黒原イトの青春 作:ナポリタン
というわけで、今日も一人の少女が救われたのでした
声のようなものが聞こえた気がした。
後から考えれば、たぶん勘だったのだと思う。風の音かな、なんて思えてしまうほどの些細な違和感だったけれど、なんとなく気になって、朝の通学路を少し外れた。
ゲヘナ西側、境界付近のアーケードは、昼間でも薄暗く、風紀委員会の巡回も少し薄くなる。人が寄り付かない場所というのは、まともでない生徒にとって都合がいい。
「おらぁ、金出せやぁ」
「おらぁ」
「出せやぁ」
いた。ドンピシャだ。女の子が一人、不良三人に囲まれている。前に出ている一人がリーダー格らしく、左右の二人はその威勢に合わせて声を張っているだけだ。絡まれている子は、鞄を胸に抱えて、今にも泣きそうな顔をしている。
やめろよ、その子が困ってるだろ、と心の中では雄弁だった。だが悲しきかな、私の実力はそれに追いつかない。
ここで私が颯爽と飛び出したところで、増えるのは助ける人間ではなく、すくみ上がる人間が一人だ。向こうは三人。こっちは一人。しかも、私は戦闘が得意ではない。どちらかと言えば、戦闘という言葉に全身が拒絶反応を起こす側である。
だが、私には切り札がある。スーパーウルトラプリティーで最強の幼馴染がいるのだ。
私は物陰に隠れ、震える指でモモトークを開いた。通話ボタンを押す。数回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が返ってきた。
『イト? どうしたの』
「ヒナちゃん。そう、いつもの。境界付近のアーケードで女の子が不良三人に。うん。今すぐ。できれば早めで。うん、私は見つからないようにしてる。大丈夫、大丈夫だから」
『動かないで。すぐ行く』
通話が切れた。私は胸を押さえて、少しだけ息を吐いた。こういう時のヒナちゃんは早い。とても早い。私が三回まばたきする間に来る、とまでは言わないけど、気持ちとしてはそのくらい早い。
「おい、聞いてんのかよ」
「金ないなら、なんか置いてけや」
「置いてけや」
チンピラたちはまだ女の子を囲んでいる。語彙がしょぼい。私は物陰からそっと様子を窺った。その瞬間、アーケードの空気が変わった。
「何してるの」
静かな声だった。しかし、その声には場を支配するだけの何かがあり、落ちた瞬間に三人の肩がびくりと跳ねた。
空崎ヒナ。私の幼馴染で、私の知る限り一番強くて、一番頼りになる女の子。彼女はいつものように、少し眠たげで、少し面倒そうな顔をしていた。けれど、手にした銃口はまっすぐ三人に向けられている。
「あ? なんだてめ――」
言い終わる前に、一人目が沈んだ。何が起きたのかは、私にはよく見えなかった。ヒナちゃんが一歩踏み込んだ。銃床が腹に入った。膝が崩れた。そこまでは分かった。次の瞬間には二人目の足が払われ、三人目の顎に軽い一撃が入っていた。
少なくともヒナちゃんにとっては軽い一撃で、三人はきれいに床へ転がった。
「……まだ意識はあるでしょう。これに懲りたら二度としないで」
ヒナちゃんはそれだけ言った。不良たちは返事もできず、呻き声を上げている。絡まれていた女の子は、ぽかんとヒナちゃんを見上げていた。
