黒原イトの青春 作:ナポリタン
煙の向こうで、シェマタの砲身が赤黒く熱を持っていた。撃った。あれは、本当に撃ったのだ。砂漠の底から現れた巨大な影を、未完成の兵器が一発で撃ち抜いた。
光と熱と衝撃に飲まれたビナーは、今はもう砂の中へ沈んでいる。あれほど大きかった影が、砂丘の向こうに半分埋もれ、光る線も途切れかけていた。
シェマタの砲撃はビナーを狙ったものだった。けれど、その余波だけで、私たちは壊滅していた。
ツルギさんは倒れている。ハスミさんも動かない。ナナナさんは二人を庇うような位置で片膝をついたまま、銃を握っていたが、立ち上がる力はもう残っていないようだった。
ヒナちゃんは少し離れた場所で、片腕を押さえている。制服は破れ、砂と煤に汚れ、息は浅い。それでも、彼女の目は私を探していた。アコちゃんは砂の上で咳き込み、イツキ先輩はその近くで額から血を流している。二人とも生きている。私が庇ったからだ。
ホシノちゃんはユメさんの盾の後ろにいた。ユメさんは膝をつきながらも、まだホシノちゃんの前にいる。盾は歪み、腕も震えていた。それでも、ホシノちゃんを守る姿勢だけは崩していなかった。
全員が、生きている。でも、誰もまともに動けない。私は砂の上で膝をついたまま、自分の手を見た。指が震えている。黒い羽根が、まだ残っていた。
肩から腕へ、背中から脇腹へ、変身しきらないまま滲み出たように生えている。レイズはできた。戻ってこられた。けれど、それは戻ったというより、無理やりこちら側へ引きずり上げられた感覚に近かった。体の奥が空っぽだ。
息をするだけで痛い。もう一回、死んで戻れるのかは分からない。たぶん、できるかできないか、そのくらいしか残っていない。
煙の奥で、トモリが立っていた。彼女も無傷ではなかった。輪郭は崩れ、肩から先が煙にほどけかけ、戻りきらないまま揺れている。さっきまで広がっていた濃い煙も、今は薄く、シェマタの熱に焼かれたようにかすれていた。それでも、立っている。トモリはゆっくりと息を吐いた。
「まだ、終わっていない」
穏やかな声だった。掠れているのに、折れていない声だった。彼女は倒れている皆を見た。勝ち誇るでもなく、嘲るでもなく、ただ必要なものを確認するような目で、一人ずつ見ていく。
「君たちをここで見逃せば、また来る。ならば、ここで終わらせるしかない」
煙が、トモリの足元から薄く広がる。とどめを刺すつもりだ。私は、それを理解した。
トモリは悪党ではない。少なくとも、自分を悪だとは思っていない。ロカのために戦っている。ロカが望んだものを守るために、自分の体も命も使い切るつもりでいる。
だから、止まらない。私がヒナちゃんを守りたいと思うのと同じように、皆を守りたいと思うのと同じように、トモリもロカのためにここに立っている。
理解できてしまった。だからこそ、嫌だった。理解できる相手を止めるには、どうすればいいのか。
説得する、拘束する、逃げる、守る、それだけで足りるなら、私はそれを選んだと思う。でも、トモリは止まらない。ロカのために止まらない。
なら。
私は、砂を掴んだ。指に力を込める。膝が震えて、立てる気がしない。それでも、立たないといけなかった。
「イト」
ヒナちゃんの声がした。掠れていた。
「駄目」
私は振り返らなかった。振り返れば、止まってしまう気がした。
「黒原イト君」
イツキ先輩の声も聞こえる。いつもより低い。
「今の君がもう一度死ねば、戻れる保証はない」
「分かってます」
「なら、行くな」
その言葉に、少しだけ笑ってしまった。喉が痛くて、笑い声にはならなかったけれど。
「イツキ先輩がそう言うの、珍しいですね」
返事はなかった。私はトモリを見る。彼女はもう、倒れている皆の方へ歩き出していた。
煙は薄いが、それでも十分に危険だった。あの煙が広がれば、今の皆には逃げられない。守るだけでは間に合わない。また庇えば、また誰かが倒れる。それでもトモリは進む。
私は、言葉を選ぶのをやめた。
殺す。
そう決めた瞬間、体の奥が冷えた。怖い。当然だ。私は誰かを殺すと決めたことなんてない。
敵を倒すとか、止めるとか、助けるとか、そういう言葉の後ろに隠れていたものを、今初めて真正面から見ている。でも、迷っている時間はなかった。
私は地面を蹴った。体が重い。けれど、黒い羽根だけは軽かった。背中から広がる羽根が、私の意思より少し先に空気を掴む。気持ち悪い。自分の体なのに、自分以外の何かが混ざっているような感覚がする。それでも、今は使うしかない。
「トモリ!」
私は叫んだ。トモリが振り返る。その顔は疲れ切っていたが、目だけは静かだった。
「まだ飛べるのか」
「飛べますよ。比較的、得意分野なので」
