異世界引きこもり生活 ~引きこもりが異世界転移したらおもしろスキルが手に入ったので異世界でも引きこもり生活楽しみます~   作:とけそうだら

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第四十三話 絶対防衛の結界と、深夜の背徳(ピザ)と黄金の鶏肉(からあげ)

 空から降ってきた天才にしてポンコツな引きこもり魔導士、エルマが俺の村――ログハウス周辺へ加入して、三日が経過した。

 

 わずか三日。

 

 たった三日だ。

 

 なのに、村の空気はすでに「前からいた変な住人が、さらにもう一人増えた」みたいな馴染み方をしていた。

 

 人間、順応って大事だなとしみじみ思う。

 

 特に、変人への順応は。

 

 彼女のために拠点通販で召喚したプレハブ二号棟――六畳間、エアコン完備、電源接続対応、作業机付き――は、早くも異世界の魔導工房として異様な存在感を放ち始めていた。

 

 昼夜を問わず、窓からは青白い魔力の光がちらちら漏れている。

 

 中からは、

 

「ぶつぶつ……空間座標の偏角……魔力流のバイパス……術式の干渉係数が……いや待ってください、この定数おかしくないですか……?」

 

 という、エルマの超早口な独り言が絶え間なく聞こえてくる。

 

 しかもその声、たまに興奮しすぎて笑い声まで混ざるから余計に怖い。

 

 外から見たら、完全に呪われた研究施設である。

 

「……あいつ、また徹夜してるな」

 

 深夜二時。

 

 トイレに起きた俺は、煌々と明かりのついたプレハブ二号棟を見上げて、深いため息をついた。

 

 エルマは、村全体を覆う絶対不可視の多重防衛結界を構築すると宣言してから、食事の時以外ほとんどプレハブから出てこなくなった。

 

 完全に己の研究――いや、自分専用の引きこもり世界へ没入している。

 

 俺も筋金入りの引きこもりではある。

 

 だが、俺は適度な睡眠も娯楽も重視するタイプだ。

 

 あそこまで寝食を忘れて没頭する姿は、見ていてちょっと心配になる。

 

 というか、あれはたぶん“天才”の顔をした不健康だ。

 

「仕方ない。夜食でも差し入れてやるか」

 

 俺はログハウスのキッチンへ向かい、空中に《快適生活お取り寄せ》のウィンドウを呼び出した。

 

 深夜のテンション。

 

 頭脳労働で枯渇した糖分と塩分。

 

 そして「もういいから脳へ直接カロリーを叩き込みたい」という、あのどうしようもなく背徳的な欲望。

 

 それらすべてに応える、禁断のメニューを選択する。

 

『冷凍・特大ミックスピザ 濃厚チーズ&ペパロニ増量』

 

『強炭酸コーラ 1.5リットル』

 

 さらに、エルマの作業効率を物理的に底上げするための事務用品も追加する。

 

『キャスター付き大型ホワイトボード』

 

『水性マーカーセット』

 

『マグネット付きイレーザー』

 

「深夜にピザとコーラ。うん、背徳感が完璧だ」

 

 自分で選んでおいて、ちょっと感心した。

 

 夜更かししている人間にこれを差し入れるのは、優しさというより共犯の香りがする。

 

 だが、研究者とジャンクフードの相性は昔から異常に良い。

 

 偏見ではなく、たぶん真理である。

 

 青白い光と共に現れたホワイトボードを組み立て、オーブンレンジ――ソーラーバッテリー駆動の文明の良心――へピザを突っ込む。

 

 しばらくして。

 

 チーン!

