異世界引きこもり生活 ~引きこもりが異世界転移したらおもしろスキルが手に入ったので異世界でも引きこもり生活楽しみます~   作:とけそうだら

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第十六話 家の前の小さな影と、鍋いっぱいのシチュー

 引きこもり生活七日目。

 

 その日の夕方、俺はひとりで家の前にしゃがみ込んでいた。

 

 昼のうちに植え終えたばかりの種芋を、なんとなくもう一度見たくなったのだ。

 

 土はきれいに盛られ、畝はまっすぐ伸びている。

 

 朝の時点ではただの“作業”だったのに、夕暮れの色の中で見ると、もう畑は完全に畑だった。

 

 何も生えていないくせに、ちゃんと未来っぽい。

 

「……すごいな」

 

 思わず独り言が出る。

 

 いや、本当にすごいのはほとんどロエンなんだけど。

 

 俺はその横で灰をまぶして、箱を運んで、ついでに余計な心配をしていただけだ。

 

 だが、それでも“ここに何かを植えた”という事実は妙に気分が違った。

 

 食べるものを買うだけじゃない。

 

 これからは、育てるものもある。

 

 引きこもり生活の方向性が、またひとつ変なほうへ進んだ気がする。

 

 まあ、悪くないけど。

 

 ロエンは昼過ぎに一度森へ戻った。

 

 「水はやりすぎるな」「畝を踏むな」「芽が出るまでは特に見る」と、最後まで畑の注意を残していったので、たぶん明日も普通に来るのだろう。

 

 シルフィも「今朝の気配を少し見てくる」と言って森の奥へ消えたきりだ。

 

 なので今、家のまわりはひさしぶりに静かだった。

 

 静かで、少しだけ物足りない。

 

 いやいや、何を思っているんだ俺は。

 

 静かな家こそ理想だろ。

 

 そう自分に言い聞かせた、その時だった。

 

 がさっ。

 

 家の横、ちょうど薪を積んであるあたりから、小さな音がした。

 

 俺はぴたりと動きを止める。

 

 風じゃない。

 

 今のはもっとこう、“うっかり何かに当たった”感じの音だった。

 

 動物か。

 

 それとも――今朝の“見ていたやつ”か。

 

 思った瞬間、背中がひやりとした。

 

 とりあえず立ち上がる。

 

 けれど、ロエンみたいに堂々と踏み込めるわけでも、シルフィみたいに気配を読むことができるわけでもない。

 

 俺にできるのは、家の中へ飛び込むことと、そこそこ硬いフライパンを握ることくらいである。

 

 すごく心細いな。

 

 俺はそっと扉のほうへ下がりながら、薪の陰を睨んだ。

 

「だ、誰だ」

 

 沈黙。

 

 返事はない。

 

 代わりに、かすかな息づかいのような音だけがした。

 

 いる。

 

 絶対にいる。

 

「出てこい。いや、やっぱり出てこなくていい。何もしないなら帰ってくれ」

 

 なんだその弱気な交渉は。

 

 自分で言っていて情けなくなったが、仕方がない。

 

 俺は戦うタイプではないのだ。

 

 できれば平和的に終わってほしい。

 

 すると、薪の陰で何かがもぞりと動いた。

 

 次の瞬間、ひょい、と小さな頭が覗く。

 

「……ちっさ」

 

 思わず口をついて出た。

 

 そこにいたのは、子どもみたいに小柄な影だった。

 

 ぼさぼさの茶色い髪。

 

 顔の横でぴこぴこ動く、獣じみた三角の耳。

 

 くりっとした大きな目は、こっちを睨んでいるくせに、驚いた鹿みたいに落ち着かない。

 

 そして何より、小さい。

 

 十歳前後の女の子に見える。

 

 ただし、人間ではなさそうだ。

 

 手足は細いが、爪は少し尖っていて、腰の後ろからはふさふさした尻尾が一本、警戒した猫みたいに膨らんでいた。

 

 獣人……の、女の子?

