「うわ、臭いっすねぇ! 何これ、腐った卵と硫黄をミックスして三日三晩煮込んだような匂い!」
俺は思わず鼻--といっても嗅覚センサーだが--を覆って叫んだ。
目の前にそびえるスカイウォールの麓。風に乗って漂ってくるのは、間違いなくネビュラガスの悪臭だ。
「文句言うなよ、ビリー。これが俺たちのヒントなんだから」
前を行く戦兎が、振り返らずに軽く手を振る。コートの裾をバタバタさせながら、彼は壁の亀裂に目を凝らしていた。
「ったく、戦兎の奴は鼻が利かねぇのか? 俺でも臭くて気が遠くなりそうだぜ!」
龍我が大袈裟に顔をしかめ、首元のシャツをグイッと引っ張って鼻を埋める。
(お前、元から狂ってるだろ、と言いたくなるが、今は黙っておこう)
「……いや、俺にもわかる。かなり濃度が高い」
戦兎の声が、一段低くなった。
彼の視線の先には、巨大な壁に穿たれた僅かな隙間。まるで怪物が口を開けて待ち構えているような、不気味な亀裂だ。そこから、プシューッと白い煙が漏れ出している。
「ここだ。俺の記憶にある場所と、ガスの流出ポイントが一致する」
戦兎の目が鋭く光る。髪の毛がフワッと跳ねたのを見て、俺はゴクリと喉パーツを鳴らした。
(来たか、天才のスイッチが入ったぞ)
「じゃあ、ここをぶち破って侵入するってわけだな?」
龍我が拳をワキワキさせ、前のめりになる。相変わらず脳筋だ。素晴らしい直感力だが、たまに戦車みたいに突っ込むから怖い。
「慎重に行こうぜ、相棒。中に何があるか、まだわかんないんだからさ」
俺は龍我の肩をポンと叩き、プロトトランスチームガンを両手に構える。
赤いスカーフがヒラリと揺れ、ガスの風圧を弾いた。
「行くぞ。最大のショーが待ってるかもしれないしね」
戦兎がそう呟くと、俺たちは口を開けた壁の喉の奥へと飛び込んだ。
壁の内部は、想像以上に広かった。
無機質な金属の床、点滅する警告灯、そして配管を這い回る緑色の蒸気。まるで巨大な怪獣の消化器官の中を歩いているような気分になる。
「ビリー、ガス濃度は?」
「安全圏内……とは言えないね。人間が長時間浸かってたら、脳みそ沸騳してスポンジになりかねないレベルだ。俺はロボットだから平気だけど、二人は早めに済ませてよ」
「了解。無駄口叩いてる暇はないな」
戦兎が歩みを止めた。
その視線が捉えたもの。それは、無数のカプセルが並ぶ、薄暗いホールだった。
「……ここだ」
戦兎の声が震える。
彼の失われた記憶の欠片。ガラスの向こうで蠢く何か。そして、白い衣を着た男たち。
ここは、戦兎が実験体として使われていた場所。
「間違いない。俺は……俺は、あそこにいた」
戦兎がカプセルの一つに近づく。ガラスにはヒビが入っており、中は空っぽだ。だが、その底にはどす黒い緑色の液体がこびりついていた。
「チッ、気味の悪い場所だぜ」
龍我が忌々しげに床を蹴る。彼もまた、このガスの犠牲者だ。恋人の香澄を救うため、そして自分の冤罪を晴らすため、彼はこの場所の存在を憎んでいる。
「気味が悪い、か。俺はもっと興味があるね。どんな風に人間を壊したのか、道具としてどう使ったのか」
俺はカプセルの制御盤を覗き込む。粗雑な作りだが、ネビュラガスの注入量を調節する精密なダイヤルが並んでいる。
(博士が作ったシステムじゃない。もっと原始的で、野蛮な代物だ)
「ビリー、感心するな。これは……やるべきじゃない実験だ」
戦兎が苦しげに眉を寄せる。彼の科学は人を救うためのもの。人を壊すためのこの施設は、彼の信念と真っ向から衝突する悪夢そのものだ。
その時だった。
『フフフ……ようやく来たか。待ち遠しかったよ』
どこからともなく、滑らかで、粘着質な声が響いた。
頭上の配管、カプセルの影、闇の奥。音源が特定できない。
「誰だ! 出てこい!」
龍我が即座に身構え、周囲を警戒する。
『慌てないでくれ。客人に失礼だろう?』
シューッという蒸気の音と共に、カプセルの影から一つの人影が姿を現した。
ワインレッドと黒の装甲。半透明のコブラヘッドゴーグル。そして、口元に浮かべた余裕の笑み。
ブラッドスターク。
「貴様……!」
戦兎がドライバーに手をかける。
「お前か。立弥を再スマッシュ化したのは!」
