かことのコラボから一週間。
私のチャンネルには、あのバズりをきっかけに居着いてくれた新しいリスナーたちの姿があった。
その中に、最近やたらと熱心にコメントをくれる『タヌキ』という初見のアカウントがいる。
画面の向こうの彼は、いつも少しズレたテンポで、けれど妙に核心を突くリクエストを投げかけてくるのだった。
「らいばちゃん、おつらいばー! 今日の歌枠もピッチ完璧で最高!」
「でもさ、リクエストいい? らいばちゃんの得意なアニソンじゃなくて、もっとこう……「子守唄」みたいな優しいトーンの曲、聴きたいな」
「子守唄……ですか?」
私は思わずマイクの前で首を傾げた。
今まで私は、音程を寸分違わずなぞれる、激しくて正確な曲ばかりを歌ってきた。
それが自分の「完璧さ」を証明する唯一の手段だったからだ。
優しいトーン、つまりそれは、楽譜通りの正確さではなく、息遣いや「あえて崩すニュアンス」が求められる、私の一番苦手な領域。
「そうそう! 完璧に歌い上げるんじゃなくてさ、隣で語りかけるみたいに、ちょっと力を抜いて歌ってほしい。らいばちゃんのその綺麗な声でさ」
「タヌキさん注文多くて草」
「優しいらいばちゃんか、想像つかんなw」
画面に並ぶコメントを見つめながら、私はVRゴーグルの奥で、そっと目を閉じた。
いつもの私なら「そういう曲はイメージじゃないので」と機械的に断っていただろう。
でも、かこに言われた『全力で楽しむ』という言葉が、今の私の背中をそっと押した。
「……分かりました。注文が多いリスナーさんですね。 ……じゃあ、即興ですけど、今の私が皆さんに届けたい曲を歌います。少し、不器用な歌い方になっちゃうかもしれないけど……聴いてください。七瀬らいば、『ガラスの秒針』」
私はキーボードを叩き、アコースティックギターの静かな伴奏を流した。
張り詰めていた肩の力を抜き、喉の奥を柔らかく開く。
音符を「狙い撃つ」のをやめて、ただ、画面の向こうの彼らに言葉を『手渡す』ように、そっと声を乗せた。
__
傷つくのが怖くて 集めたガラスの破片
完璧な城を建てて 一人で閉じこもっていた
寸分も狂わないように 刻み続ける秒針
「私を見て」と泣いていた 本当の声を隠して
乾いた世界に響いた 不器用な君の足音
「楽しくないの?」と笑う声が
冷たい私の殻をパチンと弾いた
正解だらけの毎日に さよならを告げよう
辛くて流す涙も 震えるこの地声も
全部私だから
上手く歌えなくてもいい ただ君に届けばいい
頼りない光のままで 明日の夜を照らすよ
__
「――……っ」
最後のコードが消え入るように響き渡り、静寂が訪れる。
いつもなら、歌い終わった瞬間に「よし、ピッチはズレてない」と頭の中で採点していた。
けれど今は、胸の奥がじんわりと温かく、ただただ心地よい余韻だけが残っていた。
恐る恐る目を開け、チャット欄を見る。
そこには、今までにないほど穏やかな、そして温かい言葉の波が広がっていた。
「……最高。泣きそう。完璧な歌より、今の歌の方がずーーっと心に響いたよ!」
「鳥肌たった。らいばちゃん、こんな優しい声出せるんだな……」
「ロボットじゃない、等身大のらいばちゃんがそこにいるみたいだ」
「ありがとう、ございます……っ」
アバターの『七瀬らいば』の瞳から、一筋のデジタルな涙が零れ落ちる。
それは、私の心が初めてリスナーのリズムと「重なり合った」瞬間の証だった。
午前二時。
静まり返った部屋の中で、私は深夜の雑談配信を続けていた。
まばらに流れるコメントを眺めていると、チャット欄に鮮やかな赤色の色彩が飛び込んでくる。
――最高額のスーパーチャット、三千円。
投げたのは、最近よく見かける『ネズミ』というアカウントだった。
そこに添えられた長文のメッセージに、私だけでなく、その場にいたリスナーたちの動きが止まった。
「ネズミ:¥3,000 らいばさん、こんばんは。今夜はどうしてもお礼が言いたくてスパチャを投げさせてもらいました。僕は今、医大の膨大なレポートと課題に追われていて、ここ数日ずっと徹夜が続いていました。正直、終わりのない作業と、目の前の課題にただ時間を削られていく自分の無力さに、心が完全に折れかかっていたんです」
画面の向こうの冷たい空気と、彼が背負う重圧が、文字の羅列から生々しく伝わってくる。
私はマイクを握る手に無意識に力を込めた。
「そんな時、スマホの通知で、らいばさんがこの前感情を爆発させたあの『切り抜き動画』が流れてきました。気付けば、貪るようにそれを観ていました。いつも完璧だったらいばさんが、あんな風に泥臭く、必死に感情をぶつけている姿を観て……胸の奥が、ものすごく熱くなった。と同時に、涙が止まらなくなってしまったんです」
チャット欄が、静かにネズミの言葉を見守るように、ゆっくりと流れていく。
「僕は、ずっと無理をしていました。完璧な医大生でいなきゃいけないって、自分を追い詰めていた。でも、らいばさんのあの叫びを聞いて、『あぁ、自分は限界だったんだ。今夜は頭をゆっくり休ませよう』って、ようやく自分を許すことができたんです。らいばさん、僕の心を救ってくれて、本当にありがとうございました。今夜は配信を聴きながら、久しぶりにゆっくり眠ろうと思います」
「ネズミ、さん……」
画面を見つめる私の視界が、じわりと滲んだ。
かつての私は、自分の部屋の隅で爪を噛み、現実から逃げるように『七瀬らいば』という完璧な偶像を演じていた。
誰にも見られない部屋で、ただ自分が傷つかないためだけに、冷たい画面に向かっていたはずだった。
だけど――。
(私のあの格好悪い叫びが……誰かの、救いになっていたんだ)
完璧なマシーンだった頃の私なら、彼の孤独に気付けなかったかもしれない。
でも、かこと出会い、タヌキさんに背中を押され、泥を啜りながらも『人間』としてマイクの前に立つ今の私なら、彼の痛みが痛いほどよく分かる。
「ネズミさん、スパチャ、そして大切なお話をありがとうございます……」
私はボイスチェンジャーの奥にある、私自身の本物の体温を声に乗せるように、ゆっくりと語りかけた。
「毎日、本当にお疲れ様です。誰かのために、自分の時間を削って必死に戦っているネズミさんは、全然無力なんかじゃありません。すごく、すごく格好いいです」
キーボードの前に置いた自分の手が、微かに震えている。
「でも、お医者さんになる前に、まずはネズミさん自身の身体が一番大切です。レポートも、課題も、明日頑張ればいい。今夜はもうパソコンを閉じて、私の声を子守唄代わりに……どうか、ゆっくり、あったかくして眠ってくださいね」
「ネズミさん、本当にお疲れ様。おやすみ」
「らいばちゃんの声、本当に優しくて泣けるわ……」
画面の向こうで、ネズミのアカウントから「はい。ありがとうございます、おやすみなさい」と、どこかホッとしたような一言が残され、静かにログアウトしていった。
誰かの病んだ心を、私の声が、私の放った熱量が、確かに癒やした。
その確信は、倉井香織という一人の不器用な人間に、何にも代えがたい「生きる意味」を与えてくれるのだった。
その夜、私の心は心無しか救われた気がした。
そして、今日の経験を無駄にはせず、ファンとの交流を大切にすることを誓うのだった。