# 31章 顔を変える蛇と箱を守れない守護者
「今、何をした」
戦兎の声が夕暮れの搬送路に響いた。
低い。天才物理学者の仮面の下から漏れた、本音の声だ。問いかけじゃない。答えを要求している。
スタークは肩をすくめた。いつもの余裕だ。コブラヘッドゴーグルの奥で目が笑っている。
「見たままさ。顔を変えただけ。大したことじゃない」
「大したことじゃない? 人間の顔を変えたんだぞ! それはビルドシステムの技術じゃないトランスチームシステムの——」
「説明してあげたいけどね。今は忙しい」
スタークが箱を抱え直した。その動作一つで、戦兎の身体が硬くなるのが俺にもわかる。箱を傷つけたくない。その一念が戦兎の攻撃を鈍らせる。
戦兎は顔の変わった研究員に視線を一瞬だけ向けた。
「下がってください。ここは危険です」
研究員は自分の顔を手で触ったまま、呆然と立ち尽くしている。だが戦兎の声に弾かれたように後ずさりした。
戦兎がスタークへ踏み込んだ。
問いへの返事を待たず、箱を抱えた腕を掴もうとする。右腕を伸ばしスタークの左手首を狙う。
速い。変身解除直後だというのに戦兎の初動は鋭い。
だがスタークは更快かった。
箱を身体の反対側へ移す。右手から左手へ。一瞬の切り替え。戦兎の手が空を切る。
プシュッ。
蒸気が噴き出した。スタークの肩から漏れる白い蒸気が戦兎の視界を覆う。
「ちっ!」
戦兎が腕を引く。箱が見えない。蒸気の中でスタークの位置が曖昧になる。箱を傷つけられない戦兎は強引に攻撃できなかった。手を離すしかない。
(戦兎…箱がある限りスタークには手が出せない。それがあいつの盾だ)
蒸気が薄れた時、スタークは五歩後ろにいた。箱はまだ抱えている。笑っている。
「残念だったな、戦兎。箱は俺のものだ」
俺は動いた。
スタークの退路を塞ぐために、搬送路の左側、資材置き場との間に回り込もうとした。
だが——。
右脚のアクチュエータが反応しなかった。
一瞬。0.5秒。警告灯が激しく明滅し、膝のサーボが指令に追従しない。動力炉の出力が百分之十五。脚部への電力供給が追いつかない。
(くそ、遅い。脚が遅い)
0.5秒の遅れ。だがスタークは見逃さなかった。
コブラヘッドゴーグルの奥の目が、一瞬だけ俺の右脚に向けられた。細められる。品定めするような目だ。
「ビリー。動力炉、もう限界じゃないか?」
スタークの声が楽しそうだ。
「うるさい。まだ動ける」
「動ける? その脚で? 関節の追従遅延が0.5秒。俺には見えたよ」
(見破ってやがる。0.5秒の遅れを見抜いた。こいつは俺の機体の状態をどこまで知ってるんだ)
俺は歯噛みした。いやサーボを噛み締めた。音だけがカチカチと鳴る。
* * *
ふいに背後から蒸気が流れてきた。
搬出エレベーターの方から。黒い蒸気。毒々しい緑が混じった重い気体。
俺は振り返った。
ナイトローグ。
黒と暗い灰色の装甲が、搬出口の影から現れた。ゴーグルの奥の目が、冷たく光る。
「ローグ…!」
俺はガンを構えようとした。だが、腕が上がらない。右手のプロトトランスチームガンのグリップを掴む動作に、0.8秒の遅れが生じる。動力炉の出力不足が腕部サーボにまで響いている。
(動け。動け俺の体。今は動かなきゃ——)
ローグは俺を一瞬だけ見た。それから視線をスタークの抱える箱へ移した。
狙いは箱だ。俺じゃない。
だが——。
「邪魔だ」
ローグの声が低い。短い。切り捨てるような声だ。
「貴様が道を塞いでいる。退け」
「退かない」
俺はガンを構えた。腕が震えている。いやサーボの追従が追いついていない。銃口が定まらない。
「試作機。お前は葛城巧の遺産だ。壊すべきではないと前にも言った」
ローグが一歩踏み出す。
「だが——」
ローグの目が冷えた。
「遺産だろうと、箱を奪う邪魔なら容赦しない」
(前とは違う。前にローグは俺を壊すなと言った。今は容赦しないと言ってる。何が変わった?)