「あ、あの……ありがとうございました」
「ううん。怪我はない?」
「は、はい」
女の子は何度も頭を下げてから、小走りでアーケードを抜けていった。その背中を見送ってから、物陰から出てきた私は両手を腰に当てた。
「いやあ、今日も見事な人助けでしたなあ、ヒナちゃん」
「……いつも言ってるけど、危ないことはしないで」
ヒナちゃんはそう言って、私の額を指で軽く弾いた。
「大丈夫だよ。私はちゃんとヒナちゃんを呼んだし」
「だからって、境界付近には近づかないで」
「むむ」
小言だ。しかし、今日の私は人助けをした側である。正確には人助けをした人を呼んだ側である。なので、少しくらい胸を張っても許されるはずだった。
その夜。寮に戻った私は、同室のカヨコちゃんにその武勇伝を語っていた。
「というわけで、今日も一人の女の子が救われたのでした」
「ヒナが助けたんでしょ」
「私がヒナちゃんを呼ばなかったら助かってないので、縁の下の~ってやつだよ」
「はいはい」
カヨコちゃんはベッドに腰かけ、読みかけの本から視線を上げずに返事をした。こういう時のカヨコちゃんは、たいてい話を聞いている。聞いているけれど、聞いている顔をしない。
「人助けはいいことだけど」
ページをめくる音がした。
「危ないのはやめてよね。境界のあたりは、いつ生徒会の連中が現れてもおかしくないんだから」
「うん。ヒナちゃんにも言われた」
「なら聞きなよ」
「聞いてる聞いてる」
「聞いてる人の返事じゃない」
カヨコちゃんはそこで本を閉じた。その目が、少しだけ鋭くなる。
「イト。超人絡みだったら、ヒナでも危ないよ」
「……そんなに?」
私は思わず聞き返した。超人。その言葉自体は知っている。ゲヘナにいれば嫌でも耳に入る。雷帝、五摂ロカ。生徒会。鉄血事件。東西分断。風紀委員会と生徒会の膠着。そういう大きな言葉の周りには、必ず超人という単語があった。けれど、それはどこか遠い話だった。教科書の中の戦争みたいなものだ。たしかに存在した。たしかに今も影響がある。けれど、朝にパンを食べて、授業を受けて、ヒナちゃんに小言を言われて、カヨコちゃんと寮で話す私の日常とは、少しだけ距離がある。
「やばいの」
カヨコちゃんは短く答えた。
「普通の戦い方が通じない。撃てば血が出る。なのに死なないことがある。逆に、死ぬ時は本当に死ぬ」
「……よく分かんない」
「まぁ、私も人伝に聞いただけなんだけど」
それきり、カヨコちゃんはまた本を開いた。窓の外では、ゲヘナの夜がいつも通りに騒がしかった。どこかで小さな爆発音がして、遠くで誰かが笑っている。いつものことだ。いつもの夜だ。超人がどれだけ危ない存在なのか。私はまだ、実感を持てなかった。
次の日の夜。学校からの帰り道、私はヒナちゃんと並んで寮へ向かっていた。空はもう暗く、街灯がまばらに路地を照らしている。境界に近い道は避けていた。昨日のこともあって、ヒナちゃんが少し遠回りの道を選んだのだ。
「短縮課程にしても、詰め込みすぎじゃない? 私、頭パンクしそうだよ」
「……また、勉強会でもしようかしら」
「いいねぇ」
今日の授業について振り返りながら私たちは歩く。……この道、こんなに人通り少なかったっけ?