 

 小さな影は俺を見たまま、ぴくりとも動かない。

 

 俺も動けない。

 

 しばらく無言の睨み合いが続いた。

 

 なんだこれ。

 

 すごく気まずい。

 

「……えっと」

 

 俺が口を開くと、相手はびくっと肩を震わせた。

 

「お前、誰だ?」

「…………」

「返事は?」

「…………」

「喋れない?」

「…………」

 

 すると、小さな影は唐突に、ぐるるる、と低く唸った。

 

「喋れるんじゃん!」

 

 違った。

 

 言葉ではなかった。

 

 だが、喉から鳴るその音は明らかに威嚇だった。

 

 犬とか猫が警戒する時のやつに近い。

 

 いや、めちゃくちゃ警戒されてるな、俺。

 

 俺の家の前なんだけど。

 

「いや、そんなに怖がらなくても」

 

 言いかけて、俺はふと気づいた。

 

 小さな影の視線が、俺じゃなくて、俺の後ろへ向いている。

 

 正確には、開けっぱなしの扉の向こう――家の中の鍋のほうだ。

 

 ああ。

 

 なるほど。

 

 俺は一瞬だけ天を仰ぎたくなった。

 

 夕飯の下ごしらえで、さっきから野菜と肉を煮込んでいたのだ。

 

 今日は畑記念みたいな気分で、少し贅沢にクリームシチューでも作るか、と思っていた。

 

 その匂いか。

 

 つまりこの小さいの、食い物に釣られてきたのか。

 

 なんか覚えがあるぞ、そのパターン。

 

 つい昨日、もっとでかい狼獣人でも見た気がする。

 

「……腹、減ってるのか?」

 

 小さな影の耳がぴくりと動いた。

 

 だが、相変わらず睨んだままだ。

 

 しかし睨みの質が、さっきとは少し違う。

 

 警戒百パーセントから、警戒九十パーセント・食欲十パーセントになった感じだ。

 

 つまり、かなり脈ありである。

 

「……食うか?」

 

 そう言った瞬間、小さな影の尻尾がぴんと揺れた。

 

 だが次の瞬間には、はっとしたみたいにまた逆立つ。

 

 警戒心と空腹が喧嘩している。

 

 ものすごく分かりやすい。

 

「別に取って食ったりしないぞ、俺は」

 

 小さな影は、じり、と半歩だけ後ずさった。

 

 そのくせ、視線は鍋から離れない。

 

 うん、もう完全に匂いに負けてるな、これ。

 

 俺はできるだけゆっくり動いて家の中へ戻り、木の皿とスプーンをひとつ持ってきた。

 

 それから鍋の中のシチューを少しだけよそい、扉の前の地面へ置く。

 

 湯気が、ほわりと立ちのぼった。

 

「ほら」

「…………」

「毒とか入ってない」

「…………」

「信用ないなあ……」

 

 まあ、知らない相手の家の前で出された食い物を警戒するのは正しい。

 

 むしろ、ちゃんと生き延びてきた証拠かもしれない。

 

 小さな影は薪の陰から皿をじっと見つめ、鼻をひくひくさせた。

 

 耳が忙しく動いている。

 

 迷っているのだろう。

 

 近づけば危ないかもしれない。

 

 でも腹は減っている。

 

 その葛藤が、見ているこっちにまで伝わってきた。

 

「冷めるぞ」

 

 その一言が決め手だったらしい。

 

 小さな影は、ぱっと薪の陰から飛び出した。

 

 速い。

 

 軽い。

 

 まるで小動物だ。

 

 俺が瞬きをした間に、そいつはもう皿の前にしゃがみ込んでいた。

 

 ただし、すぐには食べない。

 

 もう一度だけ俺を見上げて、唸るように喉を鳴らす。

 

 近づくな、という意味か。

 

「はいはい、見てるだけにしとく」

 

 俺が両手を上げると、小さな影はようやく皿へ顔を近づけた。

 

 最初は一口。

 

 慎重に、舌先で熱を確かめるみたいに舐める。

 

 次の瞬間、ぴたりと動きが止まった。

 

 あ、これうまいやつだ。

 

 耳が立つ。

 

 尻尾が膨らんだまま、ぶわっと大きく揺れる。

 

 そしてそこからは早かった。

 

 がつがつ、というほど品はない食べ方じゃない。

 

 けれど、止まれない感じで夢中になって口を動かしている。

 

 よほど腹が減っていたのだろう。

 

 頬が少し丸いせいか、食べるたびにもぐもぐ動くのが妙に小動物っぽい。

 

 ……なんだろうな。

 

 警戒していたはずなのに、見ていたらだんだん心配のほうが勝ってきた。

 

「お前、ちゃんと食ってなかったのか?」

 

 問いかけても、小さな影は答えない。

 

