「このスマッシュの正体は鍋島正弘だ」
その言葉の冷たさに、俺の冷却ファンが一瞬、逆回転しそうになった。
「はあ!? ちょっと待て、それ本気か!? ついさっきまで俺たち、あいつの家族を助けるために命懸けで西都まで行ってたんだぜ!? なんでその当の本人が、スマッシュになって俺たちをぶん殴ってるんだよ!」
「わからない。何がどうなって、こうなったのか…ただ、これは事実だ」
戦兎の顔にも、いつもの自信満々な笑みはない。俺と同じで、信じられないんだろう。
やがて、
nascitaの地下アジト。いつもはコーヒーの香りと美空の寝言(?)で満ちているこの場所が、今日はやけに静かだった。
ソファの上で、鍋島は虚ろな目をしていた。ついさっきまでバケモノだったとは思えない、普通の中年男性だ。その手を、妻の友恵が必死に握っている。
「あなた…よかった、本当によかった…」
友恵の声は涙で震えていた。しかし、鍋島はまるで初めて見る他人を見るような目で、妻と、そして足元に立つ小さな娘の遥を見つめている。
「…すみません、あなたは…どなたですか?」
その言葉で、部屋の空気が凍りついた。友恵の顔から血の気が引き、遥は何が起きたか分からずに母親のスカートをぎゅっと掴む。万丈がドンッと壁を殴りつけた。拳から血が滲んでいる。それでも、怒りを止められないんだろう。
「てめえ…ふざけんなよ! 香澄を助けるための証言をしろ! 俺は人殺しなんかじゃねぇ! お前が一番知ってるはずだろ!」
「やめてくれ!」
鍋島が叫び返し、頭を抱えてうずくまった。
「わからないんだ…俺の記憶は…真っ白で…」
二人の怒鳴り声が、地下基地の鉄の壁にやまびこのように反響する。ああ、もう最悪の気分だぜ。俺の心理センサーも、ここは空気が重すぎて警告を出し始めてる。まるで感情がこびりついて動かなくなるみたいだ。
俺は深く(蒸気の)ため息をつき、壁にもたれかかった。こういう時、科学の力はあまり役に立たない。記憶をコピーするみたいに、簡単に心を修復するわけにはいかないんだ。
「…俺は道具だ。すまねぇ、こういう時、俺にできる修理(メンテナンス)は、機械に対してだけなんだ。だが…」
顔を上げる。俺の口元のサーボは、優しい曲線を描こうと頑張っている。機械のくせに柔和になんてなれないけど、それでも、少しでも何かを変えられるなら。
「鍋島さん、あんたの家族はな、ファウストに消されるかもしれないって時に、ただあんただけを信じて震えながら生きてきたんだぜ。記憶がなくても、今この瞬間、目の前で泣いてる奥さんと娘さんを守りたいって気持ちは、本物だろ?」
戦兎が静かに一歩前に出た。彼はがなり立てたりしない。しゃがみ込んで、おびえる小さな遥の目線に合わせる。
「遥ちゃん、パパはね、ちょっとだけ疲れて忘れ物をしちゃったんだ。でも、大丈夫。また最初から『おはよう』をして、ママと一緒に、パパと新しい思い出を作ってあげてくれるかな?」
「…パパを、なおしてあげるの?」
遥が小さく呟く。その濁りのない声に、戦兎は「ああ、君は最高のクリエイターだな」と笑って見せた。
友恵が、涙をぬぐって立ち上がる。
「…あなた、私はあなたの妻です。そしてこの子が、あなたの娘の遥です。覚えていなくてもいい。私たち、またここから始めましょう」
鍋島はその言葉を聞いて、けがれた両手をじっと見つめていた。やがて彼は、震える指でそっと遥の小さな肩に触れた。記憶はなくとも、その体温だけは確かに「何か」を彼の壊れた回路(ハート)に伝えたんだろう。
「…ああ。ああ、そうか…」
彼の目から、初めて涙がこぼれた。万丈はそれを見て、重たい拳をようやく下ろし、くるりと背を向ける。あいつはきっと、これ以上見ていられなくなったんだろう。俺は戦兎と肩を並べ(俺の肩、ちょっと硬かったかもな)、目の前の光景をただじっと見つめていた。再生の始まりの瞬間を、この光学センサーに焼き付けるようにな。
再生の涙に浸る感動的なシーン……そう思っていたのもつかの間だった。
俺の冷却ファンがようやく通常速度に戻り、基地内に平和な空気が戻りかけた、その時だ。
「あ、あれは……!」
鍋島が震える指で、戦兎の手元を指差した。
戦兎が回収したばかりのフルボトル。浄化されて青く輝くその小瓶を、鍋島はまるで悪魔の呪いでも見るかのような形相で睨んでいる。
それと共に、壁に埋まっているボトルを装填出来るパネル。
「奴らの所にも、あった……! あのボトルが!」
「はあ!?」
俺の識別灯が、またもや急点滅を繰り返す。警告色の赤だ。
「ちょっと待てよ、鍋島さん。このフルボトルはな、美空が命懸けで浄化して作ってる代物だぜ? あんたの言う『奴ら』ってファウストが、どうして同じもんを持ってるんだよ?」
俺が詰め寄ろうとすると、戦兎が俺を制した。彼の顔からは、さっきまでの穏やかな表情が消え、天才科学者の鋭い眼光が戻っていた。
「ビリー、落ち着け。鍋島さん、よく覚えてるか? そのボトルがどこにあった?」
「地下だ……! 奴らの実験場の奥……パネルの横に、あったんだ……!」
「パンドラボックスのパネル!?」
万丈が声を張り上げる。
「ちょっと待て! この前、東都政府の研究所で見たパンドラボックスにはパネルがついてなかったぞ!?」
戦兎は言葉を待たず、踵を返した。彼が向かった先は、基地の壁。コンクリートと配管がむき出しの、何の変哲もない壁だ。
だが、戦兎の目はそこに何かを見つけていた。
「よしっ!ビリー!壊せ」
「おいおい、壁壊すのかよ! いつもの天才の発想と違くねぇか!?」
俺がツッコミを入れる間もなく、コンクリートの破片が舞い、土煙が上がる。
そして、煙が晴れた時。
そこには、あった。
パンドラボックスのパネルの1枚
壁に埋め込まれるようにして、薄暗い光を放っていた。
「マジかよ……」
俺の動力炉が、またしても熱暴走しそうだ。
パンドラボックスのパネルが、なんで俺たちのアジトの壁の中に埋まってるんだ?
それに、ファウストも同じボトルを持ってる?
美空にしか作れないはずのボトルが?