魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~   作:ちょわわ

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第2.5部
第37話『Serial』


『実地試験計画書(抄)

 

供試体:TB-03

試験区分:実環境総合試験(最終)

試験環境:実事案より選定(公開事故報・第44-0817号)

判定基準:別紙二に定める全二十六項目

特記事項:供試体の回収が不能と判断された場合、供給契約第八項(廃棄手順)を適用のこと。なお、第八項の適用は試験成績に影響しない。』

 

 計画書は、そう述べている。

 

 誰が計画したのかは、どこにも述べられていない。

 

---

 

 『闇の書』事件の終結から、三ヶ月が過ぎた。

 

 ゼルベロスのブリーフィングルームには、いつもの立体投影図と、いつもより一人多い顔ぶれがあった。

 

「では、セイフティの管制実習を兼ねます。回線はエイミィが見ているから、安心なさい」

 

「はい、かんちょう」

 

 管制席の隣で、銀色の髪の小さな頭が、真剣に頷いた。卓の高さが合わないので、座布団が二枚重ねてある。

 

 投影図に映し出されたのは、見慣れた廃墟だった。

 

「第44管理外世界、旧サントレア市。未明、市街東区でロストロギア起因と推定される魔力暴走反応。規模は中。……本課に標準要請よ」

 

「三度目だぞ、あの街」

 

 リョウが、うんざりした顔で言った。

 

「呪われてんじゃねえのか」

 

「呪いなら本課の管轄です」フェイトが手帳を開きながら、真顔で返した。「前回、前々回の事案記録は転送済みです。現地の地形は、頭に入っています」

 

「ん。じゃあ、行こっか」

 

 なのはが、軽く伸びをして立ち上がる。三人の踵が揃うのを見届けて、リンディは通信席へ視線を送った。

 

「エイミィ、反応の推移は?」

 

「それが……変なんですよね」

 

 エイミィ・リミエッタは、画面上の減衰曲線を指でなぞった。

 

「暴走反応、もう収束し始めてます。それも、すごく——行儀よく」

 

---

 

 第44管理外世界、三度目のサントレア市。

 

 降下した三人を迎えたのは、戦闘ではなかった。

 

 戦闘の、跡だった。

 

 崩れた高架。焼き切られた自律機兵の残骸が、通りに沿って、点々と横たわっている。どの残骸も駆動部だけを正確に潰され、魔力炉は無傷のまま沈黙していた。教科書のような無力化。分析班が泣いて喜ぶ形の、鹵獲前提の止め方。

 

 フェイトが、最初の残骸の前で、足を止めた。

 

「……縛鎖の係留痕。間隔、三・二メートル」

 

「それが?」

 

「私の間隔です」

 

 彼女は顔を上げ、通りの先を目でなぞった。

 

「進入は東の高架から。第一射で退路、第二射で足、第三射で武装。仕上げの斬角は左下から——取り回しの癖まで、私の手順です。レギンレイヴ・ワンだった頃の、私の」

 

 彼女は、潰された駆動部を、指でなぞった。

 

「……でも、止め方は、私ではありません。魔力炉を残して、駆動部だけ。前回、この街で、リョウさんとなのはちゃんがやった通りの」

 

「撃つのは駆動部だけ、ってか」

 

 リョウは、自分がこの街で怒鳴った台詞を、そのまま口にした。

 

「俺らの報告書まで、読んでやがる」

 

 リョウは、瓦礫の上に片膝をついた。

 

 一秒目。そこに、何がある。

 

 戦場の、跡がある。

 

 二秒目。それは、何だ。

 

 (——写しだ)

 

 背筋を、冷たいものが這った。誰かが、フェイトの戦闘記録を読んだ。読んで、憶えて、この街で再生した。

 

「ただ、一つだけ違います」

 

 フェイトの声が、少しだけ硬くなった。

 

「全部が——〇・四秒ずつ、速い」

 

「〇・四?」

 

「私は撃つ前に、〇・四秒、確認を置きます。三秒には届かない、私なりの見取りです。……これには、それが、ありません」

 