 

 軽快な音が鳴った。

 

 次の瞬間、とろけるチーズとトマトソース、焦げたペパロニと小麦の香ばしさが一体となった、あまりにも暴力的な匂いがキッチンいっぱいに充満する。

 

「うわ、夜中にこれは強い……」

 

 自分用じゃないのに、胃袋がきゅっと反応した。

 

 真夜中のピザって、どうしてあんなに悪魔的なんだろうな。

 

 昼に食うより、二割増しくらいで美味そうに感じる。

 

 完全に罠だ。

 

 俺は熱々のピザを皿に乗せ、氷をたっぷり入れたグラスと冷えたコーラをトレイへ載せる。

 

 さらに、キャスター付きホワイトボードを押しながら、プレハブ二号棟のドアをノックした。

 

「おい、エルマ。生きてるか? 夜食と差し入れだ」

 

「……は、はいぃっ!」

 

 がちゃり、とドアが開く。

 

 顔を出したエルマは、正直ひどい有様だった。

 

 ボロボロの黒ローブ。

 

 丸眼鏡の奥の目はひどく充血し、髪は完全に鳥の巣状態。

 

 頬には、いつ付いたのかわからないインクの汚れ。

 

 床には計算式が書き殴られた羊皮紙が散乱し、机の上には魔導書と羽ペンと謎の金属片が山を作っている。

 

 部屋全体が「天才の頭の中をそのまま床へぶちまけました」みたいな惨状だった。

 

「うわ、やっぱりひどいな」

「コウタ様……!」

 

 エルマは半泣きみたいな顔で、俺にすがるような視線を向ける。

 

「ちょうど結界のコア術式の構築で手詰まりになっていまして……! 羊皮紙もインクも足りなくなって……! 書いては消して、また書いて、途中から床にまで式を展開していたんですが、さすがに限界で……!」

「だからこれを持ってきたんだ。ほら、使ってみろ」

 

 俺がホワイトボードとマーカーを渡すと、エルマは不思議そうにキャップを外し、つるつるの白い盤面へ試し書きをした。

 

 さらさらと線が伸びる。

 

 しかも、インク壺へ浸す手間もない。

 

 間違えれば、付属のイレーザーで一瞬にして消える。

 

「な……なななっ!?」

 

 エルマの目が限界まで見開かれた。

 

「インク壺に浸す必要がない!? しかもこの滑らかな書き心地……! 間違えても一瞬で消去できる魔法の板! こ、これがあれば、私の脳内のイデアを遅滞なく出力することが可能です!! なにこれすごい! すごいです! すごすぎます!!」

「よかったな」

「羊皮紙へ書くたびにインクの濃淡や滲みを気にしなくていいんですよ!? しかも広い! 大きい! 立ったまま書ける! 最高です!」

「会議室の備品でそこまで喜ぶの、ちょっと新鮮だな……」

 

 現代の会議室の必須アイテムは、天才魔導士にとって神が授けし奇跡の魔道具に等しかったらしい。

 

 エルマが狂喜乱舞してホワイトボードへ意味不明な図形と数式を書き殴っている隙に、俺は折りたたみテーブルの上へピザとコーラを置いた。

 

「……っ!!」

 

 次の瞬間、エルマの鼻がぴくりと震えた。

 

 丸眼鏡の奥の目が、さっきとは別の意味で見開かれる。

 

「な、なんですかこの匂いは……!」

 

 エルマの鼻腔へ、強烈なジャンクフードの香りが直撃する。

 

「トマトと香辛料、そして獣の乳が焼けたような……重厚で暴力的で、それでいて抗いがたい誘惑を含んだ匂い……!」

「冷めないうちに食え。これはピザだ」

 

 俺は皿を差し出す。

 

「手で掴んで、かじりつくんだよ」

「て、手で!? こんな高貴そうな料理を!?」

「高貴というより、だいぶ俗っぽいぞ」

「ですが匂いが王族級です!」

 

 俺の指示に従い、エルマはとろけるチーズが糸を引くピザの切れ端を震える手で持ち上げた。

 

 そして、恐る恐る口へ運ぶ。

 

 サクッ。

 

 ジュワァァァ……。

 

「……ッ!!???」

 

 その瞬間。

 

 徹夜で疲弊しきった脳髄へ、濃厚なチーズの塩気と脂、ペパロニの肉汁、少し酸味のあるトマトソースの旨味が、隕石みたいな衝撃を伴って直撃したらしい。

 

「あ……ああ……っ!!」

 

 エルマが、ピザを持ったまま天を仰ぐ。

 

「なんという……なんという恐ろしい食べ物ですか……! 表面はサクッと香ばしいのに、生地はもっちりしていて、上に乗った具材の旨味が爆発しています! 噛めば噛むほど、油とチーズが魔力のように脳へ直接流れ込んでくる……! しかもこの丸い形状を切り分けて配る発想、合理的なのに背徳的で、文明の怠惰と知恵が融合しています!!」