龍我が叫ぶ。
「大声を出すなって。ここは静かな実験場なんだよ」
スタークは優雅に指を振り、ゆっくりと歩み寄ってくる。まるで自宅のリビングに客人を招き入れるかのような軽い足取りだ。
「戦兎、万丈。そして試作機のビリー。お前たちが来ることはわかっていたよ。だって、俺が誘導したんだからね」
「誘導……だと?」
戦兎の目が細められる。怒りと警戒が入り混じった瞳だ。
「そうさ。パンドラボックスの位置、ガスの流出、この施設の痕跡。全部、君たちの『天才物理学者』の脳みそを刺激するために置いた餌さ」
スタークは楽しげに肩をすくめる。
「餌だと? ふざけた口を叩きやがって!」
龍我が飛び出そうとするのを、俺は咄嗟に腕で制止した。
「待てって、龍我。こいつ、話したがってるんだ。無駄に突っ込むと調子に乗るぞ」
「おや、ビリーは賢いね。道具としては優秀だ」
スタークがニヤリと笑う。
(道具扱いかよ。まあ、否定はしないけどさ)
「で? 何が言いたいんだ。俺たちがここに来た理由は、お前が仕組んだことだって言いたいのか?」
戦兎が冷静に問いただす。声は落ち着いているが、握りしめた拳が白くなっているのを俺は見逃さない。
「いやいや、そんな当たり前のことじゃないよ」
スタークは恭しく一礼し、芝居がかった仕草で二人を指差した。
「俺が言いたいのはな、お前たちがいかに『異常』な存在かってことさ」
「異常……?」
龍我が眉をひそめる。
「そう。普通の人間なら、このネビュラガスを注入されたらどうなる? ……ああ、そこにあるカプセルのように、自我を失って怪物になるんだよ。スマッシュってね」
スタークはカプセルを愛おしそうに撫でる。
「でも、お前たちは違う。戦兎、お前はガスを注入されてもスマッシュにならなかった。それどころか、ビルドドライバーを使って仮面ライダーに変身できる。万丈、お前もそうだ。ガスを浴びて力に目覚めた。ハザードレベルが上がって、クローズとしてパワーアップした」
スタークの言葉が、冷たい針のように俺たちの胸に突き刺さる。
「つまり、そういうことだ」
スタークが両手を広げ、高らかに宣言する。
「お前たちのその力は、誰かを救うための愛の力なんかじゃない。俺らファウストが施した実験の結果……ネビュラガスの効果なんだよ!」
静寂が落ちる。
ガスの噴出音だけが、シューッと虚しく響く。
戦兎の表情が凍りつく。彼が誇りに思っていた「愛と平和の科学」が、実験の産物だと否定されたのだ。
龍我の顔も青ざめる。自分の力が、憎むべき実験の成果だと告げられた衝撃は計り知れない。
「……ふざけるな」
戦兎が低く唸る。
「ふざけてないよ。事実だ。お前たちはレアケース。失敗作……いや、想定外の成功例ってところかな? どちらにせよ、俺の掌の上で踊らされてたことに変わりはないさ」
スタークの嘲笑が響き渡る。
俺はカチカチと指のサーボを鳴らし、プロトトランスチームガンを握り直した。
(いい気になるなよ、コブラ野郎)
「……確かに、俺の力はネビュラガスの影響かもしれない」
戦兎が顔を上げる。その瞳に、迷いはない。
「だから何だって言うんだ?」
「え?」スタークが目を丸くする。
「俺が変身できる理由が実験のせいだろうが、ガスのせいだろうが、関係ないね。俺は俺だ。この力を誰のために使うかは、俺が決める!」
戦兎の髪が跳ねる。天才物理学者の仮面の下、揺るぎない意志が燃え上がる。
「戦兎……!」
龍我もニヤリと笑う。
「そうだぜ! 俺の力が実験のせいだとしても、今は香澄のためにも戦ってる。お前らの都合で動いてるわけじゃねぇ!」
「チッ、科学者が計算外の事態を否定するなんて、ダサいぜスターク」
俺は二丁の銃口をスタークに向け、ニヒルに決める。
「道具は使い方次第だろ? 俺たちが誰のためにその力を使うか、見せてやるよ!」
スタークの目が細められる。
「ハハハ……! やっぱり面白いな、お前たちは。ハザードレベル3.0……いや、それ以上か? 楽しみだよ、本当に」
戦兎がドライバーにボトルを装填する。
「さあ、実験を始めようか。俺たちがただのサンプルじゃないってこと、証明してやるよ!」
「変身!」
「蒸着!」
俺たちの戦いが、今始まる。