異世界引きこもり生活 ~引きこもりが異世界転移したらおもしろスキルが手に入ったので異世界でも引きこもり生活楽しみます~ 作:とけそうだら
ヒノキの露天風呂と、風呂上がりのフルーツ牛乳。
この、現代日本が誇る最強の入浴コンボを前に、森の威厳を体現していたはずのエルフの長老と戦士団は、その誇りを湯気と一緒に大気中へ完全に溶かしてしまっていた。
ログハウス前の空き地。
そこに並べられたキャンプチェアや切り株に腰掛け、彼らはもう完全に“休日のスーパー銭湯の休憩所にいるおっさん”の顔になっていた。
肌は風呂上がりでほんのり赤い。
髪はシャンプーの効果でつやつや。
革鎧は一応ちゃんと着ているものの、肩の力は根こそぎ抜け落ちている。
さっきまで俺に杖を向けていた長老など、今は空になったフルーツ牛乳の瓶を両手で包み込み、まるで聖遺物でも眺めるような顔をしていた。
「……長老。我々は、とんでもない極楽を知ってしまいましたね」
若手エルフの一人が、空になったコーヒー牛乳の瓶を愛おしそうに撫でながら呟く。
「うむ……」
長老は重々しく頷いた。
「森の泉の冷たさも、身が引き締まって良い。あれはあれで、森の民にふさわしい清めだ」
そこで、長老は一度言葉を切った。
そして、ものすごく悔しそうに続ける。
「だが、このヒノキの湯がもたらす圧倒的な弛緩と、その後に細胞へ叩き込まれるフルーツ牛乳の衝撃……これは、我ら森の民の長い歴史において、特筆すべき大発見と言わざるを得ない……」
「言い方が学術報告みたいになってるな」
俺が思わず突っ込むと、長老は瓶を胸に抱いたまま目を閉じた。
「それほどの体験だったのだ、人間よ」
「さっきまで俺のこと灰燼に帰すとか言ってたのに」
「過去のことだ」
「切り替えが早い」
完全に、今日の本来の目的を忘却している顔だった。
「だっははは!」
ガランが腹を抱えて笑う。
「アンタら、すっかり骨抜きじゃないか! さっきの『人間を灰燼に帰す!』って勢いはどこへ行ったんだい?」
「ご、ゴホン!」
長老はハッとして、慌てて背筋を伸ばした。
「誤解するな! 我らは決して快楽に屈したわけではない! これはあくまで、この村が森に害をなさないかを、己の身をもって確かめる厳粛な調査の一環だ!」
「はいはい。で、調査の結果、この村は無害ってことでいいのかい?」
「……うむ」
長老はコホンとわざとらしく咳払いし、俺の方を向いた。
「コウタとやら」
「はい」
「貴様の施設には、森を汚染する魔力も、魔物を引き寄せる邪気も感じられなかった。それどころか、心身を清める高度な浄化作用まで確認した」
「浄化作用っていうか、風呂ですけどね」
「我らの言葉では、あれは浄化だ」
そう言い切られると、まあ否定しづらい。
風呂は偉大だ。
「よって、我らエルフの集落は……貴様がこの地で静かに暮らすことを、特例として認めよう」
「そりゃどうも。認めてもらわなくても勝手に暮らしてたけど、敵対しないならそれに越したことはない」
俺が肩をすくめると、ロエンも腕を組んだまま小さく頷いた。
「無駄な争いが避けられたなら、土も荒れずに済む」
「お前の判断基準、だいたい土だな」
「重要だ」
「それはそう」
よし。
一件落着だ。
「じゃあ、気をつけて帰ってくれよ。湯冷めしないようにな」
俺がそう言って見送ろうとした、その時だった。
長老と若手エルフたちが、顔を見合わせた。
そして、なぜかもじもじとし始めた。
立ち上がろうとしない。
しかも全員が、ちらちらとログハウスの方――正確には、扉の奥にある本棚の方向を気にしている。
「……ん? まだ何かあるのか?」
俺が首を傾げると、若手エルフの一人が顔を真っ赤にして一歩前に出た。
「あ、あの……! コウタ殿!」
「なんだ?」
「その……シルフィア殿が、毎回この村から持ち帰ってくる絵本のことなのですが……っ!」
「絵本?」
俺は一瞬考えた。
そしてすぐ理解した。
「ああ、漫画か」
「まんが……!」
若手エルフは、その単語を神聖な呪文みたいに復唱した。
目が本気だった。
完全に読者の目だった。
「シルフィア殿は、里にあの素晴らしい紙の束を持ち帰ると、『これは人間の文化を調査するための重要な資料だ。まずは森の守り手である私が内容を精査する』と言って、自分の部屋にこもってしまうのです!」
