魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
夢は、いつも、よく晴れた午後から始まる。
商店街のアーケードに、日が差している。自転車のベルが鳴る。八百屋の前でおばさんが値札を書き直していて、その隣で、下校途中の小学生が三人、何かの話で笑い転げている。
誰も、特別なことは言わない。
角のパン屋の前を通ると、いつもの匂いがする。信号待ちで、同級生が手を振ってくる。名前を呼ばれて、なのはは手を振り返す。夕飯の買い物袋が重い。もう少しで家だ。家に着いたら、玄関で誰かが「おかえり」と言う。姉が台所にいて、鼻歌を歌っている。母が、その歌の続きを引き取る。
それだけの夢だった。
事件も、別れも、涙の再会もない。ただ、世界が、まだ人でいっぱいだった頃の、なんでもない午後が、律儀に最後まで再生されるだけの夢。
暖かい。
暖かくて、そして、悲しい。
夢の中のなのはは、知っているのだ。
これが、この夢がいちばん最後まで見せてくれるところだと。玄関の戸に手をかけたところで、必ず終わると。
——ぜんぶ、これから、燃えるのだと。
目が覚めた。
〇二四八。艦の消灯時刻から、四時間と四十八分。
なのは・T・ハラオウンは、寝台の上で、天井を見ていた。
汗はかいていない。動悸もない。悲鳴も上げていない。四年前ならともかく、この手の夢で叫ぶ体は、もう卒業した。ただ、目が、乾いていた。
そして、静かだった。
商店街のざわめきも、自転車のベルも、鼻歌もない。空調が回っている音だけがする。艦は入渠中で、機関は止まっていて、だから今夜のゼルベロスは、なのはが知っているどの夜よりも静かだった。
誰も、いない。
夢の中には、あんなに、いたのに。
これで、四晩目だった。
彼女は起き上がり、寝台の脇に座って、しばらく自分の手を見ていた。
医療班の面談は、三日後にある。折れ線グラフは、三ヶ月前に底を打って、いまはようやく上向きの角度をつけたばかりだ。今ここで「眠れていません」と申告すれば、あの線は、たぶん、また寝る。
(……下げたら、駄目だ)
これはもう、彼女の思考の癖だった。自分を、線として見る癖。上がるか、下がるか。稼働か、非稼働か。四年かけて骨まで染みたその癖は、三ヶ月やそこらでは抜けない。
なのはは制服の上着を羽織り、音を立てずに部屋を出た。
整備ドックは、消灯後も、完全には暗くならない。
入渠中の艦の腹の中で、非常灯と、整備架の常夜灯だけが、点々と灯っている。第68管理外世界から帰ってきて、十一日。艦の損傷は片端から剥がされ、再生され、いまはまだ骨組みが露出したままの区画も多い。
その一角に、三つの架が並んでいた。
一つ目。ミニットマン051。中枢部を焼き切られ、外殻がひしゃげ、いまはただの黒い金属の塊に見える。オーバ老が「これは死体じゃのうて、材料じゃ」と言い張って、廃棄票を三度突き返した残骸だった。
二つ目。レギンレイヴ。持ち主が生きて帰ってきたので、こちらは修復待ちである。鎌の刃が、常夜灯を鈍く弾いていた。
三つ目。
なのはは、そこまで来て、いつものように腰を下ろした。積んである部品箱が、彼女の定位置だった。
セブンスウィル。
黒い長物。砲撃だけの道具。彼女の——いや、彼女だったものの、残骸を編み込まれた器。
「……こんばんは」
声をかけた。
返事は、なかった。
当たり前だった。この器から意思は取り除かれている。四年前に、丁寧に、几帳面に。だからこれは待機音を鳴らさない。おはようもおやすみも言わない。撃てと言えば撃つ。それだけの道具として、完璧に仕上げられている。
それでもなのはは、四年間、毎晩、こんばんはと言い続けていた。
癖である。
癖にしなければ、たぶん、言えなくなると思ったからだった。
「……夢、見ました」
黒い長物は、答えない。
「みんな、いたんです。あなたも、いました」
常夜灯が、じ、と鳴った。
「起きたら、誰も——」
「眠れないのか?」
なのはの肩が、跳ねた。
振り向くと、通路の口に、リョウが立っていた。片手にバインダー。腰に、鉛筆を挟んでいる。もう片方の——銀色の右手には、部品箱の蓋が一枚、ぶら下がっていた。
「リョウさん……こんな時間に、何を」
