黒原イトの青春   作:ナポリタン

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ハゲタカが、そのままペロリと平らげてしまいました。

 

 オアシス、とホシノちゃんは言った。けれど、そこは私が想像していたような、青い水と緑の葉が広がる場所ではなかった。

 

 砂に半分埋もれた古い給水施設の跡で、低い壁はところどころ崩れ、屋根は骨組みだけになり、錆びた配管が砂の上にむき出しになっている。その奥に、小さな水場が残っていた。それでも、水がある。

 

 煙の中で喉を焼かれ、砂を吸い、地響きに追い立てられてきた私たちには、それだけで十分だった。

 

 ホシノちゃんは到着してすぐ、息を整えるより先に通信機を取り出した。アコちゃんも端末を開き、煙の外へ出たことでわずかに回復した通信をつかもうとしている。

 

 電波は途切れ途切れで、声も砂嵐の中に混ざるみたいに乱れていたけれど、完全に死んでいるわけではなかった。

 

「ユメ先輩、聞こえますか。こちらホシノです」

 

 返事はすぐには来なかった。ホシノちゃんの指が通信機を握る力を強める。

 

 私は何か言おうとして、やめた。たぶん、今のホシノちゃんに「大丈夫」とか「きっと繋がる」とか言っても、何の役にも立たない。数秒後、ざらついた音の向こうから声がした。

 

『ホシノちゃん? ホシノちゃん、無事?』

 

 ユメさんの声だった。ホシノちゃんの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。

 

「生きています。全員、ひとまず退避しました。ただ、状況はかなり悪いです」

『怪我は? そっちは今どこ?』

「古い給水施設です。第三区画の水路跡の近く。……ユメ先輩、来ないでください。絶対に」

 

 その言い方は、お願いというより命令に近かった。けれど、通信の向こうのユメさんは、少しだけ黙った後で、困ったように笑った。

 

『もう向かってるよ』

「は?」

 

 ホシノちゃんの声が一段低くなる。

 

『通信が切れたから心配で。救護用品と水、それから予備の通信機を持ってきたから。近くまでは車両で行けるから』

「来ないでって言いましたよね」

『言われる前に出ちゃったから、今のは無効かな』

「無効じゃないです」

 

 ホシノちゃんは怒っている。怒っているけれど、その声は少し震えていた。安心と怒りが混ざると、人の声はこうなるのかもしれない。

 

 イツキ先輩は通信を横で聞いていたが、止めることはしなかった。ただ、周囲を見回してから短く言う。

 

「合流地点をずらす。煙の濃い方向には近づけさせない。ホシノ君、誘導できるね」

「……できます」

「なら、それでいい。来てしまうなら、こちらの安全圏に引き込むしかない」

 

 ホシノちゃんは何か言いたげに唇を結んだが、すぐに通信へ戻った。

 

「ユメ先輩、今から言う方向に進んでください。絶対に煙の方へ近づかないでください。見えたものがあっても、絶対に追わないでください」

『うん。分かった』

「本当に分かってますか」

『分かってるよ。ホシノちゃんがそういう声を出す時は、本当に危ない時だから』

 

 それを聞いて、ホシノちゃんは一瞬だけ黙った。そして、小さく息を吐く。

 

「……なら、急いでください」

 

 通信が切れる。オアシスに、しばらく沈黙が落ちた。遠くでは、地響きが続いている。

煙の奥で、トモリとあの巨大な影がまだ戦っているのだろう。時々、砂漠の向こうが鈍く光り、遅れて腹の底に響くような振動が来る。

 

 夜が落ちていた。煙のせいで空は濁り、星はほとんど見えない。けれど、昼の砂漠より少しだけ冷えた空気が肌に触れて、ようやく自分たちが生きて逃げてきたのだと実感できた。

 

 

 

 

 

 

 ユメさんが合流したのは、それから少し後だった。

 

 砂に汚れた車両から降りてきたユメさんは、私たちの姿を見るなり表情を変えた。怪我の程度を見たのだと思う。

 

 アコちゃんは咳が残っているし、ハスミさんは冷静な顔をしているけれど呼吸が浅い。ナナナさんは軽口を叩く余裕があるように見せているが、肩口の制服は裂け、腕には煙の熱で焼けた跡があった。ツルギさんは壁にもたれて座っていて、目は開いているのに、ほとんど動かない。

 

