魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
作戦説明は、歩きながら行われた。
「じゅんばん、いいます。いちばん——わたしとなのはで、共鳴をひらく。にばん——なのはが、あれを固定して、とりがーのまわりの黒を、剥がす。さんばん——ふぇいとが、虚数のふかさで、根を切る。よんばん——わたしが、登録を、消す。ごばん——」
少女は、いちど息を吸った。
「——三人で、ぜんぶ、消す」
「共鳴、というのは」
なのはの問いに、少女は、なのはの胸の真ん中を、小さな指でそっと差した。
「なのはのコア。五年前、あの夜の嵐で、かわったでしょ。あの嵐は——わたしの、嵐なの。だから、なのはのコアと、わたしのコアは……おなじ夜に、うまれてる」
「…………」
「つなげば、わかる。なのはの弾が、あれの『うちがわの血』とおなじ署名になる。——じぶんの血は、たべられない」
二十日間、誰にも喰い破れなかった防御の、最後の裏口だった。なのはは自分の胸に手を当て、五年間「あの夜の傷」だと思ってきたものを、少しの間、見つめ直した。
「……きょうだい、みたいなものってこと?」
「……うん。たぶん、そう」
開放回線の向こうで、医療係数の警告が鳴ったのは、その時だった。
『ヴァレル1』リンディの声だった。制御点の端末に、なのはの医療記録が開いている。『固定術式の要求出力、あなたのコアの補填機構が起動する域よ。共鳴で削れは最小化できる。それでも——推定で、折れ線の、二年ぶん』
二年。
九ヶ月かけて上ってきた坂の、その先の二年。開放回線は、旗艦の艦橋まで繋がっていた。老提督も、査察官も、艦隊の全員が、その数字を聞いていた。
なのはは、砲身を担ぎ直した。
「それでも——」
声は、震えなかった。
「未来を差し出してでも、今……助けたい人が、いるんです」
回線の向こうで、誰も、何も言わなかった。言わないことが、艦隊ぶんの敬礼だった。
共鳴は、夜明け前の薄闇の中で、開いた。
桜色と、夜天の色。二つのコアの波形が、同じ周波数を探り当てて、重なる。同じ嵐から生まれた二つの器が、五年越しに、初めて互いの音を聞いた。
「——いきます」
なのはの射撃が、変わった。
降り注ぐ光は桜色のまま、その芯に、夜天の署名が編み込まれている。黒い塔の表皮が、いつものように渦を巻いて飲み込もうとして——飲み込めなかった。自分の血管を流れる血を、胃袋は喰らえない。着弾は着弾のまま、初めて、黒の表面で弾けた。
塔が、初めて、揺らいだ。
「固定、はじめます!」
セブンスウィルの砲身に、これまでのどの収束とも違う光が満ちていく。撃ち抜くための光ではない。留めるための光。桜色の座標杭が、十二本、二十四本、塔の周囲の空間そのものに打ち込まれ、暴れる巨体を、世界に縫い付けていく。
そして——剥離。
縫い付けた黒の表皮を、糸を解くように、一枚、また一枚。乱暴に破れば中の芯ごと傷つく。だからなのはは、極大出力のまま、外科手術の精度で撃ち続けた。削らない撃ち方の、一年の集大成を、燃費のことなど考えない出力で。視界の端が白く飛ぶ。鼻の奥で、何かが切れる音がした。数える。まだいける。まだ、いける。
塔の胸部の編み目が、剥がれ落ちた。
その奥に——小さな空洞と、銀色の、握られたままの拳が、露わになった。
黒の、いちばん深いところで。
リョウは、もう、勘定ができなくなっていた。
九割、まで数えたのは覚えている。そこから先は、頁をめくられるたびに、めくられているのが自分の何なのか、分からなくなった。唐揚げの味。三秒の長さ。折れ線の角度。逆さまの「ヤ」。一枚ずつ写し取られて、写し終わった場所から、暗くなっていく。