「そこまで大げさに褒められると、ちょっと照れるな」

「褒めずにいられません! これは完全に禁書です! 食の禁書です!」

 

「ほら、こっちも飲め。ピザの脂を洗い流すための魔法の薬だ」

 

 俺は氷の入ったグラスへ、しゅわしゅわと弾ける黒い液体――コーラを注いで手渡した。

 

「この組み合わせで完成する」

「ま、まだ上があるのですか……!?」

 

 エルマはごくりと喉を鳴らし、そのままコーラを一口飲んだ。

 

「……!!」

 

 瞬間、エルマの体がびくんっと跳ねた。

 

「か、からい!? いえ、痛い!? なんですかこの、口の中で無数の精霊が爆発しているような刺激は! しかし……この焦がした砂糖のような強烈な甘みと爽快感が、ピザの重たい脂を完璧にリセットして……また、ピザが食べたくなる……!?」

「だろ?」

「だろ、じゃありません! なんですかこの無限機関は! 油と炭酸が互いを呼び合って、食欲が永久機関になっています!」

「それが現代の堕落だ」

「恐ろしい……! でも止まりません……!!」

 

 エルマは完全に、深夜のピザ&コーラという、地球のゲーマーやハッカーがこよなく愛する悪魔のループへ囚われていた。

 

 片手にピザ。

 

 片手にコーラ。

 

 そのスタイルを無意識に完成させ、無言で、だがものすごい勢いで夜食を胃袋へ詰め込んでいく。

 

「ふぅぅぅ……」

 

 特大ピザを半分近く平らげ、コーラまでしっかり飲んだエルマは、完全に満足しきった顔でホワイトボードの前へ立った。

 

 そして、丸眼鏡をくいっと押し上げる。

 

「……コウタ様」

「様はやめろ」

「では、コウタさん。私、王立アカデミーを辞めて本当に良かったです」

「そこまで言う?」

「本気です。あそこには、こんなに脳を直接揺さぶるジャンクな幸福はありませんでした……。カロリーと糖分と塩分が、術式構築の速度を限界突破させてくれます!」

「言ってることがだいぶ危ないな」

「ご安心ください! 今の私は、とても健康的に不健康です!」

「安心できねえよ!」

 

 だが、深夜テンションも相まって、彼女のマーカーを動かす手は、残像が見えるんじゃないかというほどの速度に達していた。

 

 さっきまで手詰まりと言っていたのが嘘みたいに、式が繋がっていく。

 

 ホワイトボードいっぱいに複雑な図形と記号が増殖し、天才が本気で回り始めた時の怖さを、俺はちょっとだけ感じた。

 

「よし、俺は寝るから、無理はするなよ」

「はい! あと三時間で基礎式は固まる気がします!」

「それ、全然無理してるやつだからな!?」

「たぶん大丈夫です!」

「その“たぶん”が信用ならないんだよ……」

 

 後ろ髪を引かれつつも、俺はプレハブを後にし、自分のベッドへ潜り込んだ。

 

 天才は勢いに乗ると止まらない。

 

 だからこそ、たまにすごいものを作るんだろう。

 

 ただし、寝不足で倒れられると困るので、本当にほどほどにしてほしい。

 

     *

 

 翌朝。

 

 夏の強烈な朝日が森を照らし始めた頃。

 

「……完成、しましたぁぁぁっ!!」

 

 村全体へ響き渡るエルマの絶叫で、俺たちは一斉に叩き起こされた。

 

「うおっ!?」

 

 ベッドから飛び起きた俺は、何事かと慌てて外へ出る。

 

 広場には、目の下へ凄まじいクマをこしらえたエルマが、しかしその瞳だけはギラギラ輝かせながら、分厚い魔導書を空へ掲げて立っていた。

 

 寝てない顔だ。

 

 だが、何かを成し遂げた人間特有の危ないテンションに満ちている。

 

「だっははは……朝から元気だねぇ、お嬢ちゃん」

 

