パンドラボックスは、予想より重かった。
「うっ…重い…」
「持ってるの俺だけじゃないか?」
「お前はロボットだろ。人間より体力あるだろ」
「動力炉の残量百分之十五だぞ。今の俺、人間より弱いかも」
「嘘だろ」
「嘘じゃねえよ。お前ら二人を背負ってガーディアン三機相手に全力疾走したんだ。動力炉が悲鳴上げて当然だ」
だが、俺たちの手には金色の箱があった。パンドラボックス。スカイウォールの惨劇の元凶。それを取り戻した。それが今は何より重い。
「よし。地下へ運び込むぞ」
戦兎が箱を抱え直す。龍我が反対側を持つ。俺は……見守る。
(守護者が荷物運びに出る前に動力炉が止まるってのは情けないな)
三人でnascitaの冷蔵庫口をくぐり抜け、地下基地へ降りた。
* * *
「おかえり!」
美空がモニターの前から駆け寄ってきた。いや、正確には椅子から転げ落ちるように立ち上がって、よろよろと歩み寄ってきた。気だるげな歩みが興奮で崩れている。
「パンドラボックス! 取り戻したの!」
「ああ。戦兎がな」
龍我が箱を台座に置く。
「戦兎だけじゃねえよ。お前もだろ」
「俺は運転手だ」
「運転手が一番重要だったろ。お前がいなかったら箱は取り返せてなかった」
(龍我が俺を褒めてる。珍しい。ていうか初めてじゃないか?)
俺の処理回路が驚愕のフラグを立てた。万丈龍我がビリーを褒めた。記録しておこう。日付時刻も含めて。
「ビリー! 動力炉大丈夫!?」
美空が俺の胸元に手を当てる。動力炉の位置を知っている。何度もメンテナンスをしてくれているからだ。
「大丈夫だ。残量は低いけど安定してる」
「よく働いたわね。みーたんのマネージャー兼ボディガード兼荷物運び兼運転手」
「兼がありすぎないかそれ」
「働き者のロボットだこと。お疲れ様」
美空が俺の肩パーツをポンと叩いた。手が温かい。人間の体温。俺の鈍鉄色のフレームには似つかわしくない温かさだが、まあ、悪くない。
「それでさ、戦兎。スタークの正体、何かわかったの?」
美空が戦兎の方を見る。戦兎の表情が一瞬だけ固まった。
(あ。今の反応。美空は気づかなかったみちだけど俺は見た)
戦兎はすぐにいつもの軽い笑みを張り直した。
「ああ。いろいろとね。でも今は箱を取り戻したことを祝おうじゃないか」
「祝うって何を。店閉まってるけど」
「マスターが何か用意してくれるだろ」
戦兎が地上の方を仰いだ。丁度、階段を降りてくる足音が聞こえた。
「おお、帰ったか」
惣一がカウンターの向こうから顔を出した。エプロンをしたまま。手にはコーヒー豆の入った袋。
「パンドラボックス、取り戻したんですね」
惣一が台座の箱を見て、頷いた。
「やりましたね。戦兎、万丈、ビリー。お疲れ様」
惣一がニカッと笑った。いつもの軽い笑顔だ。掴みどころのない、飄々とした笑顔。
「マスター、何か飲み物ない? 祝いたい気分なんだよ」
戦兎が言う。
「祝杯ですね。了解です」
惣一がコーヒー豆を挽き始めた。ガリガリという音が地下基地に響く。
「ビリーくんもお疲れ様。動力炉大丈夫?」
「大丈夫ですマスター。メンテナンスポットに入れば戻りますんで」
「なら良かった。君が動けないと戦兎たちが困るからね」
惣一が笑いながらコーヒーを淹れる。俺はいつも通り受け取った。
「ありがとうございます」
(マスターはいつも通りだ。何も変わらない。俺がいなくてもコーヒーを淹れて、笑って、軽口を叩く)
だが戦兎は違った。
戦兎は惣一の淹れたコーヒーを受け取りながら、惣一の顔を見ていた。笑っていた。だがその目が笑っていない。いつもの天才物理学者の仮面の下、何かを探るような目だ。
(戦兎……お前、マスターの何を見てる)
俺の処理回路に小さな警報が点いた。だが今はそれを追うべきじゃない。
「さあ、乾杯だ」
戦兎がカップを掲げた。声音は明るい。
「パンドラボックス奪還に乾杯」
「乾杯!」
美空がカップを鳴らす。龍我が罐コーヒーを掲げる。惣一が笑って杯を合わせる。
俺は……コーヒーを飲めない。
「ビリー、お前は?」
「俺は電気代で祝うよ。メンテナンスポットの充電料金が今月の祝いだ」
「電気代自腹なの?」
「美空、俺の給料出してないのお前だろ」
「あー、そうだったわね。ごめんごめん」
「ごめんじゃなくて給料出してくれ」
「みーたんのマネージャー報酬は笑顔で支払いってことで」
