魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
迎撃線は、旧鉄道の切通しに敷かれた。
遺構と環状市を結ぶ直線上、龍脈の本流が地表に最も近づく谷。黒い塔がここを越えれば、次の遮蔽は八十キロ先の市外環状堤しかない。つまり、ここが最後の「人のいない」場所だった。
「役割を、いいます」
少女の声は、もう震えていなかった。瓦礫の上に広げた即席の盤面図を、小さな指が順番に差していく。
「あれの、ごはんのくだ——龍脈の接続基部。あれを、とめる。とめれば、あるくのを、やめる。たべものをさがして、たちどまる。かんちょう、基部の制御点、うごかせる?」
「ええ。牙の基盤は、わたしたちの分離式で上書き済みよ。……ただし、操作盤は塔の進路の真下」
「ごえい、つける。なのはは、けんせい。あるくはやさを、おそくして。ふぇいとは、じゆう。いちばん、あぶないところに」
「了解」「——はい」
二本の砲身が、同時に頷いた。指揮を執っているのが十歳の子供であることを、誰も、もう不思議に思わなかった。
夜明け前の環状市では、印刷所の輪転機が回り始めていた。
束ねられた朝刊を荷台に積む小さな手が、ふと空を見上げる。地平線の向こう、霊峰の方角の空が、朝焼けの色ではない色に、低く濁っていた。
「……へんなくも」
メアリは首を傾げ、それから売り台の車輪を鳴らして、いつもの街角へ走り出した。情報って、だいじだから。
戦闘は、視程の限界距離から始まった。
なのはの牽制射が、計算された飽和のリズムで塔の脚部に降り注ぐ。喰わせて、止める。半瞬の停滞を数珠つなぎに稼ぎ、一歩の間隔を、二秒から三秒へ、三秒から四秒へと引き延ばしていく。
塔は、応じた。
表皮の編み目が、今度は数十カ所、同時にほどけた。黒がこぼれ、像を結ぶ。十二騎。二十騎。三十騎。黒い騎士の群れが、切通しの斜面を、音もなく雪崩れ落ちてくる。
「——ひらいて」
少女の指が、空中で、頁をめくる形に動いた。
彼女の影が広がり、銀灰色の騎士たちが立ち上がる。八騎。めくる。十六騎。めくる。二十四騎。型は四種——剣、槌、槍、刃。編成は指先ひとつで組み変わり、楔になり、壁になり、鶴翼になって、黒の雪崩を受け止めた。
影と影の戦列が、切通しいっぱいに噛み合った。
「基部まで、六百! 護衛、続いて!」
リンディが走る。その周囲を銀灰の四騎——最初に呼ばれた、あの四騎が固めて、黒の刃を弾き、槌で払い、道を拓いていく。フェイトは戦列の上を金色の雷となって飛び回り、崩れかけた箇所へ、崩れる前に届いた。
レギンレイヴⅡの刃が、黒騎士を薙ぐ。手応えの奥に、もう一枚、奇妙な層があった。
(……この黒、実在の位相より、半歩、深いところに根がある)
一年間、虚数の海に沈んでいた体が、その半歩の深さを、正確に測っていた。測って、フェイトは記憶の抽斗に仕舞った。使いどころは、まだ先だ。
なのはは、撃ち続けていた。
リズムを、崩さずに。呼吸を、乱さずに。ただ、視界の端がときどき白く飛ぶのを、まばたきの回数でごまかしながら。胸元に括りつけた051改が、三十秒ごとに、律儀に鳴く。
《Ready.》
「……うん。もうすぐだよ」
金具の覗き窓の奥で、罅の入った結晶が、砲火の色を映して鈍く光った。
基部まで、二百。
そこで、塔が——学習した。
黒騎士の生成が、止まった。代わりに、塔の中腹の編み目が大きく割れ、内から、桁の違う影が三つ、産み落とされた。全高十メートル。騎士の型を保ったまま、密度だけが違う。着地の衝撃で切通しの斜面が崩れ、銀灰の戦列が、二カ所、纏めて押し潰された。
「——っ、大型! 三体!」
巨影の一体が、まっすぐにリンディへ向かった。護衛の四騎が、同時に反転する。剣が斬りつけ、槌が膝を打ち、槍が足を縫い、刃が視界を薙ぐ。巨影は四騎を纏めて振り払い——四つの銀灰が、瓦礫の上で、砕けた。
影が、散る。
「かんちょう、はしって!!」
少女が叫び、影から次の四騎を立てようとして——膝を突いた。
底が、見えていた。二十四騎の戦列と、召喚のたびの再構成。分離を終えたばかりの小さな器の魔力は、際限のある、ただの子供のそれだった。影が薄くなる。立ち上がりかけた騎士の輪郭が、風に吹かれた煙のようにほどける。