 躊躇の欠落。それだけが、写しと原本を分けていた。

 

『——ヴァレル各機、トリガー。熱源、一つ』

 

 グレア三佐の声が、回線に乗った。

 

『中央広場。静止。……上空へ向けて、細い通信波を出し続けています』

 

---

 

 中央広場の噴水跡に、それは立っていた。

 

 黒い機体。フェイトより頭半分高い、細身の輪郭。背部に折り畳まれた鎌状の武装。周囲に薄く、金色の雷光が纏いついて、静電気のように爆ぜている。

 

 顔は、上げていない。ただ静かに、空へ向けて、何かを送信し続けている。

 

「照会かけます」

 

 エイミィの指が走った。

 

『照会結果——魔導師登録、該当なし。騎士登録、該当なし。デバイス登録、該当なし。……あ』

 

 声が、一度、途切れた。

 

『……貨物台帳に、該当。品目分類:戦術ユニット。型式:TB-03。所有名義:『第七資材信託』——ダミーです、これ。実体のない名義』

 

 貨物。

 

 その二文字が、艦橋の空気を変えたのが、回線越しにも分かった。

 

「呼びかけなさい」

 

 リンディの声は、静かだった。

 

「管理局第01ロストロギア事件課より、当該——当該者へ。武装を解除し、応答を」

 

 応答は、あった。

 

『本ユニットは、応答の権限を有しません。本件に関する照会は、所有名義人へお願いします』

 

 平坦な、録音の声だった。

 

「繰り返します。当該者へ——」

 

『本ユニットは、応答の権限を有しません。本件に関する照会は、所有名義人へ——』

 

 一言一句、同じだった。二度目で、全員が理解した。これは会話ではない。留守番電話だ。

 

『……課長、交戦規定を照会しました』

 

 グレアの声が、珍しく、掠れていた。

 

『投降勧告の対象区分に——貨物の項が、ありません。規定上、あれには、降伏する資格がありません』

 

 リンディ・ハラオウンが、息を一つ、深く吸うのが聞こえた。

 

 その沈黙に、なのはの声が、ぽつりと重なった。

 

「……課長殿。三人目、見つけちゃいました」

 

 回線の向こうで、リンディが、笑った気配がした。一年あまり前、幕僚たちに向かって二人目の保護を宣言した時と、同じ種類の呼吸で。

 

『——確保。保護案件として扱いなさい』

 

 その瞬間、送信が、止まった。

 

 黒い機体が、初めて、顔を上げた。

 

---

 

 リョウは既に、廃ビルの三階で照準線の中にそれを収めていた。

 

 一秒目。そこに、何がある。

 

 金色の雷を纏う、機影。

 

 二秒目。それは、物か、命か。

 

 台帳は、物だと答えた。

 

 スコープの中で、機体が、顔をこちらへ向けた。逆光が外れて、その素顔が、光学系の中心に入った。

 

 フェイトの、顔だった。

 

 金色の目。同じ輪郭。同じ年頃の。ただし表情という機能を、一度も使ったことのない顔。

 

 命だと、顔が答えた。

 

 この一年半、二択で回してきた手順が、生まれて初めて、答えを二つ同時に返した。

 

 そして——三秒目が、来なかった。

 

 金色の目が、スコープ越しに、まっすぐ、彼を見ていた。

 

 (……こっちを、見てる?)

 

『トリガー、逃げてください!』

 

 フェイトの声が、回線で跳ねた。

 

『第一目標は狙撃位置です! 私の手順なら——最初に、あなたを潰します!』

 

 機影が、消えた。

 

 消えたのではない。〇・四秒ぶんの確認を削った全速が、人の目の追える速さを超えただけだった。

 

「——冗談じゃねえ!」

 

 考えるより先に、足が床を蹴った。

 

 リョウが窓枠から身を投げた、その背後で、三階の床が、斜めに切り落とされた。鎌の軌跡が、さっきまで膝をついていた場所を、コンクリートごと二つにしていた。

 

