「ところで、倉井さん。今夜、事務所に上がれるかしら? 会わせたい人がいるの」
マネージャーが唐突に、声を弾ませて話題を切り替えてきた。
会わせたい人。
その言葉を聞いて、私の思考は完全にフリーズした。
いくらネットで話題になったとはいえ、大手のドリームパラダイスで地べたを這いつくばっていた私に、わざわざ直接会いたいなんて、一体どこの誰だというのだろう。
全く想像の余地もなかった。
「あの、その人は、自ら私に……?」
「そうよ。向こうからの強い希望。詳しいことは来てから話すわ。準備が出来たらいつでも来て」
プツッ……という無機質な切断音とともに、短い電話が終わった。
呆然とスマホを見つめる。
正直、自分の身に何が起こっているのか、今の段階では一ミリも理解できていなかった。
でも、鳴り止まない通知と耳に残るマネージャーの興奮した声が、これが夢ではなく紛れもない現実なのだと告げている。
「……とにかく、まずは学校に行かなきゃ」
私は弾かれたようにベッドから起き上がると、急いで簡単な朝食を胃に流し込み、大学に向かうための身支度を整えた。
いつものように改札を通り、夕方とは逆に、今度は朝の喧騒に満ちた電車に乗り込む。
吊り革を掴みつつも、ガタゴトと不規則に揺れる車内で私の身体は小さく揺さぶられる。
昨日までの私なら、ここでまた暗い思考に沈んでいたはずだった。
しかし、その時――。
「おいおい、昨日の反応集見たか?」
「あぁ、見たぜ。すげぇよな、あっという間に100万回再生突破してたし」
「……っ!?」
隣に立つ男子高校生たちの談笑が、私の鼓膜を派手に揺さぶった。
反応集。100万回再生。
あまりにもタイムリーすぎる単語に、私は思わず息を止めて俯いた。
スマホを握る指先が、じわりと汗ばんでいく。
「あの七瀬らいばってやつ。俺も今まで知らなかったけど、マジですげぇキレっぷりだったな。今までの『完璧ロボット動画』と比較されてるやつ見た? 本人も相当、殻を破れなくて苦しんでたっぽい描写があるんだよな」
「だな。これをきっかけに一皮剥ければいいよなー。……まぁ、もしかしたらこういうVTuberの中身って、案外俺たちの身近にいたりしてな」
「まっさか〜! 漫画じゃあるまいし、こんな地味な満員電車にあの金髪美少女がいるわけないだろ!」
「だよな〜!」
ハハハ、と無邪気に笑う彼らの真横で、私は心臓を小刻みに震わせながらその衝撃に耐えていた。
地味な満員電車にいるわけがない。
その通りだ。
黒髪ショートで地味な倉井香織が、あの七瀬らいば本人だなんて世界中の誰も思いもしないだろう。
「次は終点、蓮利――。蓮利――」
彼らの会話が一段落したタイミングで、タイミングよく車内に終着を告げるアナウンスが響き渡った。
電車のドアが開き、人の波が吐き出されていく。
マネージャーの言っていた「会いたい相手」の正体は、狂おしいほど気になるところだ。
けれど、まずは目の前の現実、学校を片付けなければならない。
「……まずは、講義に集中しよう」
自分に強くそう言い聞かせ、私は高校生たちの背中を追うようにして、大学のキャンパスへと歩みを進めた。
その夜、私を待つ「もう一人の不協和音」の存在を、まだ知らないまま。
「疲れた……」
すべての講義を終え、再び電車に揺られながら帰路につく。
学校と家を往復するだけの、相変わらずの退屈な繰り返し。
けれど、昨日までと決定的に違う日常がそこにあるのは言うまでもなかった。
私の知らないところで、私の名前が世界中に拡散されている。
「もう二十時か……」
自室に戻り、腕時計をチラリと眺めてから、私は夕飯の支度を始めた。
鏡に映った自分の、少しこけた頬を思い出す。
「最近、痩せ気味だしちゃんと食べなきゃ」
炊飯器から適量のご飯をよそい、買ってきたサラダをボウルに盛り付け、フライパンで肉を焼く。
香ばしい匂いが澱んだ部屋を満たしていく。
生きるために、戦うために、私は必死で肉を口に運んだ。
「ごちそうさまでした」
食器を素早く片付け、配信機材を丁寧にカバンに詰め込む。
マネージャーからの謎めいた呼び出しに応じるため、私は再び夜の駅へ足を運んだ。
上り電車に乗ると、さすがにこの時間帯ということもあって乗客はまばらだった。
そんな静まり返った車内の中、ポツリと交わされた会話が、私の耳に滑り込んできた。
「気のせいかもしれねぇけどさ。今日、らいばちゃん配信してなくね?」
「あぁ、そうだよな。ちょっとまだメンタルが安定してないのか? Vtuberってそこんとこの管理も大変って聞くしな……。昨日のあれ、凄かったからな」
サラリーマンたちの他愛もない会話に、私の心臓がドクンと激しく脈打った。
夢にも思っていなかった。
人がポツポツといる程度の、こんな夜の片田舎の電車の中でさえ、自身の話題が繰り広げられているなんて。
恐怖と、それ以上の高揚感が頭を支配する。
『まもなく霧貫――。霧貫――』
事務所の最寄り駅への到着アナウンス。
それが車内に響くと同時に、私の足は弾かれたように動き出していた。
気づけば私の身体は電車を降り、改札を抜けていた。
行こう。
その言葉を強く胸に抱き、私は夜の街へと歩み出す。
私を待つ、まだ見ぬ誰かのもとへ。
「失礼します……」
重い自動ドアを超え、事務所のエントランスへ入る。
「来たようね」
そこにいたのはマネージャーだった。
しかし、肝心の待ち人の姿はどこにも見当たらない。
「あの……お相手の方は?」
「もうすぐ来るわ」
その言葉と同時に、背後からガラスの扉が開く音がした。
「すみませーん、遅れましたっ!」
「あなたは……!」
大理石の床をカツカツと軽快に鳴らし、満面の笑みで現れた少女の姿に、私は息を呑んだ。
「こんばんは! 私、白鳥かこと申します。七瀬らいばさん――あなたにお話があって来ました!」
私に会いたいと言った人の正体。
それは、同じ事務所の人気配信者、白鳥かこだった。
ゲームは下手くそなのに絶大な人気を誇る、いわゆる愛され系。
彼女の実況動画の再生数は、切り抜きを含めどれも百万回以上を叩き出している。
そんな雲の上の存在が、どうして私なんかに……と不思議でならなかった。
「それでは、私はしばらくここを離れるわね。二人でゆっくり話しなさい」
マネージャーはそれだけ言うと、含み笑いを残してその場を後にした。
「それで、白鳥さん……お話って、一体……」
私は身を硬くし、恐る恐る尋ねた。
期待が半分、それ以上の不安が半分。
彼女が一体、どんな話を私に持ちかけるのか。
白鳥かこは、大きな瞳を真っ直ぐに私に向け、悪戯っぽく微笑んだ。
「単刀直入に言います!」
彼女は一歩、私との距離を詰める。
「私と――『コラボ』していただけますか?」
「え……?」
思考が真っ白に染まる。
「……えぇーーーーっっっっ!?」
私の叫び声が、誰もいない大理石のエントランスに、ただ呆然と響き渡った。