魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
工廠の一件から、二週間が過ぎた。
ゼルベロスはミッドチルダの整備ドックに入渠し、艦は久々の、まとまった休息の中にいた。損耗した装備の更新。人員の補充面接。溜まりに溜まった報告書——十一件プラス二件、全部リョウが書いた。
そして、艦尾の射撃訓練区画では、この二週間で、奇妙な光景が日常になりつつあった。
「——だから、違うっての。障壁を張るな。張った時点で『そこにいます』って白状してんのと同じだ。いいか、回避ってのは足でやるもんじゃねえ、目でやるもんだ。相手の射線が生まれる前に、射線の外にいる。それだけ」
「……『射線が生まれる前』って、どうやって分かるんですか」
「肩だよ、肩。機械なら駆動部の予備動作、人なら肩と目線。撃つやつは撃つ前に、必ず世界に断ってから撃つ。そいつを聞き逃すな。……ほれ、もう一本」
訓練用の低出力弾が飛び交い、桜色の小さな影が、ぎこちなく、しかし確かに、射線の間を縫って動く。
なのは・T・ハラオウンが「回避を教えてほしい」と言い出したのは、退院——医務室からの、だが——の翌日だった。リョウは危うく、飲んでいた合成コーヒーを噴くところだった。四年間、被弾を残弾として費目計上してきた少女が、避け方を習いたいと言った。その意味を取り違えるほど、リョウは鈍くなかった。
筋は、絶望的に悪かった。当然だ。彼女の戦闘の全ては「避けなくていい」前提で最適化されてきたのだから。それでも少女は通ってきた。毎日。転げて、被弾判定を食らって、髪を乱して、また立って。
そして時折——低出力弾に足を掬われて尻餅をついた自分に、ふ、と息を漏らすようになった。
あの、炭酸の最後の一粒みたいな音。それが今では、二日に一度は聞ける。食堂で、訓練区画で、通路のすれ違いざまに。艦の連中がその音のたびに、聞こえなかったふりの下手な芝居をすることも、リョウはもう知っていた。整備班のオーバ老は先週、芝居に失敗して工具を落とした。
「……リョウさん。今の、避けられてました」
「ん? ——お、ほんとだ。今の良かったな。ほれ、唐揚げ進呈」
「訓練中に唐揚げは出ません。……ふ、ふふ」
呼び方が「クルス二等陸士」から「リョウさん」に変わったのが、いつだったのか。正確な日付は、リョウも思い出せない。気づいたら、そうなっていた。気づいたら、そうなっているのが、たぶん一番いいのだろうと思って、指摘はしなかった。
「——医療班の月次報告、見たかしら」
執務室の投影板に、例の折れ線が浮かんでいた。
四年分の右肩下がり。その最先端の、直近二週間分——グラフは、水平だった。
下がっていない。二週間、一度も。工廠で大きく削れた一点の後、線は初めて、落ちることをやめていた。医療班の所見が添えられていた。
『大規模行使の抑制に加え、睡眠・食事量の改善、ストレス指標の顕著な低下を確認。回復機構の活性化の可能性について、経過観察を継続』
「四年間で、初めてよ。一度も下がらなかった二週間は」
リンディは、湯呑みを両手で包んだまま、静かに言った。
「あの子ね、先週、私の部屋に来たの。何の用もなく。ただ来て、お茶を飲んで、あなたの悪口を言って帰ったわ。訓練が理不尽だとか、唐揚げの基準が不明瞭だとか。……三十分も」
「悪口じゃないですかそれ。あとで説教だな」
「ふふ。……ねえ、クルス二等陸士」
リンディは顔を上げた。補修された壁ではなかった。亀裂の入ったままの、素の顔だった。
「あなたを迎え入れて、本当に良かった」
……素直に、頷けなかった。
頷くべき場面だった。分かっていた。だがリョウの喉は、はい、の二文字を通さなかった。代わりに出てきたのは、視線を投影板へ逃がす、不細工な間だった。
水平になった折れ線。その一つ手前に刻まれた、工廠の日の、大きな下げ幅の一点。
あの一点は、俺が刻ませた。
撃て、と言った。クリア、と言った。あの一射で削れた分は、二度と、戻らない。累積的——資料の言葉が、頭から離れない。この二週間、彼女が笑うたび、その音の下に、あの一点が透けて見える。艦の連中は英断と呼んだ。リンディは感謝を口にする。当のなのはは——一度も、あの一射を悔いる素振りを見せない。
だから余計に、歯痒かった。全員が赦してくれるのに、自分の勘定だけが、いつまでも合わない。
「……課長殿。俺は」
「言わなくていいわ」
リンディは、湯呑みを置いた。
「その顔ができる人だから、良かったと言ったのよ。……クリアを出した重さを、成功の後まで持ち続けられる人。この艦に必要だったのは、火力でも盾でもなく、その重さの持ち手なの。——ずるい大人の言い分だけれどね」
「……ほんと、ずるいですよ。あんたは」
それだけ言うのが、精一杯だった。
その夜、リョウは観測窓の前で、少女に捕まった。
捕まった、というのが正確だった。通路の角から半分だけ顔を出して待ち伏せていたのだから。回避訓練の成果が、妙な方向に出ている。