雲行きが、急速に怪しくなってきた。
「しかも!」
別の若手エルフが、涙声で続ける。
「精査すると言いながら、同じ巻を何度も何度も読み返し、我々に順番が回ってくるのが絶望的に遅いのです!」
「それは……まあ、ありそうだな」
「この前など、ようやく一巻を読み終えて、『この先、主人公はあの幼馴染とどうなってしまうのか!?』と胸を高鳴らせて二巻を求めたところ――」
若手エルフは、悔しそうに拳を震わせた。
「シルフィア殿は、『私は今、三巻の展開の考察で忙しい。貴様はまだ早い』などと理不尽な理由で貸し出しを拒否されたのです!」
「それはひどいな」
思わず同情してしまった。
続きが気になるところで寸止めを食らうのは、オタクにとって最も辛い拷問の一つだ。
「我らは夜も眠れぬほど、続きが気になっているのです!」
さらに別の若手エルフが前に出る。
「主人公の想いは届くのか! あの強敵との戦いはどう決着するのか! あの料理勝負で審査員はどちらを選ぶのか! それなのに、シルフィア殿は一向に最新刊を回してくれない……っ!」
俺はログハウス裏手のハンモックを振り返った。
そこには、我関せずといった態度でポテチを齧りながら、グルメ漫画のクライマックスを読んでいるシルフィがいた。
「おいシルフィ。完全にオタクの独裁者じゃないか」
「うるさい」
シルフィは漫画から目を離さず、鼻を鳴らした。
「私は長年、森の平和を守るために尽力してきた。これくらいの役得があっても罰は当たらん」
「役得で同胞の読書権を侵害するな」
「それに、あいつらはページをめくる時に手が震えていて紙が傷みそうで不安なのだ。私が管理するのが一番安全だ」
「完全に私物化してるやつの言い訳だろ、それ」
「うるさい」
二回目だった。
分が悪い時のシルフィは、だいたい語彙が減る。
すると今度は、長老がコホンと咳払いをして一歩前に出た。
「コ、コウタ殿」
「長老さんも何か?」
「実は……私もな」
「長老も読んでるのかよ!?」
「い、いや! 私は若者たちが騒いでいるような色恋沙汰の軟弱な物語などには興味はない! 断じて、そのようなものは読まん!」
長老は必死に否定した。
しかし、その耳が恥ずかしさで真っ赤に染まっている。
「わ、私が読んでいるのは……その、もっとこう、泥臭く、己の拳と信念だけで強大な敵に立ち向かっていく、熱き戦士たちの物語だ……!」
ああ。
先日、俺がシルフィに「長老とかにも読ませてみろ」と適当に貸した、王道の熱血バトル漫画のことだ。
「あの主人公が、絶望的な窮地から『俺の拳はまだ砕けちゃいねえ!』と立ち上がる姿……!」
「長老、だいぶ読んでるな」
「かつての敵が、最強のライバルとして味方になる熱い展開……!」
「しっかりハマってる」
「私は、枯れかけた戦士としての血が、再び滾るのを感じたのだ!」
長老が拳を固く握りしめ、熱弁を振るっている。
完全に語っていた。
風呂とフルーツ牛乳で肉体がゆるみ、漫画で魂が燃えている。
忙しい爺さんだ。
「しかし!」
長老は悔しそうに声を張る。
「シルフィアめ、私が『四巻の武闘大会の続きはどうなったのだ!?』と聞いても、『私は恋愛漫画の最新刊の受け取りで忙しいから、バトル漫画はまた今度』などと後回しにするのだ!」
「おいシルフィ」
「順番がある」
「自分優先の順番だろ」
「管理者権限だ」
「いつからお前が管理者になった」
「武闘大会の決勝戦が、いつまで経っても始まらんではないか!!」
長老の叫びに、若手エルフたちも一斉に声を上げた。
「そうだそうだ!」
「シルフィア殿の横暴を許すな!」
「我らにも続きを読む権利を!」
「森の民に読書の自由を!」
……なるほど。
完全に理解した。
彼らがわざわざ重武装で乗り込んできた真の目的。
森の平和の確認でもない。
シルフィの奪還でもない。
俺への尋問でもない。
彼らはただ、シルフィという横暴な仲介業者を通さずに、大元の供給元である俺から直接、漫画の最新刊を借りるための直通ルートを開拓しに来たのだ。
純度百パーセントの、オタクの禁断症状による暴走である。
「お前ら……そんな理由で、あんな物々しい雰囲気で乗り込んできたのかよ……」