 ガランが盛大にあくびをしながら、プレハブ小屋から出てくる。

 

「元気っていうか、目がいっちゃってるよ」

「徹夜明けの研究者はだいたいあんな感じだ」

 

 シルフィがぼそりと言う。

 

「知ってるのか」

「森にも、たまに変なのがいる」

「森、広いな……」

 

 ロエンも空調服を片手に持ったまま出てきた。

 

 ミリィはまだ眠そうに目をこすり、ポテトは「ガウゥ……」と寝ぼけ声を漏らしながらついてくる。

 

 完全に寝起きの村である。

 

「コウタ様! 約束の絶対不可視の多重防衛結界、ついに術式が完成しました! 今から起動式を行います!」

 

 エルマはそう宣言すると、魔導書をばっと開き、何事かを低く、しかし力強い声で詠唱し始めた。

 

 次の瞬間、彼女の足元から、青白い光を放つ幾何学的な魔法陣が浮かび上がる。

 

 その複雑さは、見ているだけで頭痛がしそうなレベルだった。

 

 円。

 

 線。

 

 文字。

 

 重なり合う術式。

 

 それらがまるで生き物みたいに脈動しながら、ログハウス、ガーデンハウス、ベルテント、プレハブ群、畑、露天風呂、ソーラーパネルまで――村のすべてを包み込むように凄まじい速度で拡大していく。

 

「《第一層・物理遮断》」

 

 エルマの声が響く。

 

「《第二層・認識阻害》」

 

 空気が震える。

 

「《第三層・魔力隠蔽》」

 

 青白い光が広がる。

 

「《第四層・敵性誘導》」

 

 木々の葉が、風もないのにざわめいた。

 

「《第五層・同盟識別》」

 

 俺たちの足元へ、一瞬だけ淡い光の輪が広がる。

 

「《第六層・生活圏安定》」

 

「生活圏?」

「コウタ様向けに追加しました!」

 

 詠唱中に返事するな。

 

 だが、ちょっと嬉しい。

 

「《第七層・絶対不可視》――全層、固定!」

 

 エルマの小柄な体から、空気そのものが震えるほどの凄まじい魔力が一気に放出された。

 

 細い腕や華奢な肩から、どうやってこんな量の魔力が出てくるのか本気で分からない。

 

 見た目は貧弱。

 

 中身は災害。

 

 そんな感じだ。

 

 ブゥゥゥゥンッ……!!

 

 低い耳鳴りみたいな音が響き、俺たちの頭上、高さ数十メートルの上空で、見えない巨大なドーム状の何かが幾重にも重なり合うように閉じたのが分かった。

 

 空気がぴんと張り詰め、肌へ微かな圧を感じる。

 

 何も見えない。

 

 だが、確かにそこにある。

 

 魔法って、こういう時だけ本当にすごい。

 

「……結界、起動完了です」

 

 エルマが肩で息をしながら、ゆっくりと目を開けた。

 

 膝がわずかに震えている。

 

 やっぱり相当な大技だったらしい。

 

「終わったのか? でも、見た目は何も変わってないぞ」

 

 俺が周囲を見渡しても、木々も空も、今まで通りに見えた。

 

「本当に張れてるのか?」

「疑わないでください!」

 

 エルマがむっと頬を膨らませる。

 

「内側からは何も変わりません。ですが、外からこの村を見ることは、もはや神にすら不可能です」

「盛るなよ」

「盛ってません! たぶん!」

「最後の“たぶん”やめろ!」

 

 エルマは胸を張って説明を続けた。

 

「外から見れば、ここはただの鬱蒼とした森の一部です。物理的に足を踏み入れようとしても、無意識のうちに方向感覚を狂わされ、村を迂回するように歩かされます。魔力探知も完全に無効化されます。敵意ある者は近づくほど道を見失い、味方として登録された者だけが安全に出入りできる。これが、私の生涯の最高傑作――引きこもり絶対防衛陣です!」

「ネーミングが俺寄りすぎるだろ」

「コウタ様向けに最適化しました!」

「仕事ができる……!」

 

 俺は感動に打ち震えた。

 

 これだ。

 

 俺が欲しかったのは、こういうのだ。

 

