nascitaの地下基地に戻った時、俺は壁際まで歩いてそのまま体育座りをした。
別に座りたかったわけじゃない。膝のアクチュエータが言うことを聞かなかった。いや違う。聞こうとしなかったのは俺の方だ。膝が曲がったから座った。それだけだ。それだけなのに、立てなくなった。
赤いスカーフが畳の上に垂れている。いつもは風に舞うのに、今は死んだ蛇みたいに床へ張り付いている。眼部の発光も弱い。識別灯の出力を最低まで落としているせいだ。いや、落としたんじゃない。勝手に落ちた。動力炉の熱が、どこかへ逃げていったみたいに。
「ビリー?」
美空の声が上から降ってきた。
「……はい」
返事をした。それだけ。いつもなら「おうよみーたん、マネージャー帰還だ」とか軽口の一つも飛ぶところだ。でも喉のサーボが動かなかった。声が出ただけましだろう。
「ビリー、大丈夫?」
美空が覗き込んでいるのがわかる。気配でわかる。視線の温度でわかる。でも顔を上げられない。顔を上げたら、美空の心配そうな目を見ることになる。そうしたら俺は——
(何を言えばいいんだ。「ごめんなさい守れませんでした」か? 誰に謝ればいいんだ。美空に? 戦兎に? 博士に?)
「ビリー、ねえ」
美空がもう一度呼んだ。普段の気だるげな声じゃない。もっと細い声だ。まるで壊れそうなガラス細工をそっと触るみたいな声。
俺は何も言えなかった。
* * *
戦兎と龍我が戻ってきたのは三十分後だった。
二人の足音が地下基地への階段を降りてくる。戦兎の足音はいつも通り軽い。龍我のはいつも通り重い。何も変わっていない。二人の足音だけは何も変わっていない。
「ビリー」
戦兎の声が近づいてくる。
俺は顔を上げなかった。膝に額を押し付けるみたいにして、丸まっている。機械の膝に額なんかない。平坦な装甲板だ。でも押し付けた。
「状況を整理するぞ」
戦兎が言った。いつもの声だ。天才物理学者の声。冷静で、分析的で、でもその奥に焦りを隠している声。
俺の聴覚センサーは戦兎の言葉を拾っている。でも意味が入ってこない。水に落ちた石みたいに言葉が沈んでいく。
「東都へ入った直後だった。検問を通過して、十分ほど走った地点で襲撃を受けた」
戦兎が龍我に説明している。いや、惣一と美空にもだろう。状況を全員に共有しているのだ。
「ビリーは車体の下に張り付いていた。磁力吸着で固定していたが、ナイトローグの蒸気弾で剥がされた」
俺の指先が、畳を引っ掻いた。何もない畳を。音だけがカリカリと鳴る。
「俺が……同行すると決めたのに」
口から勝手に言葉が出た。声が掠れている。スピーカーの出力が不安定だ。
「俺が下に隠れるって言ったから。俺がセンサーを落としてたから。俺が反応できなかったから。出力が足りなかった。反応速度が0.3秒遅かった。磁力吸着の保持力が規定値の——」
「ビリー」
戦兎が遮った。
「お前一人の責任じゃない。俺たちも、あいつらの狙いを読み切れなかった」
戦兎の声が、一瞬だけ低くなった。天才物理学者の仮面の下、葛城巧の影を背負った男が顔を見せる。
「検問を通った時点で、ナイトローグは俺たちの位置を把握していた可能性がある。いや、可能性じゃない。確実に把握していた。スカイロードで一度交戦してる。俺たちの移動手段も人数も、あいつには手に取るようにわかっていた」
「だからって——」
「だからって何だ。お前が出力を上げていたら防げたのか? 蒸気弾の軌道を予測できていたのか?」
俺は答えられない。答えられないから黙る。黙るしかできない。
「反省会は助けてからにしろ」
龍我の声が割り込んだ。