 ヒナちゃんは、ずっと私を見ている。私はそれに気づいて、少しだけ視線を逸らした。

 心配されるのは嫌じゃない。嫌じゃないけれど、あまり真正面から見られると、自分が大丈夫じゃないことまで見抜かれそうだった。

 

「みんな、無事……では、ないね」

 

 ユメさんは言い直しながら、持ってきた救護用品を広げる。

 

「でも、生きてる。まずはそれでいいよね」

「よくないです」

 

 ホシノちゃんが即座に言った。

 

「ユメ先輩がここに来たことは、全然よくないです」

「うん。怒られると思った」

「怒ります」

「でも、来てよかったとも思ってる」

 

 ユメさんは、ホシノちゃんの傷を見ながらそう言った。声は柔らかいのに、そこだけは譲らない強さがあった。ホシノちゃんは、何も返せなかった。

 

 イツキ先輩が水と救護品の数を確認し、アコちゃんが記録の復旧を試みる。ハスミさんも自分の端末を出して、煙の中で見たシェマタの基部や、巨大な存在の情報を整理し始めた。

 

 ただ、誰の動きも普段より遅い。煙を吸った疲労だけではない。獣の群れ、血、ヘイローを失った元生徒たち、そしてあの正体不明の巨大な影。今日見たものは、普通の戦闘ではなかった。

 

 それぞれ耐性も経験も違うのだろうけれど、全員の中に、同じ種類の硬さが残っているように見えた。緊張が抜けない。体は休みたがっているのに、目だけが眠ることを拒んでいる。

 

「休むべきだ」

 

 イツキ先輩が言った。

 

「再突入するにしても、疲労したままでは死ぬ。最低限、体を横にする時間を取る」

「見張りは?」

 

 アコちゃんが問う。

 

「私がやる」

 

 イツキ先輩が即答した。すると、ナナナさんが少し離れた壁に背中を預けたまま、片手を上げた。

 

「私も起きとく」

「君は寝た方がいい」

「お前にだけは言われたくねぇな。頭使う奴が寝不足だと面倒くせぇぞ」

「君にだけは言われたくないね。脳を使う前に銃を使う人間に」

「うるせぇ」

 

 いつもの調子に聞こえた。でも、ナナナさんの目は笑っていない。煙の向こうを見ている。

 

 ロカの名前が出た戦場で、簡単には眠れないのだと思った。反抗作戦のことを、私は詳しくは知らない。ただ、ナナナさんの声の重さで、知らないままでも分かることがある。

 

「あの煙のやつ」

 

 ナナナさんが言った。

 

「あいつ、ロカのために戦ってんだろ」

「そう見えるね」

 

 イツキ先輩は端末に視線を落としたまま答えた。

 

「トモリの目的は、単なる迎撃ではない。私たちを足止めし、あの巨大存在を呼び込み、シェマタの存在を隠しながら守っている。あるいは、シェマタの何かに利用しようとしている」

「最悪だな」

「同感だ」

 

 二人の会話はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

 

 眠る流れになったものの、誰もすぐには横にならなかった。アコちゃんは端末を抱えたまま座っているし、ハスミさんは銃を手元に置いたまま壁際から動かない。ホシノちゃんはユメさんの近くにいるが、横になろうとせず、ツルギさんも目を閉じているだけで眠っているようには見えなかった。

 

 ヒナちゃんは、私の隣にいる。私も眠れなかった。眠いのに、眠るのが怖い。水場の方を見ないようにしていることに、自分でも気づいていた。理由は分からない。ただ、水面を見ると、自分の背中に黒い羽根が残っているような気がした。

 

「イト、水飲んだ?」

 

 ヒナちゃんが聞いた。

 

「飲んだよ」

「本当に?」

「ちょっとだけ」

「ちゃんと飲んで」

「ヒナちゃん、だんだんお母さんみたいになってきた」

「飲んで」

「はい」

 

 誤魔化せなかった。私は水筒を受け取り、少しだけ飲む。喉は痛かったが、水が通ると、自分の体がまだ自分のものだと少しだけ思えた。

 

 そのまま、私は周りを見た。みんな、ばらばらに座っている。ゲヘナ、アビドス、トリニティ。さっきまで同じ煙の中で戦っていたのに、休む段階になると、また少し距離が戻っている。

 

 信用していないわけではない。たぶん、近づき方が分からないだけだ。眠気で頭がぼんやりしていたせいか、私は余計なことを口にした。

 

「皆で寄り添って寝れば、ちょっとはマシなんじゃないかな」

 

