魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
離脱の瞬間を、なのはは後々まで、断片でしか思い出せなかった。
二射目の射撃炎。展開したバリアジャケットが弾いた、魔力の薄い、重い弾。雪崩れ込む本部兵の制止の声。抱え上げた体の、驚くほどの軽さ。そして自分の口が、通信端子に向かって、はっきりと言ったこと。
「ヴァレル1より本部。——本日をもって、指揮系統を離脱します」
石炭の匂いの街が、眼下で小さくなった。
夜の雲の上を、桜色の光が一直線に飛ぶ。腕の中の男は、白い顔で浅い呼吸を繰り返し、時折、意識の水面に浮かんでは、切れ切れに同じ言葉を吐いた。
「……巣、へ……」
「巣?」
「……狼の……」
それだけで、十分だった。一年前、彼女自身が戦った場所。世界を終わらせ損ねた祭壇。人のいない場所へ運べという注文に、この星でいちばん合致する座標を、なのはは百キロ先の霊峰の裾野に定めた。
飛びながら、考えないようにしていることが、三つあった。
自分がたった今、何を捨てたか。この人の胸の黒が、飛ぶ間にも銃創へ流れ込み続けていること。そして——「わたしも」の続きを、まだ言えていないこと。
遺構の地下は、一年前と匂いが違った。
埃と焦げの匂いの底に、鉛筆の芯と、インクと、甘い緑茶の匂いが混じっている。狼の巣の最深部——牙の起動基部だった大空洞の床一面に、三角形が咲いていた。
白いチョークと魔導インクで描かれた、幾何学の海。古代ベルカ式の術式文字が、同心の三角を三重に巡り、その一辺一辺を、小さな手が書き足し、消し、計算し直していく。ロキが世界を終わらせるために据えた祭壇の骨組みが、逆向きの式で、塗り替えられていく。
「——第三階梯、逆位相の係数、確定。かんちょう、そこの記録、ロキの七番の、うしろから三頁」
「はい、先生」
リンディは端末を繰りながら、冗談の温度で答えた。冗談でも言っていなければ、三日間、保たなかった。目の前の小さな設計者は、一日十九時間働き、四時間眠り、眠るたびに、遠い世界のどこかで頁が一枚抜かれた。二十人目の報せは、昨日の夜明けに届いた。少女はそれを聞いて、三十秒だけ目を閉じ、それから係数の検算に戻った。
式は、昨夜、最後の一項を残して完成していた。
そして少女は、その最後の一項の前で、初めて、鉛筆を置いたのだった。
「……かんちょう」
「ええ」
「この式、すてる」
リンディは、少女の目の先を見た。空洞の中央、術式の焦点。抜き出された『呪い』の受け皿となるべき場所に書かれた、一つの空欄。
「引き剥がした呪いは、消えない。すぐには。行き場を失ったら——五年前と同じ、一斉選定の放送になる。だから、着地点がいる。避雷針が」
少女の声は、システムの側の正確さで、自分の計算結果を読み上げた。
「条件は、登録適性。呪いが『次の主』として認識できる器。適合者の順位表は、計算済み。……第一位」
鉛筆が、空欄の隣の小さな文字を、二重線で消そうとして、消せずに止まっていた。
『クルス・リョウ——登録進行度、推定六割』
「わたしが、そだてた、適性なの」
声から、システムの正確さが剥がれた。
「わたしが腕をなおして、わたしのちからをかしつづけて、だから、あのひとがいちばん『つぎ』にちかい。……そんな式、わたし、つかわない。すてる。ほかの避雷針を、さがす」
「ハヤテ」
「さがすの!」
その時、空洞の天井の、崩れた採光孔から——桜色の光が、降ってきた。
着地は、静かだった。
なのはは腕の中の男を、術式を踏まないぎりぎりの床に横たえ、それから顔を上げて、目の前の光景を、順番に見た。三重の三角。ロキの祭壇。チョークまみれの銀髪の少女。そして、湯気の立つ魔法瓶を持ったままの、翡翠色の髪の艦長。
「……艦長」
「ええ」
「最初から、ですか」
「告白の夜から。……ごめんなさいね、あなたにまで隠して」
なのはの中で、幾つもの感情が順番を争い、そして全部が、腕の中で冷たくなっていく体温の前で、順番を譲った。
「——後にします、全部。それより、この人を」
救護は、リンディの野戦キットで始まり、三分で限界に達した。
右肺の貫通創。失血。そして、傷口へ集束し続ける黒。縫合しても、塞いだ端から、黒い根が糸を解いていく。まるで傷を、開けておきたがっているように。
「……このままだと、朝まで、保たない」
リンディの宣告に、少女が、一歩前に出た。両手が、上がりかけて——止まった。
治せる。四秒で治せる。治した瞬間、注ぎ込んだ「わたし」のぶんだけ、登録が進む。六割が、七割になる。避雷針が、完成に近づく。治すことと、堕とすことが、同じ手の中にあった。
少女が動けずにいるその手元へ、掠れた声が、届いた。
「……解けたんだろ」
リョウの目が、薄く開いていた。焦点の合いきらない目が、それでも少女の顔と、床の術式と、空欄の一項を、順番に読んだ。読み終えて、口の端が、いつもの角度に持ち上がった。
「顔に、書いてある。……順位表の、一番上も」
「とりがー、ちがう、これは」
「直せ」
短く、はっきりと、リョウは言った。