俺は顔を上げた。ゆっくり。錆びついたサーボみたいにゆっくり。
龍我が立っていた。腕を組んで、顔をしかめて。いつもの不機嫌な顔だ。でもその目が、俺を見ている。
「お前が下に張り付いてたのは、お前が決めたことだろ。だったらお前の責任だ。でもよ、それで京香さんを守れなかったのはお前一人のせいじゃねぇだろ。戦兎もいた。俺もいた」
龍我の言葉は不器用だ。いつも不器用だ。慰めのつもりで言ってるのに最後は説教みたいになる。でも今は、その不器用さが正直で心地よかった。
「助けてからにしろ、か」
「おう。助けてからだ。助けてから反省しろ」
龍我が鼻を鳴らした。
* * *
そこへ美空が声を上げた。
「あのさ、戦兎。一つ気になることがあるんだけど」
美空がモニターの前から振り返る。いつもの気怠げな姿勢だが、目だけが真剣だ。
「東都で、スマッシュの目撃情報が出たの」
「何だって?」
龍我が前に出る。
「京香さんを探すのが先だろ! スマッシュなんか後だろ!」
「待て万丈」
戦兎が龍我を制止した。その目が細められる。髪の毛がフワッと跳ねた。天才物理学者のスイッチだ。
「美空、いつの情報だ」
「さっき。三十分くらい前」
「三十分前……誘枴から二時間弱か」
戦兎がモニターに歩み寄る。美空が画面を指差す。東都の市街地。スマッシュ出現地点のマーカーが点滅している。
「妙だな。誘枴から間を置かずにスマッシュが出現する。タイミングが近すぎる」
戦兎が腕を組んだ。
「ファウストは何のために京香さんを連れ去った。研究データの在り処を聞き出すためだ。だが京香さんがデータの場所を知っているとして、それを聞き出すには時間がかかる。それなのに誘枴から二時間でスマッシュが出る」
「……何の関係が」
龍我が眉をひそめる。
「あるよ。ファウストが京香さんにネビュラガスを投与した可能性がある」
その言葉が、地下基地の空気を一瞬で凍らせた。
「記憶を消すためだ。京香さんがデータの場所を知っているなら、その記憶を消せば戦兎たちが京香さんから情報を得られなくなる。そしてネビュラガスを投与された人間は——」
「スマッシュになる」
美空が呟いた。顔から血の気が引いている。
「そうだ。もし京香さんがガスを投与されてスマッシュ化したなら、東都でスマッシュが出現した地点と京香さんの生体情報を照合すれば、可能性を確定できる」
戦兎が俺を見た。
「ビリー。お前に京香さんの生体情報は追跡できるか」
俺の動力炉が、トクリと脈打った。
「……できる。京香さんに接触した際、俺の触覚センサーが脈拍と体温を記録している。それを基準データとして照合すれば、スマッシュの生体反応との一致率を計算できる」
「やれるか」
「……やる」
俺は膝に手をついた。体を起こそうとした。長時間同じ姿勢で停止していたせいで、関節のサーボが一瞬だけ追従を怠る。体勢が崩れかけた。
その時、太い腕が俺の右腕を掴んだ。
「立てよ、ビリー」
龍我だった。腕を引いて俺を立ち上がらせる。その力は強すぎず弱すぎず、ちょうどいい力加減だった。不器用な優しさが手に伝わってくる。
「……サンキュ、龍我」
「礼は後だ。行くぞ」
俺は立ち上がった。膝が笑っている。いやロボットに膝笑えって何だ。でも確かに笑っていた。関節のサーボがキシキシと鳴る。
「生体情報を照合する」
俺は自分の記録領域から京香さんの基準データを呼び出した。脈拍は一分間に六十八。体温は三十六度二。触覚センサーが記録した微かな温かさが、記憶領域に残っている。
(京香さん。あなたの温かさを、俺は覚えている。今それを探す)
照合開始。
