魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
第7話『Lesson』
『学習経過報告書(第三十六回)。
報告者:アグネス・ウェルズリー(第68管理外世界、家庭教師)。
受講者:フォルトゥナ・T・ハラオウン。
出席:皆勤。課題:提出済み。姿勢:良好。
特記事項:言葉遣いに、変化あり』
報告書は、そう述べている。
変化の向きがどちらであるかは、報告者の判断では、述べられていない。
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第68管理外世界の秋は、石炭の匂いに、落葉の匂いが混じる。
復興区の外れの、煉瓦造りの家。元は女学校の寄宿舎だった建物の一角に、老婦人が一人で住んでいた。アグネス・ウェルズリー。四十年、良家の娘に礼儀と言葉を教えて、引退した人である。
何年か前の秋、ガス灯の街が空から降る何かに襲われた夜、彼女は避難所の列の中にいた。黒い制服の少女が、逃げ遅れた新聞売りの子に「逃げることにも役目がある」と言うのを、列の後ろの方で、聞いていた。
その少女の名を、彼女は、後になって知った。
引退してから、彼女は、坂の下の食堂で昼を取るのを日課にしていた。年配の夫婦がやっている、揚げ物の旨い店である。係の人らの溜まり場やから、と女将は笑う。その女将から、ある日、相談を受けた。預かっとる子に、言葉を教えてやってくれへんか、と。
彼女は、一度も、断らなかった。
それから三年、娘は、毎日、坂を上ってくる。
「──フォルトゥナ。お茶ですよ」
「確認。……了解しました」
娘は、書斎の机から、顔を上げた。金色の髪。金色の目。胸の継ぎ目の古い傷は、襟の高い服で隠している。三年前、「私は——返品、ですか」と議事録に記録された娘は、いま、老婦人の家の書斎で、字の練習をしている。
「了解しました、は、お茶の返事ではありませんよ」
「……では、何と」
「ありがとう、でよろしいの」
「ありがとう。……記録します」
アグネスは、溜息をついた。
この三年、彼女はこの娘の言葉を、ずっと聞いてきた。
言葉が、ないわけではなかった。おはよう。おやすみ。いってきます。からあげ。艦で、姉たちに教わったという、返事のいらない言葉たち。食堂の夫婦には、それで足りた。朝、女将に「いってらっしゃい」と言われれば、娘は「いって、きます」と、ちゃんと返した。
足りなかったのは、その外だった。
知らない大人に向かって、話す時。頼み事をする時。断る時。自分の考えを、誰かに、伝える時。そういう場に立つと、娘の口から出てくるのは、決まって、三つの言葉だった。確認。了解。記録します。
そしてその三つの、ずっと下の方に、もう一つ、仕舞ってある音があることを、アグネスは知っていた。娘が、自分で、使わなくなった音。
「フォルトゥナ。あなた、その三つの言葉は、誰の言葉なの」
娘は、ペンを置いた。
「……お姉さ──フェイト・T・ハラオウン二等空尉の、言葉です。勤務中の」
「そう。あの方の言葉ね」
「はい」
「あなたの言葉では、ないのね」
娘は、答えなかった。
答えない代わりに、練習帳の上の、自分の字を、見た。三年前、「フォルトゥナ」と初めて自分で書いた時の字は、絵本をなぞって覚えた、子供の字だった。最後の「ナ」が、誇らしげに、はねていた。いまは、少しだけ、揃っている。揃った字で、彼女は、毎日、同じ名前を書いている。
「……先生」
「なあに」
「わたし、は──」
娘は、そこで、止まった。
一人称が、なかった。
管理局の人たちは「私」と言う。お姉さまも「私」と言う。TBの手順書では「本ユニット」だった。三年前の議事録では「私」と記録されている。それは、質問をした時の、一度きりの、借り物の「私」だった。
「……わたしは、誰の言葉で、喋ればいいのですか」
アグネスは、湯呑み──この街では、カップである──を、卓に置いた。
「それはね、フォルトゥナ。四十年、私が教えてきた、いちばん最初の授業なの」
彼女は、書架から、一冊の本を抜いた。古い、革表紙の本だった。