 突然変異の魔物が迷い込んでくることも、王都の面倒な貴族の調査隊が押しかけてくることも、森の奥をうろつく好奇心旺盛な連中に見つかることもない。

 

 本物の魔法の結界。

 

 引きこもりの夢が、今まさに現実になったのだ。

 

「よし、テストしてみよう」

 

 俺はタブレットを取り出し、小型ドローンを起動させた。

 

 ドローンを操作して、エルマが張ったという結界の外まで高度を上げる。

 

 そしてそこからカメラを真下――俺たちの村があるはずの場所へ向けた。

 

「……マジかよ」

 

 タブレットの画面を見て、俺は息を呑んだ。

 

 ついさっきまで、ログハウスやソーラーパネル、タープやプレハブ群がはっきり映っていたはずの場所が。

 

 ただの、見渡す限りの深い森にしか見えなくなっていたのだ。

 

 ズームを最大にしても、赤外線モードへ切り替えても、人工物の痕跡や俺たちの熱源は一切感知されない。

 

 そこへ誰も住んでいないかのように、完璧な偽装が施されている。

 

「うわぁ……本当に消えてる」

 

 俺は素直に感嘆した。

 

「ログハウスもプレハブもソーラーも畑も、何も見えねえ」

「当然です!」

 

 エルマがふらふらしながらも得意げに胸を張る。

 

「そのために徹夜したのですから!」

「そう言われると急に心配になるな」

 

「だっははは! すごいじゃないか、エルマ!」

 

 ガランが画面を覗き込み、豪快に笑った。

 

「これでアタシたち、文字通り森の幽霊だねぇ!」

「……悪くない」

 

 ロエンも満足げに頷く。

 

「畑を外の害獣から完全に守れる」

「お前の評価軸、徹底してるな」

「当然だ」

 

「……私の索敵能力すら欺く隠蔽術式とはな」

 

 シルフィが細く息を吐いた。

 

「人間の小娘にしては、大した業だ」

「こ、小娘って……!」

 

 エルマがちょっとムッとする。

 

「でも褒め言葉なので受け取っておきます!」

「切り替え早いな」

 

「やったー! エルマすごい!」

 

 ミリィが尻尾をぶんぶん振って、エルマへ抱きつこうとした。

 

 その時だった。

 

「うっ……」

「……っ」

 

 シルフィとミリィが、ほぼ同時に鼻をつまんで一歩後ずさった。

 

 空気が変わる。

 

 いや、正確には匂いが来た。

 

「……エルマ」

 

 シルフィが顔をしかめる。

 

「お前、何か腐ったドブネズミみたいな臭いがするぞ」

「直球!」

 

 俺は思わず叫んだ。

 

 だが、言いたいことは分かる。

 

 というか、分かりたくないのに分かってしまう。

 

 結界の起動で興奮していたから気づくのが遅れたが、エルマの周辺だけ、明らかに空気が重い。

 

 焦げた魔力。

 

 汗。

 

 埃。

 

 インク。

 

 徹夜。

 

 ジャンクフード。

 

 そのすべてが混ざり合った、研究者の負の結晶みたいな匂いである。

 

「でもたしかに、ちょっと、いやかなり……」

 

 ガランが鼻をひくつかせる。

 

「研究臭と汗と焦げた魔力が混ざったような……すごいねぇ、これ」

「ガウゥ……」

 

 ポテトまで微妙な顔で鼻先をそむけた。

 

「えっ……?」

 

 エルマは自分のローブの袖を恐る恐る嗅ぎ――次の瞬間、顔を真っ赤にした。

 

「あ、あの……実は、アカデミーの実験棟を爆破して逃亡してから、この村に落ちてきて、徹夜で結界を構築するまで……およそ十日間、一度も水浴びをしていなくて……」

「十日!?」

 

 俺の声が裏返る。

 

「真夏に!?」

「れ、冷房のある部屋だったので油断して……」

「そういう問題じゃねえ!!」

 

 真夏の森をさまよい、焦げたローブを着たまま、プレハブで徹夜を繰り返した十日分の汗と埃と魔力の焼けた匂い。

 

 それは、もはや“臭う”の一言で片づけていいレベルではなかった。

 

