部屋の空気は、完全に澱んでいた。
床には、中身をあさるためだけに買い漁られたゲームパッケージがプラスチックの死骸のように散乱している。
ベッドの隅には、いつ開けたかも分からない飲みかけのペットボトルが転がり、シーツに微かな輪染みを作っていた。
VRゴーグルを外した鏡の中の私は、見る影もなく荒んでいた。
頬は若干こけ、チャームポイントであるはずの紫の瞳は、まるで光を失った泥のように彩度が暗く沈んでいる。
それでも、私は配信のスタートボタンを押した。
「完璧」でいなければ、私はここに存在してはいけないから。
「――はい、というわけで今日も無敗でクリアだね。みんな、楽しんでくれたかな?」
限界寸前の身体に鞭を打ち、金髪碧眼の「七瀬らいば」として笑顔を振りまく。
しかし、画面の向こうの熱量は、私の完璧なエイムとは裏腹に、どこまでも冷え切っていた。
同接数は相変わらず一桁。
その静寂を切り裂くように、あの忌々しい三毛猫のアイコンがチャット欄に躍り出た。
「君の配信さ、相変わらず乾いてるよね。君自身楽しくないんじゃないの?」
ナイフのように画面越しで私の心を突き刺した。
「おいおい、言ってやんな笑」
「そんぐらいにしとけw」
周囲のリスナーも面白がって便乗し始める。
乾いてる? 楽しくない?
当たり前だ。楽しいわけがない。
私は変わりたくて、認められたくて、私生活のすべてを犠牲にしてこの「完璧」を維持している。
それなのに、現実でもネットでも、この男は私の領域に土足で踏み込んで、せせら笑う。
(もう、無理――)
頭の中で、張り詰めていた何かが、音を立ててブチ切れた。
「……て」
画面の中の「七瀬らいば」の動きがピタリと止まる。
「……うるさい。黙って」
「ん? なんか言った?」
「私だって……っ、私だって、今のままやるのは辛いよ!!」
初めて、配信中に「地声」が混じった。
「七瀬らいば」の可愛い声ではない、「倉井香織」としての、悲痛な叫び。
感情が爆発した瞬間、視界の端で敵の奇襲を捉えた。考えるより先に指が動く。
――ガガガガガッ!!
怒りに任せてキーボードを叩きつけ、マウスを振り抜く。
画面の中のらいばは、感情を剥き出しにした絶叫とは裏腹に、精密機械をも凌駕する超次元の連続ヘッドショットを決めていた。一瞬で画面上の敵が全滅する。
「は?」
「え、今のキルクリップやばない!?」
「おいおいおいキレた!?www」
「弾幕すげぇwwwww」
ミケネコの驚愕からリスナー達の驚愕へと派生していった。
「辛い、辛いに決まってるじゃん! なんでそんなこと言うの!? 私は、私はただ……ッ!」
叫びながら、また一人、裏から回ってきた敵をノールックで撃ち抜く。
神プレイの連発。
感情の昂りと、極限まで研ぎ澄まされたゲームスキルが不協和音を奏で、チャット欄がかつてない速度でスクロールしていく。
キレながら無双するアイドルの姿に、画面が弾幕のようなコメントで埋め尽くされていく。
「あ……」
敵の全滅を告げる文字が表示された瞬間、私はハッと我に返った。
激しい動悸。
冷や汗が背中を伝う。
やってしまった。
配信者として、あるまじき醜態を晒してしまった。
「なんか……ごめん」
消え入るような声でそれだけ呟くと、私は逃げるように配信終了ボタンを押し、PCの電源をブツ切りにした。
布団を頭から被り、ガタガタと震える。
終わった。
これで完全にクビだ。
私は自分の情けなさを呪いながら、泥のような眠りに落ちた。
翌日。
枕元で激しく鳴り響くスマホのバイブ音で、私は目を覚ました。
電源をつけてすぐに表示された「マネージャー」の文字。
(とうとう、クビ宣告か……)
生きた心地がしなかった。
震える手でスマホを掴み、覚悟を決めて通話ボタンをスワイプする。
(完全にもう死んだんだ……。Vtuberとしての「七瀬らいば」と人間としての「倉井香織」は……)
「……はい、倉井です。昨日は、その、本当に申し訳ありませんでした……」
「倉井さん! 起きてる!?」
マネージャーの声は、いつもの辟易としたものとは明らかに違っていた。ひどく興奮し、上擦っている。
「何謝ってんのよ! 凄いことになってるわよ昨日の配信!」
「え……?」
「バズってんのよ! 昨日の、あのキレながら神プレイ連発してたシーン! ほら、あんたの囲いアンチの『ミケネコ』って奴がいるじゃない? あいつがさ、『普段ロボットみたいな七瀬らいばがガチギレして人間になった瞬間。なおエイムはチート級』って動画付きでツイートしたら、一晩で数万リツイートされてトレンド入りよ!」
ベッドの上に呆然と座り込んだまま、私は耳を疑った。
受話器の向こうで、マネージャーの声が弾むように続く。
「同接も、チャンネル登録者数も、今までの桁が嘘みたいに跳ね上がってる。……倉井さん、これ、大チャンスよ!」
この時、私は知る由もなかった。
限界を超えて放たれた「叫び」がVtuberとしての生き様を大きく押し上げることになるなんて__。