「そ、そうは言うがな、コウタ殿!」
長老は言い訳するように声を上げた。
「人間の文化を直接我らが手にするというのは、里の掟として本来は許されざることなのだ!」
「だから?」
「だから大義名分として、調査という形を取らざるを得なかったのだ……!」
「調査ついでに風呂に入って牛乳飲んで、ついに本音をぶちまけたと」
「……面目ない」
エルフの威厳は、ここに完全に地へ落ちた。
いや、むしろ風呂で洗い流され、フルーツ牛乳で喉の奥へ消えた。
「だっははは!!」
ガランが腹を抱えて転げ回る。
「傑作だねぇ! エルフの戦士団が、漫画の続きが読みたくて泣きついてくるなんて!」
「笑うな、ガラン」
「無理だね! こんなの笑わずにいられるかい!」
ロエンは腕を組んだまま、一言だけ呟いた。
「……食い物と本は、種族も誇りも関係ないらしいな」
「名言っぽいな」
「事実だ」
「コウタ殿!」
若手エルフが、ついに地面に膝をつき、深々と頭を下げた。
「どうか我々に、あの物語の続きを直接お貸しいただけないでしょうか!」
「この通りです!」
「シルフィア殿を待っていては、我々の精神が持ちません!」
「夜の見張り中も、続きが気になって集中できないのです!」
「……はぁ」
俺は深く、長いため息をついた。
自分の好きな漫画の続きが読みたい。
その純粋すぎる読者としての熱意は、同じインドア派として無下にできない。
いや、こいつらはインドア派じゃないけど。
少なくとも、オタクとしての苦しみは分かる。
「分かったよ。ただし、守ってもらうルールがある」
俺が人差し指を立てると、エルフたちの顔がぱあっと輝いた。
「一つ。本は絶対に汚さないこと。破る、濡らす、燃やすは一発出禁だ」
「もちろんです! 赤子のように大切に扱います!」
「二つ。返却期限は一週間。又貸し禁止」
「承知! 読み終わったその日のうちに走って返しに参ります!」
「三つ。来る時は武装してくるな。ここは戦場じゃない」
「ははっ! 今後は丸腰の読者として参上いたします!」
完全に俺が主導権を握ってしまった。
というか、なんだこの状況。
異世界の森の奥で、エルフ相手に貸本屋の利用規約を説明している。
引きこもり生活とは。
「あと、畑を踏むな」
ロエンが横から付け足した。
「そうだな。四つ目、畑を踏まないこと」
「はっ!」
「五つ目、ポテチは一人でぜんぶたべないこと!」
ミリィも手を上げた。
「それは貸本屋のルールじゃないけど、大事だな。五つ目、共有のおやつは独占しないこと」
「承知しました!」
「六つ目、風呂上がりの瓶は返却すること」
「それも重要だな。六つ目、瓶は返却」
「ガウ!」
「ポテトは何を言ったんだ」
「たぶん、芋をよこせ」
「それはルールじゃない」
俺はログハウスの本棚から、彼らが求めている続巻を取り出した。
若手エルフには、恋愛ラブコメの二巻と三巻。
料理漫画の続き。
長老には、熱血バトル漫画の五巻と六巻。
武闘大会の決勝戦である。
「ほら、持っていけ」
「おおおっ……これが二巻……! 表紙のヒロインが少し切ない表情をしている……! 波乱の予感だ……!」
「五巻と六巻……! ついに決勝戦が……!」
長老は両手で漫画を受け取り、感極まったように震えている。
「コウタ殿、感謝の極み!」
「大げさだなあ」
「大げさではない。これは我らの精神の糧だ」
「そこまで言うか」
「言う」
エルフたちは国宝でも受け取るかのように、両手で恭しく漫画を抱えた。
「ただで貸すわけじゃないぞ」
俺が手を差し出すと、長老は「もちろんだ!」と力強く頷き、腰の袋から何やら取り出した。
俺の手に乗せられたのは、淡い青色に発光する奇妙な茸と、透き通った緑色の草の束だった。
「月光茸と精霊草だ」
ハンモックから降りてきたシルフィが、横から補足を入れた。
「月光茸は月の光を吸収して育つ希少な茸で、煮込めば万病に効く霊薬になる。精霊草は傷口に当てれば瞬時に肉を再生させる秘薬だ。街の商人なら、金貨数百枚を積んでも欲しがる代物だぞ」
「……は?」
俺は手の中を見て固まった。
「風呂と漫画のレンタル代にしては重すぎないか?」
「よいのだ」
長老は首を横に振った。
「我らにとって、フルーツ牛乳と物語の続きは、それ以上の価値がある」
