催眠でエッチなことはしない「よう実」   作:樹神法正

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もっとサクッと短く書こうと思ったのに長くなってしまった……。
サクサク進めたいはずなのに、細かくなっていくから話が進まねぇ……。

評価貰う側になって、高評価入るとどれだけ嬉しいのかわかったので、最近は合間合間に「今まで評価つけてなくて申し訳ねぇ!」と思いながら、お気に入り登録作品に評価付けに行ってます。




謎解きは授業のあとで

 例のストーカーの一件から、一夜が明けた。

 校舎の窓の外には、湿り気を帯びた七月の風がそよいでいる。太陽がコンクリートの建物をじりじりと灼く熱を、ほんの少しだけ和らげるような、生ぬるい風だ。やがて、午前中最後の授業の終わりを告げる昼休みのチャイムが校舎中に鳴り響いた。

 

 その音を合図に、張り詰めていた教室の空気が一気に弛緩する。生徒たちは各々、食堂へ向かったり、親しい友人とお弁当を食べようと賑やかに机をくっつけ合わせたりし始めた。

 だが、その喧騒から逃れるように、足早に教室を抜け出していく一人の少女の背中があった。

 

 佐倉愛里。

 二つ結びにした艶やかなピンクの髪が、彼女の小刻みな動きに合わせて背中で小さく揺れている。

 

 つい昨日までは、野暮ったい伊達眼鏡の奥に常に怯えの光を宿し、いつ自分を襲うかも分からないストーカーへの底知れない恐怖に苛まれていた少女だ。呼吸をするのさえ苦しいような、針のむしろの日常。だが、その目に見えない巨大な枷は、昨日、正路善人の手によって粉砕され、跡形もなく消え去っていた。

 彼女の足取りは、昨日までのそれとは劇的に違っていた。床をコンコンと叩くローファーの音には重圧から解放された独特の軽やかさが宿っている。

 

 佐倉が向かった先は、昼休みの喧騒が遠くで反響する、渡り廊下の奥まった陰だった。

 校舎と体育館を繋ぐその場所は、お昼休みの時間帯になると最も人の往来が途絶える、いわば校内のエアポケットのような空間だ。吹き抜ける風が、微かに紫陽花の瑞々しい香りを運んでくる。

 

 そこは、授業の短い休み時間の合間に、善人から佐倉の端末へと密かに送られてきたメッセージによって指定された場所であった。

 

(正路くん、すぐに来てくれるよね……)

 

 佐倉は薄暗い廊下の片隅で、自分の胸元をぎゅっと抱きしめるようにして佇んだ。

 その制服の生地を押し上げるような、高校生離れした抜群のプロポーションが、緊張のせいで小さく上下する。彼女の白く細い首元には夏の兆しを感じさせる微かな汗の粒が、まるで朝露のようにきらめいていた。

 

 一方、教室に残っていた善人は、少しの間クラスメイトたちの動向を見届けて時間を潰した後、教科書を机にしまうと、静かに席を立った。

 佐倉と同じタイミングで同じ方向へ向かうと、彼女が悪目立ちしてしまうかもしれないという配慮である。

 周囲の誰にも不審を抱かせない、水が流れるような自然な所作。彼は制服の襟を軽く整えながら、ゆっくりと佐倉のあとを追いかけ始めた。

 

 廊下の角を曲がり、人の気配が薄れていくのを感じながら、善人は歩みを進める。

 やがて、渡り廊下の薄暗がりに、まるで迷子の子猫のように佇んでいる佐倉の姿を捉えた。

 

「佐倉」

 

 指定場所でいつものように背を丸めて俯いている佐倉に、善人は風の音に紛れるような穏やかな声で呼びかける。

 びくり、と小さな肩が跳ね上がった。しかし、振り返った佐倉の瞳は、善人の姿を捉えた瞬間に熱を帯びた。

 

「あ……正、路くん……」

 

 佐倉の声が、風に溶けるように発せられる。

 