 落ちながら、見た。

 

 切断面の向こう、崩れる三階の縁に、黒い機体が立っていた。もう、次の軌道を組んでいる。二階の窓。一階の庇。落下の先の、着地点。全部、読まれている。

 

 (——読まれてるなら、読まれてる所に、いなきゃいい)

 

《Ready.》

 

 銀色の右手で、二階の窓枠を掴んだ。落下を殺さず、振り子にして、横へ。義手の関節が悲鳴を上げた。着地点を狙った雷撃が、誰もいない舗道を焼いた。

 

 庇を蹴る。瓦礫の陰へ転がり込む。鎌の二撃目が、瓦礫の上半分を持っていった。

 

 避けた。

 

 避けただけだった。一発も撃てていない。撃つ隙が、どこにもない。

 

「……フェイト。これ、お前の癖か」

 

『——はい。狙撃手は、足場ごと崩す。私の手順です』

 

「性格わりいな、昔のお前」

 

『……記録します』

 

 三撃目の軌道が、見えた。

 

 見えただけで、体が、間に合わなかった。

 

 桜色が、割り込んだ。

 

「——撃ちます!」

 

 なのはの誘導弾が、斜め上から六条、黒い機体へ降った。退路を塞ぐ配置。一年前のレギンレイヴ・ワンなら、この網は抜けられない——

 

 抜けた。

 

 機体は、網の目の、いちばん細い一つを、身を捻って通り抜けた。雷光の尾が、誘導弾の間を、縫うように。

 

「……海の位相の、抜け方です」

 

 フェイトが、低く言った。

 

「私が、なのはちゃんの弾を、一度だけ抜いたときの——」

 

 その一度が、教科書に載っていた。

 

---

 

 金色と、金色が、激突した。

 

 リョウから引き剥がすように、フェイトは真横から斬り込んだ。鎌と鎌が咬み合い、火花が、噴水跡の水面を白く照らした。

 

 初撃で、分かった。

 

 速い。一年前の私だ。全盛期の出力、海の位相で磨かれた機動、そして——確認の〇・四秒が、ない。撃つと決める前に、もう撃っている。

 

 二合目。鎖が咬み合った。相手の鎖の方が、〇・四秒、先に張られていた。

 

 三合目。左下からの斬角。知っている。知っていて、受けきれなかった。

 

 鎌の柄が、フェイトの胴を薙いだ。

 

 体が浮いた。噴水の縁石に背中から叩きつけられ、干上がった水盤の底を、二度、跳ねた。肺から空気が抜けた。視界の上半分で、空が、白く点滅した。

 

『ヴァレル2! 生体値——』

 

「……問題、ありません」

 

 問題は、あった。機械化された左半身が、衝撃の処理に、〇・二秒ずつ遅れていた。

 

 黒い機体が、水盤の縁に立った。見下ろしていた。見下ろす、という表情も使わずに。

 

 次の一撃の軌道を、フェイトは知っていた。

 

 知っているのは、当然だった。教科書が、彼女なのだから。

 

 (……でも)

 

 フェイトは、起き上がった。起き上がりながら、呼吸を一つ、数えた。

 

 (教科書に、載っていない頁が、ある)

 

 四合目。

 

 彼女は、あえて、止まった。

 

 〇・四秒。旧い彼女なら決して置かない、確認の間。

 

 TB-03の予測演算は、ロキの手元にあったレギンレイヴ・ワンの記録に基づいて、「そこにいるはずのフェイト」へ最適解を撃ち込み——〇・四秒ずれた現在の彼女の前を、鎌が、空振りで通り過ぎた。

 

 その手首を、金色の縛鎖が、搦め捕った。

 

「あなたの読みは、一年前の私」

 

 鎖が、軋む。

 

「——私は、その続きです」

 

『ヴァレル2、跳んで!』

 

