葛城家の自宅は、古い日本家屋だった。
玄関の引き戸は軋むが磨き込まれた敷居は黒光りしている。長い廊下を抜けた先の和室には、小さなこたつと色褪せた座布団が四枚。部屋の隅には仏壇があって、その前には線香の煙が細く立ち上っていた。
(仏壇…あれが、博士の…)
俺はその前を通る時思わず足音を潛めた。ロボットの足音を潛めるって変な話だが、そういう気持ちになったのだ。
京香さんは俺たちを居間に通すと、手際よく茶を淹れてくれた。湯呑みは五つ。一つは仏壇の前へ。残りを俺たちの前に置く。
「座って」
短い指示。だが、さっきまでの拒絶とは違う。この人は自分の家に招き入れた人間にはきちんと振る舞う人なのだ。
戦兎と龍我が座布団に座る。俺は座るわけにもいかず、部屋の隅に正座した。機械の膝が畳にめり込む。畳の感触は俺の触覚センサーに記録される。
「それで」
京香さんがこたつに入り、湯呑みを両手で包んだ。
「巧のことを聞きたいと言ったわね」
戦兎が背筋を伸ばした。
「はい。俺たちは、葛城巧さんが何をしようとしていたのかを知りたいんです」
「何のために?」
「彼が残した研究データの中に、俺たちが追っている事件の手がかりがある。そして…」
戦兎が一瞬言葉を切った。
「俺自身の過去を知る手がかりもあるかもしれない」
京香さんは湯呑みを一口含んだ。その目が戦兎の顔を見つめている。息子と同じ顔をした、息子ではない男を。
「あなたの名前は?」
「桐生戦兎です」
「戦兎…変わった名前ね」
「自分でつけました」
京香さんの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「自分で?」
「はい。記憶を失っていたので、自分で名乗る名前を決めました」
京香さんは何も言わなかった。ただ、湯呑みを置いて戦兎の顔をもう一度見た。長い沈黙。やがて彼女は、静かに口を開いた。
「巧の研究データなら、ここにあるわ」
戦兎と龍我の背筋が同時に伸びた。
「正確には、巧が北都に送ってきたデータの写し。本物は東都の研究所にあるのでしょうけど、私の手元にも少しだけ残っているの」
「なぜ、あなたが」
龍我が問う。
「巧が死ぬ前に、送ってきたのよ。『もしもの時は、これを持って逃げてほしい』って」
京香さんの声が、わずかに掠れた。
「息子が何を恐れていたのか、私にはわからなかった。でもその言葉だけは妙に覚えていてね。だから東都から北都へ戻る時、このデータだけは持ってきた」
戦兎が深く頭を下げた。
「見せていただけますか」
「いいわよ。ただし」
京香さんが俺たちを見渡した。
「あなたたちが、巧の何なのかを教えてからにしなさい」
戦兎が顔を上げた。一瞬の逡巡。だがすぐに、正直に話し始めた。
ビルドドライバーのこと。ファウストのこと。スマッシュのこと。龍我が葛城巧殺害の容疑をかけられていること。冤罪の可能性があること。そして、佐藤太郎という名前のこと。
京香さんは途中で何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。表情を変えず湯呑みを両手で包んだまま。
戦兎の話が終わると、京香さんは長い息を吐いた。
「それで、その、彼が」
京香さんの目が、俺の方へと向いた。
「はっ、はい!」
俺は慌てて背筋を伸ばした。正座が崩れそうになる。
「俺こそがビリー・ザ・キッド! 巧の相棒の、正義のヒーローだっじゃなかったです!」
噛んだ。噛んだぞ俺。
(何やってんだ俺。博士の母親の前で。しかも名乗りを噛むとか、ヒーロー失格だろ)
俺は口元のサーボを必死に制御しながら、続けた。
「ビリーです。葛城巧博士が開発した、試作型ガーディアン。博士の研究助手で戦闘補助機で、それから…」
「それから?」
「…親友、でした」