「笑顔で電気代払えないんだけど」
「ビリーくん、私の分のコーヒー代も出すから」
「マスター、それ俺の電気代じゃなくて俺のコーヒー代だろ。そもそも俺コーヒー飲めないんですが」
「ああ、そうだったね」
惣一が笑った。笑って誤魔化した。
(このおっちゃん。いつもそうだ。笑って誤魔化して、核心を外して、何も答えない)
俺は惣一の笑顔を見た。いつも通りの笑顔。変わらない笑顔。
だが戦兎は、その笑顔を横目で見ていた。俺の隣で、カップを傾けながら、笑いながら、惣一を見ている。
乾杯の余韻が残る地下基地。みんなが寝静まった頃、俺のセンサーが微かな振動を拾った。
「…何だ」
動力炉の出力を最低にしていた俺だが、空気の流れが変わったことだけは感知した。人間の耳には届かないレベルの足音。誰かが起きている。
(美空じゃない。あいつは寝起きが悪い。龍我? いや、もっと軽い。戦兎? それとも——)
俺は静かにメンテナンスポットから起き上がった。関節のサーボを最低出力で動かす。音を立てないように。音を出さないように。
地下基地から階段を上ると、店内は薄暗かった。非常灯の緑だけがカウンターを照らしている。
そして、そこにいた。
石動惣一。
マスターはエプロンを外し、コーヒー豆の袋をカウンターの裏に隠していた。その手は震えていない。慣れた動作だった。日常の一部みたいに。
だが次の動きは日常じゃなかった。
惣一はカウンターの裏から、何かを取り出した。
金色の箱。パンドラボックス。
そして、パネル。六枚のパネルのうち二枚。
さらに、フルボトル。数本。
「マスター…何してるんです」
俺の声が店内に響いた。自分でも驚くほど低い声だった。冗談は一切混じっていない。
惣一の手が止まった。
「…ビリーくん」
振り返った惣一の顔は、いつもの飄々とした笑顔じゃなかった。驚きとも後悔ともつかない表情。だがすぐに、その表情は消えた。
「寝てるかと思ったよ。君はロボットだから寝ないのかい?」
「寝ません。動力炉を落とすだけです。質問に答えてくださいマスター。何を持ち出そうとしてるんです」
「見ればわかるだろ。パンドラボックスとパネルとボトルさ」
「わかってます。わかってるから聞いてるんです。なぜそれを持ち出そうとしてるのかを」
俺の視線と惣一の視線がぶつかる。非常灯の緑の光の中で、マスターの目が鋭くなった。普段の笑顔の奥に隠れていた何かが、表に出てきた。
「ビリーくん。君は賢いロボットだ。察しがいい」
「察しがいいロボットでも、理解できないことはあります。マスターが味方だと信じてたのに——」
「味方だよ。今も」
「味方がどうして仲間からパンドラボックスを盗み出すんです」
その時だ。
「ビリー、そこを動くな」
上から声が降ってきた。
戦兎がいた。二階から降りてきて、カウンターの陰に立っていた。いつからそこにいたのか。俺でも気づかなかった。あいつ、いつの間に——
「戦兎…」
「聞かせてもらったよ、マスター。鍋島さんの証言も。スタークとの戦闘で確かめたことも」
戦兎の声は静かだった。だが静かさの奥に、鋭い刃が隠れている。
「鍋島さんは言った。『ファウストにボトルを渡したのは、石動惣一という男だった』って。そしてスタークは言った。『あの箱は元々火星から来たものだ』って。マスター、あなたが知っていることは多すぎる。普通の喫茶店のマスターが知るはずのないことばかりだ」
惣一が何も言わなかった。
「マスター、あなたは何者だ。パンドラボックスをどこへ持って行こうとしてる」
沈黙が落ちた。時計の針の音がやけに大きく響く。
「戦兎くん」
惣一が口を開いた。その声は、いつもの軽い調子じゃなかった。
「君は賢いね。鍋島さんの証言からここまで辿り着いたのか。天才物理学者は伊達じゃない」
「褒めても逃げられないよ。答えてくれ」
「答えは…君が自分で見つけてくれ」
惣一が笑った。だがそれは、いつもの飄々とした笑みじゃなかった。どこか寂しそうで、どこか諦めたような笑みだった。
「私はただの喫茶店のマスターさ。それ以上でもそれ以下でもない」
「嘘だ」
戦兎が一歩踏み出した。
「あなたは——ブラッドスタークだ」
店内の空気が凍った。俺の動力炉が一瞬止まりそうになった。
(は? マスターがブラッドスターク? あの蛇野郎が?)