 沈黙。アコちゃんがこちらを見る。ハスミさんも見る。ホシノちゃんも見る。ナナナさんが「は?」という顔をした。言った本人の私も、少し遅れて自分の発言を理解した。

 

「あ、今のは、なんというか、寝ぼけた提案でして」

「寝ぼけるには早すぎます」

 

 アコちゃんが冷静に言う。

 

「黒原さん」

 

 ハスミさんが続ける。

 

「提案の意図を確認してもよろしいですか」

「ええと、人の体温があると安心するみたいな、そういう……非常時の、なんか、あれです」

「語彙が死んでいますね」

 

 アコちゃんが言った。

 

「煙にやられたのかもしれない」

「元からでは?」

「アコちゃん?」

 

 自分でもひどい提案だと思った。でも、ユメさんが少しだけ笑った。

 

「いいかもしれないね」

「ユメ先輩?」

 

 ホシノちゃんが振り向く。

 

「みんな、今は一人で寝る方が怖いと思う。無理に近づく必要はないけど、少し近い方が眠れるなら、それでいいんじゃないかな」

 

 ユメさんの言葉に、場の空気が少しだけ緩む。ナナナさんは呆れたように息を吐いた。

 

「好きにしろ。私は見張りだから混ざらねぇぞ」

「私も見張りだ」

 

 イツキ先輩も言う。

 

「では、寝る側だけでどうぞ」

「どうぞと言われても」

 

 私は困った。言い出したのは私だけど、本当にそうなるとは思っていなかった。思っていなかったなら言うなという話ではある。反論できない。

 

 最初に動いたのは、意外にもツルギさんだった。彼女は壁際から少しだけ体をずらし、空いた場所を作る。それだけだったが、拒絶していないのだと分かった。

 

 次にユメさんがホシノちゃんの隣に座り、ホシノちゃんが渋い顔をしながらも離れない。アコちゃんはしばらく迷っていたが、端末を抱えたまま横になり、ハスミさんは少し距離を取ってから、銃を手元に置いたまま目を閉じた。

 

 ヒナちゃんは、当たり前みたいに私の隣に来た。

 

「イト」

「はい」

「寝て」

「はい」

 

 最終的に、それは川の字というより、崩れかけた給水施設の床にできた人間の避難所みたいになった。

 

 誰かの肩が近い。誰かの呼吸が聞こえる。制服越しに、体温が伝わる。まだ信頼と呼ぶには早いのかもしれない。トリニティとゲヘナの間には距離があるし、ホシノちゃんは今でも私たちを完全には信用していない。アコちゃんもハスミさんも互いのことを警戒している。

 

 それでも、同じ場所で眠ることはできた。

 

 人の温かさに触れていると、張り詰めていたものが少しずつほどけていく。眠るのが怖かったはずなのに、体は正直だった。

 

 瞼が重くなり、地響きも、煙のざらつきも、遠くへ沈んでいく。最後に見えたのは、ヒナちゃんの横顔だった。それから私は、短い眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 夢の始まりは、オアシスの水面だった。

 

 静かな水面に、自分の顔が映っている。けれど、その輪郭はぼやけていて、目も口もよく分からない。はっきり見えるのは、背中から広がる黒い羽根だけだった。

 

 変身していないはずなのに、羽根がある。水面が揺れる。黒い羽根が、水の中で大きく広がる。

 

 翼は一枚の影になり、やがて巨大なハゲタカの形を取った。

 

 そのハゲタカが、水面の奥からこちらを見ている。

 

 次の瞬間、ハゲタカは水の底から飛び出し、私を頭から齧った。

 

 

 

 

 

 

 そこで、目が覚めた。

 

「っ」

 

 息を吸った。喉がひゅっと鳴り、体が跳ねる。夢の痛みはなかった。ただ、頭を齧られた感覚だけが、まだ生々しく残っている。

 

「イト」

 

 ヒナちゃんの声がした。すぐ近くにいた。私は呼吸を整えようとして、そこで自分の肩に何かが触れていることに気づいた。

 

 黒い羽根だった。背中から、肩から、腕の一部から、黒い羽根が滲むように生えている。完全に変身しているわけではない。体は人の形のままだし、意識もある。けれど、変身した覚えはなかった。勝手に出ている。

 

「なに、これ」

 

 自分の声が、ひどく小さかった。ヒナちゃんは羽根に触れようとして、途中で手を止めた。私が反射的に身を引いたからだ。ヒナちゃんは無理に触らなかった。

 