「棚卸し」
「たなおろし」
「予備部品の員数確認だ」
リョウは、実に不機嫌そうな顔で、バインダーを掲げてみせた。
「〇三〇〇に、無許可でな」
「……なんでですか」
「数えると、寝られるからだよ」
言ってから、彼はばつが悪そうに、鼻の頭を掻いた。銀色の指が、まだ加減を覚えていない。皮膚が少し赤くなった。
「昔から、そうなんだ。眠れねえ夜は、数える。弾数でも、部品でも、残高でも、なんでもいい。数えてると、そのうち意識が落ちる。……羊は駄目だ。あれは在庫じゃねえから、数えても増えねえし減らねえ」
「……ちょっと、分かります」
「分かるな」
リョウは部品箱の蓋を架に立てかけ、なのはの二つ隣の箱に腰を下ろした。オーバ老が、この区画の常夜灯を消さない理由が、なのはにも少し分かった気がした。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、リョウが、言った。
「四晩目か」
なのはの背中が、少しだけ強張った。
「……なんで」
「棚卸しは毎晩やってる。お前、毎晩ここにいる」
言い逃れのしようがなかった。
なのはは、膝の上で手を組んで、しばらく黙って、それから、ぽつりと言った。
「……眠ったら、もう、起きたくなくなる気がして」
リョウは、何も言わなかった。
「夢の中には、みんないるんです。家族も、友達も、そうじゃない人達も、みんな……」
言葉が、途切れた。
常夜灯が、じ、と鳴った。
「でも、目が覚めると……誰も、どこにも、いなくて……」
黒い長物が、答えない架の上で、静かに光を弾いていた。
「悪い夢じゃないんです。すごく、いい夢なんです。普通の、なんでもない午後の夢で。……だから、駄目なんだと思います」
彼女は、笑おうとして、失敗した。
「悪い夢なら、起きたら安心できるのに」
リョウは、鉛筆をバインダーの金具に挟んだ。
三秒。
いつもの手順を、この場面でも使った。一秒目、そこに何があるかを視る。二秒目、それが何かを決める。三秒目——撃つか、撃たないか。
該当項目は、なかった。
だから彼は、この一年で二度目になる項目外の行動を取った。要するに、思いつきで喋った。
「誰もいねえってことは、ないだろ」
「……え?」
「課長殿がいる。オーバの爺さんがいる。グレアもいる」
銀色の指が、一本ずつ、折られていった。
「……今はフェイトだっている。お前が助けた、お前の友達だ」
指が、四本折れて、止まった。
「誰も——いないわけじゃない。違うか?」
「あ……」
それは、分の悪い誤魔化しだった。
笑ってしまうくらいの、綺麗事だった。死んだ人間の数と、生きている人間の数を、同じ帳面に並べて、差し引きゼロですと言っているようなものだ。後悔するくらい下手くそな、慰め方だった。
だが。
同じ光景を見て、同じ星から出てきた人間の口から出たというだけで——その言葉は、ズルいくらいに、なのはの心の中へ、入り込んでしまった。
なのはは、しばらく、折られた四本の指を見ていた。
それから、小さく息を吸って、言った。
「……違いません。けど、ちょっと違います」
「?」
「『あなた』もいます」
なのはは、顔を上げた。
「リョウさんも、います。——私の引き金ですから、数のうちに入らないなんて事、ありません」
「……そうかよ」
リョウは、バインダーに視線を落とした。
落とした先の員数表の数字が、一つも頭に入ってこなかった。顔が、思わず熱くなったのを、彼は自覚した。
(……なんてこと言うんだ、この子は)
砲身と、引き金。そういう話をしているだけである。装備の呼称の話であって、それ以上でも以下でもない。ないのだが、この娘は時々、恐ろしく正確な言葉を、恐ろしく無防備に置いていく。三行の報告書と同じ調子で、必要なことだけを、まっすぐに。
リョウは、腹の底に湧いたよく分からない熱を、無理やり押し込んだ。押し込んで、それから、立ち上がった。
「……よし。棚卸しは終わりだ」
「え、まだ半分も」
「終わりだ。送ってく」
「あの、私、一人で」
「送ってく」
二度言われたので、なのはは、素直に立ち上がった。
通路は、静かだった。
非常灯の緑が、一定の間隔で、床に落ちている。二人分の足音だけが、入渠中の艦の骨組みに、低く反響していた。