最後の一言は、自分でも驚くほど小さな声になった。
京香さんは、ぽかんとしていた。俺の機械の顔を見て名乗りを噛んだことを思い出したのか、それとも「親友」という言葉が意外だったのか。
そして。
ふふっ。
京香さんが、笑い始めた。
「えっ、えっと、京香さん?」
俺は戸惑った。笑われるようなことを言っただろうか。いや、噛んだのは笑われても仕方ない。でも「親友」は真面目に言ったつもりだ。
「ふふっ、ごめんなさいね」
京香さんが口元を手で押さえながら、笑いを堪えようとしている。
「まさか、あの子に友達が本当にいたって。最初に聞いた時には信じられなかったから」
「その、ビリーのことは聞いていたんですか?」
戦兎が気になった様子で尋ねる。
京香さんは笑みを収めて、湯呑みを置いた。
「えぇ。あの子は父親の無念を晴らすために科学者を目指していた。それに目を向け続けて、学生時代には友達と呼べる人はほとんどいなかったの」
「そうだったのか」
戦兎が呟く。俺も、それは初めて聞く巧の一面だった。
博士は、孤独だった。
深夜の研究室でいつも一人でキーボードを叩いていた。俺が横に立っていても、それは「助手」であり「道具」であり。友達なんて言葉、博士の口から聞いたことがなかった。
「だからね、最初に聞いた時には冗談だと思ったのよ。ロボットの親友がいるなんてね」
京香さんが、俺の方を見る。
その目は、さっきまでの警戒した目じゃない。もっと柔らかくて、もっと深い。母親が息子の友人を見る目だ。
「けど」
京香さんが、静かに言った。
「…あの子がどうして、あなたを親友だと言ったのかなんとなく分かったわ」
「そんなもんなのか? なんでだ?」
俺は素で聞き返した。だってわからない。俺はロボットで、噛むし軽口叩くし、役に立つかどうかも怪しい。博士が俺を親友と呼んだ理由なんて、考えたこともなかった。
京香さんは、微笑んだ。母親の微笑みだ。
「母親の直感よ」
「直感…」
「えぇ。巧はね、小さい頃からまっすぐなものが好きだったの。嘘がなくて、飾りがなくてそのまんまのもの」
京香さんの目が俺の赤いスカーフに留まった。
「あなた、そのスカーフ。巧が選んだの?」
「はい。博士が。『赤は目立つからやめろ』って言ったのに、博士自身が俺に巻いてくれたんです」
「ふふ、あの子らしいわ」
京香さんがもう一度笑った。今度は、声を出して。
「目立つのが嫌いなくせに、自分が好きなものは押し通すのよ。小さい頃から」
(ああ、そうなのか)
博士のことを、俺はまだ何も知らなかったんだ。
研究助手として戦闘補助機として、相棒として。それだけだと思っていた。でも、京香さんの話を聞いていると博士の姿が少しずつ違って見えてくる。
戦兎が、静かに口を開いた。
「京香さん。研究データのこと、改めてお願いします」
京香さんは頷いた。立ち上がり、押し入れから古い木箱を取り出す。中には分厚いファイルと、いくつかのデータチップが収められていた。
「これが、巧が最後に送ってきたもの。全部よ」
戦兎が両手で受け取る。その手が、わずかに震えている。
「ありがとうございます」
「礼は、真実を見つけてから言いなさい」
京香さんは、静かに言った。
「巧が何をしようとしていたのか。誰に殺されたのか。そして、あなたが誰なのか」
その言葉は、戦兎だけに向けられたものじゃない。俺にも、龍我にも。
「私も、知りたいの」
京香さんが、仏壇の方を見た。線香の煙が細く揺れている。
「息子が何のために死んだのか。それを知るまでは、私はこの家を離れないわ」
部屋に、静寂が落ちた。
こたつの上の湯呑みから、湯気が細く立ち上っている。
俺は、正座したまま動けなかった。
赤いスカーフが、畳の上で静かに垂れている。
(博士。あんたの母親は強い人だ)
俺の動力炉が、静かに脈打っていた。