巨影の腕が、振り上げられた。制御盤まであと五十の地点で、リンディの足が瓦礫に取られた。フェイトは反対側の崩落を支えていて、なのはの射線は戦列の味方で塞がって、間に合うものが、何もなかった。
その時。
少女の胸の中で、頁が、鳴った。
六百六十六頁。呪いを引き剥がされ、空白のまま彼女の中に残っていた、器そのもの。その一頁目が、ひとりでに開いて、問いの形の光を、彼女の内側に差し出した。
登録簿の、主の欄。五年前から、そこにあった名前は線で消され、欄は、空白のまま。呪いが外で、別の誰かの名前を、無理やり書き進めている、その正規の欄が——彼女に、問うていた。
あなたは、誰。
少女は、答えを、探さなかった。とっくに、決めていたから。扉に掛かった手書きの名札。左右が逆さまだった「ヤ」。契約の拳。おかえりなさい。この名前で呼ばれた、すべての朝と夜。
「——わたしは」
少女は、空白の欄に、指で、書いた。覚えたての、線のよろけた、五十音で。
『ヤガミ・ハヤテ』
「ヤ」の向きは、もう、間違えなかった。
千年の体系の、最も古い欄が、子供の手書き文字を——受理した。
世界が、頁をめくる音を立てた。
少女の周りで大気が澄み、白い簡素な服の上に、光で織られた祭服の意匠が重なる。夜天の色。書の、本当の色。空白の頁の群れが、彼女を軸にゆっくりと旋回し、そして——足元の影が、海になった。
砕けたはずの四騎が、影の海から、立ち上がった。
立ち上がりながら、その輪郭が——変わった。
剣の騎士の構えが、流麗な護りの型に沈む。槌の騎士が、大地に根を張るような、頑固な仁王立ちに変わる。槍の騎士の像がほどけて、狼の意匠の、大楯の型に。刃の騎士の像がほどけて、翠の連環の、守りの型に。
誰も教えていない、四つの姿だった。
一瞬——ほんの一呼吸のあいだ、切通しの戦場で、なのはだけが、撃つ手を止めた。
彼女の芯のスキルが、悲鳴のような報せを上げていた。物と、命を分ける、あの識別が。いま、視界の中の四つの「物」が、四つの——
(……いる)
誰か、いる。四人。知らない四人。なのはを見て、少女を見て、巨影を見て、それから、まるで頷くように——
残響は、一呼吸で消えた。
四騎は再び、無人格の、静かな型に戻っていた。ただしその姿は、剣、槌、盾、環のまま。振り上げられていた巨影の腕は、狼の大楯に受け止められ、剣に薙がれ、槌に砕かれて、影に還った。
リンディの手が、制御盤に届いた。
「基部——閉鎖!!」
龍脈の光柱が、根元から、断ち切られた。
同じ数瞬、旗艦の艦橋では、老提督のペン先が、未署名の一行の真上で止まっていた。塔の進路予測が居住圏警戒線に触れた、まさにその報告と同時に——予測線が、消えた。塔が、止まったのだ。ペンは紙に触れる寸前の高さで、三秒、静止し、それから、静かに置かれた。
「……署名は、まだだ」
切通しに、束の間の静寂が降りた。
なのはは、砲身を下ろさないまま、隣に降り立った祭服の少女を見た。聞くべきことは山ほどあって、選べたのは、一つだけだった。
「……ねえ。さっき、誰か——いたよね」
少女は、四騎の新しい姿を、順番に見た。剣。槌。盾。環。
「……うん」
小さな声で、言った。
「あったこと、ない。なまえも、しらない。でも——しってる、きがする、ひとたち。……いま、いってった。おかえり、って。それか——おねがい、って」
なのはは、それ以上、聞かなかった。聞く代わりに、空いた左手で、そっと少女の頭に触れた。四年間、誰かにそうしてもらった記憶のやり方で。
静寂は、長くは続かなかった。
龍脈を断たれた塔が、ゆっくりと、向きを変えた。
濁った空の下、顔のない頭部が、切通しを——正確には、切通しの中の、夜天の色をまとった小さな存在を、向いた。飢えた体系が、この地表で最も濃い「頁」の在り処を、見つけた向き方だった。
登録簿の読み上げを続けていた少女の声が、状況を告げる。
「とりがーの登録……八割。あれ、わたしを、みてる」
誰もが半歩、少女を庇う位置へ動きかけて——少女自身が、一歩、前に出た。
祭服の裾が、風に鳴った。
「こっちを、みた。——うん。それで、いい」
顔のない巨影を、赤い目が、まっすぐに見上げる。
「わたしを、みてて。……まちを、みないで」