「イト、私を見て」

 

 ヒナちゃんの声は、短くて静かだった。私は息を整えようとしながら、その声の方を見る。

 

「勝手に、出てきて」

「うん」

「変身してない」

「うん」

「私、寝てただけ」

「分かってる」

 

 ヒナちゃんは責めなかった。怖がりもしなかった。ただ、私が勝手に遠くへ行かないように、そこにいてくれた。

 

 周囲も目を覚まし始めていた。アコちゃんが端末を抱えたまま起き上がり、ハスミさんはすでに銃を手にしている。ホシノちゃんはユメさんの前に立つように体を起こし、ツルギさんは無言でこちらを見ていた。

 

 ナナナさんとイツキ先輩だけは、最初から起きていた。

 

「起きたか」

 

 ナナナさんが言う。

 

「問題児」

「今、私のことですか」

「他に誰がいる」

 

 否定したかった。でも、黒い羽根が生えた状態で否定するには、少し説得力が足りなかった。イツキ先輩は私の羽根を見て、目を細める。

 

「自発的な変身ではない?」

 

「違います。夢を見て、起きたらこうなってて」

「夢の内容は」

 

 私は少し迷った。巨大なハゲタカ、水面、黒い羽根、頭から齧られたこと。それだけを話した。それ以上の意味は、私にも分からない。というより、分かりたくなかった。

 

 イツキ先輩は黙って聞き、すぐには結論を出さなかった。

 

「トモリの言葉と無関係ではないだろうね」

「君は、ロカの見た夢に近い、ってやつですか」

「そうだ」

 

 ナナナさんが舌打ちする。

 

「ロカの夢なんざ、ろくなもんじゃねぇ」

「同感だ」

 

 イツキ先輩はそう言って、煙の方を見た。

 

 夜明けが近かった。空はまだ暗いが、砂漠の輪郭が少しずつ戻ってきている。煙の奥では、地響きが弱くなっていた。完全に止まったわけではないが、夜の間ずっと続いていた激しい振動は、明らかに間隔が空いている。

 

「トモリとビナーの戦闘は、夜明けまで続いた」

 

 イツキ先輩が言う。

 

「トモリは消耗しているはずだ。シェマタを止めるなら、今しかない」

 

 アコちゃんが顔を上げる。

 

「再突入、ですか」

「そうだ」

「こちらも消耗しています」

「だから、目的を絞る。トモリの撃破ではなく、シェマタの状態確認と、可能なら破壊または機能停止。無理なら即時撤退」

 

 ハスミさんが静かに頷く。

 

「妥当です。長期戦は避けるべきでしょう」

「また行くんですか」

 

 ホシノちゃんの声は硬い。イツキ先輩はホシノちゃんを見る。

 

「行かなければ、あの兵器は完成に近づく」

「それは分かっています。でも」

 

 ホシノちゃんは言葉を切り、ユメさんを見る。ユメさんは、ホシノちゃんの視線を受け止めた。

 

「行くなら、私も行く」

「ユメ先輩」

「ホシノちゃんだけ行かせるつもりはないよ。それに、ここはアビドスだから」

 

 柔らかい声だった。でも、譲る気はない声だった。ホシノちゃんは、歯を食いしばるように黙った。

 

「……絶対に、前に出ないでください」

「うん」

「本当に」

「うん」

「信用してませんからね」

「それはちょっと悲しいな」

 

 ユメさんが困ったように笑う。私はそのやり取りを見ながら、肩の黒い羽根に触れた。触れると、羽根は少しだけ震えた。自分の体なのに、自分の体じゃないみたいだった。ヒナちゃんが、隣で私を見る。

 

「行ける?」

 行けるかどうかで言えば、たぶん行けない。でも、行くしかない。

「行く」

 

 私は答えた。

 

「まだ、戻れてるから」

 

 ヒナちゃんは少しだけ目を伏せた。

 

「無理はしないで」

「うん」

 

 嘘にならないように頷いたつもりだった。でも、自信はなかった。

 

 

 

 

 

 

 再び煙へ向かう時、砂漠は朝の色をしていた。ただし、普通の朝ではない。

 

 光は煙に濁り、太陽の輪郭はぼやけ、遠くのシェマタ建造地は焼けた鉄のような色に沈んでいる。

 

 夜の間に、地形は変わっていた。ビナーが暴れたせいで砂丘の形は崩れ、昨日通ったはずの道はほとんど残っていない。

 

