魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
第68管理外世界は、石炭の匂いのする世界だった。
自前の魔法文明を持たない、前次元航行文明。蒸気機関と電信と、走り始めたばかりの鉄道網。夜になれば街々にガス灯が点り、人々は空に神を見る。人口、推定八百万。
そして、その八百万人には、逃げ場がなかった。
「——次元航行手段を持たない世界です。九十六時間……残り七十九時間での全住民退避は、管理局の全輸送艦を注ぎ込んでも、物理的に不可能。百万人も運べません」
ゼルベロス作戦室のブリーフィングで、オペレーターの声は硬かった。投影された世界儀の上、大陸の中央部に、赤い光点が明滅している。
「敵拠点はここ。ヴェルデン市北方三十キロ、旧霊峰と呼ばれる山塊です。分析班の見立てでは、この世界の魔力龍脈の最大結節点——『終末の牙』を打ち込むなら、ここしかないという場所に、フェンリルは既に橋頭堡を築いています」
打ち込む、という言葉に、リョウは眉を動かした。
「分析班の推定を共有します」リンディが引き取った。
「牙の起動には、対象世界の龍脈への直接接続——物理的な"打ち込み"が必要と見られる。そして起動後に何が起きるかは……第97管理外世界の観測記録と、酷似すると予測されます」
作戦室が、静まった。
投影図が切り替わる。四年前の観測データ。青い星の上に開いた、色という概念を受け付けない「何もない」。虚数空間の侵食。
「牙の権能は、人為的な虚数空間侵食の展開——つまり」
リンディは、一拍置いて、言った。
「ファースト・ショックの、人工的な再現です」
リョウは、隣の席の少女を見なかった。見なくても分かった。膝の上で組まれた小さな手が、白くなるほど握り込まれているのが、視界の端に映っていた。
(……あの野郎。第97を"証明"って言ったな、声明で)
証明じゃない。あれは実験台だ。あるいは教科書だ。フェンリルは四年前の地球の死を観測し、研究し、再現手順に起こした。俺たちの故郷の死に方を、量産品にした。リョウは誰より先に、そう断定した。
「作戦区分を伝えます。管理局は三個艦隊を投入、敵の次元干渉域外周で艦載戦力と交戦し、制空と補給線を維持します。ただし干渉域の内側——地表および低空域には、艦隊戦力は入れません。転送も通信も、中では断続的にしか通じない」
六時間前に見た戦場と、同じ構造だった。ただし今度は、罠ではない。最初から分かっている構造だ。
「干渉域内の作戦行動は、ゼロイチが担当します。任務は二つ。第一に、侵食起点予測域からの住民退避支援。第二に——期限までに敵橋頭堡を突破し、『終末の牙』の起動を阻止すること」
リンディの目が、実働の二人を順に見た。
「名指しの招待よ。……行ってもらいます。ヴァレル、トリガー」
「「了解」」
声が、綺麗に揃った。揃ったことに、リョウ自身が少し驚いた。
降下したヴェルデン市は、世界の終わりを知らされたばかりの街だった。
管理局の先遣隊が「空からの災厄」を告げてから一日。ガス灯の街は、荷馬車と蒸気トラックの洪水と化していた。市外へ、南へ、少しでも霊峰から遠くへ。予測侵食起点から半径百キロ——初動でまず呑まれる範囲——の退避だけが、現実的に可能な人命対策だった。八百万は救えない。だがこの百二十万は、初日を生き延びさせられる。
その退避行の誘導と、落伍者の捜索が、突入前のゼロイチに課された仕事だった。
「——いた。三番倉庫街、熱源一つ。ちっこいのが一人だ」
崩れかけた煉瓦倉庫の隙間に、その子供はいた。九つか、十か。すすけた前掛けの、新聞売りらしい少女だった。腕に、配達鞄を抱え込んでいる。
なのはが先に降りた。魔導師の降下を目の当たりにした少女は、悲鳴を上げる代わりに、腰を抜かしたまま、まじまじと空から降りてきた相手を見上げた。
「……天使さま?」
「……ううん。違うよ」
なのはは膝を突き、視線の高さを合わせた。
「どうして逃げないの? みんな、南に行ったよ」
「しんぶんが、まだのこってるの。くばらないと、おとうさんにおこられる。……おとうさん、さきに、はこびやさんのてつだいにいっちゃって、あたし、まいごになって……」
