京香さんが目を開けたのは、廃工場の瓦礫の上だった。
俺の腕の中で瞼が震えて、焦点が合わないまま空を見上げる。数秒。やがて瞳がゆっくりと動いて、俺の機械の顔を捉えた。
「…ビリーくん」
俺の名前だった。掠れていたけど、確かに俺の名前を呼んだ。
「はい。ビリーです。大丈夫ですか」
「ええ…そうね。何だかひどく眠っていたみたいで」
京香さんはゆっくりと体を起こそうとした。俺は右腕を貸した。ロケット武装を解除したばかりの右腕はまだ熱を持っていて、京香さんの手が触れた時に「熱い」と言わないか心配になった。だが京香さんは何も言わずに、俺の腕を掴んで上体を起こした。
「京香さん、無事でよかった」
戦兎が近づいてくる。変身を解除した顔には汗と土がこびりついている。龍我も後ろから続く。二人とも息が上がっている。
「戦兎くん…だったかしら」
「はい。桐生戦兎です」
「そう。助かったわ。ありがとう」
京香さんの声は落ち着いていた。だがその目が一瞬だけ揺れたのを、俺の光学センサーは見逃さなかった。何かを思い出そうとして、できない。そんな顔だ。
「京香さん。あの、誘枴されてから のこと、覚えていますか」
俺は恐る恐る聞いた。
京香さんが首を傾げる。
「誘枴…? 私が誘枴されたの?」
「覚えてないんですか」
「ごめんなさい。何も覚えていないの。学校で子どもたちに勉強を教えていて…それから…」
京香さんはそこで言葉を切った。眉を寄せて、記憶の糸を手繰り寄せるように視線を彷徨わせる。だが糸は途切れたまま繋がらない。
「それから何も。気がついたらここにいた、という感じかしら」
戦兎と龍我が視線を交わした。戦兎の目が少し細くなる。何かを考え込む時の目だ。
「記憶を消されている可能性がある」
戦兎が小声で呟いたのを、俺の聴覚センサーは拾った。
「ネビュラガスの投与で記憶が曖昧になっているかもしれない。詳しいことは後で調べないと」
「そうだな。今はとりあえず安全な場所へ——」
龍我が言いかけた時だった。
「待って」
京香さんが声を上げた。
三人が同時に振り返る。京香さんは瓦礫の上に座ったまま、俺の腕を離して、自分の足で立ち上がろうとしていた。
「無理はしないでください。まだ——」
「大丈夫よ。それより、あなたたちに言わなきゃいけないことがあるの」
京香さんが立ち上がった。よろめきそうになったが、俺が肩を支える前に自分で踏みとどまった。強い人だ。
「巧の研究データ。隠した場所を教えるわ」
空気が変わった。
戦兎の髪がフワッと跳ねた。龍我の目が鋭くなる。俺の動力炉がトクリと脈打った。
「場所を? あれは東都に——」
「東都の貸金庫じゃない。あそこはダミーよ」
京香さんの声が、一瞬だけ低くなった。
「巧が死ぬ前に送ってきたものの中に、貸金庫の鍵があった。でもあの子は言ったの。『この鍵は信用できない相手に渡すための偽物です。本物の場所は別に教えます』って」
「偽物…」
戦兎が呟く。
「つまり貸金庫自体が罠か何かだったのか」
「さあね。あの子が何を考えていたのか、私には全部はわからない。でも本物の場所は、あの子が直接私にだけ教えた」
京香さんが北の方を向いた。スカイウォールの向こう、東都の方向だ。
「難波重工の旧研究所。東都の端にある、今は閉鎖されている施設よ」
「難波重工の…」
戦兎の目が細められた。博士の名前が出た時と同じ、葛城巧という影に触れる時の表情だ。
「あそこはスカイウォールの惨劇の前に、巧が研究室を借りていた場所よ。閉鎖された後も、あの子がこっそり使っていたみたいで。敷地の中に旗を掲げる塔があるの。その根元よ」
「旗を掲げる塔の根元」
