玄関の前で、ポケットを叩く。前と、後ろ。それぞれ2つずつ。出かける前の癖だ。
どのポケットに何を入れるか決めてあるので、それぞれを叩いたときに、あるべき物の感触があるかどうかで、忘れ物をしていないか確認できる。一通りあることを確認し、靴を履き始めた。
「どこ行くんだ?」
玄関から少し離れた居間から、同居人が声をかけてくる。ポケットを叩く音で、私が出かけようとしていることを察したのだろう。
「散歩。」
振り返って、短く答える。
それを聞いて、同居人の顔が引っ込む。別に付いてきたい訳でも、買ってきてほしい物があるわけでもないらしい。
ではなぜ声をかけたのか訝しみつつ、靴紐を結ぶためにしゃがむと、背中になにか硬いものが当たった。振り返って見ると愛用のライターが転がっている。
「忘れもの。」
最近寒かったから、コートの中に入れるようにしていたのを忘れていた。家から出た後でもう1回戻ってくることになっていただろう。
「ありがとう。」
礼を言って、拾う。
煙草の箱は右前のポケットに、携帯灰皿は右の後ろポケットにしっかり入っているくせに、ライターを忘れるあたりがなんとも間抜けだ。結局洋服のどのポケットに何が入っているかが正しければ問題ないとしているから、着るものが変わると忘れ物をする。季節の変わり目はそれが多い。
玄関に掛かっている、予備のコートを羽織り手に持ったライターをポケットへ滑り込ませた。先日の雨で濡れてしまったコートを、居間に吊るして乾かしていたことが今回の忘れ物の原因になるのだろうか。あるいは先日の雨が。いや、天気予報を見忘れて傘を持っていかなかった私が悪いのか。結局ぐるりと一周して私の元へ責任が帰ってきた。
そんな益体もない思考を回している内に、靴紐が結び終わる。
「行ってくる。」
振り返って言った私の言葉に、同居人の手だけがひらひらと答えた。
玄関の扉を開けて、外へ出る。すでに夜の気温はかなり低く、きっちりと服を着込まないと辛い。いい加減外出するのが辛い季節になってきた。
ポケットから煙草を取り出して口に咥え、火を点ける。深く吸い込むと、舌先に甘い痺れが走った。
玄関先でぼさっと立って煙草を吸うのも馬鹿らしいので、宣言通り散歩へ行く。特に目的もないが、多くの場合通るコースは同じだった。大体2,30分で回り、その間に煙草を2本ほど吸う。
そのコースに従うともなしに従いながら少し歩いて、いつもと違う曲がり角で折れてみた。深い意味はなく、単純に気分だ。
煙草の効果などというものはさほど高くなく、別にそこまで強烈に気分を変えるような薬じゃない。そうだったらとっくに国の規制対象になっている。だからこそ、煙草を吸っている間の行動というのは、煙草の効果を決定付けるかなり重要な要因だと思う。だから、これを口に加えている間は、気分に従うことにしている。
「何があんのかね。」
誰にともなく呟きながら、歩を進める。一息吸って、少し燻らせ、吐く。数歩歩いて、また一息。
同居人は別に嫌煙家と言う訳ではないのだが、家での喫煙は禁じている。理由は単純で、壁紙を汚したくないのだそうだ。退去するときに金も取られる。
もっとも彼女はそこまで煙草を吸わない。本当に、外出の次いで、移動時間の暇つぶしのように煙草を吸う。だから、1日家にいる休日にわざわざ煙草を吸うために外出する必要はないのだが、私は違う。
勿論、ベランダへ出て吸うというのも1つの選択肢だろうが、なんだかそれは好みじゃない。煙草を吸っている間の行動が煙草の旨さを決めるわけで、ただ煙草を吸うために、ニコチンを摂取するために煙草を吸うのは私の思う喫煙とは少し違った。
結局こうして1日に数回、煙草のために散歩へ出かけることになる訳だが、お陰で若干体重が落ちた。次いでに、このあたりの地理にも詳しくなってきた。勿論、歩いて出かけることのできる範疇なので大した範囲ではないが、しかし案外住んでいる街といえども細かいところまでは知らないものだ。
実際今も、歩いている間に見覚えの無い景色の中に居る。すでに煙草は2本目に突入しているので、おそらく15分以上は歩いているだろう。
正面に大通りが見える。ここまでほとんど真っ直ぐに歩いてきたが、あれを区切りにして曲がってみようと思う。今日の散歩は少し長くなりそうだ。大通りなら、何か店があるだろう。何か買って帰っても良い。
ああ、おでんが食べたくなってきた。