少女の目に、みるみる涙が盛り上がる。なのはは少しだけ黙って、それから、少女の抱えた配達鞄を、そっと指差した。
「……一部、もらっていい? お代は払うから」
差し出された新聞の一面には、この世界の文字で、大きな見出しが躍っていた。翻訳魔法が読み上げる。『空ノ軍勢、北ノ霊峰ニ集ウ——世界ノ終ワリカ、神々ノ戦カ』。
「ねえ。……空の人は、神さまなの? 世界を、おわらせにきたの?」
少女の問いに、なのはは、首を振った。
「終わらせに来たのは、別の人たち。わたしたちは——」
なのはは言葉を探した。神さまでも、天使さまでもなくて。リョウは口を挟まず、上空の警戒に立ったまま、聞いていた。
「——わたしたちは、終わらせない係、かな」
「……おわらせない、かかり」
「うん。だから、あなたは逃げる係。お父さんのところまで、ちゃんと逃げて、ちゃんと生きてて。……新聞は、係の人が責任持って読むから」
少女は、洟を啜って、頷いた。退避車列への引き渡しの間際、少女は振り返って叫んだ。
「かかりのひと! おしごと、がんばって!」
車列が土煙の向こうに消えてから、なのはは、手の中の新聞を丁寧に畳み、バリアジャケットの内側に仕舞った。
「……リョウさん。わたし、四年前は、逃げる係でした」
「……おう」
「逃げて、生き延びて、それをずっと、罪だと思ってました。……でも、あの子が生きてたら、罪じゃない。絶対に、罪じゃない。——だから」
少女は顔を上げた。その目に、リョウは初めて見る色を見た。罰でも、諦観でもない。ただ、まっすぐに燃える、係の人の目だった。
「今日は、終わらせない係を、やります」
「……上等だ」
リョウは、そんな係の人の1人として、力強く頷いた。
突入は、残り七十二時間の刻限とともに始まった。
霊峰へ続く渓谷地帯——干渉域の内側へ、二人は低空で滑り込んだ。頭上のはるか高み、成層圏の際では、管理局艦隊とフェンリル艦艇の砲火が、無音の雷のように明滅している。あの光の下は、別の戦争だ。この谷の中は、二人だけの戦争だった。
最初の遠吠えは、突入から四分後に聞こえた。
狼の声だった。ただし、生き物の喉から出る声ではなかった。金属の共鳴と獣の咆哮を混ぜて、悪意で煮詰めたような音。谷の稜線という稜線に、影が、立ち上がった。
二足で立つ、狼の形をした何かの群れ。体高二メートル半。骨格は黒曜石に似た光沢で、目の位置に赤い光が灯り、そして——胸郭は、空洞だった。心臓のあるべき場所で、牙の欠片のような結晶が、あの放送と同じ呼吸で、明滅していた。
「敵性体、視認。事前情報どおり——猟牙兵(トゥーサーズ)」
リョウはミニットマンの索敵系を全開にし、三秒、費やした。生体反応、なし。改造母体の痕跡、なし。装甲の内側に、眠る顔は、ない。あれは正真正銘、命のない量産品——牙が瓦礫と魔力から鋳造した、ただの「物」だ。
確定。宣告するように、リョウは言った。
「——全機、物だ。生体なし、コアなし。……ヴァレル」
隣の砲が、応えた。
「はい」
「制限解除だ。三秒はもう要らねえ、俺が『待て』って言うまで——全部、撃っていい」
「——了解っ!」
その返事の鋭さを、リョウは生涯忘れないだろうと思った。
桜色が、谷を灼いた。
それは、四ヶ月前のサントレアで見た光景と、同じで、まるで違った。
火力は同じだ。一射で稜線が一本消える、あの理不尽な破壊力。だが、あの日の砲撃が方向のない氾濫だったとすれば、今日のそれは、水路を得た奔流だった。
『クリア、二時、稜線裏に第二波! 数、約六十!』
『撃ちます!』
『クリア! ——待て、十時の岩棚、退避壕がある、住民の残留を確認する——クリア、無人だ! 撃て!』
『はいっ!』
リョウが先を飛び、目と索敵で戦場を確定し続ける。なのはが半拍遅れて、確定された区画だけを、根こそぎ薙ぎ払う。呼びかけと応答。観測と砲撃。二ヶ月の任務と、一つの窮地と、毎晩の訓練区画が編み上げた、二人分の戦闘機動だった。
トゥーサーズは、強かった。一体一体が、Aランク——つまりリョウと同格の危険度を持ち、そして群れとして狩りをする。挟撃。陽動。捨て駒。命がないくせに、狼の狡知だけは鋳込まれている。リョウ一人なら、十体で詰んでいた。なのは一人なら、火力で押し潰せても、死角からの一噛みは防げなかったかもしれない。