 ホシノちゃんが地形を読み直し、ユメさんが後方で補助する。アコちゃんとハスミさんは互いに記録と射線を確認し、ナナナさんは苛立ったように銃を担ぎ直した。ツルギさんとヒナちゃんが前に出る。私はその少し後ろを低く飛んだ。

 

 黒い羽根は完全には引っ込んでいない。背中と肩のあたりに残っていて、飛ぶたびに自分の意思より少し遅れて揺れる。その感覚が気持ち悪い。

 

 煙の中へ入ると、昨日ほどの圧はなかった。トモリが消耗しているのだと思った。煙はまだ濃いが、熱も、実体化する腕の数も減っている。獣の声も少ない。けれど、それは安全になったという意味ではなかった。

 

 シェマタの基部が見えた。昨日より近い。巨大な台座。線路に接続された砲身。血管のように脈打つケーブル。黒服のものらしい機材。そして、その周辺に漂う、ロカの血に似たざらつき。

 

「これ、ただの兵器じゃない」

 

 私は呟いた。

 

「コールに似たものが混じってる。超人じゃないのに、ロカの血みたいな音がする」

 

 イツキ先輩が目を細める。

 

「やはり、シェマタにはロカの血が組み込まれている可能性が高い」

「兵器に、ですか」

 

 ハスミさんの声が低くなる。

 

「正気ではありません」

 

 アコちゃんが吐き捨てるように言った。煙の奥から、トモリの声がした。

 

「正気かどうかは、後の時代が決めることだ」

 

 トモリが姿を現す。昨日よりも、少し薄く見えた。煙そのものになっているのではなく、体の輪郭がところどころ崩れ、戻りきっていないように見える。それでも、立っている姿は変わらず端正で、声も落ち着いていた。

 

「戻ってきたか」

「褒められに来たんじゃねぇぞ」

 

 ナナナさんが言う。

 

「分かっている。君たちは止めに来たのだろう。だが、私は守るためにここにいる」

「シェマタをですか」

 

 ホシノちゃんが言った。怒りを押し殺した声だった。

 

「アビドスに勝手にこんなものを作っておいて、守ると言うんですか」

 

 トモリはホシノちゃんを見た。そして、本当に申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「君たちには申し訳ないと思っている」

「謝るくらいなら、やめてください」

「それはできない」

 

 即答だった。優しい声で。まっすぐな拒絶だった。

 

「私はロカのためにここにいる。あの子が望んだものを、途中で捨てることはできない」

 

 煙が揺れる。トモリが片手を上げた。同時に、シェマタの基部から低い音が鳴り始める。

 

「動いています!」

 

 アコちゃんが叫ぶ。

 

「砲身が……角度を変えています」

 

 ハスミさんが報告する。砲身がゆっくりと動いていた。空へではない。遠くへでもない。砂の奥へ。地中の何かを追うように。私はその方向を見て、背筋が冷たくなる。

 

「ビナーを狙ってる」

 

 イツキ先輩が言った。

 

 その瞬間、地面が揺れた。昨日と同じ、硬い振動。

 

 いや、昨日より近い。超人のコールを感知したのか、それともシェマタの起動に反応したのかは分からない。けれど、ビナーは再び現れた。

 

 砂が裂け、巨大な装甲が姿を見せる。朝の光の中で見るそれは、夜よりもさらに異様だった。機械のようで、生き物のようで、けれどどちらにも収まらない。光るラインが砂煙の中で脈打ち、巨大な体がシェマタの方へ向きを変える。

 

「来るぞ!」

 

 ナナナさんが叫ぶ。ビナーは私たちではなく、シェマタを狙っていた。巨大な体が砂を割り、建造地へ迫る。トモリはそれを見ても逃げなかった。むしろ、待っていたように煙を広げ、シェマタの周辺を覆っていく。

 

「未完成ではある」

 

 トモリが言った。

 

「だが、一度なら撃てる」

「やめろ!」

 

 ホシノちゃんが叫んだ。ヒナちゃんとツルギさんが前へ出る。ナナナさんが側面へ走る。ハスミさんが砲身周辺の機材を狙い、アコちゃんが妨害を試みる。イツキ先輩はトモリの位置を探り、私はシェマタから響くざらつきを追った。

 

 止めなければいけない。それは分かっていた。でも、間に合わないことも分かった。シェマタの基部が赤黒く光る。ケーブルが脈打つ。機械音ではなく、心臓の鼓動みたいな音が砂漠に広がる。トモリが静かに言った。