スマッシュ出現地点の生体反応。報告されているデータを解析する。脈拍パターン。体温分布。体格係数。
一致率を計算する。
(……七十八パーセント)
七十八。確定とは言えない。でも否定もできない。京香さんである可能性は高い。だが確証はない。
「結果は」
戦兎が問う。
「一致率七十八パーセント。京香さんであると断定はできない。でも否定もできない」
「七十八か……」
戦兎が唇を噛む。
「でも十分だ。行くぞ」
「えっ」
「七十八パーセントで行かないなら、何パーセントで行くんだ。五十なら行かないのか。九十なら行くのか。京香さんがスマッシュかもしれないなら、一分一秒でも早く——」
「待て、戦兎」
俺は遮った。戦兎が目を丸くする。俺が戦兎の言葉を遮るなんて初めてだ。
「俺も行く。当然だ。でもその前に——」
俺は二丁のプロトトランスチームガンを見た。右側のガン。消防車フルボトルが装填されたままになっている。放水ノズルが展開したままの、特殊仕様。
俺は右側のガンから消防車フルボトルを取り外した。
カチッ。
ロックが外れる。放水ノズルが縮み、通常のプロトトランスチームガンの銃身へ戻っていく。
消防車フルボトルが掌に残った。赤いボトル。消防車のマーク。
俺はそれを戦兎に差し出した。
「……何だこれは」
戦兎がボトルを受け取る。
「消防車フルボトル。美空が浄化したやつだ。俺のガンに装填できるように改造してあったけど、ビルドドライバーにも使える」
「お前が使わなくていいのか」
戦兎の問いに、俺は残った二丁の拳銃を握り直した。左は通常弾。右は空のスロット。
「京香さんを助けられる可能性が上がるなら、戦兎が使え」
俺は戦兎の目を見た。
「俺のガンは牽制と援護に使う。でも火を消して人を助けるのは、お前の方が上手だ」
戦兎が一瞬だけ黙った。ボトルを握る手が、わずかに震えた。
「……わかった。借りるぞ」
「貸しだ。返してもらう。京香さんと一緒に」
戦兎が頷いた。その目にいつもの軽さはなかった。でも、何かが灯っていた。
「みんな」
美空が声を上げた。いつもの気だるげな声じゃない。もっと真っ直ぐな声だ。
「今度こそ、京香さんを連れて帰ってきてね」
「ああ」
戦兎が頷く。
「当たり前だ」
龍我が歯を見せる。
俺は何も言わなかった。いや言えなかった。言おうとしたら声が震えそうだったから。
代わりに、眼部の発光を通常出力へ戻した。識別灯が赤く明滅する。さっきまで消え入りそうだった光が、また点き始めた。
「ビリー」
惣一が、カウンターの向こうから何かを投げてよこした。
龍我が受け取る。袋だ。変装用の服が入っているらしい。
「おいマスター、何だこれ。俺は仮装大会に出るんじゃねぇぞ」
龍我が袋の中身を取り出して眉をひそめる。派手な柄物のシャツと帽子。目立ちそうで目立たない、微妙な変装だ。
「文句言うな。通る検問は増えるぞ」
惣一が軽く言う。いつもの飄々とした態度だ。だがその目だけは、一瞬だけ俺を見た。
(このおっちゃん……また何か隠してるな)
でも今はそれどころじゃない。
俺は出口へ向かった。
戦兎が続き、龍我が続く。龍我は変装の袋を小脇に抱えて文句を垂れながらついてくる。
「今度は、必ず取り戻す」
俺は言った。誰に言ったのかわからない。美空に。惣一に。戦兎に。龍我に。それとも京香さんに。それとも。
いや。博士に、か。
俺の動力炉が唸りを上げた。赤い識別灯が明滅する。さっきまで弱かった光が、もう一度強く、明滅を刻み始めた。
京香さんを守れなかった。親友の母親を、目の前で奪われた。
(守れなかった。でも取り戻せるなら)
赤いスカーフが、地下基地の空調の風にヒラリと舞った。