「昨日はよく眠れたかな。体調はどうかと思って」

 

 善人が一歩歩み寄ると、水に絵の具を溶かしたようにゆっくりと佐倉の頬に赤みが広がった。彼女は自身の指先をせわしなく動かしながら、俯きがちに、しかししっかりと善人の瞳を見つめ返した。

 

「は、はい……。あの、本当に……信じられないくらい、昨日は、ぐっすり眠れて……。朝、起きたとき、いつもあった胸の苦しいのが、すっかり消えていて……。全部、正路くんのおかげ、です……」

 

 花が綻ぶような笑みが佐倉に浮かんだ。ストーカーという底知れぬ恐怖から救い上げてくれた正路に対し、彼女が抱く感情は、すでにただの同級生に対するそれを超えている。彼女の声、瞳、それ以外からも。佐倉の全身から信頼の気配が漂っていた。

 

「それは良かった。佐倉の心が晴れたのならストーカーと対峙した甲斐もあった」

 

 善人は小さく微笑み、本題へと舵を切った。

 

「ところで、佐倉。少し尋ねたいことがあるんだけれどいいかな。今、学年全体のポイント支給をストップさせている、Cクラスの柴田と、Dクラスの生徒たちのトラブルについてなんだが……」

 

 その言葉が出た瞬間、佐倉の表情が僅かに硬直した。

 

「……あ、あの、事件の、こと……だよね」

 

「そうだ。放課後の特別棟三階付近で起きたとかいう。それについて佐倉が何か知っているんじゃないかと思って。ああ、もちろん無理強いするわけじゃない」

 

 善人の声はどこまでも優しく、木漏れ日のように佐倉に響いた。

 佐倉は小さく肩を揺らした。彼女は自分の指先をもぞもぞと弄りながら、躊躇うように視線を泳がせる。

 

「……う、うん。実は……その……」

 

 少しして、佐倉はごくりと喉を鳴らした。そして、渡り廊下を吹き抜ける風が彼女の長い髪を揺らし、眼鏡の奥の、強く決意を秘めた瞳を露わにする。

 

「私……見て、ました。あの日、特別棟の三階で、趣味のデジカメで……その、写真を撮ろうと思って……」

 

 彼女はポケットから小さなデジタルカメラを取り出した。金属のボディは彼女の手汗で微かに湿っている。

 

「Dクラスの生徒が……すごく、酷い言葉でCクラスの一之瀬さんたちのことを悪く言ってて……。柴田くんはすごく怒ってたけど、でも殴ったりしなかった。帰ろうとしたの。それをDクラスの生徒が通せんぼして……柴田くんがそれを押しのけて通ろうとしたら、大げさに後ろにひっくり返って……」

 

「なるほど。やはり、彼らがその場で怪我をしていた様子はなかった、と」

 

「はい。柴田くんが去ったあと、みんな普通に立ち上がって、笑いながらどこかへ行って……。私、怖くて、物陰に隠れてたから……。でもびっくりして、思わずシャッターを切ってたみたいで、写真が撮れていて……」

 

 佐倉は震える手で液晶画面を操作し、善人に差し出した。

 そこには、レンズ特有のパースペクティブの中に、柴田が小宮たちに取り囲まれている瞬間が静止画として刻まれていた。背景の窓から差し込む夕日の光が、彼らの影を長く床に引き延ばしている。

 

「私……この写真も出すし、学校にも、ちゃんと証言します。正路くんが、私を助けてくれたみたいに、私も……誰かのために、勇気を出さなきゃいけないって、思ったから……」

 

 彼女の言葉は、未熟な雛鳥が初めて羽ばたこうとするかのような、危うくも美しい輝きを放っていた。

 引っ込み思案な彼女が、自分以外の誰かのためにこれほどの勇気を奮おうとしている。

 善人はその勇敢な心に内心で惜しみない拍手を送りつつも、こう考えていた。

 

(――不十分だ。これだけではDクラスを完全に追い詰めることはできないかもしれない)