「良家の娘さんはね、皆、お母さまの言葉で喋るのよ。生まれた時から。だから、自分の言葉と、お母さまの言葉の区別が、つかない。……あなたは、違うわ。あなたには、お姉さまがいる。お姉さまの言葉を、真似ている」
「……はい」
「真似は、悪いことではないの。誰でも、最初は、真似から始まる。でもね」
老婦人は、本を、娘の前に置いた。
「あなたがお姉さまの言葉を使い続ける限り、あなたは、お姉さまの──」
「──写し、です」
娘が、先に、言った。
言ってから、自分で、驚いた顔をした。三年前、彼女は、写しであることを、まだ、何とも思っていなかった。それが何かを、知らなかったからだ。この三年で、彼女は、それが何かを、知った。知った上で、お姉さまの言葉を使い続けてきた。それは、お姉さまが好きだからだった。好きな人の言葉を使えば、その人に近づける気がした。
近づいていなかった。
同じになろうとしていただけだった。
「……先生。この本は」
「私の教科書。四十年前の。……読んでごらんなさい。あなたの言葉が、そこにあるとは、限らないけれど。少なくとも、お姉さまの言葉では、ないわ」
娘は、革表紙を、開いた。
『淑女の言葉と、立ち居振る舞い』
その夜から、食堂の二階の、娘の部屋の灯りは、少し、遅くまで、消えなくなった。女将は、揚げ油の火を落としながら、天井を見上げて、黙っていた。
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ゼロイチの定期訪問は、月に一度である。
三ヶ月後の訪問日、第68の停車場に降りたフェイト・T・ハラオウンは、まず坂の下の食堂に顔を出した。女将に揚げ油の温度を三度確かめられ、主人に賄いの唐揚げを一つ持たされ、それから坂を上った。
煉瓦の家は、いつもと同じだった。老婦人も、いつもと同じだった。そして──
「ようこそ、いらっしゃいませ。……フェイト二等空尉」
玄関で、娘が、頭を下げた。
頭の下げ方が、違っていた。管理局の敬礼ではなかった。膝を、少し、折る。この街の、良家の娘の、礼だった。
フェイトは、〇・四秒、止まった。
「……フォルトゥナ。……変わりありませんか」
「はい。健康状態、良好。……と、申し上げるところですけれど」
娘は、顔を上げた。金色の目が、少し、笑っていた。
「先生に、言われましたの。健康状態、と、お客さまに申し上げるものではない、と。……お元気に、しておりますわ。お姉さま」
フェイトの〇・四秒が、二回、続いた。
「……お姉さま?」
「はい。……いけませんでしたか」
「いえ。……規則上、問題は、ありません」
「規則の解釈、ですわね」
フェイトは、そこで、初めて、この娘が自分をからかっていることに、気づいた。気づいて、どういう顔をすべきか、判断できなかった。判断できないまま、彼女は、玄関に、唐揚げの包みを持って、立っていた。
老婦人が、後ろで、小さく、笑った。
「お茶にしましょう。……フォルトゥナ、お姉さまを、居間へ」
「承りましたわ」
それは、三年前、《Yes, sir.》と応えていた場所に、置かれた言葉だった。
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居間で、フェイトは、報告書に、目を通した。
出席、課題、姿勢。いつもと同じ項目に、いつもと同じ、良好の文字。特記事項の欄に、今月は、一行、増えていた。
「……言葉遣いに、変化あり」
「はい」
娘は、向かいの椅子に、姿勢よく座っていた。姿勢のよさは、三年前と同じだった。三年前は、手順書の姿勢だった。いまは、革表紙の本の姿勢だった。
「フォルトゥナ。……訊いても、いいですか」
「何なりと」
「どうして、その言葉を」
娘は、カップを、両手で包んだ。
「……お姉さまの言葉を、使っておりました。三年。……それが、お姉さまに近づく方法だと、思っておりましたの」
「……」
「違いました。同じになろうと、しておりました。……わたくしは、お姉さまの写しとして、作られました。それは、変えられません。でも、写しのまま、お姉さまの言葉で喋り続けたら──わたくしは、写しのまま、ですわ」
フェイトは、金色の目で、娘を、見た。
