nascitaに戻った時は夜が明ける前だった。
地下基地の冷蔵庫口をくぐると、コーヒーの香りが漂ってきた。誰も淹れていないのに香りだけが残っている。マスターがいないnascitaは、こういうところで寂しさを滲ませる。
(マスターの匂いか。いなくなってわかるもんだな)
俺はメンテナンスポットに座らせられたまま、天井を見上げていた。動力炉の残量は百分之四十二。追跡で無理をしてまた警告灯が点滅している。あと一回メンテナンスポットに入れば全快するはずだが、今はまだ上がれない。戦兎がポットの起動を渋っているのだ。
「ビリー、動力炉休ませなよ。あんた無理しすぎ」
美空が椅子の上で膝を抱えて言った。いつもの気だるげな姿勢だが、目の下の隈がいつもより濃い。父親がいなくなった夜だ。無理もない。
「無理してない。普通に走っただけだ」
「普通に走って動力炉が警告鳴らすわけないでしょ」
「俺の普通は人間の普通と違うだけだ」
「何それ」
「ロボットジョークだ。笑え」
「笑えない」
美空がふにゃりと膝に顔を埋めた。笑ってくれなかった。まあ今の俺に冗談を笑える余裕がないのは、自分でもわかっている。
* * *
戦兎と龍我は、地下基地のモニターの前に並んで座っていた。二人とも言葉がない。いつもなら口喧嘩が絶えない二人が、今は静かだ。それが逆に異常に感じる。
「……おい」
龍我が先に口を開いた。
「あの人の分のコーヒー、片付けるか?」
カウンターの上に、惣一の湯呑みが置かれたままだ。洗っていない。コーヒーの膜が内側にこびりついている。
「……片付けるな」
戦兎が短く言った。
「あ? なんで」
「証拠だ。あんたがここにいた証拠」
戦兎の声に、いつもの軽さがない。天才物理学者の仮面を被っているが、その下の歯車が軋んでいる音が聞こえるみたいだ。
「……そか。あんたそういう奴だな」
龍我が湯呑みを見て、視線を逸らした。
* * *
紗羽が戻ってきたのは、その十分後だった。
「ただいま。遅くなった」
紗羽が地下基地の階段を降りてくる。手にはいつものノート。だがそのノートのページ数が、俺が見た時より倍くらい増えていた。
「どうだった」
戦兎が振り返る。
「石動惣一の入院歴。全部洗った」
紗羽がノートをテーブルに広げた。手書きのメモ。日付、病院名、診療科。びっしりと書き込まれている。
「一箇所だけじゃなかった。三箇所の病院に通院歴がある。全部精神科」
「精神科……?」
美空が顔を上げた。父親の病歴。それを他人に話されるのは、やっぱり嫌なはずだ。だが美空は黙って聞いている。
「最初はスカイウォールの惨劇の直後。宇宙飛行士として火星から帰還した後の検査入院。その後二度、外来受診。全部、パンドラボックスの起動と時期が近い」
紗羽がノートの該当ページを指差す。
「そして、もう一つ」
紗羽がページをめくる。
「美空ちゃんが病院から連れ出された時期」
美空の肩が震えた。
「石動惣一が美空ちゃんを病院から連れ出した日付と、石動の最後の受診日付が三日しか離れていない」
「三日……」
俺は思わず呟いた。
「パンドラボックスの起動直後。石動は病院にいた。そして、ほぼ同時期に美空ちゃんを病院から連れ出した。その間に何があったのか」
紗羽の声が低い。ジャーナリストの目だ。事実を事実として並べる目。
「あと、もう一つ。これは確認済み」
紗羽が最後のページを開いた。
「石動惣一が東都政府に提出した届出。娘の美空ちゃんを、保護者として引き取った日付。これも、パンドラボックス起動の直後だ」
「全部繋がってる……」
戦兎が呟いた。
「パンドラボックスの起動。石動の入院。美空の連れ出し。全部同じ時期に集中してる」
* * *
俺は黙って聞いていた。
紗羽の報告を聞きながら、俺の処理回路が別の計算を始めていた。
(石動惣一はスカイウォールの惨劇の張本人。パンドラボックスの光を浴びて性格が変貌した。そして美空を連れ出し、nascitaで隠した。フルボトルを集めさせた。俺たちに協力した。そして、俺たちを裏切って箱を持ち逃げた)
(全部、計画通りだったのか?)
俺の動力炉が不規則に脈打った。これは自爆の予兆じゃない。ただの不安だ。
(マスターは……いや、スタークは、俺たちに協力していた。戦兎に情報を流し、フルボトルを管理し、美空の浄化能力を使わせた。俺たちが箱を集める手助けをした)
(なぜ?)