 

 善人は、カメラを佐倉に返し、静かに思考の海へと潜る。

 確かに原作における佐倉の立場とは異なる。原作では暴力事件の当事者であった須藤と同じDクラスの所属だったため、「同じクラスの仲間を庇うための身内の証言」として片付けられがちだった。今回は全く利害関係のないAクラスの佐倉が、Cクラス側の証人となる。彼女の証言の信ぴょう性は原作よりも高い。

 

 しかし、Dクラスの当事者の生徒だけならばまだしも、原作の審議会と同様ならばDクラス担任、坂上数馬もその場に控えている。

 気が弱く他人に流されやすそうな佐倉が、Cクラスの一之瀬や神崎に熱心に頼み込まれ、断り切れずに嘘の証言をしているのではないか、このような言い逃れをされる恐れがある。威圧的な空気の中でそう追及されれば、佐倉が一瞬でも押し黙ってしまう可能性もある。そうなればせっかくの証言も信ぴょう性を疑われかねない。

 

 写真という物証も、あくまで柴田がDクラスの生徒に取り囲まれていたという状況を写したものでしかない。それはDクラスの生徒が柴田に対して悪質な行為をしていた証拠にはなるが、「柴田がDクラスの生徒に暴行を加えていない」ことを証明するものではない。

 確かに佐倉の証言と写真は有力なものではあるが、Dクラスを完全に追い込むには言い逃れる余地の無い、より完璧な証拠が必要だった。

 

 しかし、勇気を出した佐倉にそれを伝えるのは酷だろうと考えた善人は、佐倉に優しく声をかける。

 

「ありがとう、佐倉。その勇気、本当に誇りに思う」

 

 善人は、彼女の華奢な頭を優しく撫でた。その手のひらから伝わる温もりに、佐倉は、まるで極上の絹に包まれたかのように、陶酔した吐息を漏らす。

 佐倉が目撃者だとDクラスに知られると、何かをされる可能性も否定できない。目撃者がいることはは

 

「このカメラは念のため預かっておいてもいいかな? それと審議会まで佐倉が目撃者であることは、誰にも言わずに胸にしまっておいてほしい。佐倉の身の安全のためにも」

 

 佐倉が目撃者だとDクラスに知られると、何かをされる可能性も否定できない。Cクラスの一之瀬達以外には伏せておくべきだろう、善人はそう考えた。

 

「うん……! 正路くんの言う通りに、するね……」

 

 彼女は善人を信頼し切った様子で微笑みを浮かべた。

 

 

 

******

 

 

 

 佐倉と別れて渡り廊下の薄暗がりを後にした善人は教室へと戻った。自席に深く腰を下ろすと同時に、制服のポケットから端末を取り出す。その滑らかな画面に指先を滑らせ、Cクラスのリーダーである一之瀬帆波へのメッセージを極めて手際よく打ち込んでいった。

 

『Aクラス内で、あの日、特別棟の三階にいた目撃者を見つけた。そちらのクラスの柴田くんの無実を証明する上で、有力な証言を得られそうだ』

 

 送信ボタンをタップした直後、画面の光が消える間もなく、手の中の端末がヴーヴーと振動した。送信から返信まで一分も満たない。画面にポップアップした一之瀬からの返信は、彼女の弾んだ吐息や、救われたという歓喜の表情が、文字の羅列から今にも溢れ出しそうなほどの熱量を帯びていた。

 

『本当!? 正路くん、本当にありがとう……! 柴田くんもクラスのみんなも、ずっと不安で押しつぶされそうだったから本当に救われたよ……っ! あの、その目撃者の人って、一体誰なの……? 私、今すぐその人にお礼を言いたくて……!』

 

 青白い液晶の光を見つめながら、善人は唇の端を僅かに緩めた。なんともまあ、どこまでも真っ直ぐで純真な少女だ。彼女のその善性は、この高度育成高等学校においては美徳であると同時に致命的な弱点にもなり得る。