二人だから、回った。
回って、回って——三十分で、撃破数は二百を超えた。
そして、リョウは気づき始めていた。
(……減らねえ)
谷の奥、霊峰の方角から、遠吠えは途切れなく湧き続けている。倒した端から、次の稜線に新しい影が立つ。分析班の推定が、耳の奥で蘇る。牙が瓦礫と魔力から鋳造する——つまり、材料がある限り、無限に。
(物量で磨り潰す気か? 違う。それだけじゃねえ)
嫌な汗が、背中を伝った。
この波状攻撃は、防衛線を抜くための物量じゃない。撃たせるための物量だ。無尽蔵の魔力を持つ砲に、無尽蔵の的をあてがい、延々と、延々と、撃たせ続ける。彼女の魔力は尽きない。尽きないからこそ——尽きるのは、魔力じゃない方だ。
工廠で採寸された俺たちの戦い方に合わせて、あの男は、この谷を設計してやがる。
「ヴァレル! 射撃統制を変える! 全滅は狙わねえ、突破線上の敵だけ潰す! 燃費で行くぞ、こっからは長丁場——」
言いかけた、その時だった。谷の東の空で、遠吠えが、止んだ。
正確には——東の一区画のトゥーサーズだけが、一斉に、行動を変えた。散開していた群れが、幾何学的な精度で再集結し、防御陣形を組む。狼の狡知ではない。あれは、統率だ。指揮する者のいる、軍隊の動きだ。
その陣形の上空に、新たな機影の群れが展開した。
白い、細身の、翼を持つ人型。逆光の中でも分かる、天使を模した輪郭。トゥーサーズの獣性とは対極の、冒涜的なまでに端正な——
「……天翼兵(ヴァルキリー)」
事前情報の第二の名を、リョウは口の中で転がした。数、およそ三十。展開の精度が、明らかに違う。誰かが、あの編隊を、直接率いている。
索敵系が、編隊の中心に、ひときわ高密度の魔力反応を捉えた。
その瞬間。
金色の、雷光が。
天翼兵の陣列を陣頭から縦に裂いて、谷の空を、一直線に奔った。
速い、という感想すら間に合わなかった。稲妻はそのまま東の稜線上のトゥーサーズの残群——統率から外れた数体を、瞬きの間に両断し、刈り取り、そして陣列の頂点へ、静かに帰投した。金色の残光だけが、油色の空に、傷跡のように残った。
リョウの心臓が、氷の手で、掴まれた。
(——今の、は)
速度じゃない。精度でもない。色だ。
あの色を、俺は知っている。
前世で、何百回も見た。画面の中で、雷と呼ぶにはあまりに綺麗な、金色の。誰よりも速く、誰よりも寂しい場所を飛んでいた、あの——
索敵系が、機械的に解析結果を刻んでいた。術式基盤、ミッドチルダ式。魔力変換資質——『電気』。データはただ、極めて希少な資質持ちだと告げている。だが、色が。色だけが、データの外で叫んでいた。
「……ヴァレル。艦に打電の準備を——」
言いかけて、リョウは気づいた。
隣から、応えるはずの気配が、消えていた。
振り返って、息を呑んだ。
なのは・T・ハラオウンが、空中で、止まっていた。セブンスウィルの銃口が、力を失ったように、ゆっくりと下がっていく。見開かれた目は、東の空に残る金色の傷跡に縫い付けられたまま、動かない。唇が、声にならない形を、何度も、何度も、作っては壊していた。
(……そうだ。そうだよな)
リョウは、自分の間抜けさを呪った。
原作知識なんて、要らなかった。この世界であの色を一番よく知っているのは、俺じゃない。画面越しに何百回見た男なんかじゃ、ない。
ジュエルシードの空で、あの雷と誰よりも近くで向き合った少女。四年間、毎晩たった一人で、虚数空間の観測データを漁り続けた少女。何を探しているのか、母親にすら言わなかった少女が——今、その探しものの色を、敵陣の、ど真ん中に。
「なのは」
コールネームではなく、名前を呼んだ。届かなかった。少女の喉から、掠れて、砕けた音が零れた。
「……うそ……だ。だって……ずっと……ずっと、さがして……観測データ、ぜんぶ見て……どこにも、いなかった、のに……」
金色の光点が、東の空で、ゆっくりと、こちらへ機首を向けた。
その動きに引かれるように、少女の唇が、四年ぶりの名前を、形にした。
「——フェイト、ちゃん……?」