 フェイトが跳び退いた空間へ、桜色の面が降ってきた。収束砲——貫通ではなく、圧殺の設定。さっき網を抜けた相手に、なのはは網を張らなかった。抜ける隙間ごと、面で塗り潰した。夜明け色の圧力が、黒い機体を広場の中心へ、静かに、しかし絶対の力で押さえ込んだ。

 

「動かないで」

 

 なのはは、砲口の向こうへ、告げた。

 

「……今度のは、押さえるだけ。痛くしないから」

 

 金色の縛鎖が、四肢を取った。フェイトが自分の手で、自分の写しを、地に縫い止めた。

 

 機体は、三秒、抵抗して——

 

『……送信、再開!』

 

 エイミィの声が、跳ねた。

 

『一回だけ、大きいの! 今の交戦、まるごと——宛先、追えません!』

 

 負けた記録を、それは、律儀に、どこかへ提出した。

 

 それから、ふ、と、全ての出力を、自分から落とした。

 

『交戦継続、不能。回収成立と判定——』

 

 その声に、フェイトの背筋が凍った。

 

 録音ではなかった。合成だった。彼女自身の声紋から起こされた、彼女の声。

 

『——供給契約第八項へ、移行します』

 

---

 

『第八項!?』

 

 エイミィの声が跳ねた。

 

『侵入します、系統さえ割れれば——』

 

 彼女の指が卓を叩き、遠隔の楔が防護式へ突き立てられ——弾かれた。

 

『干渉を検知。手順を、繰り上げます』

 

「やめなさい!」

 

 リンディの声。エイミィの手が止まる。管制席の隣で、小さな影が、流れてくる防護式の術式構文を、食い入るように見つめていた。

 

『……かんちょう』

 

 はやての声は、小さかった。

 

『……この、じ』

 

 小さな指が、流れる構文の一点を、まっすぐに指した。

 

『しってる。……ろきの、じ。かけてた、ぺーじの、じ』

 

 広場では、フェイトが、自分の張った縛鎖を、自分の手で引き千切ろうとしていた。

 

「解除します、待って——!」

 

 鎖に触れた瞬間、機体の内側で、何かの駆動音が、一段、速くなった。

 

『外部接触を検知。手順を、繰り上げます』

 

「————っ」

 

 助けようとする手が、全て、砂時計を傾ける仕様だった。

 

『オーバ老! 構造は——』

 

『分からん!』

 

 工房から繋いだ回線の向こうで、老技師が、初めて聞く声で吼えた。

 

『設計図がなけりゃ、どこも触れん! ……この機械には、止め所が、どこにも設計されとらんのじゃ!』

 

 フェイトは、鎖から手を離した。

 

 力は、砂時計を速めるだけだ。ならば、と彼女は機体の正面に回り込み、その金色の目を、真っ直ぐに覗き込んだ。

 

「聞いて」

 

 声が、震えた。

 

「あなたは、断れる。契約なんかじゃなく、あなたの言葉で、応答して。私は——私たちは、あなたを」

 

《Yes, sir.》

 

 返事では、なかった。

 

 それは彼女に向けられた音ですらなかった。機体が自分の内側の手順に返した、ただの復唱だった。

 

 金色の目の奥で、灯が、外周から順番に、消え始めた。

 

 その光の落ち方を見て、フェイトは、分かってしまった。

 

 (——私と、同じ)

 

 灯の消える順番。回路の閉じる順番。彼女自身の、機械の半分が、同じ順番で組まれている。なら、芯の位置も、同じはずだった。

 

 触れれば、速まる。

 

 速まるより先に、届けばいい。

 

「なのはちゃん、数えて!」

 

「え——」

 

「私の中枢と、同じ位置なら——胸骨の下、左に二つ! 装甲の継ぎ目を割って、芯を掌で——!」

 

 フェイトは、胸甲の継ぎ目に指を掛けた。

 

『外部接触を検知——』

 

 駆動音が、跳ね上がった。灯が、一列、二列、まとめて落ちた。

 

「——三、二……!」

 

 なのはの声。

 

 継ぎ目が、割れない。どこを押せば開くのか、知らない。自分の体の図面を、彼女は、一度も読んだことがなかった。

 