「ええ。あの子が『ここなら誰も探さない』って言っていたから。たぶん埋めてあるわ」
「埋めてある…」
俺は呟いた。博士はいつもこうだ。デジタルのデータを隠すのに、アナログな方法を選ぶ。サーバーに暗号化して隠すより、土の中に埋める方が安全だと思っている。変なところで頑固な人だった。
「京香さん、鍵の偽物を渡す相手ってのは誰でした」
戦兎が問うた。
京香さんの眉が寄る。
「それが…覚えていないの。あの子が言ったことだけは覚えているんだけど、誰に渡したかが。ごめんなさい、記憶が曖昧で」
「いえ、大丈夫です。覚えていることだけで十分です」
戦兎が静かに頷く。だがその奥で思考が回っているのが俺にはわかる。髪の毛がピクピク動いている。計算モードだ。
(偽物の鍵を渡された相手が誰か。そこに何かヒントがあるかもしれない。でも今は)
「京香さん、まず休んでください。データの回収は俺たちがやります」
俺は言った。
「あなたたちだけで大丈夫? 危険かもしれないのに」
「大丈夫です。俺たちはこう見えても、ちょっとばかり命がけで」
龍我が肩をすくめる。不器用な慰め方だが、京香さんは少しだけ笑った。
「そう。じゃあお願いするわ。巧のデータを、取り戻してきて」
「必ず」
戦兎が答えた。その声に、いつもの軽さはなかった。
* * *
京香さんをnascitaへ送り届けてから、俺たちは難波重工の旧研究所へ向かった。
北都から東都へ戻るのは、またスカイロードを通るしかない。闇ブローカーに再び金を払い、今度は何事もなく抜けることができた。ナイトローグの待ち伏せはなかった。それが逆に嫌な予感をさせたが、今はデータの回収が先だ。
難波重工の旧研究所は、東都の最北端にあった。スカイウォールの麓、荒れた工業地帯の果て。錆びたフェンスが張り巡らされ、中には何年も手が入っていないらしい建物が見える。
「本当にここなのかよ」
龍我がフェンスの隙間から中を覗く。
「京香さんがそう言ったんだ。間違いないだろ」
戦兎がフェンスを乗り越えながら答える。俺はフェンスの隙間をくぐった。体格的には龍我より通りやすい。細身は試作型ガーディアンの取り柄だ。
敷地内は荒れ放題だった。雑草が膝まで伸び、瓦礫が点在している。かつて研究施設だった面影は、半分崩れたコンクリートの建物にわずかに残っているだけだ。
「旗を掲げる塔…あれか」
戦兎が指差す。
敷地の奥に、錆びた鉄塔が立っていた。通信塔か何かだったのだろう。頂上には旗竿がついているが、旗はもうない。風に揺れるのは錆びた金属音だけだ。
俺たちは塔の根元へ向かった。雑草を踏み分け瓦礫を乗り越える。塔の近くになると、地面が少し盛り上がっているのに気づいた。
「ここだ。掘ってみよう」
戦兎が言う。
龍我が素手で地面を掘り始めた。俺も右腕の指で土を退かす。機械の指はスコップより効率的だ。土がサクサクと音を立てて掘れる。
(博士。あんた本当に土に埋めたのか。研究データを。デジタルのデータを。USBメモリーに入れて。土の中に)
「あった!」
龍我が声を上げた。
土の中から小さな箱が顔を出した。指大の大きさ。プラスチックのケースだ。龍我が箱を拾い上げ、蓋を開ける。
中にはUSBメモリーが一本入っていた。
黒いUSBメモリー。何の変哲もない、量産型の記憶媒体だ。だが俺の動力炉がトクリと脈打った。
(博士の…)
俺の指が動いた。無意識にUSBに手を伸ばしかけて、止まった。
(これは戦兎に託された手掛かりだ。俺が触れていいものじゃない。いや、俺が触れたいんじゃない。博士に触れたいんだ。でも博士はもういない。残っているのはデータだけだ)