 今は食べるのに忙しいらしい。

 

 皿はあっという間に空になった。

 

 けれど、小さな影はその場から動かない。

 

 空の皿と、俺の顔を、交互に見る。

 

 その目があまりにも分かりやすすぎて、俺は思わず吹き出しそうになった。

 

「……おかわり?」

 

 ぴこっ、と耳が跳ねた。

 

 はい、正解だった。

 

「お前ら獣人って、食い物に対して正直すぎない?」

 

 俺が呆れながら皿を持ち上げた、その時だった。

 

「何をしている」

 

 低い声が背後から落ちてきて、俺はびくっと肩を跳ねさせた。

 

「うおっ!?」

 

 振り返ると、そこにはロエンが立っていた。

 

 いつ戻ってきたのか、気配が全然しなかった。

 

 さすが獣人、でいいのかは知らないが、心臓に悪い。

 

 そしてロエンの視線は、俺ではなく、小さな影に向いていた。

 

 その瞬間だった。

 

 小さな影の全身の毛が、ぶわっと逆立つ。

 

 皿の前にいたそいつは、弾かれたように後ろへ跳び、低く身を沈めた。

 

 喉の奥から、さっきよりずっと鋭い威嚇音が漏れる。

 

「え、何、知り合い?」

 

 俺が聞くと、ロエンはわずかに眉をひそめた。

 

「……知らん」

「でも向こうはお前を見た瞬間めちゃくちゃ警戒したぞ」

「狼の匂いが嫌なんだろう」

「そんな雑な理由ある?」

 

 あるのかもしれない。

 

 実際、小さな影はロエンから目を離さないまま、じりじりと横へ動いていた。

 

 逃げ道を探しているのだろう。

 

 だが同時に、空の皿も気にしている。

 

 逃げたい。

 

 でもおかわりも欲しい。

 

 忙しいやつだな、と呆れたのは一瞬だった。

 

 次の瞬間、小さな影はさっと身を翻し、薪の陰へ逃げ込もうとした。

 

 だが、空腹と警戒で判断が鈍っていたのか、積んであった薪の端に足を引っかける。

 

「うわっ」

 

 短い悲鳴と一緒に、細い体がぐらりと傾いた。

 

 反射的に、俺は一歩踏み出していた。

 

「っと!」

 

 抱える、というより、とっさに支える。

 

 小さい。

 

 思った以上に軽い。

 

 そして細い。

 

 服越しでも分かるくらい、ひどく頼りない体つきだった。

 

 それに、俺はその時、はっきり気づいた。

 

 地面についた足跡の大きさ。

 

 少し前に果実の籠のそばで見つけた、あの小さな足跡と同じだ。

 

「あ……」

 

 思わず声が漏れる。

 

「お前だったのか。あの時、果実を食べてたの」

 

 小さな影はびくりと震えた。

 

 答えない。

 

 だが、耳がぺたりと伏せられる。

 

 それだけで十分だった。

 

 差し入れられた果実をかじっていた小さな足跡。

 

 あれは、獣の足跡ではなかった。

 

 この女の子の足跡だったのだ。

 

 しかし、次の瞬間にはその小さな体がびくりと震え、思いきり俺の腕を振り払った。

 

「いだっ」

 

 鋭い爪が、手の甲を浅く掠める。

 

 血がにじむほどではないが、結構痛い。

 

 小さな影は二、三歩飛び退き、耳も尻尾も逆立てたまま俺を睨んでいた。

 

 完全に「触るな」である。

 

「いや、ごめん。転びそうだったから」

「…………」

「助けただけ」

「…………」

「通じてないなあ」

 

 ロエンが小さく鼻を鳴らした。

 

「当然だ」

「お前はそっちの味方なの?」

「違う。知らない相手に触られたくないだけだ」

「それはまあ、そうか……」

 

 言われてみれば、その通りだった。

 

 俺だって、知らないでかい獣人に急に抱えられたら叫ぶ。

 

 いや、たぶん気絶する。

 

 小さな影は、俺とロエンを交互に見ていた。

 

 その大きな目の奥には、敵意というより、逃げるか残るか決めきれない焦りが滲んでいる。

 

 ここにいたい理由はある。

 

 でも、ここにいるのは怖い。

 

 そんな感じだ。

 

「……ロエン」

「何だ」

「お前、ちょっと下がってくれない?」

「なぜだ」

「たぶん、お前いると余計に警戒してる」

 