その時だった。道の先に、人影が三つ立っていた。昨日の三人だ。私は一瞬、眉をひそめた。昨日ヒナちゃんにあれだけ叩きのめされたのに、もう復讐に来たのだろうか。元気がいい。いや、元気がよすぎる。少しは学習してほしい。けれど、すぐに違和感に気づいた。真ん中に立つリーダーの子の様子がおかしい。
ぶつぶつと、何かを呟いている。肩が揺れて、首が不自然な角度で傾き、口元が笑っている。目は虚ろで、何も映していないようだ。
「アンプル……?」
アンプル。注射器が三本、リーダーの手に握られている。一本は空。何の薬物だ。
「マナカさん……?」
右隣の子が不安そうに名前を呼ぶ。
「もうやめましょうよ。ね?」
左隣の子も小さく続けた。マナカと呼ばれた子は返事をしなかった。次の瞬間、マナカの体が跳ねた。速い。ヒナちゃんが私を後ろへ押し、前に出る。マナカの突進に合わせて、ヒナちゃんの拳が入った。いつもなら、それで終わりだった。けれど、何かがおかしい。殴られた腹が、ぐにゃりと歪んだ。肉が沈み、骨があるはずの場所が不気味に曲がり、衝撃を逃がすように全身がしなった。
「……っ」
ヒナちゃんの表情が変わった。吹き飛んだマナカに対し、彼女は牽制に弾丸を放つ。乾いた銃声。弾丸はマナカの肩をかすめた。血が出た。赤いものが、街灯の下で飛び散る。その場にいた全員の息が止まる。それは、キヴォトスではあまりにも異常な光景だった。撃たれて痛がることはある。倒れることもある。けれど、あんな風に血が出ることはない。少なくとも、私たちが知っている戦闘では。マナカは肩から血を流している。なのに、笑ってる。
「ヒ、ヒヒ……」
傷を気にしていない。痛みがないわけではないのだろう。けれど、痛みという情報が、彼女の中で意味を持っていないように見えた。
「イト、下がって」
硬い声と共に、ヒナちゃんは銃を構える。私は頷いた。けれど、足がうまく動かない。マナカが再び突っ込んでくる。少しの逡巡ののち、ヒナちゃんは銃を下げた。撃てば血が出る。撃ち方を間違えれば、本当に殺してしまうかもしれない。躊躇が、その選択を彼女に迫る。
ヒナちゃんは打撃で対応した。拳。膝。肘。足払い。いつもなら一撃で相手の体勢を崩す動きが、マナカには通らない。軟体のように曲がる体が、衝撃を逃がし、関節技も体捌きも意味を薄くしていく。
訓練で習う対人の格闘術は、人間の骨格と筋肉を前提にしている。マナカは。超人は。その前提から外れていた。ヒナちゃんの顎に、マナカの腕が入った。鈍い音。ヒナちゃんの体が揺れる。
「ヒナちゃん!」
叫んだ。でも、そこから先が動けない。マナカは笑いながら、ヒナちゃんに襲いかかった。腕が伸びる。体が捻れる。ありえない角度から蹴りが飛ぶ。ヒナちゃんは防御する。避ける。反撃する。けれど、一度崩された流れを取り戻せない。
いつも無類の強さを見せるヒナちゃんが。私の知っている最強の幼馴染が。一方的に、嬲られていた。助けたい。助けなきゃ。なのに、体が動かない。喉が詰まる。指先が冷える。膝が笑う。心臓だけがうるさくて、耳の奥で血の音が鳴っている。
取り巻きの二人も、呆然としていた。彼女たちも状況を理解していないのだと思う。自分たちの敬愛するリーダーが、アンプルを打った後に、まるで別人のようになってしまったことを。傷を気にしないことを。目の前の相手を本当に壊そうとしていることを。
「マナカさん、やめて!」
一人が叫んだ。
「それ以上やったら、ほんとに死んじゃう!」
もう一人も駆け出す。
「医者! 医者に診てもらいましょう! なんか変ですよ!」
二人がマナカに飛びついた。その一瞬、マナカの動きが止まった。私はようやく動けた。倒れかけたヒナちゃんの腕を肩に回し、引きずるようにして物陰へ飛び込む。ヒナちゃんは意識が朦朧としていた。額から汗が流れ、呼吸が荒い。
「ごめん、ごめんヒナちゃん。ヒナちゃん、聞こえる?」
「……イト……逃げて……」
「逃げるよ。一緒に逃げる」
私は震える声で答えた。その時、背後から何かを締め上げるような音が聞こえた。振り返ってはいけない。
