の中央で、一つの巨大な塊になった。同じ瞬間、遠く離れた三つの管理世界で、蒐集の途中だった影たちが、伸ばした手を止め、砂のように解けて消えたことを、彼らはまだ知らない。

 

 少女の体が、糸の切れたように崩れた。

 

 崩れた小さな体に、生まれて初めて、床の埃がふわりと積もった。計測値はもう、綺麗すぎなかった。漏れて、揺らいで、温かい——ただの、子供の波形だった。

 

「成功——」

 

 リンディの声が、言い切る前に、止まった。

 

 黒い塊が、動いた。

 

 迷いは、なかった。何万という頁から引き抜かれた呪いの総体は、空洞の中でたった一つの座標——七割まで書き上がった「次の主」の欄へ、雪崩を打った。

 

 リョウは、逃げなかった。

 

 両足を踏みしめ、銀と黒の右腕を、正面に突き出して。

 

「……来い」

 

 口の端が、上がった。

 

「契約、だろうが」

 

 黒が、届いた。

 

 届いて——計算を、越えた。錨を降ろすはずだった呪いは、錨ごと、船を建て始めた。リョウの体を芯に、黒い文が幾重にも巻き付き、編まれ、積み上がっていく。甲冑に似て甲冑でない何か。塔に似て塔でない何か。制御用の拘束式が、三本、続けざまに弾け飛んだ。

 

「拘束、保ちません! 想定質量の——桁が、違う!!」

 

 大空洞の天井が崩れ、夜明け前の空が覗いた。黒いものは崩落を浴びながらなお伸び上がり、その最奥——編み込まれた文の芯で、銀色の義手だけが、まだ、拳の形を保っていた。

 

 瓦礫の上で、少女が、立ち上がった。

 

 埃の積もる、ただの子供の体で。それでも、その足元で、影が——彼女の影だけが、夜明けの逆光の中、静かに、深く、応えるように揺れた。

 

 少女は、育っていく黒い厄災を見上げて、言った。

 

「——こんどは」

 

 小さな両手が、固く、握られた。

 

「わたしが、はなさない」

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