大学の講義を終えて、駅へ向かう。
夕方の気怠い空気に満ちた満員電車に、私は吸い寄せられるようにして乗り込んだ。
吊り革に掴まり、ガタゴトと小刻みに揺られながら、自然と視線は床へと俯いていく。
(学校と家を行ったり来たり。必死に努力しているはずなのに、配信の同接は低いまま……。そもそも、私から『完璧』を取ったら何が残るっていうの?)
ぐるぐると脳裏を焼くのは、マネージャーの冷ややかな声と、ネットの辛辣な言葉。
心も身体も限界だった。
現実逃避するように、瞼の裏から迫る強烈な眠気を受け止めようとした、その時――。
「うぉっ!?」
バカでかい声が、私の鼓膜をひどく震わせた。
心臓が跳ね上がる。
電車の急ブレーキで足元をよろめかせた私が、隣の男の肩にぶつかってしまったらしい。
「危ないなぁ」
見上げると、男がこれみよがしに顔を顰めていた。
「ご……ごめんなさい」
オドオドしながら、私は消え入るような声で謝った。
自分でも惨めになるくらいみっともない態度だったが、今の私には言い返す気力すらない。
「全く、気をつけてよ。眠いのは分かるけどさ」
男はチッと小さく舌を鳴らした。黒縁のメガネの奥にある細い目が、じっと私を値踏みするように見下ろしている。
よく見れば、男の胸元には、妙にリアルな三毛猫がデザインされたTシャツが主張激しくプリントされていた。
人を見た目で判断してはいけないとよく言うが、私にとっては、最も苦手なタイプの人間だった。
関わりたくない。
そう思って一歩引こうとした私に、男は唐突に、馴れ馴れしい口調で話題を切り替えてきた。
「そう言えば君、大学生?」
「そうですけど……」
「やっぱり、そうだったか。いいなぁ、君ぐらいの年齢は自由な時間がたくさんあるからね。俺も昔はそうだったよ。毎日が夏休みみたいなもんだろ?」
悪気のない、けれど特大の偏見。
私は心の底で盛大に顔を顰めた。
「は……はぁ(ひょっとして、これ……自分語りに入る気じゃ?)」
予感は最悪の形で的中する。
男は私の困惑など置き去りにして、嬉々として顎をさすった。
「俺が大学生の頃はな、それこそ今の君みたいに、毎日死んだ魚の目をして電車に乗ってたよ。でもサークルを立ち上げてさ、ネットのコミュニティでもちょっとした有名人になって。あの頃は自分の才能が怖かったね」
(あぁ、もう最悪だ……。聞いているフリだけしとこ……後は適当に相槌を)
私は液晶の消えたスマホを眺めるフリをしながら、その場を凌ぐことに全神経を注いだ。
早く次の駅に着いてくれ。
その願いも虚しく、男の口からは、聞いてもいない過去の栄光や「最近の若い奴らの甘え」といった説教じみた話がノンストップで溢れ出てくる。
「……でさ、結局その時の経験が今の仕事にも活きてるわけ」
男は一人で満足したように、何度も深く頷いた。
「そんなわけで、今はもうすっかり社会人さ。おっと、次の駅で俺は降りるから。……いやぁ、最後まで話を聞いてくれてありがとう。最近の若い子にしては、君、聞き上手だね!」
「いえ……」
上機嫌で駅の人混みへと去っていく三毛猫Tシャツの背中を、私はただ泥のように重い視線で見送った。
聞いているフリとはいえ、一方通行の長ったらしい話を至近距離で浴びせられるのは、精神的な拷問に等しかった。
どうやら私は、今日の本番である配信を始める前に、想像以上の地獄を見せられたようだ。
「はやく、帰ろ……」
ぐったりと吐き出した溜息は、電車の駆動音にかき消された。
だが、この時の私はまだ知る由もなかった。
現実の底辺で私を大いに不快にさせたこの男と、今夜、私が最も大切にしているバーチャルの聖域で、最悪の再会を果たしてしまうということに――。
重い足取りで自室に向かう。
私はため息をついた後、PCを起動して、VRゴーグルをセットした。
黒髪ショートで紫の瞳を持つ地味な少女。
金髪ロングで碧眼の美少女に変身するために「偽りの仮面」を被り続ける。
顔を保護するためのクッションの柔らかさと固定するためのベルトの締めつけ__
それは囚人の手足に取り付けられる枷のような重みを与えていた。
配信のための準備は整った。
指を震わせて、配信スタートのボタンを押した。
「こんばらいばー! 皆ー、ドリームパラダイス所属の七瀬らいばだよ!」
息苦しさを押し殺して絞り出す、元気な声。
相変わらず同接数は少なかった。
「今日はねー、新作ゲームの実況をしていくよ! 是非とも最後まで見てね!」
必死になって稼いだ小遣いをはたいて買ったゲーム。
どうせ最後まで見てくれるはずもないのに……そんな思いを抱えながら視聴者に語りかける。
マニュアル通りにプレイしている私の様子を見て、次第に視聴者達は離れていった。
残った視聴者はたったの3人となった。
(このままじゃ数字が……!)
らいばとして顔に出すことは無かったが、次第に焦りを覚えだした。
その時__。
「はぁ〜、君の配信初めて見たけど何これ?」
「まるで、教科書見てそのまま読んでる学生じゃん。視聴者のこと舐めてる?」
(えっ……!?)
初見のコメントが来た。
しかし、送信者の正体に私は驚いた。
なにせ、そのアイコンに既視感があった。
あの時の三毛猫のTシャツと完全一致していたからだ。
彼が送りつけた内容は辛辣でありながら、今の私に刺さるものだった。
「えーと……ミケネコさん。コ……コメントありがとうございます。つ…次からは励むので」
(あいつだ……。最悪だ、よりによって私の配信にまで来てしまったなんて)
「次からって、その次はいつ?」
「……」
間髪を容れず辛口なコメントが投下される。
私は暫くの間固まってしまった。
「ええと……あぁ、丁度開始から2時間なのでそろそろ終わります! ここまでのご視聴ありがとうございました!」
逃げるようにして配信を終了した。
しかし、初めてのことだった。
こんなにも悔しさで胸が焼けるような思いをしたのは。
布団を被って、自分の情けなさをひどく呪ったのだった。