第六感が警鐘を鳴らす。
でも、振り返ってしまった。マナカの体が、ミギとヒダリに巻きついていた。腕なのか、胴なのか、もうよく分からない。ぐにゃぐにゃと伸びた体が、二人を締め上げている。
「ミギ、ヒダリ……使おうよ……」
マナカは笑っていた。
「これ……一緒に使おう……世界征服しようよ……」
「や、め……」
「マナカさん、くるし……」
二人は抵抗していた。けれど、マナカは聞いていなかった。締める力が強くなる。骨が軋むような音がした。私は口を押さえた。見ちゃいけないのに、目を離せない。やがて、二人の手足から力が抜けた。
ヘイローが砕けた。
マナカはまだ笑っている。彼女は、自分が何をしたのか分かっていないようだった。頭の中が白くなる。ヘイローが砕けた。人が死んだのだと、目の前の光景が遅れて意味を持った。さっきまで必死にマナカを止めようとしていた二人が、今はもう動かない。ショックは大きかった。
それ以上に、体が命の危険を感じていた。ヒナちゃんを背負ったまま、マナカから逃げられるとは思えない。助けを呼ぼう。そう思って、スマホを取り出した。圏外だ。
「なんで……!」
特別、電波が悪い場所ではないはずだ。指先が震える。マナカの声が近づいてくる。
「どこぉ……? どこ行ったのぉ……?」
ヒナちゃんの体が重い。いや、違う。ヒナちゃんが重いんじゃない。私の足が動かないのだ。怖くて、情けなくて、どうしようもなくて。
その時、足元に何かが転がってきた。小さなアンプルだった。マナカが持っていたものだろう。割れていない。中には、どす黒く光る液体が入っている。
私はそれを見た。見てしまった。これしかない。そう思った。正しい判断だったのかは分からない。考える時間もなかった。そもそも、考えたところで私に選べるものなんてなかった。
ヒナちゃんを置いて逃げることはできない。ヒナちゃんを背負って逃げ切ることもできない。助けは呼べない。
私は弱い。
弱いままだと、ヒナちゃんが死ぬ。
それだけは、嫌だった。
もし、これが私の考えているものなら。
私は。
昔、ヒナちゃんの翼に憧れたことがある。
大きくて、黒くて、静かで、空を覆うような翼。あの翼で飛べたら、どんな景色が見えるのだろうと思った。
もし私が翼を持つなら。ハゲタカがいい。
世界一高く飛ぶ鳥だから。
誰よりも高く、遠く、空の上から全部を見渡せる鳥だから。
私はアンプルを自分の体に突き立てた。液体が入ってくる。熱い。血管の中を、火が走ったかのようだ。痛い。熱い。苦しい。骨が軋む。背中が裂ける。喉の奥から知らない声が出そうになる。私の中で、何かが形を持った。羽。嘴。空。高く。もっと高く。マナカがこちらを向いた。
「……あ?」
彼女は何かを感じ取ったらしい。首を傾げ、私たちが隠れている方へ歩いてくる。その前に、私は地面を蹴った。いや、蹴ったつもりだった。実際には、飛び出していた。
視界が一気に上へ流れる。路地が小さくなる。街灯が足元へ落ちる。夜風が顔を叩く。背中の何かが大きく広がり、月が近づく。怖い。でも、止まれない。
マナカが上を見た。月だ。その中心に、小さな黒点がある。黒点は、どんどん大きくなる。
私は落ちていた。月を背にして、真っ逆さまに。
マナカが目を細める。まぶしそうに、空を睨む。次の瞬間、私の足がマナカに突き刺さった。音が消えたように感じた。マナカの体が地面へめり込む。石畳が砕け、粉塵が跳ね上がる。
私の脚も、たぶん無事ではなかった。痛みが遅れてやってくる。けれど、その痛みすら、どこか遠い。砂埃が晴れていく。
私はゆっくりと、自分の手を見た。人の指ではなかった。爪は硬く、曲がり、掌の形も少し違う。口元に触れると、そこには人間の唇ではなく、硬い嘴の感触があった。背中が重い。翼がある。
「……イト?」
かすれた声がした。ヒナちゃんだった。私は返事をしようとした。大丈夫だよ、と言おうとした。けれど、喉から出たのは、人の声ではなかった。夜の底で、黒い羽根が一枚、静かに落ちた。
黒原イト(くろはらいと)
ゲヘナ学園高等部1年生、風紀委員会情報部所属。空崎ヒナとは幼馴染。