 善人は内心で一之瀬を褒めながら、具体的な指示を付け加えたメッセージを送った。

 

『一之瀬さん、まずは落ち着いてくれ。現段階で目撃者の氏名を明かすことはできない。Dクラスの背後にいる龍園という男は、目的のためなら手段を選ばないと聞く。証拠を揉み消すために、目撃者に対して直接的、あるいは間接的な脅迫を仕掛けてくる可能性もあり得る。君たちのクラス内でも目撃者が見つかったという事実は、副リーダー格である神崎くん以外には完全に伏せておいてほしい。審議会よりも前の適切なタイミングでこちらから引き合わせるので、それまで待ってくれないだろうか』

 

 しばしの沈黙。画面の向こうで、一之瀬がハッと我に返り、自身の軽率さを恥じ入っている様子がありありと想像できた。

 数分後、微かなバイブ音と共に、小さく縮こまるような返信が届く。

 

『……そうだよね。ごめんなさい、私、嬉しくてつい周りが見えなくなっちゃって……。目撃者の人の安全が一番大事だもんね。分かったよ、正路くん。君を信じて、神崎くん以外には誰にも言わずに待つね』

 

 これで佐倉愛里という証人を隠匿することができた。彼は間髪入れずに、もう一つの、そして最大の本題をメッセージで投げかけた。

 

『今回の事件について、Dクラス側が現在、学校に対してどのような主張を展開しているのか、その詳細をすべて共有してほしい。特に、彼らがこちらを追い詰めるために提示した具体的な物証があるのかどうかを』

 

 一之瀬からの返信は、今度は少し時間を要した。彼女がクラスの情報を整理し、集約しているのだろう。

 十分ほどして送られてきたのは詳細がまとめられたデータファイルだった。善人はそれを手際よく展開し、両クラスの主張が事細かに記されたテキストをスクロールしていく。

 

 その内容を簡潔にまとめると以下のようになる。

 

Cクラス(一之瀬クラス)の主張:柴田は呼び出された先で一方的に侮辱された。暴行はしておらず、相手に取り囲まれたので、それを軽く押しのけて通り抜けようとしただけ。

Dクラス(龍園クラス)の主張:以前からのCクラスとの揉め事を解決しようと柴田を呼び出したところ、難癖をつけられ、特別棟の廊下で一方的に激しく突き飛ばされて負傷した。

 

 一見すれば、肩がぶつかって骨が折れただのなんだのと因縁をつける、よくある不良たちの言いがかりに過ぎない。しかし、スクロールを続けていた善人の指が、ある一項目でピタリと止まった。

 

――事件の当事者であるDクラス生徒(小宮叶吾、近藤玲音、石崎大地)の三名は病院にて受診。医師による診断書が発行され、すでに学校側へと提出されている。

 

「やはり、診断書は提出済みか……」

 

 窓から差し込む午後の光を浴びながら、善人は小さく呟いた。

 龍園翔という男は、手駒を痛めつける狂気を持ちながらも、学校のシステムや抜け穴を利用する計算高さを併せ持つ。実際に医師が怪我を診察し診断書を出しているという外形的な事実が存在する以上、どれだけ柴田が無実を訴えようとも、客観的な天秤はDクラス側に傾いてしまう。

 

 だが、完璧に見える龍園の策にも何か欠陥があるはずだと、善人は考えていた。

 

「そうなると、現物を確認する必要があるな」

 

 善人は端末をポケットに滑り込ませ、椅子の背もたれに身を預けた。

 放課後、生徒たちが部活動やケヤキモールへと散っていく時間帯。その時間に、今回の審議会を担当する生徒会へと行動を起こすことを、善人は静かに決意した。

 

 

 

******

 

 

 

 放課後。西日が赤く染め上げる校舎の最上階。重厚な扉の前に、善人は立っていた。

 

「生徒会室」と書かれたプレートは、夕日を浴びて、くすんだ輝きを放っている。

 