 公害である。

 

 結界は完璧なのに、本体の衛生状態が壊滅していた。

 

「ストップ! エルマ、お前は今すぐ風呂だ! その黒いローブも全部脱げ!」

「ひゃあっ!?」

 

 俺が叫ぶと同時に、ガランがにやりと笑う。

 

「だっははは! 任せな! アタシが背中を流してやるよ!」

「い、いや、あの、まだ術式の最終確認が――」

「後回しだ! まず洗え!」

「ひぃぃぃっ!?」

 

 ガランは悲鳴を上げるエルマを軽々と抱え上げ、そのまま村の裏手にあるヒノキの露天風呂へ強制連行していった。

 

 エルマのじたばたする足が空を切る。

 

 見ていてちょっと面白いが、今回は完全にガランが正しい。

 

     *

 

「さて、あのドロドロのローブ、どうにかしないとな」

 

 空き地へ取り残されたエルマの脱ぎ捨てたローブを、俺は棒の先でつまみ上げながら呟いた。

 

 近い。

 

 近いだけで強い。

 

 これを手洗いしろと言われたら、たぶん俺は泣く。

 

「うん、無理だな。文明に頼ろう」

 

 即断した。

 

「よし、ついに大型家電の出番だ」

 

 俺は《快適生活お取り寄せ》を開き、拠点通販のスマート家電カテゴリから、ある大型家電を召喚する。

 

 青白い光と共に現れたのは、純白の四角いボディに丸い窓がついた、現代の魔法の箱。

 

 ドラム式全自動洗濯乾燥機だ。

 

「やっぱり一家に一台、文明の神殿だよな」

 

 見た目だけで安心感がある。

 

 家電量販店の守護神みたいな佇まいだ。

 

 俺はログハウス裏手の水道管――川からポンプで引いている――と電源を繋ぎ、エルマのローブと、ついでにガランたちの汚れた服まで放り込んだ。

 

 洗剤と柔軟剤をセットし、スタートボタンを押す。

 

 ゴウン……ゴウン……。

 

 ドラムが回転し始め、水が勢いよく注入される。

 

「……コウタ」

 

 ロエンが、丸い窓越しにくるくる回る衣類を、不思議そうに覗き込んでいた。

 

「その白い箱の中で、服が水と一緒に乱暴に振り回されているが」

「うん」

「あれは、服に対する拷問か何かか?」

「洗濯だよ」

「洗濯……」

「汚れを叩き落として、さらに熱風で乾かしてくれるんだ。干す手間もいらない最高の家電だ」

「……便利すぎて怖いな」

「分かる」

「人の仕事がどんどん奪われる」

「その仕事、俺は喜んで奪ってほしい」

「だろうな」

 

 一時間後。

 

 露天風呂の方から、湯気と一緒にエルマのへろへろした声が聞こえてきた。

 

「はぁ、はぁ……死ぬかと思いました……!」

 

 顔中を真っ赤にし、頭から湯気を立てたエルマが、よろよろと戻ってくる。

 

 ガランの背後から、完全に洗われきった顔で現れたその姿は、さっきまでとは別人みたいだった。

 

「あのガランという戦士の方の凄まじい力で全身を擦り上げられ、さらに、あの……甘い香りのする白い泡! そして極楽のような温度のヒノキの湯船……! 結界構築の疲労が、骨の髄まで溶かされていきました……!」

「だっははは! 最初は悲鳴を上げてたけど、最後はおとなしかったじゃないか」

「おとなしくもなりますよ! あれだけ洗われたら魂まで脱脂されます!」

「そんなにか」

「でも気持ちよかったです……」

「素直だな」

 

 エルマの髪は、俺が貸してやったシャンプーとトリートメントのおかげで、鳥の巣状態から見違えるような艶のある黒髪へ戻っていた。

 

 丸眼鏡もぴかぴかに磨かれ、風呂上がりで火照った肌は、どこか年相応の少女らしい。

 

 さっきまでの“臭う天才魔導士”から、一気に“ちょっとミステリアスな美少女魔導士”へランクアップしている。

 

 風呂って偉大だな。

 

「ほら、着替えだ」

 

