# 14章 容疑者は天才物理学者(仮)
* * *
地下施設からの脱出。
それは俺のボディにとって、物理的なダメージとの格闘だった。
だが、本当の地獄はここからだった。
裂けたスカーフを風に靡かせながら、俺たちは施設の外へ転がり出た。空は鉛色。スカイウォールの影が、冷たく地上を覆いている。
「はぁ…はぁ…」
龍我が膝に手をついて荒い息を吐いている。両脇に救出した3人を支えながら、よくぞここまで持ったと言いたい。
戦兎は数歩離れて立ち尽くしていた。変身を解除した顔は土と汗で汚れ、額の傷が痛々しく光っている。
そして立弥。
アフロヘアにピンクのメガネ。その奇抜な格好は地下でも目立っていたが、今の彼にはその余裕がない。救出された際のショックと、ガスの影響で、俺の背中にしがみつくのがやっとだった。
「立弥、大丈夫か。水飲むか?」
俺はボディのサイドポケットから非常用ペットボトルを取り出した。ロボットが水を持ち歩くなんて変だが、人間の相棒のためなら何でもやる。
「あ…ありがと…」
立弥が震える手でボトルを受け取る。アフロが風に揺れて、どこかコミカルだ。だが次の瞬間、彼の表情から血の気が引いた。
「…思い出した」
立弥が、ボトルを握りしめたまま呟いた。
「思い出したって、何を?」
龍我が顔を上げる。
立弥のピンクメガネの奥で、瞳が揺れていた。記憶の糸を手繰り寄せるように、視線が虚空を彷徨う。
「あの日…兄貴を送った場所」
「送った?」
戦兎が振り返る。その声が、わずかに上擦ったのを俺の聴覚センサーは見逃さなかった。
「うん。兄貴…佐藤太郎が消える前日。新薬の治験があるって言うから、車で送ってやったんだ。場所は…」
立弥が顔を上げた。
「葛城巧の部屋だった」
時が止まった。
いや、止まったんじゃない。俺の処理回路が一瞬フリーズしただけだ。0.3秒。だがその0.3秒が、永遠に感じられた。
(…なんだって?)
佐藤太郎が最後に向かった場所。それが葛城巧の部屋。
戦兎の顔が強張った。龍我の目が鋭く細められる。
俺は動けなかった。動力炉の熱がまだ残っていたが、それとは別の冷たさが背中を走った。
「間違いないのか?」
龍我の声が、低く低く落とされた。
「ああ…間違いない。葛城巧って名前、新聞で見たことあるから。あの有名な科学者だろ? 住所も覚えてる」
立弥の声が震えている。彼にとっても、佐藤太郎の失踪は心に穴を開けたままの傷なのだ。
「戦兎」
龍我が、ゆっくりと立ち上がった。
その目は、もう救出仲間を見る目じゃない。容疑者を見る目だ。
「俺が葛城の部屋に着く前、お前がいたんだろ」
「…」
戦兎は答えない。答えられないのだ。
「佐藤太郎が葛城巧の部屋に行った。その後、葛城巧が死亡した。佐藤太郎とお前は同じ顔だ。お前は葛城巧のビルドシステムを扱える」
龍我が一歩ずつ、距離を詰める。拳は握りしめられていない。これは怒りじゃない。論理だ。
「だったら…葛城を殺して、俺に罪を被せたのは――」
「待て」
俺は龍我の前に滑り込んだ。
プロトトランスチームガンは抜かない。だが、立ちはだかる。
「ビリー、どけ」
龍我の声が、ゴロゴロと地鳴りみたいに響く。
「どかない」
「お前まで…戦兎の味方するのかよ!」
「味方も敵もまだ決めてない。だからどかない」
俺は龍我の目を見上げた。この男の目は嘘をつけない。怒りの奥に、迷いがある。
(こいつもわかってるんだ。状況証拠は揃ってる。でも証明できない。自分がそうだったように)
「疑う理由は揃ってる」
戦兎の声が、背後から響いた。
俺は振り返らなかった。だが、その声の重さで戦兎の表情は手に取るようにわかった。
「けど、俺には否定する記憶も証拠もない。何も言えないんだ、俺は」
声が、静かだった。
いつもの軽口も、天才物理学者のドヤ顔もない。ただ事実を述べる、乾いた声。
(戦兎…)
俺は龍我と戦兎の間に立ったまま、思考を整理した。
葛城巧。博士。俺を作り、俺に名前を与え、俺に「エボルトを倒せ」と遺言した男。
その博士が死んだ。殺された。
容疑者として逮捕されたのは万丈龍我。だが冤罪の可能性が高い。
そして今、もう一人の容疑者が浮上した。佐藤太郎。戦兎の元の名前とされる人物。
同じ顔。同じビルドシステムの適性。同じ時期の記憶喪失。
(博士を殺したのが佐藤太郎だとしたら?)
(その佐藤太郎が今の桐生戦兎だとしたら?)
(俺は今、博士を殺したかもしれない男の相棒として、背中を預けているのか?)