 トントン、と規則正しくドアをノックする。

 

「入れ」

 

 中から響いたのは、感情を排した低く威厳のある声声。この学校の生徒会長、堀北学の声だ。

 

 失礼します、と呟きながら善人が室内へ足を踏み入れると、そこには独特の緊張感が張り詰めていた。

 

 部屋の奥、デスクの後ろには、端正な顔立ちに厳格なオーラをまとった堀北学が座っている。メタルフレームの眼鏡の奥にある瞳は、夜の湖のように深く、冷徹だ。

 その隣には、副会長の南雲雅が制服を少し崩して気だるげな姿勢で、面白そうに善人を見つめている。

 そして、書類を整理していた書記の橘茜が、きっちりとお団子に結い上げた髪を揺らし、その、小柄な体躯から警戒に満ちた鋭い視線を善人に向けた。

 

 室内にはクーラーの冷気が心地よく行き届き、微かにインクと紙の匂いが漂っていた。

 

「一年Aクラスの正路善人か。あの日以来だな……生徒会室に何の用だ」

 

 学が、鷹のような瞳で善人を射抜く。

 

「生徒会長。本日お伺いしたのは、現在、一年生の間で起きているCクラスとDクラスの暴力事件についてです。学校側に提出されたDクラスの生徒三名の診断書。そのコピーをいただきたいと思いまして」

 

 善人が発したその言葉は、生徒会室の静寂をガラスを割ったように木っ端微塵に砕いた。

 

「なっ……!?」

 

 真っ先に反応したのは、書記の橘だった。彼女は手に持っていた資料を机に叩きつけるようにして一歩前に進み出る。

 

「何を馬鹿なことを言ってるんですか!? 診断書は機密書類で、個人のプライバシーにも関わる重要なものです! 部外者の一年生にそんなものを見せられるわけがありません!」

 

 橘の、ヒステリックに近い拒絶の声。しかしそれは、生徒会としてルールを重んじるがゆえの至極真っ当な拒絶だった

 しかし、善人はそれをただのそよ風のように受け流し、一歩も退かない。

 

「まあまあ、橘先輩。そう硬いことを言わなくてもいいじゃないですか」

 

 椅子にもたれていた身体を起こし、面白そうに目を細めたのは南雲雅だった。彼は自身の金髪を指先で弄びながら、善人を擁護する。

 

「一年Aクラスの正路、こいつは面白い男ですよ。入学早々、クラスを掌握してAクラスに引き上げた。そんな男が、わざわざここに足を運んで、規則を破ってまでその書類を見たがっている……。堀北先輩、見せてあげたらどうですか? こいつがこの泥仕合をどうひっくり返すのか、俺も少し興味がありますし」

 

 南雲の言葉にあったのは、後輩への一欠片の純粋な善意と、前回の邂逅で興味を抱いた正路善人がどのような動きを見せるのかという好奇心だった。

 

 学は、南雲の言葉を無視し、ただじっと善人の目を凝視していた。

 その冷徹な視線と静寂が、部屋の温度をさらに数度下げたかのように錯覚させる。

 

「……正路。お前はその診断書に、事態を解決するための何かが眠っていると確信しているのだな?」

 

「確信というほどではないですが十中八九は。無かったら無かったでその時はその時です。この学校はポイントで何でも買えるんでしょう? ポイントはお支払いしますよ」

 

 善人の微塵の揺らぎもないその佇まい。

 学は眼鏡の奥の瞳を僅かに細めた。そしてふっと小さく息を吐き出した。それは彼の厳格な仮面が僅かに破れた瞬間でもあった。

 

「いいだろう、15万ポイントだ。橘、診断書を持ってきてくれ」

 

「えっ!? で、ですが会長……!」

 

「構わん。ただし、正路。条件がある。その書類の持ち出し、および複製は一切認めない。今、この場で閲覧することのみ許可する」

 

「感謝します、堀北生徒会長」

 