 俺は乾燥まで終わったばかりの、ほかほかのローブをエルマへ渡した。

 

 ついでに、予備として通販で買った黒のルームウェアも渡してやる。

 

「なっ……!」

 

 エルマがローブを抱いたまま、震えた声を漏らす。

 

「私のローブが、買った時よりも黒く輝いている!? しかも、このお日様みたいな温かさと、お花畑みたいな香り……! これもコウタ様の魔法ですか!?」

「洗濯機っていう機械がやったんだよ」

「機械が服を洗って乾かして香りまでつける!?」

「そうだ」

「家事代行の精霊を箱へ封じているのでは!?」

「封じてない」

「本当ですか!?」

「本当だよ!」

 

「さあ、さっぱりしたところで、結界完成祝いといくか」

 

 俺はタープの下へテーブルを広げ、本日のメインディッシュの準備に取りかかった。

 

 風呂上がり。

 

 大仕事の後。

 

 この条件で弱い料理なんて出せるわけがない。

 

 ここはやはり、最強クラスのスタミナ飯で決めるしかない。

 

 俺が用意したのは、たっぷりの油と、大ぶりに切った鶏もも肉。

 

 醤油、酒、すりおろしニンニク、生姜を合わせた特製ダレへ肉を漬け込み、しっかり揉み込んでいく。

 

 その後、片栗粉をまぶして表面をうっすら白くした。

 

「ポテト、火を頼む」

「ガウッ!」

 

 ポテトのくしゃみブレスが、ぼふっとかまどへ火を入れる。

 

 中華鍋の油が高温になっていく音が、じわじわと期待を煽った。

 

 そこへ、粉をまぶした鶏肉を静かに投入する。

 

 ジュワァァァァァァァァッ!!

 

 凄まじい油の爆ぜる音。

 

 同時に、ニンニクと醤油の焦げる、あまりにも暴力的な香りが夏の村の空気へ一気に広がった。

 

 油の中で鶏肉が踊り、じわじわと黄金色へ変わっていく。

 

 見ているだけで理性が削られる。

 

「……っ!!」

 

 ローブを着替えたばかりのエルマが、鼻をひくひくさせてコンロの前へすっ飛んできた。

 

「な、なんですかこの匂いは……! 昨日のピザとも違う、脳の奥の原始的な欲求を直接刺激するような……!」

「だっははは! 揚げ物だねぇ!」

 

 ガランも濡れた髪を拭きながら、すでに自分の席へ座って箸を構えている。

 

「風呂上がりの揚げ物は最高だよ!」

「それは分かる」

 

 シルフィまで頷いた。

 

「だが、待たされる時間が苦痛だ」

「食う前から分かってるのか」

「匂いが雄弁だ」

 

「よし、揚がったぞ。現代日本の国民的おかず、鶏の唐揚げだ」

 

 俺は大皿へ山盛りにした、黄金色に輝く唐揚げをテーブルのど真ん中へどんっと置いた。

 

 傍らには千切りキャベツ。

 

 くし切りのレモン。

 

 さらに、ガラン用にはトムじいが持ってきた異世界の麦酒。

 

 俺とミリィ、エルマには氷入りコーラ。

 

 ロエンには冷たい麦茶。

 

 シルフィには、本人が当然のように要求してきたコーラ。

 

 布陣は完璧だ。

 

 これで勝てない食卓はない。

 

「さあ、食え! 結界完成に乾杯!」

 

「乾杯ー!」

「ガウッ!」

 

 俺の合図と共に、全員が一斉に唐揚げへ手を伸ばした。

 

 エルマは、先ほどロエンに軽く教わった箸をおっかなびっくり使いながら、熱々の唐揚げを口へ運ぶ。

 

 サクッ……!!