「リョウさん。……少し、いいですか」
「おう。どうした、改まって」
少女は窓の前に立ち、しばらく星を見て、それから、意を決したように口を開いた。
「四ヶ月前……ここで、言いかけて、やめたことがあります」
リョウは、覚えていた。サントレアの夜。ごめんなさい、じゃなくて——と言いかけて、首を振って、おやすみなさい、と消えた小さな背中。
「あのとき言いたかったのは……ありがとうございました、でした。怒ってくれて。……でも、言えなかった。ありがとうって言ったら、その、認めることになる気がして。わたしが、罰のために撃ってたって認めることに。……認めるのが、怖かったんです」
少女は、窓の中の自分と、その向こうの星を、順に見た。
「工廠の、あの一発。……あれは、初めて、罰じゃない一発でした。リョウさんが確かめてくれて、示してくれて、撃てって言ってくれて。……あの一発だけは、誰かを罰するためでも、わたしを罰するためでもなくて。ただ、助けるための一発だった。四年間で、初めて」
だから、と少女は言って、リョウに向き直り、頭を下げた。正確な角度の、儀式の礼ではなかった。ぎこちない、深すぎる、不器用な礼だった。
「ありがとうございました。……四ヶ月、遅れましたけど」
リョウは、頭を掻いた。掻く以外に、手の置き場がなかった。
勘定の合わなかった帳簿の、一番深い赤字の欄に、たった今、誰かが黙って伝票を差し込んでいった。全額ではない。全額のわけがない。それでも、帳尻というものは、こういう風にしか合っていかないのかもしれなかった。生きている限り、少しずつ。
「……おう」
と、リョウは言った。それから、付け足した。
「利子つけて返せよ。唐揚げ三個な」
「基準が、本当に不明瞭です」
少女が、ふ、と笑った。
——その音を掻き消すように、艦内警報が、鳴った。
艦橋は、既に凍りついていた。
正面の主モニターに、映像が流れていた。管理局の公共次元通信網——本局の広報回線を乗っ取った、海賊放送だった。ミッドチルダの街頭モニターにも、各管理世界の受信局にも、同じ映像が流れているという。
画面に映るのは、一本の、牙だった。
黒曜石のような光沢の、長さ一メートルはあろうかという、巨大な獣の牙。祭壇めいた台座に据えられ、ゆっくりと明滅している。まるで、呼吸のように。
そして、声が流れた。
加工された、若いのか老いているのかも分からない、あの声が。
『——管理局、並びに、管理されることに慣れきった全ての世界の諸君。初めまして。我々は"フェンリル"』
リョウの心臓が、一拍、跳ねた。
忘れるはずがない。工廠のスピーカーで、うっとりと歌っていた声。彼らは同意したよ、と嘘を塗装した声。次は完成品で会おう、と言い残した声。
『諸君は誤解している。世界の終わりとは、防ぐべき事故ではない。迎えるべき満期だ。ジュエルシードが示した。闇の書が示した。第97管理外世界——諸君が"地球"と呼んだあの墓標が、証明した。世界は、終わる。終わるべくして、終わる。我々はただ、その満期を、正しく執行するだけだ』
台座の牙が、ひときわ強く、明滅した。
『手始めに、一つ頂く。——第68管理外世界。九十六時間後、あの世界の満期を執行する。止めたければ、来るといい。管理局の総力でも、精鋭の一個部隊でも、好きにするといい』
声が、笑った。加工音声の下で、確かに、笑った。
『特に——第01ロストロギア事件課。いい引き金と、いい砲の諸君。招待状は、これで届いたかな。……我らが牙は、目覚めている。世界の終わる場所で、待っているよ』
映像が、砂嵐に変わった。
艦橋の沈黙を破ったのは、通信士の震え声だった。
「ほ、本局より入電——全艦隊に一級警報。第68管理外世界の観測データ、転送されてきます。同世界の周辺次元に……大規模な、魔力反応。座標、多数……!」
リンディが司令席で、静かに立ち上がった。母親の顔は、どこにもなかった。艦長の声が、艦橋を貫いた。
「入渠整備を中断。全区画、出撃準備。本局に打電——ゼルベロス、抜錨準備完了まで六時間」
了解の声が飛び交う中、リョウは主モニターの砂嵐を見つめていた。
名指しだった。ゼロイチを——引き金と砲を、名指しで呼んだ。工廠は前哨戦ですらなかったのだ。あれは採寸だ。俺たちの戦い方を測り、その上で、招待状を寄越した。
罠か。宣戦布告か。おそらくは、両方だ。
肌が、粟立っていた。四年前、空が割れた日の朝と、同じ種類の予感だった。何か途方もないものが、始まる。もう、始まっている。
「……リョウさん」
隣に、いつの間にか、少女が立っていた。セブンスウィルを、既に肩に担いで。その横顔に、罰を待つ色はなかった。ただ、静かな、戦う者の目があった。
「行くんですよね。わたしたち」
「……おう」
リョウは、ミニットマン051を握り直した。
「行くさ。——招待されちまったからな、二人でな」
《Ready.》
「……だな。準備万端だ」