動力炉がチリッと熱を帯びた。リミッターが警告を鳴らすが、これは自爆の警告じゃない。感情の警告だ。
でも。
俺は銃を抜かなかった。
「俺が守るのは、今ここにいる桐生戦兎だ」
俺の声が、予想以上にしっかりと出た。
「けど、佐藤太郎の過去まで都合よく消す気はねぇ。博士に何があったのか、全部調べる」
龍我の目が、わずかに見開かれた。
戦兎の息を呑む音が背後で聞こえた。
「守るが、無条件には庇わない。それが俺のやり方だ。文句あるか?」
俺は龍我に問いかけた。
「…チッ」
龍我が顔を背ける。舌打ちの音には、怒りより納得の方が多く混じっていた。
「お前まで面倒くさいんだよ」
「面倒なのが俺の取り柄さ」
俺は肩をすくめた。右肩のサーボがキシッと鳴ったが、今は気にしない。
* * *
nascitaの地下基地。
コーヒーの香りが漂ういつもの部屋だが、今日は空気が重い。
全員がテーブルを囲んでいた。戦兎、龍我、俺、美空、惣一。そして救出した3人は上の病院へ搬送済みだ。立弥も一緒に検査を受けている。
「整理するわ」
紗羽がホワイトボードの前に立った。彼女の手には、これまでの調査資料が分厚く握られている。フリージャーナリストの本領発揮ってところか。
「まず時系列」
紗羽がマーカーで日付を書き込んでいく。
・佐藤太郎、行方不明
・葛城巧、自室で死亡
・万丈龍我、葛城巧殺害容疑で逮捕
・桐生戦兎、記憶喪失状態で発見
「4つの出来事が、短期間に連続して起きてる。それぞれの因果関係はまだ不明」
紗羽がマーカーを叩きつけるように置いた。
「議題を三つに絞るわ」
一、桐生戦兎と佐藤太郎は、本当に同一人物なのか
二、佐藤太郎は治験の内容を知っていたのか
三、葛城巧殺害と戦兎の記憶喪失は同じ事件なのか
「まず一つ目」
美空が口を開いた。彼女はいつもの気怠げな姿勢で椅子に寄りかかっているが、目だけが真剣だ。
「顔が同じってだけで、同一人物とは限らないでしょ」
美空が戦兎の方をちらりと見る。
「確かに、記憶喪失の経緯は怪しい。でも、顔が同じだけで現在の戦兎を犯人扱いするのは…」
「状況証拠だけで犯人にされた奴の気持ちは、わかるだろ?」
龍我が、ぽつりと言った。
美空が口を噤む。
龍我の言葉には、重みがあった。彼自身が状況証拠だけで殺人犯にされた男だ。その痛みを知っているからこそ、戦兎を断定できない。
「俺は…」
龍我が天井を仰いだ。
「俺は、戦兎を疑ってる。今でも」
戦兎が目を伏せる。
「でも、俺も状況証拠だけで捕まった。疑われて当然の状況にあった。でも犯人じゃなかった」
龍我が戦兎を見た。
「お前もそうかもしれない。…かもしれない、ってだけだ。まだ断定できねぇ」
(龍我…)
俺はテーブルの下で、プロトトランスチームガンのグリップを握りしめた。いや、握りそうになった。握ってない。握ってないぞ。
「二つ目。佐藤太郎は治験の内容を知っていたか」
紗羽が話を進める。
「立弥の証言によれば、佐藤太郎は『新薬の治験』と聞いて参加した。ネビュラガスの人体実験だとは知らなかった可能性がある」
「だとしたら、佐藤太郎も被害者ってことか」
美空が呟く。
「でも、被害者が加害者になることはある。スマッシュだってそうでしょ」
「…確かに」
美空が唇を噛む。自分の浄化能力で救ったスマッシュ被害者の中にも、再スマッシュ化した例がある。立弥がまさにそうだ。
「三つ目。葛城巧殺害と戦兎の記憶喪失は同じ事件なのか」
紗羽が最後の項目を指す。
「これが一番重要ね。もし同一事件なら、戦兎君の記憶喪失は事件に関与した結果ということになる。もし別件なら…」
「別の何者かが、俺の記憶を消したってことだな」
戦兎が、静かに言った。
「どちらにせよ、俺が現場にいた可能性は高い。記憶がないだけで、関与していないとは言えない」
(戦兎、お前…)
俺は戦兎の横顔を見た。
悲壮感はない。あるのは、ただ事実と向き合おうとする意志だけだ。
「うん、それでいいんじゃない?」
惣一がコーヒーカップを傾けながら口を開いた。
相変わらずの飄々とした態度だ。マスター、今は真面目な話をしてるんだぞ。
「佐藤太郎だけ調べても、答えは出ないよ」
惣一がカップを置いた。
「治験を募集した側、葛城巧の研究と行動を調べなきゃ。当事者は二人なんだ」
「博士の…研究」
俺は呟いた。
「そうさ。葛城巧が何をしようとしていたのか。なぜ佐藤太郎を治験に呼んだのか。そこが分からないと、戦兎の記憶も佐藤太郎の行方も見えてこない」