 

「……ッ!!???」

 

 エルマの丸眼鏡が、今日一番の輝きを放った。

 

「な、なんという食感……! 表面の衣はサクサクと小気味良い音を立てて崩れ、その中から信じられない量の熱い肉汁が溢れ出してきました……!」

 

 エルマは火傷しそうになりながらも、はふはふと口を動かし続ける。

 

「ニンニクと生姜の効いた濃い味付けが、鶏肉の淡白さを極限まで引き上げている! これほどまでに油と肉の相乗効果を高めた料理、王宮のフルコースにも存在しません! いや、存在してはいけない! 庶民が手を出せる範囲に置いていい破壊力ではありません!!」

「褒めすぎだろ」

「でもうまいよねぇ」

 

 ガランがすでに三個目へ手を伸ばしている。

 

「うまい! おにく、ジュワーってなる!」

 

 ミリィも両手で唐揚げを持ってかじりつき、口の周りを油まみれにして喜んでいる。

 

「ミリィ、熱いから気をつけろよ」

「あつい! でも、おいしい!」

「食欲が勝ってるな」

 

「……油の熱が、肉の旨味を完全に閉じ込めている。素晴らしい技術だ」

 

 ロエンも無表情のまま、とんでもない速度で唐揚げの山を崩していた。

 

「お前ら食うの早いな!」

「戦場では遅い者から飢えるからねぇ!」

「ここ戦場じゃないだろ!」

「唐揚げの前では戦場だ」

 

 シルフィが真顔で言った。

 

「言い切るな」

 

「ほら、エルマ。コーラで流し込んでみろ」

 

 俺が言うと、エルマはコーラのグラスを両手で持ち、そのまま一気に煽った。

 

「ぷはぁぁぁぁっ!!」

 

 次の瞬間、エルマの口から、おっさんみたいに完璧なため息が漏れた。

 

「熱々の肉と油で満たされた口の中を、冷たく弾ける炭酸が暴力的に洗い流していく……! そしてまた、唐揚げが食べたくなる! 恐ろしい……この唐揚げとコーラの組み合わせは、人を完全に堕落させる悪魔の永久機関です!!」

「だろ?」

「だろ、じゃありません! これは依存性があります! 研究対象です!」

「食いながら言うな」

「美味しすぎて理性が追いつきません!」

 

 エルマは完全にインドア派の快楽へ屈服し、狂ったように唐揚げとコーラの往復を始めていた。

 

 さっき風呂上がりの美少女に見えたのに、今はただの食に落ちた天才である。

 

 まあ、親しみやすくていいかもしれない。

 

「だっははは! 結界もできて、飯もうまい! アタシたち、本当にこの森の王様になった気分だねぇ!」

 

 ガランがジョッキの麦酒を飲み干し、豪快に笑う。

 

「外からは見えない、幽霊の王様だがな」

 

 シルフィも、唐揚げへレモンを絞りながら小さく微笑んだ。

 

「悪くない肩書きだ」

「たしかに、ちょっとかっこいいな」

「畑も守られる」

 

 ロエンが満足げに頷く。

 

「お前、本当にそこぶれないな」

「当然だ」

 

 エルマの絶対不可視の多重防衛結界。

 

 そして、俺の《快適生活お取り寄せ》が生み出す無限の物資と文明の利器。

 

 俺が求めていた“誰にも邪魔されない、安全で怠惰な引きこもり生活”は、ここで一つの完成形へ到達したのかもしれない。

 

 夜空には満天の星が輝いている。

 

 だが、結界の外からは、俺たちのこの騒がしくも幸せな宴の光は一切見えていないはずだ。

 

 まさに理想の秘密基地。

 

 いや、秘密基地というには快適すぎるな。

 

 秘密要塞だ。

 

「……最高だな」

 

 俺は唐揚げをかじり、冷たいコーラを喉へ流し込みながら、この異世界で手に入れた最強の城と、個性豊かすぎる仲間たちをゆっくり見渡した。

 

 最初に望んでいたのは、もっと静かで、もっと孤独で、もっと一人きりのスローライフだったはずだ。

 

 けれど今の俺は、この騒がしさを嫌だとは思っていない。

 

 むしろ、こんなふうに腹の底から「最高だ」と思えている時点で、たぶん俺はもう、だいぶこの村の主として馴染んでしまっているのだろう。

 

 誰にも見つからない森の奥。

 

 絶対防衛の結界の内側。

 

 油の香りと、笑い声と、炭酸の弾ける音に包まれながら。

 

 俺の引きこもり生活は、また一つ、取り返しのつかないくらい快適な方向へ進化してしまったのだった。

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