拳だけを、握っていた。
もう、何のために握っているのかも、曖昧になった拳を。
(……なんの、契約だったか)
思い出せない。思い出せないまま、指だけは、頑固に閉じている。
その暗がりに——ころころ、と。
車輪の音がした。
「——見ぃつけた」
声は、春の日向の温度をしていた。
リョウは、重い瞼のようなものを持ち上げた。頁の海の底、暗い水の中に、そこだけ小さく、光が溜まっている。光の中に、車椅子が一台。そこから立ち上がって、こちらへ歩いてくる、小柄な影が一つ。
九つか、十。茶色の髪。柔らかい目元。
名鑑が——擦り切れた名鑑の、最後まで残っていたページが、ひとりでに、開いた。
(……八神、はやて)
本物の。最初の。最後の正規の主が、そこにいた。
「立って歩くの、久しぶりやわあ」
少女は、自分の足元を珍しそうに見下ろして、笑った。
「ここでだけは、立てるんよ。ええとこ、ここだけやけど」
「……あんた、ずっと、ここに」
「うん。五年。……夜勤みたいなもんやね。ほっとくと、この子——この黒い子、もっと酷いことするから。内側から、袖、引っぱっとった」
五年。この黒の中で。世界でいちばん優しい設定のページが、世界でいちばん醜いものの内側で、たった一人、袖を引き続けていた。
リョウの口が、勝手に動いた。
「……悪かった」
「なにが?」
「俺は、知ってたんだ。あんたの話を。あんたが本当は、どういう話の、どういう主人公になるはずだったか。……知ってて、何も」
「あー、それ以上言うたら、怒るよ」
少女は、腰に手を当てた。九歳の、精一杯の怖い顔だった。
「わたし、謝られるの、いちばん嫌いやの。それより——お礼、言わせてくれる?」
「……礼?」
「わたしの名前の子。……見とったよ、ぜんぶ。頁の内側からやけど。唐揚げと、拳のけいやくと、名札と、子守唄。あの子、わたしの五年ぶんまで、笑ろたり泣いたりしてくれた。あんたらが、あの子に家族をくれた」
少女は、まっすぐにリョウを見た。
「わたしの名前、あの子にあげてええよ。……ううん、ちゃう。もう、あの子の名前や。わたしが言うんやから、間違いない」
外の世界で、金色が、跳んだ。
「——ヴァレル2、潜行します」
フェイトは、剥離の進む塔の根元、実在の位相が薄く撓んでいる一点へ、レギンレイヴⅡを構えたまま、真っ直ぐに堕ちた。
視界が、裏返る。
色のない海。時間の秤の壊れた場所。一年間、彼女が眠っていた、あの虚数の底。あの時は、流されて沈んだ。今日は——自分の意志で、潜った。
(……ただいま。そして)
黒い根が、見えた。実在の床の半歩下、この海の浅瀬に、太い錨のように食い込んだ、呪いの根が。
(——今度は、迎えに行く番)
金色の刃が、虚数の水を裂いて、一閃した。
根が、断たれた。
同じ瞬間、地上では、少女が——ヤガミ・ハヤテが、登録簿を開いていた。
夜天の頁が彼女の周りを旋回し、その中央に、あの欄が浮かんでいる。呪いが書き進めてきた、「次の主」の欄。クルス・リョウの名が、九割九分まで、黒い文字で組み上がっている。
「——消します」
正規の主の権限が、欄に触れた。呪いが、抵抗した。書きかけの名前に何重にも指を絡め、渡すまいと握り込む。権限と、執着が、一文字の上で拮抗し——
その握った指を、内側から、そっと剥がす手があった。
「はい、そこまで」
頁の海の底で、本物の八神はやてが、黒の指を一本ずつ、慣れた手つきで解いていた。五年間、袖を引き続けた手つきで。
「二人がかりやよ? ——現役の主と、先代の主。あんたに勝ち目、あらへん」
欄の上で、黒い文字が、末尾から順に、ほどけていった。九割九分。九割。八割。躊躇なく、容赦なく、二人の主の二重の拒否が、強奪の署名を、白紙に還していく。