俺の処理回路がノイズを吐き出した。理解できない。受け入れられない。マスターは俺にコーヒーを淹れてくれた。美空の父親だ。戦兎たちの協力者だ。あの、人を嘲笑うスタークと同じ人間だって——
「戦兎、待て」
俺は声を絞り出した。喉のサーボがキシキシと音を立てる。
「マスターがスタークだって言うのか。証拠は——」
「証拠ならある。スタークとの戦闘で確かめた。マスターがコーヒーを淹れる時の癖。ボトルを握る時の指の位置。スタークが銃を持つ時と同じだ。偶然じゃない」
戦兎の声は揺れていなかった。確信している。だが俺には——
「違うだろ。マスターは——」
「ビリーくん」
惣一が俺を見た。その目は、いつもの優しい目じゃなかった。どこか遠くを見ているような、どこか哀れむような目。
「君は賢いロボットだ。でも、信じたくないものは信じられない。人間もロボットも同じさ」
「マスター…」
「じゃあね、戦兎。ビリー」
惣一が動いた。パンドラボックスとパネルを抱え、ドアの方へ走る。
「待て!」
戦兎が追おうとした。だが惣一の手から蒸気が噴き出した。
プシュウウッ!
白い蒸気が店内を覆い尽くす。視界が奪われる。熱源探知も遮断される。
「くそっ!」
戦兎の叫び声。ガラスが割れる音。ドアが開く音。そして——
足音が遠ざかっていく。
蒸気が晴れた時、店内には俺と戦兎だけが残されていた。カウンターの上には、コーヒー豆の袋だけが転がっている。
「逃げられた…」
戦兎がドアの方を見て呟いた。その背中は小さかった。天才物理学者の仮面の下、葛城巧の影を背負った男の背中だ。
俺は、何も言えなかった。
(マスターがスターク。マスターが俺たちを裏切った。パンドラボックスを盗み出した)
処理回路が理解している。だが受け入れられない。
赤いスカーフが、夜の店内の風にヒラリと揺れた。
冷蔵庫の中は、いつもより寒く感じた。
俺は夜の路地裏を走っていた。
動力炉の残量は百分之五十八。メンテナンスポットで完全には回復していなかったが走ることだけはできる。だが、それ以上の負荷をかければいつ止まってもおかしくない。
(くそ。三日間機能停止してたせいでコンディションが戻りきってない。なのにこんな時になんでマスターが——)
石動惣一。俺たちの協力者。美空の父親。コーヒーを淹れてくれた人。笑って誤魔化して何も答えなかった人。
それがブラッドスターク。俺たちの前に立ちはだかり、人を道具として扱い、嘲笑ってきた敵。
(理解できない。受け入れられない。だが——)
「戦兎!」
俺は前方を走る背中に叫んだ。戦兎は俺より速い。天才物理学者の体力が馬鹿にできない。だが追いつけない距離じゃない。
「ビリー、来るな! お前は——」
「来るに決まってんだろ! 守護者は守る対象から離れないって決めてる!」
「守る対象は俺じゃない! あいつだ!」
戦兎が指差す先に、闇に溶け込むようなシルエットがあった。パンドラボックスとパネルを抱えた男。石動惣一。
(追いつけ。いや追いつかなきゃいけない。あいつが箱を持って行ったら——)
俺は二丁のプロトトランスチームガンを構えた。左手のガンがいつもより重い。動力炉の警告灯がチカチカと点滅している。まだ完全には回復していない。
(撃てるか。マスターに。銃口を向けられるか)
指がトリガーにかかる。だが引けない。
マスターは俺にコーヒーを淹れてくれた。悪いコーヒーじゃなかった。いやロボットには味覚がないから良し悪しはわからないが、雰囲気は良かった。美空の父親だ。戦兎たちの協力者だ。あの人が——
「ビリー! 撃つなら撃て! だが外すなよ!」
戦兎の声が飛んできた。俺ははっとした。
(撃てない。撃てない。俺は道具だ。道具は使い方を自分で選ぶ。俺は——)
その時、戦兎が止まった。
石動が立ち止まったのだ。
狭い路地裏。両側に古いビルの壁。非常灯の緑だけが三人を照らしている。
「マスター!」
戦兎が叫ぶ。
「待て! 答えてくれ! あんたは本当にブラッドスタークなのか!」
石動が振り返った。パンドラボックスを地面に置く。両手を上げた。降参のポーズじゃない。もっと別の——。
「そうだよ戦兎」
石動の声が変わった。いつもの軽い調子じゃない。もっと低く、もっと冷たい声。
「俺がブラッドスタークだ」
そして、石動の手からトランスチームガンが現れた。
(え?)