 指が、滑った。探した。二つ目の継ぎ目。そこだ——

 

『全試験項目——完了』

 

 彼女の声で、それは言った。

 

『総合判定、合格』

 

 最後の灯が、消えた。

 

『TB-03——業務を、終了します』

 

 フェイトの指が芯に届いたのは、その、〇・八秒後だった。

 

 掌の中で、何かが、もう、冷えていくところだった。

 

 細身の機体が、前へ倒れた。

 

 フェイトが、抱き止めた。

 

 重かった。

 

 機械の、重さだった。

 

 彼女はその重さを、知っていた。一年あまり前、第68の油色の空で、抱き止められた側だったから。あのとき自分が誰かの腕にかけた重さが、いま、寸分違わず、彼女の腕の中にあった。

 

 広場は、静かだった。

 

 なのはが降りてきて、隣に膝をつき、何も言わずに、フェイトの肩に手を置いた。

 

 通信波の消えた空を、リョウは瓦礫の陰から、三秒よりずっと長く、見上げていた。

 

---

 

 回収の様式は、一種類しかなかった。

 

『回収物品目録

 

品名:______

数量:一

回収地点:第44管理外世界・旧サントレア市中央広場

状態:機能停止』

 

 フェイトは記録卓の前に座り、ペンを取り、品名の欄の上で——止まった。

 

 三十秒、止まった。

 

 それから彼女は、空欄のまま署名欄に名を書き、目録を提出した。空欄不可、と様式の隅に印字されているのを、確かめた上で。

 

 艦長決裁の画面に上がってきたその不備書類を、リンディ・ハラオウンは三秒見て、何も言わずに、受理の印を捺した。

 

---

 

 その夜、ゼルベロスの工房。

 

 白い照明の下、作業台に、黒い機体が横たえられていた。

 

 検分は、オーバ老が自分でやった。若い衆には触らせなかった。皺だらけの指が、装甲の合わせ目を一つずつ辿り、やがて、胸部の銘板の前で止まった。

 

『型式:TB-03』

 

 その刻印の、すぐ下。

 

 銘板の金属が、細長く一箇所、削り取られていた。旋盤で浚った、几帳面な削除の痕。目を凝らせば、削り残しの底に、旧い刻印の影がかろうじて読み取れる——文字が、確かに、あった痕跡。何と書かれていたのかは、もう、誰にも読めない。

 

「……名前を、消してやがる」

 

 リョウが、低く言った。銀色の右手の関節が、まだ、軋んでいた。

 

「シリアルより前に、こいつには、名前があったんだ」

 

 彼は銘板の数字を、指の背で軽く叩いた。

 

「〇三。……序数ってのは、在庫の告白だぜ、オーバ老。最低でも、あと二つ、どこかにいる」

 

 老技師は、答えなかった。

 

 若い整備員が一人、気を利かせたつもりで、部品仕分け用の箱を作業台の脇に運んできた。外装は外装、駆動部は駆動部——残骸を材料棚へ移すときの、いつもの手順である。一年あまり前、ミニットマン051の亡骸のときも、そうした。あのとき老技師は「これは死体じゃのうて、材料じゃ」と言って、廃棄票を三度突き返したのだ。

 

 箱に伸びた若い手首を、オーバ老の指が、掴んで止めた。

 

「……オーバ老?」

 

 老技師は、作業台の上の、表情という機能を一度も使わなかった顔を、長いこと見下ろしていた。

 

 それから、静かに言った。

 

「——これは、材料じゃのうて、死体じゃ」

 

 誰も、動かなかった。

 

 オーバ老は棚から白布を一枚取り、皺を伸ばし、細身の機体の上に、頭から順に、そっと掛けた。管理局のどの様式にも載っていない、ただそれだけの手順だった。

 

 工房の入口で、フェイトは、自分の右の掌を見ていた。

 

 芯に届いた指。〇・八秒、遅れた指。

 

 その夜、工房の隅の帳面は、開かれなかった。

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