惣一がニヤリと笑う。いつもの掴みどころのない笑みだ。だがその目は笑っていない。
(このおっちゃん、やっぱり何か知ってるな)
俺はそう思ったが、今は追求しない。惣一が正しいことを言っている以上、反論する理由がない。
「博士の研究日誌…」
戦兎がキーボードに向かっていた。俺が救出したデータチップを、nascitaの端末に読み込ませている。
「あった。葛城巧の研究記録。暗号化されてるけど…俺なら解ける」
戦兎の指が高速でキーを叩く。カタカタカタカタ。
(ああ、これだ。この集中力。博士と同じだ)
俺は戦兎の背中を見ながら思った。葛城巧もこうしてキーボードを叩いていた。深夜の研究室で。俺の調整を終えた後、次の実験の計画を立てていた。
でも戦兎は、博士とは違う。
博士は孤独だった。俺以外に、背中を預けられる相手がいなかった。
戦兎には龍我がいる。美空がいる。惣一がいる。そして、俺がいる。
「…見つけた」
戦兎が手を止めた。
「葛城巧の研究日誌に、北都の研究所へのアクセスログがある。宛先は…葛城京香」
「葛城京香?」
美空が首を傾げる。
「葛城巧の…娘、か?」
龍我が眉をひそめる。
「可能性は高い。北都にいる人物で、博士が研究データを送付していた」
戦兎が椅子を回して全員の方を向いた。その目に、決意が宿っている。
「佐藤太郎が誰だったのかを知るには、葛城巧が何をしようとしていたのかを知らなきゃならない」
戦兎が立ち上がる。
「北都へ行く」
「おい、北都は危険だぞ。出国審査もあるし、向こうのガーディアンも…」
「危険なのはわかってる。でも、ここで座って待ってても答えは出ない」
戦兎の声に、迷いはない。
俺は立ち上がった。右脚の関節がキシリと鳴ったが、支障はない。
「俺も行く」
「ビリー…」
「守護者は守る対象から目を離さない。そう決めたろ、俺」
俺は赤いスカーフを直しながら、戦兎の隣に立った。
「北都で博士の足跡を探す。佐藤太郎の過去も。全部」
戦兎が、俺を見た。
その目に浮かんだのは、安堵じゃない。感謝でもない。
ただ、信頼だ。
「…ありがとう、相棒」
「礼は結果が出てからにしてくれ。今は借りだ」
俺は軽くウインクした。…いや、片目のLEDを点滅させただけだが。
「俺も行くに決まってんだろ!」
龍我が立ち上がる。椅子がガタンと倒れた。
「お前ら二人で行かせたら、何もかもぶっ壊してきそうだし」
「お前が言うなよ、脳筋」
「うるせぇ!」
(…はいはい、相変わらずだな)
でも、この口喧嘩が、今は心地いい。
* * *
夜。nascitaの地下。
議論が終わり、美空は部屋に戻り、惣一は店仕舞いをしている。龍我は救出された3人の病院へ報告に行った。
戦兎は、洗面台の前に立っていた。
鏡を見ている。
自分の顔を。
俺は無言で、その隣に立った。赤い識別灯が、薄暗い部屋で淡く光る。
「…ビリー」
戦兎が鏡越しに俺を見た。
「何だ」
「もし、俺が本当に博士を殺していたら?」
その問いは、鏡に映る自分自身に投げたものかもしれない。でも、俺は答えた。
「その時は逃がさねぇ」
戦兎の目が、わずかに揺れた。
「けど、答えが出る前からお前を犯人にもさせねえよ」
俺は鏡を見た。鏡には、戦兎の顔と、俺の機械の顔が並んで映っている。人間とロボット。不思議な組み合わせだ。
「随分と面倒な守り方だな」
戦兎が、少しだけ笑った。作り笑いじゃない。でも、本当の笑いでもない。
「守護者だからな。都合の悪いものを隠すのは、守るとは言わねえ」
俺の口元のサーボが、自然と動いた。
「俺は道具だ。使い方次第で善にも悪にもなる。でも今、俺はお前の相棒として使われてる。それが俺の選んだ使い方だ」
戦兎が鏡から目を離して、真正面から俺を見た。
「…お前って、本当に道具なのか?」
「何だ急に」
「いや…道具がそんなこと言うなら、道具の定義からして間違ってる気がする」
戦兎が、くしゃりと髪をかき上げた。跳ねた髪の毛が、フワッと戻る。
「まあいい。北都で答えを見つけよう。博士の足跡も、佐藤太郎の真実も」
「ああ。俺がついてる」
俺は赤いスカーフを軽く引っ張った。千切れた端が、まだヒラヒラしている。
「…スカーフ、直さないとな」
「博士がくれたんだろ、それ」
戦兎がスカーフを見た。
「ああ。『赤は目立つからやめろ』って言われたのに、博士自身がつけてくれたんだ」
「…あの人らしいな」
戦兎が少しだけ笑って、洗面台を離れた。
俺はもう一度鏡を見た。
鏡に映る俺の顔は、人型マスクだ。表情は読めるようで読めない。でも、今の俺にはわかる。
俺は笑っている。