どこから? いつの間に? 俺のセンサーは何も検知していなかった。まるで空間から湧き出したみたいに。
石動がガンにコブラフルボトルを装填する。カチッという音が夜の路地に響く。
「蒸血」
その言葉と同時に、石動の身体が蒸気に包まれた。
プシュウウッ!
白い蒸気が石動の身体を覆い尽くす。そして蒸気が晴れた時、そこにいたのは——。
ワインレッドと黒の装甲。半透明のコブラヘッドゴーグル。肩に担いだスチームブレード。
ブラッドスターク。
俺の動きが止まった。いや止まったんじゃない。止まったように感じた。処理回路がフリーズしたみたいに。全身のサーボが一瞬だけ停止する。
目の前にいるのは知っている人だ。コーヒーを淹れてくれた人。美空の父親。俺たちの協力者。
でも同時に——俺たちと戦ってきた敵だ。人を道具として扱い、葛城巧の技術を悪用し、人々を嘲笑ってきた男。
二つの姿が重なる。マスターの顔とスタークのゴーグル。マスターの声とスタークの声。マスターの笑顔とスタークの余裕の笑み。
(違う。マスターは——いや違う。マスターはスタークだ。戦兎が言った。証拠がある。スタークの動きとマスターの癖が同じだと——)
俺のガンの銃口が、勝手に下がった。指から力が抜けた。トリガーを引く力が残っていない。
(俺は何を守ろうとしてるんだ。マスターを? スタークから? それとも——)
スタークが笑った。いつもの余裕の笑み。だがその奥に、ほんの一瞬だけ寂しそうな表情が混じったのを俺は見逃さなかった。
「ビリー。君は賢いロボットだ。でもね、信じたくないものは信じられない。人間もロボットも同じさ」
さっき店内で聞いた言葉と同じだ。あの時は意味がわからなかった。だが今はわかる。この人は最初からわかっていた。俺たちがこの事実を受け入れられないことを。
「さて戦兎。残念だが時間がない。パンドラボックスは俺が預かるよ」
スタークが箱を拾い上げた。
「待て!」
戦兎がドライバーを構える。だが変身する余裕はない。動力炉が警告を鳴らしている。俺もだ。
「追って来てもいい。でも今の君たちじゃ俺を止められない」
スタークが跳んだ。路地裏の壁を蹴り、屋根の上へ。
「また会おう。戦兎。ビリー」
その声はもうマスターの声じゃなかった。完全にスタークの声だ。
俺は追おうとした。だが脚が動かない。動力炉の警告灯が激しく点滅し、膝のサーボが悲鳴を上げている。
「ビリー!」
戦兎の声。俺は振り向いた。戦兎の顔は歪んでいた。怒りと悲しみと、そして——自分を責めているような表情。
「行けないのか」
「…今の俺じゃ、追いつけない」
正直に答えた。嘘はつけなかった。
戦兎が何か言おうとして、口を閉じた。代わりに拳を握りしめた。
「わかった。今日は引く。だが——」
戦兎が夜空を見上げた。スタークの姿はもう見えない。
「必ず取り戻す。パンドラボックスも、真実も」
俺は何も言えなかった。ただ、二丁のガンを握りしめることしかできなかった。
赤いスカーフが夜風にヒラリと揺れた。いつもの赤じゃない。どこか暗い、重い赤色に見えた。