(パンドラボックスを集めるため? いや、スタークは箱を奪い返した。俺たちに集めさせて、最後に回収したのか?)
俺の視線が、自分の胸部装甲に向いた。動力炉の位置。リミッターの警告灯がまだ点滅している。
(スタークは俺の動力炉を知っていた。「そこは壊すな」とローグに言った。なぜ? 俺が壊れると何か不都合なことがあるから? 俺の動力炉に何か隠されているから?)
(だとしたら、マスターが俺を拾ったのも、メンテナンスをしてくれたのも、nascitaに置いてくれたのも、全部偶然じゃないことになる)
(俺は道具だ。使い方を自分で選ぶ。でも、選ばせてもらえたのも、スタークの計画のうちだったら……?)
「ビリー?」
美空が声をかけてきた。俺の様子がおかしいのに気づいたのだろう。
「何」
「動力炉、まだ警告鳴ってるけど大丈夫?」
「大丈夫じゃない。でも、今はどうでもいい」
「どうでもよくないでしょ。あんた動力炉が壊れたら終わりなんだから」
「終わらない。メンテナンスポットがある」
「メンテナンスポットもあんたが入らなきゃ意味ないでしょ」
美空が立ち上がり、俺の方に歩いてきた。そして俺の胸元に手を当てた。動力炉の位置。温度を確かめている。
「……熱い。熱すぎる。ビリー、今すぐポットに入りなよ」
「戦兎が許可してない」
「戦兎の許可なんか要らない。あんたの体はあんたのものだろ」
「俺はロボットだ。自分の体の管理権限は管理者にある」
「管理者って誰」
「……戦兎」
「じゃあ戦兎に言う。あんた入れてって。あたしが言うから」
美空が戦兎の方を向いた。
「戦兎! ビリーをポットに入れて! 今すぐ!」
戦兎が振り返る。俺の顔を見て、動力炉の警告灯を見て、一瞬だけ目を細めた。
「……ああ。入れてくれ。俺が言い忘れてた」
「言い忘れてたじゃないよ。あんた無自覚すぎる」
美空が俺をメンテナンスポットに引っ張っていった。手が温かい。人間の体温。
地下基地の空気は、コーヒーの香りと微弱なオゾンの匂いが混ざっていた。
戦兎が実験台に向かって三時間になる。モニターには葛城巧のUSBから抽出したデータが並んでいる。俺は戦兎の右隣に立って、試料管の受け渡しをしていた。
「次。三番」
「はいよ」
俺はラックから三番の試料管を抜いて戦兎の手に渡す。指先が触れる一瞬。戦兎の手は熱い。熱を発するほど集中している証拠だ。
戦兎が試料管をビーカーへ傾ける。液体が滴り落ちる。モニターの数値が変わる。
「…違うか」
戦兎が唇を噛む。だが手は止まない。次の試料管に手を伸ばす。
「四番」
「ほら」
俺は四番を渡す。戦兎が傾ける。数値が変わる。さっきと違う波形。
「…近い。でもまだだ」
戦兎が歯を食いしばる。だが手は止まない。ピンセットが次の試料を挟む。カチカチという硬質な音が続く。
(すごいな。失敗しても止まらない。いや失敗だから止まるんじゃなくて、失敗の中に正解の欠片があるから続けるんだ)
俺は戦兎の手元を覗き込んだ。試料管のラベル。成分名。数値。戦兎の書き込むノートの字がだんだん荒くなっている。途中で線で消している箇所が増えている。だがページは進んでいる。
「五番」
「ああ」
五番を渡す。戦兎が傾ける。数値が変わる。さっきまでと違う波形。戦兎の手が止まる。
「…ビリー。これ見ろ」
モニターを指差す。波形が今までと違う。安定した弧を描いている。
「何だこれ」
「わからない。だが今までのと違う。この波形なら——」
戦兎がキーボードを叩く。解析プログラムが走る。モニターに数値が流れる。戦兎の髪が跳ねた。ピンと立つ。
(来た。ひらめきの顔だ)
「ビリー、六番。六番を渡せ」
「はいよ」
六番を渡す。戦兎が傾ける。数値が変わる。さっきの波形と重なる。戦兎が息を呑む。
「…合致する」
戦兎の手が震える。いや震えてない。握りしめているだけだ。
「戦兎。息吐いてどうした」
「ビリー。これだ。この組み合わせなら——」
戦兎が振り返る。その目が光っている。天才物理学者の目だ。
「新しいベストマッチが見えるかもしれない」
工具と実験器具の音が止まないまま、モニターの波形が一つの答えを示し始めていた。