リョウの中で、写し取られていたものが、逆流を始めた。唐揚げの味。三秒の長さ。折れ線の角度。逆さまの「ヤ」。一枚ずつ、返ってくる。
「ほら。返してもろたよ、全部」
少女は、リョウの前に、小さな拳を、突き出した。
「最後に、けいやく、いっこ。……あの子のこと、これからも。それと、あんた自身のことも、ちゃんと。ええね?」
リョウは、暗い水の中で、自分の右手を見た。握り続けて、何の契約か忘れていた拳を。忘れても、握っていた理由が、目の前にいた。
こつん、と。
音のない海で、確かに、音がした。
「……そろそろ、うちも寝るわ。五年ぶんの夜勤、今日で、あがりやから」
少女の輪郭が、光の粒になって、ほどけ始めていた。頁が、めくれていくように。上へ、上へ。少女は最後に、車椅子を振り返りもせず、自分の二本の足でしっかりと立ったまま、リョウに向かって、笑った。
「あなたにはまだまだ、やる事がありますからね」
「……しんどいな、まったく」
「ふふ。——ほな、いってらっしゃい」
小さな手が、リョウの背中を、押した。
暗い海が、割れた。
割れた先に、光が届いていた。桜色に剥がされた黒の裂け目の向こうから、まっすぐに、投げ込まれてくるものが一つ。なのはが、砲ではなく、肩で投げたそれは、回転しながら空洞に飛び込み、銀色の拳の、すぐ前で——鳴いた。
《Ready.》
ゼロ距離の、相棒の声だった。
拳が、動いた。ようやく、掴むために。銀色の指が051改を握り込んだ瞬間、桜色と夜天の色の光が導管になって、空洞の奥から、一つの体を——引きずり出した。
「——とりがー!!」
「リョウさん!!」
黒の外へ、クルス・リョウが、生還した。落ちてくる体を、なのはが空中で受け止める。腕の中の重さは、あの夜と同じで——温度だけが、違った。
核を失い、根を断たれ、登録を白紙にされた黒い塔が、声のない絶叫のように、輪郭を膨らませた。
「——いまです! ごばん!!」
三つの光が、並んだ。
桜色。金色。夜天の色。固定の杭に縫われた黒い巨体へ、三方から、三条の極大が撃ち放たれ——空中で、絡み合った。三重の螺旋。一年前、ゼルベロスの三門が描いたものと同じ形を、今日は、三人の人間が描いていた。
螺旋が、黒を貫いた。
呪いは、燃えなかった。爆ぜもしなかった。ただ——ほどけた。編まれていた文が、一行ずつほどけて、ただの線になり、線がほどけて、ただの墨になり、墨が薄れて、そして。
夜明けが、通った。
来なかった朝が、遮るもののなくなった空を、東から西へ、静かに渡っていく。切通しの上に、遺構の上に、百キロ先の、朝刊の匂いのする街の上に。
旗艦の艦橋で、若いオペレーターが、震える声で聞いた。
「て、提督……戦闘記録の、あの三条の光の識別名は、なんと記入すれば」
老提督は、白み始めた空の三つの光点を、長いこと見ていた。未署名のままの書類が、机の上で、朝の色に染まっている。
「————『切り札』と、書いておけ」
なのはの腕の中で、リョウが、薄く目を開けた。
視界は、まだ滲んでいる。それでも、三つの声が近くにあることは、分かった。桜色の相棒の声。金色の、堅い泣き声。そして、覚えたての言葉を全部使って何かを叫んでいる、小さな声。
(……ああ、そうか)
薄れていく意識の底で、リョウは、擦り切れた名鑑の表紙を思った。あの物語には、三人の主人公がいた。三人のエースが、いた。
(この世界は……五年遅れで——エースが、揃ったんだ)
銀色の拳が、ゆっくりと、ひらいた。
閉じ続けた指が、一本ずつ、ほどけていく。ひらいた手のひらに、小さな手が——ちゃんと、届いた。