「ビリー?」
戦兎が俺の手を見た。伸びかけた指が止まっているのに気づいたのだろう。
「…何でもない」
俺は手を引いた。関節がキシリと鳴る。
「中身は戻ってから確認しよう。ここに長居はしたくない」
「そうだな。さっさと帰ろうぜ」
龍我がUSBをケースに戻しポケットにしまう。
「おい、何だあれ」
龍我が声を低くした。
俺のセンサーが反応した前に、龍我の直感が動いた。あいつの勘は時々俺のセンサーより速い。
鉄塔の影から、人影が一つ。
ワインレッドと黒の装甲。半透明のコブラヘッドゴーグル。そして口元に浮かべた余裕の笑み。
ブラッドスターク。
「やあ、お疲れさま。土掘りご苦労様」
スタークが手を振る。まるで散歩中の近所の人に声をかけるみたいな軽さだ。
「スターク…!」
戦兎が身構える。龍我が拳を握る。俺は二丁のプロトトランスチームガンを構えた。右手のスロットは空だ。ロケットフルボトルは戦兎に渡したままだった。
「USBの中身、楽しみだねぇ。葛城巧の遺産。何が入っているやら」
スタークがゆっくりと歩み寄ってくる。手にはスチームブレード。だが構えていない。肩に担いでいるだけだ。
「渡せよ。お前たちに持っている資格はない。それは俺が管理するべきものだからね」
「ふざけるな。これは京香さんから預かったんだ。お前には渡さない」
戦兎が前に出る。ドライバーに手をかける。
「京香さんか。あの人も大変だねぇ。息子を殺されて、誘枴されて、記憶まで消されて。可哀想に」
スタークの声が、一瞬だけ冷たくなった。だがすぐにまた軽い調子に戻る。
「でもまあ、そのデータは俺が預かるよ。京香さんのためじゃない。俺のためさ」
「お前のため? お前が何を知っている」
「さあね。俺はただのゲームメーカーさ。お前たちが何を掘り出すか見届けに来ただけだ」
スタークが立ち止まった。コブラヘッドゴーグルの奥の目が、戦兎のポケットを、龍我のポケットを、そして俺の空のガンのスロットを順に見た。
「さあ、どうする? そのデータを守れるかな。守護者くん」
俺の識別灯が激しく点滅した。
守る。京香さんに預かったデータを。博士が残した最後のものを。
だが右手のガンにはボトルがない。左手のガンだけでは火力が足りない。スタークの相手をするには、足りない。
(それでも)
俺は二丁を構えた。左が通常弾。右は空だが、素手でもこいつの邪魔くらいはできる。
「戦兎、データは龍我が持ってる。俺とお前でこいつを食い止める。龍我は先に逃げろ」
「は? お前らを置いて逃げろって言うのかよ!」
「逃げるんじゃない。データを届けるんだ。京香さんのところへ」
龍我が歯を噛みしめた。だが、俺の目を見て何かを読み取ったのか、舌打ちと共に頷いた。
「チッ。わかったよ。お前ら無茶すんなよ」
龍我が背を向けて走り出す。スタークがそれを追おうとする。
「させるかよ!」
俺は左のガンを連射した。パンパンパンッ!
弾丸がスタークの進路を塞ぐ。スタークはスチームブレードで軽く弾きながら笑う。
「おやおや。試作機くんも元気だねぇ」
「お前こそ余裕ぶっこいてる場合かよ」
俺は軽口を叩いた。中身は空だ。右のガンにボトルがない。この状況でスタークを止められるかは保証外だ。
だが。
(守護者は守るものの前から動かない)
赤いスカーフが風に舞う。
戦兎が隣でドライバーを構えた。ボトルを装填する。ラビットとタンク。
「行くぞビリー」
「おう」
俺の動力炉が唸りを上げた。
USBの中身を確かめる前に、まずそれを守らなければならない。
博士の遺産は、まだ俺たちの手元にはない。
赤い識別灯が、薄暗い旧研究所の敷地で激しく明滅した。