魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
夜明けは、来なかった。
来るはずの時刻に、空が白まなかった。狼の巣の上空に立ち上がった黒いものが、高度千メートルで傘のように開き、朝を、物理的に遮っていた。
それは、完成しつつあった。
甲冑の意匠を持つ、塔。あるいは、塔の高さを持つ、甲冑。無数の黒い術式文字が、鎖帷子のように編まれて表皮を成し、編み目は今も、内から外へと増築を続けている。顔はない。声もない。ただ、その足元——一年前にロキが世界の龍脈へ突き立てた接続基部から、光の柱が一本、休みなく、黒の内へと吸い上げられていた。
世界の血を、飲んでいた。
「……龍脈の流量、毎分〇・三パーセントで減少。このペースなら、この星の脈が枯れ始めるまで——二十時間」
リンディの声は、瓦礫の陰に据えた携行端末の数字を、正確に読んだ。正確に読む以外に、できることがなかった。
「百キロ先の街は」
「まだ気づいていない。……いえ」
端末の隅、遠望の映像。夜明け前のガス灯の街。その灯りが、一斉に、ほんの一瞬——瞬いた。八百万の灯りが、揺れて、戻った。世界の血圧が、下がり始めている。
一年前と、同じ盤面だった。次元航行を持たない世界。逃がせない八百万。迫る終末。座標まで、同じ。
「——第二期の、再演」
リンディが、その言葉を口にした。五年前の夜を指令席で浴びた人間の声で。ただし今回の再演には、五年前と決定的に違う点が、一つだけあった。
瓦礫の上で、051改が、鳴き続けていた。
《Ready.》
三十秒ごとに、一度。黒い塔に銃口を——持ち主のいない銃口を——向けたまま、律儀に、応答し続けている。
《Ready.》
呼んでいるのだ、と誰もが分かった。誰も、止めなかった。
「登録……七割五分」
少女が、目を閉じたまま言った。
五年間あの呪いの宿主だった体は、離れた今も、あれの帳簿を読めた。読めてしまった。黒い塔の最奥、編まれた文の芯で、「次の主」の欄が、一画ずつ、書き進められていく。
「はやいの。なかで、とりがーが……ページを、めくられてる。十割になったら——なまえが、かんせいしたら」
「——させない」
なのはが、立ち上がった。
三日分の消耗を、呼吸二つで棚に上げて、セブンスウィルを構える。照準の先、黒い塔。その編み目の、ある一点。崩落の瓦礫の隙間から時折覗く、塔の心臓部——銀色の、握られたままの拳。
「削れなくても、止められる。……宿題、やってきたので」
射撃が、始まった。
当てない。喰わせる。進路と増築点に、計算された弱い弾を、あの奇妙なリズムで——撃って、半拍、二連、間、三連。飲み込むたびに、黒い表皮の増築が、半瞬ずつ、止まる。二十日間、射場で刻み続けた飽和のリズムが、初めて本番の的の上で、拍を刻んだ。
効いていた。傷は、つかない。一秒も削れない。それでも、確かに——遅らせていた。
塔が、初めて、応じた。
表皮の編み目が数カ所ほどけ、黒がこぼれ落ち、地面で像を結ぶ。全高二メートル。甲冑の輪郭。顔のない頭部。
シェイドが——否、シェイドの雛型が、六騎。
黒い騎士たちは音もなく散開し、射撃の主へ、三方向から殺到した。なのはの飽和のリズムは対塔用で、機動目標を追う余力はない。リンディの警告が飛び、なのはが砲身を引き戻し、間に合わない、と全員の計算が同じ答えを出した、その時。
少女が、右手を、上げた。
考えるより先に、体が動いていた。五年間、彼女の眠りの中で勝手に発せられてきた命令の経路を、今夜初めて、彼女自身の意志が、正しい向きに流れた。
「——まもって」
足元の影が、応えた。
少女の影が、夜より深く沈み、そこから——騎士が、立ち上がった。一騎。二騎。三騎。四騎。銀灰色の淡い燐光をまとった、顔のない甲冑たちが、少女を中心に、剣、槌、槍、刃の四つの型で、方陣を組んだ。
「……よん?」
召喚した本人が、いちばん驚いた顔をした。数を指定した覚えはなかった。手が、勝手に四を選んだ。なぜ四なのかを問う暇もなく、四騎は地を蹴り、黒い六騎と、正面から噛み合った。
影と、影が、戦った。
同じ雛型。同じ機動。同じ無音。違うのは、色と——守る向きだけだった。黒がなのはの背を狙えば銀灰が割って入り、黒が少女へ回り込めば銀灰の槌が薙ぎ払う。斬られた銀灰は影に還り、少女の影から、すぐに次が立った。魔力の続く限り、何度でも。
「蒐集の機能、じゃない」
リンディが、目を見開いていた。
「あれは最初から——『騎士』の機能。使う手が、違っただけ……」
黒い塔の、内側。
そこは、文字の海だった。
上も下もない黒の中を、びっしりと書き込まれた頁が、際限なく流れていく。頁の一枚一枚が、リョウの何かを写し取っては、綴じられていく。名前。記憶。癖。教義。「次の主」という表題の本が、俺という素材で、編まれていく。