三つ目の角を曲がったところで、リョウが、ふいに口を開いた。
「一。課長殿」
「……え?」
「二。オーバの爺さん。三、グレア。四、フェイト」
銀色の指が、また、一本ずつ折られていく。
「五、整備班のカラス。六、通信のミレイ。七、厨房のロブ——あいつ、唐揚げの油をお前の分だけ変えてるからな。八、医務室のアシャ。九、砲雷長」
「リョウさん、あの」
「黙って聞け。俺は棚卸しの途中なんだ」
なのはは、黙った。
十。十一。十二。名前は、途切れなかった。リョウは、ゼルベロス乗員名簿を、頭から順に読み上げていた。階級順でも部署順でもなく、たぶん、彼が顔と名前を覚えた順に。
二十を超えたあたりで、なのはは、自分の歩幅がゆっくりになっていることに気づいた。
三十を超えたあたりで、瞼が重くなった。
「……三十七、機関のドロテア。三十八、洗濯場の——名前なんつったかな、あの背の高い」
「……ヤンさん、です」
「そう、ヤン。三十八、ヤン」
なのはは、気づいてしまった。
自分が、いま、歌を聴いているのだと。
歌詞はない。節もない。ただ、名前と、数字が並んでいるだけだ。だがそれは、五年ぶりに、彼女が「聴く側」で聞いている歌だった。歌う側ではなく。
滅んだ星の子守唄は、四年間、彼女の担当だった。母が歌い、姉が歌い、そして最後に彼女のところで止まった歌。仕舞い場所がないから、自分で歌い続けるしかなかった歌。
誰かが、代わりに数えてくれるということが、こんなに眠いことだとは、知らなかった。
「……四十二、ええと」
「リョウさん」
「あ?」
「もう少しだけ、続けてください」
リョウは、二秒黙って、それから、少し乱暴に言った。
「……四十二、資材のギム」
居住区の、逆さまの札のかかっていない扉の前で、なのはは足を止めた。
「五十一まで、いきました」
「まだ半分だ。乗員百七名だからな」
「……残りは、また今度でいいですか」
「在庫は逃げねえよ」
なのはは、笑った。今度は、失敗しなかった。
「おやすみなさい、リョウさん」
「おう」
扉が閉まる寸前、彼女は、ほんの少しだけ顔を出して、付け足した。
「あの。……五十二番目は、私にしておいてください」
「なんでだよ」
「数えられる側も、たまにはやりたいので」
扉が、閉まった。
リョウは、しばらく通路に突っ立っていた。
それから、頭を掻いて——銀色の方の手で掻いてしまって、また皮膚を赤くして——ドックへ引き返した。
三つの架の前を通り過ぎるとき、彼は足を止め、黒い長物の架を、拳の背で、軽く一度、叩いた。
「……おやすみ」
返事は、なかった。
当たり前だった。
「お前も、律儀だな」
彼は、そう言って、通路の常夜灯の下を歩いていった。
その夜、艦の中で、二冊の帳面に、同じ時刻が記された。
一冊は、リョウの帳面。
『〇三〇〇、棚卸し。予備部品、五十一点まで。残りは翌日以降』
少し考えて、下に一行、書き足されている。
『——在庫の数え方を間違えていた。減った分を数えるな。今ある分を数えろ』
もう一冊は、なのはの日記だった。
彼女がこれを書き始めたのは、三ヶ月ほど前、執務室で上官が鉛筆を舐めながら何か書き込んでいるのを見た日からである。真似をしたのだと言うのは、少し恥ずかしかったので、誰にも言っていない。
書き方も、真似た。つまり、三行だった。
『眠れなかった。ドックに行った。』
『数えてもらった。』
『五十一人いた。』
そして、少し間を空けて、小さな字で、四行目が付け足されている。
『——五十二人目に、自分を数えていいと言われた。』
その夜以降、なのはは、あの暖かくて悲しい夢を、見なくなった。
商店街も、自転車のベルも、玄関の戸も、出てこなくなった。代わりに時々、名前と数字だけが並んだ、ひどく退屈で、ひどく安心する夢を見るようになった。
このことを、彼女は誰にも言っていない。日記の隅に書いただけである。
二冊の帳面は、それぞれの部屋の抽斗に仕舞われた。どちらも、相手には見せていない。
——いつか、この二冊が同じ卓の上に並ぶ日が来ることを、まだ、二人とも知らない。
『あなた』と呼ばせたかっただけ。
ネタが思いついたらまた投稿する、かもです。