答えは簡単だ。前は俺がローグにとって利用価値があった。だが今、ローグの目の前にあるのはパンドラボックスだ。箱の方が優先度が高い。俺が邪魔なら排除する。
(合理的判断だ。冷たいけど、合理的だ。機械同士ならわかる話だ)
だが俺は退かない。
「退けと言われて退く守護者はいないだろ」
俺は引き金に指をかけた。だが腕が上がりきらない。銃口がローグの胸元を狙うはずが、腹の方へずれている。
(まずい。照準が合わない。動力炉の出力が足りなくて腕部サーボが——)
ローグが動いた。
速い。
スチームブレードが弧を描く。俺のガンを弾き飛ばそうとする軌道じゃない。俺の胸元を狙っている。
「ビリー!」
戦兎の声が届く。だが間に合わない。
俺は後退しようとした。右脚のアクチュエータが悲鳴を上げる。だが0.3秒遅い。
スチームブレードの切っ先が、俺の胸部装甲に触れた。
金属と金属が接触する微かな音。刃先が装甲を削る。火花が散る。そして刃は止まった。
止まったんじゃない。止められた。
刃先の反射。夕陽を拾った銀色の光が、俺の識別灯の赤と重なる。警告音が耳元で鳴り響く。動力炉に近い位置だ。あと数センチで動力炉の隔壁に届く。
(近い。近すぎる。あと数センチで——)
俺の処理回路が死の計算を弾き出した。動力炉の隔壁が破損すれば臨界に達する。自爆。俺が終わるまで0.3秒。
その0.3秒の中で、俺は思った。
(博士。リミッターを付けてくれてありがとう。おかげで今ここで爆発しなくて済む。でも、もしリミッターがなかったら、今この瞬間にローグもろとも——)
思考が途切れた。
別の手が、ローグの刃を止めていた。
ワインレッドの手。
スタークの手だ。
スタークのスチームブレードが、ローグのブレードを受け止めていた。ガギンッ! という金属音が搬送路に響く。
「そこは壊すな」
スタークの声が低い。いつもの軽い調子じゃない。
ローグが目を細めた。
「何をするスターク。邪魔をするな」
「邪魔じゃない。忠告だ」
スタークがローグの刃を押し返す。
「あいつの動力炉は下手に破れば何が起きるか分からない。箱が欲しいなら、ビリーは放っておけ」
静寂が落ちた。
俺の動力炉の警告音だけが、ピーッ、ピーッと鳴り続けている。
(何だと? スタークが俺を助けた? ローグから? なぜ?)
俺の処理回路が回らない。いや回っているが答えが出ない。スタークは敵だ。ファウストの幹部だ。俺の相棒の敵だ。なのに俺の動力炉を壊すなとローグを止めた。
「何が起きるか分からない、か。お前は知っているのか。あの動力炉の仕組みを」
ローグの声が探るように変わる。
「知っているさ。葛城巧の設計した動力炉だ。俺が知らないわけがない」
スタークが答える。余裕が戻っている。だが声の低さは変わらない。
「だから忠告した。壊すなと。箱を取るのにビリーを壊す必要はない」
(「葛城巧の設計した動力炉」…「俺が知らないわけがない」…この言い方。まるで博士の技術を全部知ってるみたいな言い方だ)
俺の警告灯が点滅し続ける中、一つの疑問が処理回路の中心に浮かんだ。
(なぜスタークは俺の動力炉のことを知っている? 俺の動力炉の危険性を。リミッターの意味を。自爆のリスクを。それは博士しか知らないはずの情報じゃないのか?)