 ロエンは露骨に不服そうな顔をした。

 

「私が何をした」

「存在が圧なんだよ」

「意味が分からん」

「俺も言いながらちょっと失礼だと思ったけど、今は頼む」

 

 しばらく黙っていたロエンだったが、やがて小さく息を吐き、家の壁際まで下がった。

 

 完全に離れたわけではない。

 

 だが、真正面から睨まれる距離ではなくなった。

 

 すると小さな影の逆立っていた毛が、ほんの少しだけ落ち着く。

 

 やっぱりお前が怖かったんじゃん。

 

 ロエンはそれを見て、ますます面白くなさそうな顔になった。

 

 でも何も言わないあたり、ちゃんと状況は見ているらしい。

 

 俺はもう一度しゃがみ込み、空の皿を持ち上げた。

 

「……もう少し食うか?」

 

 小さな影の耳がぴくりと動く。

 

 返事はない。

 

 だが、今度は逃げない。

 

 十分だ。

 

 俺はゆっくり立ち上がり、家の中へ戻った。

 

 鍋のふたを開けると、白い湯気がふわりと立ちのぼる。

 

 クリームの匂いに、肉と玉ねぎの甘い匂いが混じる。

 

 正直、俺だってもう一杯ほしい。

 

 でも、あの小さいのの腹の鳴りそうな顔を見たあとだと、先に食わせるほうが気分がいい気がした。

 

 皿に多めによそって外へ戻る。

 

 今度は少しだけ距離を置いて、地面ではなく木箱の上へ皿を置いた。

 

「ほら。さっきより熱いから気をつけろよ」

 

 小さな影はすぐには来ない。

 

 俺が二歩、三歩と下がるのを見てから、ようやく近づいた。

 

 警戒心の塊みたいなやつだな。

 

 でも、その慎重さは嫌いじゃなかった。

 

 今度は一口目から少し大きい。

 

 そして、やっぱり止まる。

 

 耳が立つ。

 

 尻尾が揺れる。

 

 この反応、見覚えがありすぎる。

 

「……やっぱりお前ら似てるな」

「誰とだ」

 

 壁際からロエンの声が飛んでくる。

 

「匂いで釣られて、食うとだいたい落ちるところ」

「一緒にするな」

「でも最初、お前もカップ麺でそんな感じだったろ」

「違う」

「違わないだろ」

 

 小さな影は会話の意味までは分からないらしいが、食べながらちらちらロエンを見ていた。

 

 警戒は残っている。

 

 けれど、さっきほど剥き出しではない。

 

 少なくとも今は、目の前のシチューのほうが優先らしい。

 

 やがて二杯目もきれいに空になった。

 

 皿を舐めそうな勢いだったので、さすがに途中で止まったが、危なかった。

 

「……食べすぎると腹壊すぞ」

 

 そう言うと、小さな影は初めてはっきりと顔をしかめた。

 

 不満そうである。

 

 喋らないくせに、表情は分かりやすい。

 

「お前、本当に言葉分かるのか?」

 

 問いかけると、小さな影はしばらく黙っていた。

 

 それから、ものすごく小さな声でぼそっと言った。

 

「……わかる」

「喋った!」

 

 俺は目を丸くした。

 

 ロエンもわずかに目を細める。

 

 小さな影は、しまった、という顔をした。

 

 耳がぺたりと伏せられる。

 

 完全に“うっかり出た”やつだ。

 

「じゃあ最初から喋れよ!」

「……しらないやつに、しゃべらない」

 

 今度は少しだけはっきりした声だった。

 

 高くて、幼い女の子の声。

 

 見た目通り、本当に子どもなのかもしれない。

 

「それはまあ、筋は通ってるな」

 

 俺が頷くと、小さな影は少しだけ顎を上げた。

 

 褒められたと思ったのかもしれない。

 

 ちょろい……いや、素直だな。

 

「名前は?」

 

 聞くと、小さな影は口をつぐんだ。

 

 さっきよりは落ち着いたが、そこはまだ簡単には答えないらしい。

 

 代わりに、俺の後ろ――家のほうを見る。

 

「……あそこ、おまえの巣?」

「巣って言うな。家だ」

「いえ」

「言い直したな」

 

 小さな影は少し考えてから、ぼそっと続けた。

 

「へんなにおいする」

「すごい既視感あるな、その感想」

 