(……七割五分、ってとこか)
流されながら、リョウは、勘定を続けていた。勘定できる自分が残っているうちは、負けじゃない。
書き込みの波が来るたび、意識の縁が甘く痺れた。抵抗をやめれば楽になる、という囁きですらない、ただの重力のような誘いが、四方から均等に押してくる。主になれば、痛みは終わる。主になれば、全部を守れる。主になれば——
(——うるせえ)
リョウは、右手を握った。
この黒の海のどこかにあるはずの、銀色の右手を。感覚などとうにない。それでも、握っている、という一点だけを、意地で更新し続ける。
(契約、履行中。……離さねえのは、性分なんだよ)
拳の形が、頁の海の芯で、今夜もまだ、崩れていなかった。
金色の流星が地上に降りたのは、黒い六騎目が影に還った直後だった。
フェイト・T・ハラオウンは、艦隊の展開速度を四十分置き去りにして、単騎、遺構の空に到達していた。そして着地までの十一秒で、眼下の盤面の全てを、読んだ。
黒い塔。龍脈を吸う光柱。塔を撃つ、離反したはずの相棒。相棒の背を守る、銀灰色の騎士たち。騎士たちの中心の、保護対象だった少女。制御端末の前の、艦長。そして——塔の心臓で時折覗く、握られたままの、銀色の拳。
一年ぶんの検証項目が、十一秒で、埋まっていった。
『——ヴァレル2より、旗艦』
着地と同時に、フェイトは回線を開いた。眼下ではなのはが振り仰ぎ、少女の騎士たちが新手の敵性を警戒して半身になる。フェイトは彼女たちに背を向けたまま——つまり、黒い塔にだけ正対したまま、報告を続けた。
『現地状況を報告します。敵性体の中枢に、クルス・リョウ二等陸士が生存しています。視認、確認済み』
『……ヴァレル2』
老提督の声が、直接、回線に乗った。
『貴官の任務は追跡と、砲撃目標の照準諸元の送信だ』
『照準諸元は、送信できません』
『理由を述べよ』
『第一に、砲撃目標内に局員が生存しており、「生死を問わず」の決裁は——未署名のはずです。私は、提督がその一行を書かなかった夜、艦橋におりました』
回線の向こうで、老いた呼吸が、一つ止まった。
『第二に。あの構造体は、五年前と同じ機構です。破壊の入力は、継承の出力を返す。中の錨を撃ち抜けば、呪いは次を選定します——選定範囲は、もう、地球一つでは済みません。第三に』
フェイトは、そこで初めて、声から報告の温度を外した。
『……第三に。私はこの一年、あの人の逃げ方を検証してきました。誰も撃たず、誰も傷つけない逃げ方を。検証は、今、完了しました。——この盤面で撃てば、五年前の反省文を、私たちがもう一通、書くことになります』
長い、長い沈黙が、次元の彼方から流れてきた。
やがて、掠れた声が言った。
『……砲撃、待て。全艦、包囲高度で待機』
息を吐く音が、艦橋中から漏れるのが、回線越しに聞こえた。
『ヴァレル2。猶予は、我々の忍耐ではない。あれの成長速度が決める。あれが次元干渉域を展開した瞬間、あるいは居住地域へ到達すると判断した瞬間——私は、署名する。分かったな』
『——はい。それまでに、終わらせます』
回線を切って、フェイトは降下した。なのはの隣、瓦礫の上に、教本通りの着地で。
二本の砲身は、しばらく、無言で並んでいた。
「……来たんだ」
「はい。……遅れました。〇・八秒どころじゃ、なく」
「ううん」
なのはは、前を見たまま、首を振った。
「間に合ってる。——ちゃんと」
少女が、騎士たちの陣を割って、二人の隣に歩いてきた。フェイトは膝を折り、視線を合わせ、それから、ずっと持っていた問いではなく、いちばん新しい問いを選んだ。
「……絵本は」
「もってる。かえすまで、おわらないから」
「なら、大丈夫です」
フェイトは立ち上がり、レギンレイヴⅡを展開した。《Yes, sir.》——一年前に継承された声が、戦場に鳴った。瓦礫の上では051改が、変わらず三十秒ごとに、鳴き続けている。
その時、世界が、傾いだ。
龍脈の光柱が、ぶつりと、太くなった。黒い塔の増築が一段落し、編み目が締まり、そして——大地から、根が抜けるような轟音がした。
塔が、動いた。
一歩。大地を割って、黒い甲冑の塔が、一歩を踏み出した。向きは、迷いなく。吸い上げる血の、より濃い方へ。龍脈の本流の、上流へ。
その方角、百キロ先には、夜明け前のガス灯の街があった。
「——進路、環状市方面! 移動を開始しました!」
リンディの声に、三人と四騎が、同時に前を向いた。黒い巨影の踏み出す先、地平線の際で、八百万の小さな灯りが、何も知らずに瞬いている。あの灯りの下では、そろそろ、朝刊の準備が始まる頃だった。
なのはが、砲身を担ぎ直した。フェイトが、雷光を纏った。少女が、影の陣を、進行方向へ展開し直した。
黒い塔の心臓部で、瓦礫の隙間の向こう、銀色の拳が、一瞬だけ覗いた。
拳は、まだ、握られていた。