「直して、七割にしろ。どうせ俺が、避雷針だ。……なあ、はやて。契約の追加だ。お前は手を離す。離した手を、俺が受け取る。それで、放送は止まる。誰の頁も、もう抜かれない。……悪くねえ取引だろ」
「やだ」
「はやて」
「やだ、やだよ、そんなの、とりがーが」
「——俺は死なねえよ」
リョウは、笑った。血の気のない顔で、在庫最後の一つ前くらいの、笑顔で。
「受け取って、耐えて、その間にお前らが、あれを消す。二段構えだ。俺の役目は、落ちてくる雷を掴んで、離さねえこと。掴むのは……得意分野じゃねえが、離さねえのは、性分でな」
少女は、泣きながら、両手を傷の上に置いた。
四秒で、肺が塞がった。八秒で、出血が止まった。十二秒で、呼吸から泡の音が消えた。そして治癒の白い光の下で、鎖骨の黒い根が、音もなく、胸の中心線を——越えた。
消せない、と言われた線を。
誰も、何も言わなかった。言う代わりに、なのはは、救護で脱がせた装具の中から転がり出た、一冊の帳面を拾い上げていた。
開くつもりは、なかった。なかったが、開いたところに、鉛筆の字があった。
『三日目。黒——手首、一周。「輪」の形』
『貸し主は二人になった。返す当てのねえ借りが、今日も増えていく』
『六日目。詰みを外したのは、敵の迷い。次は無い』
敵、の字を、なのはは長いこと見ていた。それから帳面を閉じ、装具の元の場所へ、そっと戻した。戻して、手の甲で目元を一度拭い、立ち上がった。
「……手伝います。私にできること、全部言ってください」
同じ夜、本局旗艦。
「ヴァレル1の離脱、確認しました。これで——」
「言うな」
老提督は、報告官を遮った。遮って、机の上の未決裁書類を見た。『目標の処理権限に関する件』。生死を問わず、の一行が、三日前から、彼の署名を待っている。
「……追跡部隊の再編を。先導は」
「——私に、命じてください」
艦橋の入り口に、金色が立っていた。フェイト・T・ハラオウンは、教本通りの敬礼のまま、まっすぐに老提督を見た。
「二人の癖を知る者は、もう、私しか残っていません」
それは事実だった。事実の全部では、なかった。何か理由があるはずだ、と信じ続けた一年ぶんの検証項目の、最後の一行を——彼女は自分の目で、確かめに行くつもりだった。
儀式は、夜明け前に始まった。
少女が中央に立ち、三重の三角に灯が入る。牙の基部が一年ぶりに龍脈と接続し、世界の血流が、低い唸りを上げて式に流れ込んだ。世界を終わらせるために掘られた管を、今夜だけ、逆向きに。
リョウは焦点の空欄——避雷針の座に、自分の足で立った。立てるようになった体で。なのはとリンディは外周の制御点に付き、そして。
「——第一階梯、接続」
少女の声が、二重に響いた。子供の声と、システムの声が、初めて完全に重なって、一つの詠唱になる。
引き剥がしは、悲鳴から始まった。
少女の胸の中で、六百六十六頁の器が開き、頁という頁に染みついた黒い文が、浮かび上がる。呪いは、抵抗した。五年間、宿主の芯に指を食い込ませてきた手が、一本ずつ、こじ開けられていく。少女は術式の中心で膝を突き、それでも、詠唱を止めなかった。
「はな、す」
夢の中で、何度も何度も、返したいのに離せなかった手。
「わたし、が——はなすの!!」
最後の指が、剥がれた。
黒い文の奔流が、頁から引き抜かれ、術式の導管を走り、うねり、そして——空洞の中央で、一つの巨大な塊になった。同じ瞬間、遠く離れた三つの管理世界で、蒐集の途中だった影たちが、伸ばした手を止め、砂のように解けて消えたことを、彼らはまだ知らない。
少女の体が、糸の切れたように崩れた。
崩れた小さな体に、生まれて初めて、床の埃がふわりと積もった。計測値はもう、綺麗すぎなかった。漏れて、揺らいで、温かい——ただの、子供の波形だった。
「成功——」
リンディの声が、言い切る前に、止まった。
黒い塊が、動いた。
迷いは、なかった。何万という頁から引き抜かれた呪いの総体は、空洞の中でたった一つの座標——七割まで書き上がった「次の主」の欄へ、雪崩を打った。
リョウは、逃げなかった。
両足を踏みしめ、銀と黒の右腕を、正面に突き出して。
「……来い」
口の端が、上がった。
「契約、だろうが」
黒が、届いた。
届いて——計算を、越えた。錨を降ろすはずだった呪いは、錨ごと、船を建て始めた。リョウの体を芯に、黒い文が幾重にも巻き付き、編まれ、積み上がっていく。甲冑に似て甲冑でない何か。塔に似て塔でない何か。制御用の拘束式が、三本、続けざまに弾け飛んだ。
「拘束、保ちません! 想定質量の——桁が、違う!!」
大空洞の天井が崩れ、夜明け前の空が覗いた。黒いものは崩落を浴びながらなお伸び上がり、その最奥——編み込まれた文の芯で、銀色の義手だけが、まだ、拳の形を保っていた。
瓦礫の上で、少女が、立ち上がった。
埃の積もる、ただの子供の体で。それでも、その足元で、影が——彼女の影だけが、夜明けの逆光の中、静かに、深く、応えるように揺れた。
少女は、育っていく黒い厄災を見上げて、言った。
「——こんどは」
小さな両手が、固く、握られた。
「わたしが、はなさない」