「いや、価値観が壊れてるって」
「それに、コウタ殿の村に自由に出入りさせてもらうための通行料のようなものと思ってくれ」
「通行料って……そんなに頻繁に来る気か?」
「ふふふ……」
長老の目が、熱血バトル漫画を読む少年のそれになった。
「武闘大会が終わっても、きっと次なる強敵が現れるのだろう? 私は公務の合間を縫って、三日に一度は調査に参る所存だ!」
「完全に常連客になる気満々じゃねえか」
「わたしも! 次は風呂に入ってから漫画を借りたいです!」
「俺もだ! 汗を流した後に読む漫画もまた一興でしょう!」
「私はコーヒー牛乳の味をさらに深く調査したいです!」
「調査って便利な言葉だなあ!」
俺が呆れ果てていると、ガランが肩を叩いてきた。
「だっははは! いいじゃないか坊や! これでアンタは、エルフの里という最強のお得意様を手に入れたんだ!」
「俺は商売するつもりないんだけど」
「でも、実入りはいいじゃないか」
「それはまあ……」
俺は手の中の月光茸と精霊草を見下ろした。
正直、価値がよく分からない。
だが、シルフィの説明を信じるなら、相当な高級品らしい。
そして、これがあれば薬になる。
非常時の備えにもなる。
もしかすると、今後の村の安全性も上がるかもしれない。
「……まあ、いいか」
俺はアイテムを受け取り、全員を見渡した。
「よし。今日からここは、森の貸本屋・兼・銭湯として正式にオープンだ。ただし、ルールだけは絶対に守れよ」
「ははっ! コウタ店長!」
エルフたちが一斉に敬礼する。
いつの間にか俺の肩書きが村長から店長に増えていた。
やめろ。
肩書きだけ増えていくの、社会復帰みたいで嫌なんだよ。
「店長ではない」
「では、館長?」
「違う」
「司書殿?」
「それも違う」
「村長兼店長兼司書」
「増やすな!」
こうして、エルフの尋問団は、つやつやの髪とほかほかの笑顔、そして最新刊を胸に抱きしめ、満足げに森の奥へと帰っていった。
去り際、長老は振り返り、やたら真剣な顔で言った。
「コウタ殿」
「なんですか」
「次回の調査時には、コンソメ味というものも試せるのだろうか」
「シルフィ、余計なこと教えたな」
「重要な情報だ」
「何をしてくれてるんだ」
「うすしおだけで終わらせるのは不公平だろう」
「エルフの里をポテチ沼に沈める気か」
「すでに片足は沈んでいる」
「やめろ」
長老たちは、森の奥へ消えていった。
空き地に、平和な初夏の静寂が戻ってくる。
……はずだった。
「コウタ、つぎのごはん、なにー?」
ミリィが俺の膝に飛び乗り、無邪気に聞いてきた。
「ガウッ!」
ポテトも同意するように鳴く。
ガランはプレハブ小屋へ戻りながら、「あとで格ゲーだよ、坊や!」と叫ぶ。
ロエンは月光茸と精霊草を見て、「これは畑とは別に保管すべきだ」と真剣に言う。
シルフィは何食わぬ顔で、俺の本棚から次の漫画を抜き取ろうとしていた。
「おい、シルフィ」
「なんだ」
「貸本屋になった以上、お前もルールを守れ」
「私は常連だ」
「常連ほど守れ」
「……む」
俺は深く息を吐き、キャンプチェアに腰を沈めた。
ただ静かに、一人で引きこもるために建てたログハウス。
それが今や、狼獣人の農園があり、女戦士のゲーミング小屋があり、火竜の仔犬が走り回り、エルフの長老が風呂上がりに牛乳を飲みながら漫画を借りに来る、異世界で最もカオスで快適な拠点へと進化してしまった。
「……引きこもり生活って、思ってたより忙しいな」
ポテトが「ガウッ!」と同意するように鳴いた。
たぶん意味は分かっていない。
ミリィが俺の膝の上で、もう一度聞いてくる。
「コウタ、つぎのごはん」
「はいはい。エルフからもらったこの高級キノコで、とびきり美味いスープでも作るか」
「やったー!」
静寂と孤独は、だいぶ遠くへ行ってしまった。
けれど、代わりに、とびきり騒がしくて頼もしい日常が手に入ったらしい。
俺は《快適生活お取り寄せ》のウィンドウを開き、今日の夕飯の追加食材を選び始めた。
森の貸本屋・兼・銭湯。
名もなき村の新しい看板は、こうして本人の意思とは関係なく、正式に掲げられてしまったのだった。
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