 壁際でロエンが腕を組んだまま言う。

 

「私はもっとましな言い方をした」

「どこがだよ」

 

 小さな影はロエンの声にまた少しだけ身を固くした。

 

 やっぱりこいつ、狼系が苦手なのかもしれない。

 

 あるいは逆に、同じ獣人だからこそ警戒が強いのか。

 

 そのへんはまだよく分からない。

 

「で」

 

 俺は空になった皿を持ち上げながら聞いた。

 

「お前、何しに来たんだ?」

 

 小さな影はすぐには答えなかった。

 

 代わりに、夕方の畑へ視線を向ける。

 

 土の匂いの残る、できたばかりの畝。

 

 そして、ついさっき植えたばかりの種芋の場所。

 

 その視線の意味に気づくまで、一秒かかった。

 

「……まさか」

 

 俺が呟くと、小さな影は言いにくそうに口を開いた。

 

「……いも、うえてたから」

「それで?」

「たべもの、あるかもって」

 

 ものすごく正直だった。

 

 つまりこいつ、今日植えたばかりの畑を見て、“これから食い物になる場所”だと察して寄ってきたわけか。

 

 先見の明があるのか、ただ腹ぺこなのか、判断に迷うな。

 

 ロエンが低く言う。

 

「掘る気だったのか」

 

 小さな影はびくっと肩を震わせた。

 

 図星らしい。

 

「おい!」

 

 俺は思わず声を上げた。

 

「植えたばっかだぞ!?」

「……まだ、ほってない」

「ほる気はあったんだな!?」

 

 小さな影は視線を逸らした。

 

 耳がぺたんと寝て、尻尾もしゅんと下がる。

 

 あ、今ちょっとしょんぼりした。

 

 怒るべきなのに、なんか怒りきれない。

 

 だって、腹が減って畑を見つめていたやつにシチューを二杯食わせたのは俺だし。

 

 それに、少し前に果実の籠をかじっていた小さな足跡の主がこいつなら、たぶんずっと前から腹を空かせて、ここを見ていたのだろう。

 

 ロエンは小さく息を吐くと、壁から離れて数歩だけ近づいた。

 

 小さな影は反射的に身構えたが、ロエンはそこで止まる。

 

「盗るなら敵だ」

 

 低く、短い声だった。

 

「だが、腹が減っているだけなら話は別だ」

 

 小さな影は目を瞬かせた。

 

 俺も少し驚いた。

 

 ロエン、お前そういう言い方できるんだな。

 

「働くなら食える」

「え?」

 

 今度は俺が声を上げた。

 

 ロエンはちらりと畑を見る。

 

「畑はこれから手がかかる」

「まあ、そうだけど」

「こいつが芋を盗らないよう見張るより、働かせたほうが早い」

 

 合理的すぎる。

 

 でも、すごくロエンらしい。

 

 小さな影はぽかんとしていた。

 

 たぶん予想外だったのだろう。

 

 怒鳴られるか、追い払われるか、そのどちらかだと思っていた顔だ。

 

 そこへ“働くなら食える”が飛んできたのだから、そりゃ止まる。

 

 俺は少し考えてから、小さな影に向き直った。

 

「……まあ、畑を掘り返されるのは困る」

「…………」

「でも、勝手に盗らないって約束して、ちゃんと手伝うなら、飯くらいは出す」

 

 小さな影の目が、みるみるうちに大きくなる。

 

 耳も立った。

 

 尻尾も揺れた。

 

 ほんと、感情が全部そこに出るな。

 

「ほんと?」

「ほんと」

「まいにち?」

「そこは要相談だ」

 

 即答すると、今度は露骨にしょんぼりした。

 

 忙しいやつだな、本当に。

 

 でも、その反応を見て、俺は少しだけ笑ってしまった。

 

 どうやら俺のログハウスは、またひとり、腹ぺこな来訪者を拾いそうだった。

 

 しかも今度のは、畑を見て寄ってくるくらいには生活臭が強い。

 

 これはたぶん、面倒ごとだ。

 

 でも同時に、少しだけ賑やかになる予感もした。

 

「……で、名前は?」

 

 もう一度聞くと、小さな影は少しためらい、それからようやく答えた。

 

「……ミリィ」

 

 夕暮れの畑の前で、最初に手に入れた収穫は芋ではなく、新しい居候候補の名前だった。

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