 善人は学へ感謝を述べつつ、15万ポイントを交換していた連絡先へ送付する。以前もらった100万ポイントのうち15万ポイントが元の持ち主の元へ戻っただけである。必要経費である以上、微塵も惜しくなどない。

 橘は不満そうに頬を膨らませながらも、生徒会長である学の指示に従い、棚から一冊のファイルを取り出して、善人の前のテーブルへと滑らせた。

 

「……どうぞ」

 

「ありがとうございます。橘先輩」

 

 善人は一礼し、机の上のファイルを開いた。ファイルの中に収められた三通の診断書。それぞれ小宮叶吾、近藤玲音、石崎大地。

 善人はその紙面に記されたインクの文字を、一文字ずつ脳に刻み込むように読み進めていった。

 

 傷病名は各人、背部打撲傷や右肩関節部打撲傷のどちらかと同部の擦過傷など。Dクラスの主張するように、柴田に強く突き飛ばされたのだとすれば、その際に負傷することは十分あり得る。三人とも加療期間は二週間から三週間。受診日時は、事件があった日の翌日の放課後。

 ここまでの情報を善人は頭の中でまとめる。

 

(……背中や肩は服に隠れて見えない場所だが診断書がある以上、怪我は本物で間違いない。そして全治二週間から三週間の怪我を負わされたとしてDクラスは、Cクラスの柴田への処分と謝罪を要求している。……事件当日に受診しなかったのは「既に病院の通常外来が閉まっていたから」あるいは「その時は大した怪我ではないと思っていたが徐々に痛みが増してきた」といった理由なら然程おかしくはない)

 

 さらに善人は診断書に目を通していく。

 所見によれば、背部全体や右肩周辺の発赤、腫脹、擦過傷、同部への圧痛など。傷病名に記載されていた通りの部位に症状がみられるようだ。また患者の申し立てによれば前日の夕刻に強く突き飛ばされ床や壁に激突して受傷したとのこと、と記載されている。そして最後には診察した医師の署名がある。

 

 それら視覚から取り入れた情報を、善人は一つ一つ脳内で整理していく。

 

(……背部や右肩への発赤、腫脹、擦過傷。……Dクラスの三人は学校側への説明と同じく、柴田に強く突き飛ばされて壁や床に激突して怪我を負ったと病院でも説明している。……三人を診察した医師はそれぞれ別か……今のところ縁は無いがこの学校の敷地内の病院の規模はそれなりに大きいらしい)

 

 善人は何度も三通の診断書を隅から隅まで読み込む。そこに並んでいるのは一般的な打撲の所見や「前日の放課後にやられた」という患者たちの主訴ばかりだ。Dクラスの企みを破綻させるための決定的な綻びが見えてこない。

 

 焦燥に似た熱が善人の胸の奥で燻り始める。室内に流れるエアコンの冷風によって涼しいはずなのに、額からは一筋の汗が流れた。

 診断書を持つ手の指先には力が入り、白い紙の端に指の圧力で小さな皺ができる。善人の真剣な様子を生徒会の面々は注視している。

 

 このまま何も見つからなければ諦めて切り上げようか、とも考えて、診断書から指を離した。紙の隅にヨレを作り、指先が白くなるほど込められていた力が緩む。圧力でせき止められていた血液が一気に指先へと流れ込み、普段よりも赤くなっていた。

 

「……ふぅ」

 

 善人は深く息を吐き出し、紙面に合わさっていた焦点は外れ、その視線は自身の手元に落とされる。

 

「ん?」

 

 次の瞬間、弾かれたようにもう一度、診断書の紙面を読み込み始める善人。彼の脳内で全てのパズルのピースが組み合わさり、カチリとハマった。そして必要な項目を何度も何度も繰り返し確認し、Dクラスの思い描くストーリーを崩しうる確信を持った。

 

(――見つけたぞ。言い逃れできない、決定的な証拠ってヤツを)

 