「だから、別の言葉を、選びましたの。お姉さまの言葉ではない、言葉。……この街の、先生の、言葉。……お姉さまの隣に立つ時、わたくしが、お姉さまの影ではなく、別の人間として、そこにいるために」
娘は、そこで、少し、目を伏せた。
「……変、でしょうか」
フェイトは、しばらく、答えなかった。
答えない間、彼女は、三年前のことを、思い出していた。サントレアの広場。自分の顔をした、三つ目の機体。〇・八秒、届かなかった指。転写室。〇・四秒、残した掌。抱き止めた重さと、抱き止められなかった重さ。議事録の、一行。『私は——返品、ですか』。
あの時、この娘に、言葉は、ほとんど、なかった。
「……変では、ありません」
フェイトは、言った。
「私は、あなたに、名前を一つ、渡しただけです。……言葉は、あなたが、自分で、選んだ。……それは、私が渡せなかった物です。渡せなくて、よかったと、いま、思っています」
娘の金色の目が、少し、揺れた。
「……お姉さま」
「はい」
「その、お言葉は──記録しても、よろしいですか」
「……規則上、問題ありません」
「では、記録いたしますわ。……一生」
老婦人が、台所で、二杯目のお茶を淹れながら、聞こえないふりを、していた。
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事件は、その日の午後に、起きた。
停車場の、機関庫。蒸気機関車の缶が、圧力異常を起こした。この世界では珍しくない事故である。珍しくないが、缶が破裂すれば、機関庫と、隣接する客車の待合室が、吹き飛ぶ。待合室には、夕方の便を待つ客が、二十人ほどいた。
フェイトは、定期訪問中の局員として、戦闘を許可されていない。
娘は、そもそも、局員ではない。
「──お姉さま。缶の、圧力計が」
「見えています。……フォルトゥナ、下がって」
「いいえ」
娘は、既に、走っていた。
フェイトは、追った。追いながら、見た。娘の走り方を。三年前の、サントレアの記憶が、視界に重なった。あの時、三つ目の機体は、自分と寸分違わぬ機動で、自分を追い詰めた。今日の娘は──
違った。
跳んでいなかった。滑っていた。金色の雷光を、足元に、圧縮して、地面を蹴る代わりに、地面を、走らせている。両手には、何も持っていない。手甲だけがある。オーバ老が「暴れんように」と言って作った、出力制限用の、無骨な手甲。娘は、それを、制限具ではなく、武器として、握り込んでいた。
機関庫の中は、白く煙っていた。缶の横腹が、呼吸するように、鈍く鳴っていた。
缶の圧力弁は、錆びついて、動かなかった。
娘は、止まらなかった。止まらずに、拳を、弁の根元に打ち込んだ。
雷光が走り、錆が焼け——弁の隣の、細い管が、弾けた。
蒸気が、横へ噴いた。待合室の硝子が、白く曇った。向こうで、誰かが悲鳴を上げた。圧力計の針は、下がらなかった。
上がった。
「……っ」
打ち込んだのは、逃し弁ではなかった。給水の弁だった。止まらずに打ったから、見ていなかった。
缶の鳴る音が、一段、高くなった。娘の拳が、二撃目の形に、もう引かれていた。どこを。どこでもいい。とにかく、打てば——
「フォルトゥナ。止まって」
背後で、フェイトの声がした。戦闘を許可されていない局員に、許可されている、唯一のもの。
「〇・四秒で、いい。——見て」
娘の拳が、宙で、止まった。
TBの体には、その間が、なかった。止まるように、作られていなかった。止まれば、次の一手が遅れる。遅れれば、缶が、鳴る。体の中の何もかもが、打て、と言っていた。
止まった体の中で、娘は、初めて、打つ前に、見た。
缶の上。煤けた真鍮の、二つの弁。片方の根元にだけ、封印の針金が、錆びて残っていた。
「上。左に、二つ目」
左に、二つ。その数え方を、娘は、知っていた。自分の胸の継ぎ目を、数える時の数え方だった。三年前、この人が、自分の命を数えた時の、数え方だった。
「——承りましたわ」
二撃目は、跳ばなかった。滑った。缶の側面を、足元の雷光で駆け上がり、上の、左の、二つ目へ。
拳が、針金ごと、弁の根元を打った。