 

「見届けよう。あの子の望んだ未来を」

 

 

 

 

 

 

 音が消えた。

 

 一瞬、砂漠全体が静かになる。次の瞬間、シェマタが撃った。

 

 光。

 

 熱。

 

 衝撃。

 

 音は遅れて来た。ビナーの巨大な体が、砂漠ごと吹き飛ばされる。装甲が裂け、光るラインが途切れ、長大な影が砂の中へ沈んでいく。

 

 災害みたいな存在が、未完成の砲撃一発で押し潰されていく光景を、私はただ見ていた。

 

 未完成で、これ。完成したら、何を撃つつもりなのか。考える前に、余波が来た。衝撃波が、私たちを飲み込んだ。狙いはビナーだった。私たちではない。けれど、それで十分だった。

 

 足場が消える。煙が焼ける。砂が壁のように押し寄せる。

 

 ツルギさんとハスミさんが前方で吹き飛ばされるのが見えた。ナナナさんが二人の前に飛び込み、体を張って衝撃を受ける。

 

 ヒナちゃんが私の方へ手を伸ばす。でも、届かない。アコちゃんの端末が宙を舞い、イツキ先輩が彼女を庇おうとして体勢を崩す。ホシノちゃんの前で、ユメさんが盾を構えた。

 

「ユメ先輩!」

 

 ホシノちゃんの声が、砂と光に飲まれる。私はアコちゃんとイツキ先輩の方へ飛んだ。

 

 考える時間はなかった。

 

 レイズを前提にしない。そう決めていた。でも、今ここで庇わなければ、二人は死ぬ。

 私は二人の前に出た。黒い羽根が、勝手に広がる。盾にはならない。それでも、体を入れる。衝撃が来た。熱が来た。骨が軋む。視界が白く弾ける。

 

アコちゃんが何か叫んだ気がした。イツキ先輩の手が、私の腕を掴もうとした気がした。でも、もう遅かった。そこで、私の記憶は切れた。

 

 暗い。

 何もない。

 音もない。

 痛みもない。

 ただ、遠くで誰かが呼んでいる気がした。

 

 戻ってこい。

 戻ってきて。

 誰の声かは分からない。でも、私はその声を知っている。

 

 レイズ。

 

 死んだ体を、もう一度こちら側へ引き戻す。

 

 戻るたびに、体の奥が削れる。何かを置いていく。何かを燃やす。今回は、重い。重すぎる。水の底から引き上げられるように、意識が戻る。

 

 

 

 

 

 

 息を吸った瞬間、喉が焼けた。

 

「っ、あ……」

 

 砂の上で、私は体を起こした。体中が痛い。痛いということは、生きているということだ。たぶん。そう思わないと、立てなかった。

 

 周囲は壊れていた。ツルギさんは倒れている。ハスミさんも動けない。ナナナさんは二人を庇うような位置で片膝をついたまま、銃を握っているが、立ち上がれていない。

 

 ヒナちゃんは少し離れた場所で、片腕を押さえていた。私を見ている。目を見開いている。アコちゃんは砂の上に倒れ、咳き込みながらも起き上がろうとしている。イツキ先輩はその近くで、額から血を流していた。

 

 ホシノちゃんはユメさんの盾の後ろにいた。ユメさんはホシノちゃんを庇った姿勢のまま、膝をついている。

 

 全員が、生きている。でも、誰もまともに動けない。私は自分の手を見た。指が震えている。黒い羽根が、まだ残っている。レイズはできた。でも、もう一回できるかは分からない。

 

 あと一回。できるか、できないか。それくらいしか残っていない。煙の向こうで、トモリが立っていた。彼女も無傷ではない。煙は薄く、輪郭は崩れ、肩で息をしている。シェマタの砲撃を守るために、相当な負荷を受けたのだろう。それでも、立っている。ロカのために。

 

 その願いのために。私は砂の上で息を整えながら、トモリを見た。彼女は、こちらを見返す。穏やかな目だった。疲れ切っているのに、まだ折れていない目だった。

 

「戻ったか」

 

 トモリが言った。

 

「やはり、君が」

 

 耳の奥で、ざらつきが鳴る。私の背中で、黒い羽根が震えた。煙の向こうで、シェマタの砲身がまだ赤黒く熱を持っている。ビナーの巨大な影は、砂の中へ沈んでいた。そして、私たちの中で動ける者は、もうほとんど残っていなかった。

 

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