 紙の上に刻まれたその言葉。

 それは龍園翔という男が、怪我の事実を急造したことによって生じた致命的なミスだった。

 

 

 

******

 

 

 

 善人は冷静な面持ちを維持したまま、手際よく診断書を元通りにファイルへと戻した。紙の擦れる乾いた音が、静まり返った生徒会室に小さく響く。彼はそれを、未だ怪訝そうな視線を向けてくる橘へと両手で静かに返却した。

 

「ありがとうございました。とても有意義な内容でした」

 

 善人の言葉に、室内の空気が僅かに動く。

 その様子を自身の席から眺めていた南雲が、楽しげに身を乗り出して尋ねてきた。

 

「どうだ、正路。何か見つかったか?」

 

 南雲の細められた瞳には、明確な期待の色が混じっている。善人はその視線を受け流すように、薄い笑みを唇の端に浮かべた。

 

「ええ、まあ、大変興味深いものが」

 

 含みを持たせたその答えに、南雲は「ほう」と声を漏らし、さらに面白そうな顔をした。この一年生が、学校側に提出された正式な書類から何を入手したのか、その好奇心を大いに刺激されたのだろう。

 

「これを見ただけで一体何がわかるっていうんですか……」

 

 一方で、書記の橘は回収したファイルを元の棚の定位置へと戻しながら、面白くなさそうに、そして隠しきれない不満を込めて低く呟いた。ただの一年生が、生徒会に保管された機密書類である医師の診断書を眺めたところで、何が覆るというのか。彼女のその反応は、規律を重んじる人間として至極当然のものであった。

 

「先輩方、お時間を取らせてしまって申し訳ありません。これで失礼します」

 

これ以上この場に留まる必要性を感じていない善人は、流れるような動作で完璧な一礼をして見せ、生徒会室の重厚な扉へと手をかけ、静かに開け放った。

 

「お前がどのようにこの事態を解決するのか、楽しみにしているぞ」

 

 去り際、背後から投げかけられたのは、生徒会長・堀北学の、低く威厳に満ちた声だった。その声に見送られ、善人は一歩、生徒会室の外へと足を踏み出した。

 

 扉が閉まり、静寂が戻る。

 廊下に出た瞬間、西側の大きな窓から差し込んできた夕暮れ時の強烈な光が、善人の視界を鋭く刺した。彼は思わず、その圧倒的な光量に眩しそうに目を細めた。その夕日が発する赤は、まるで嘘のような色だった。

 

「――真っ赤だな」

 

 善人はその沈みゆく太陽の光を全身に浴びながら、誰に聞かせるでもなく独りで笑った。

 彼は歩きながらポケットから端末を取り出し、液晶画面をタップしてメッセージを送信した。相手はこちらからの連絡を今か今かと待ち詫びているであろう、一之瀬帆波だ。明日の放課後、彼女たちと直接会うための約束を、手際よく取り付ける。

 

 学校側が両クラスを招集して事実を審理する審議会の日は、すでに数日後にまで迫っていた。

 だが、善人の脳内ではDクラスを論破するための算段が完全に立っていた。

 

 あとは、準備を整え、その舞台の幕が上がるのを待つだけだ。

 善人は確信に満ちた揺るぎない足取りで、鮮やかすぎるほどに赤く染まった静かな廊下を、ただ一人悠然と歩み去っていった。

 




高育内って病院どうなってるんだろ……?って考えてました。
敷地内から出られない関係で、外部で受診できないから一通りの科が揃ってないと困るよな……。
緊急時の手術とかできないと困るよな……?それとも救急車で外部の提携医療機関に急いで搬送するのか??
先天性の心疾患持ってる坂柳も問題なく生活できてるわけだし……。専門的な設備とある程度以上の規模があるんじゃないか??
みたいなことを。
ということで今作では高育の敷地内に最低でも中規模程度の総合病院(かそれに準ずる医療機関)があると想定してます。
アホなことにいっぱいお金かけてるんだし、病院くらい用意できるでしょ!!の精神。




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