錆が焼け切れた。弁が、開いた。蒸気が、今度は、まっすぐ天井へ噴き上がった。機関庫の屋根の明かり取りが、白く、塞がれた。
針が、下がり始めた。
缶の鳴る音が、一段ずつ、低くなっていった。
フェイトは、機関庫の入り口で、足を止めた。止めたまま、娘を、見ていた。待合室の方から、駅員の、客を数える声が聞こえた。二十人。欠けていなかった。
娘は、蒸気の中で、拳を、引いた。引いてから、手甲の焼け跡を、少し、気にする顔をした。
「……先生に、叱られますわ。手袋が、また、駄目に」
「──フォルトゥナ」
「はい」
「……いまの動きは、私の動きでは、ありません」
「はい」
娘は、振り向いた。蒸気の向こうで、金色の目が、笑っていた。
「お姉さまの剣は、お姉さまの物ですわ。……わたくしには、この手しか、ございませんの。TBの体は、殴るために作られておりました。……ならば、殴りますわ。お姉さまの前に、出て」
「私の、前に」
「はい。……お姉さまは、撃つ方でいらっしゃいますから。わたくしは、その前に、立ちますの」
それから、娘は、少しだけ、ばつの悪そうな顔をした。
「……でも、一撃目は、外しましたわね。お姉さまの〇・四秒、お借りしてしまいました」
「貸しただけです」
フェイトは、言った。
「いつか、あなたの分で、返してください」
娘は、手甲の焼け跡を撫でながら、その言葉を、少し、考えた。
「……利子は、いかほどで」
「規則上——」
「規則の解釈で、お願いいたしますわ」
フェイトは、答えられなかった。答えられないまま、蒸気の抜けていく屋根を見上げた。
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機関庫の外に出ると、停車場の前は、もう人だかりだった。
「号外、号外! 機関庫の事故、ぜんいん無事だよ! ……係の人が、来てたんだって!」
人垣の向こうで、刷りたての束を抱えた少女が、声を張り上げていた。三年前より背が伸びて、声は少し低くなって、けれど、「係の人」という言い方だけは、変わっていなかった。
娘は、その声に、首を傾げた。
「……お姉さま。あの声、どこかで」
「……三年前に、一度。街道で」
「そう、ですの」
娘は、それ以上、訊かなかった。
代わりに、財布を出して、人垣の端から、一部、買った。売り子は、束から一枚抜いて渡すと、もう次の客の方を向いていた。
刷りたての紙面の隅に、鉛筆で、小さく、書き足しがあった。売り子が、束の一枚一枚に、手で書き込んでいるらしかった。
『係の人、ありがとう』
娘は、その一行を、しばらく見て、それから、紙面を丁寧に畳んで、鞄に仕舞った。
号外の売り子と、同じ食卓で唐揚げを分ける日のことは、まだ、どの紙面にも、刷られていない。
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夕方、停車場で、フェイトは、帰りの便を待っていた。
娘が、隣に、立っていた。姿勢よく。膝を、少し、折る礼を、既に一度、済ませて。
「……フェイト二等空尉」
「はい」
「今月の報告書の、特記事項に、追記を、お願いいたしますわ」
「……内容は」
「『言葉遣いに変化あり。変化の向きは──』」
娘は、そこで、言葉を切って、少し、考えた。
「──『本人の希望による』。……それで、お願いいたします」
フェイトは、報告書を、開いた。開いて、鉛筆で、その一行を、書き足した。
書き足してから、少し迷って、もう一行、足した。
『付記:訪問官、〇・四秒を一件、貸与。返済期限、定めず』
「……記録しました」
「ありがとう存じます」
「フォルトゥナ」
「はい」
「……来月も、来ます」
「お待ちしておりますわ。お姉さま」
便が、来た。
フェイトは、乗った。窓越しに、停車場の娘を見た。娘は、礼をして、それから、礼を解いて、手を、振った。
礼は、先生の言葉だった。
手を振るのは、誰の言葉でもなかった。
娘の、言葉だった。
坂の下の食堂で、娘は、毎朝、女将に「いって、きます」と言う。夕方には、女将の「おかえり」に、笑って頷く。
「ただいま」だけは、まだ、言わずに取ってある。
言う場所を、もう、決めてあるから。