声が震えていた。軽口に聞こえたかは分からない。
「ロカのためなら、私一人くらい、ちゃんと仕留めてみせてくださいよ」
トモリは、わずかに目を細めた。
「君は、怖がっているのに、よく前へ出る」
「怖いですよ。今も、かなり」
「それでも来るのか」
「来ないと、皆が死ぬので」
トモリは少しだけ目を伏せた。
「なるほど」
煙が膨らむ。地上へ広がるのではなく、上へ。トモリは煙を推進力のようにして宙へ上がった。
狙い通りだった。地上で戦えば、皆を巻き込む。空へ上げれば、少なくとも倒れている皆からは離せる。
ただし、逃げ場は私にもなくなる。
トモリが空中で手を振る。熱を帯びた煙が横薙ぎに伸びた。私は体を捻ってかわす。避けきれなかった煙が肩を掠め、黒い羽根が焦げた。焼ける匂いがした。自分の体が焦げる匂いだと気づくのに、少し遅れた。痛い。でも、まだ動ける。
私は高度を上げるふりをして、トモリの背後へ回り込む。
彼女は煙になって逃げようとした。
身体の輪郭がほどけ、風に紛れるように薄くなる。けれど、完全には消えない。
それは何度も見てきた。肩、手、声の位置、煙の濃淡。トモリは、必ずどこかに起点を残している。
それが制御のためなのか、限界なのかは分からない。でも、掴める。そう信じるしかなかった。煙の中で、一瞬だけ腕が見えた。私はそこへ飛び込む。
熱が来る。視界が歪む。それでも、手を伸ばす。
指先が、何かに触れた。逃がさない。私はトモリの腕を掴んだ。掴めた。トモリの目が、初めてはっきりと見開かれる。
「捕まえた」
声は震えていた。でも、離さなかった。私は翼を畳むようにして、トモリごと地面へ向かって落ちた。
空が遠ざかる。砂が近づく。耳元で風が裂ける。このまま叩きつければ、止められる。煙化しきれない核があるなら、そこへ衝撃を通せる。
トモリも、それを理解した。次の瞬間、彼の全身から超高温の煙が噴き出した。煙は炎ではない。でも、熱そのものが牙みたいに私を噛む。手が焼け、腕が焼け、喉が焼け、黒い羽根が燃えて、焦げた破片が空に散る。
痛みで意識が飛びそうになる。それでも、手を離さなかった。
「離せば、生き残れる」
トモリの声が聞こえた。すぐ近くで。静かに。本当に、そう思っている声だった。
「離したら」
喉が焼けて、声が掠れる。
「守れない」
ヒナちゃんが叫んでいる気がした。アコちゃんの声も、ホシノちゃんの声も聞こえた気がした。でも、もうよく分からない。
熱が痛みを越えて、感覚が白くなっていく。私は落ちる。トモリを掴んだまま落ちる。地面はもう近い。
あと少し。
あと少しで。
心臓が止まった。
音が消えた。
感覚も消えた。
何もない。
戻る、という感覚すらなかった。
トモリは、砂の上に降り立った。
煙に逃がした衝撃の分だけ、彼女は倒れずに済んだ。だが、その体も限界だった。腕は焼け、肩は崩れ、足元の煙は薄く乱れている。
彼女の前には、黒原イトの体が落ちていた。動かない。呼吸もない。トモリは、しばらくそれを見下ろした。
「見事だった」
静かな声だった。勝者の嘲りではない。敵への敬意だった。けれど、敬意は足を止める理由にはならない。
トモリはイトから視線を外し、倒れている者たちへ向き直る。彼女らを見逃せば、また来る。シェマタを止めに来る。ロカの望んだ砲を壊そうとする。ならば、ここで終わらせるしかない。
トモリは煙を集めた。ヒナが動こうとして、崩れた。アコが何かを叫ぼうとして、咳に詰まった。イツキは血に濡れた額を押さえながら、イトの方を見ていた。
ナナナは歯を食いしばり、立ち上がろうとして失敗する。ホシノはユメの前に出ようとするが、ユメがまだ盾を離さない。
誰も間に合わない。トモリが一歩踏み出した。
その時、背後で音がした。羽根が擦れる音。トモリは振り返る。そこに、黒い影が立っていた。
私は、見ていた。見ていた、という言い方が合っているのか分からない。私は死んだ。さっき、確かに死んだ。それなのに、意識の底で何かが軋んでいた。体の奥で、檻が壊れる音がする。
肉体は、神秘を閉じ込める檻である。
羽根が広がる。腕が増える。顔が消える。
私が、私の形を失っていく。怖い、戻れなくなる。そう思った。でも、煙の向こうでヒナちゃんが倒れている。アコちゃんがいる。イツキ先輩がいる。ホシノちゃんが、ユメさんが、トリニティの人たちがいる。
トモリが、まだ進もうとしている。なら、戻れなくても。いや。戻れなくても、なんて言いたくなかった。戻りたい。私は戻りたい。ヒナちゃんの隣に。
それでも、今は刃が必要だった。私の四本の腕に、黒いものが握られる。羽根が圧縮され、影が固まり、神秘そのものを殺す形になる。
黒い刃。私は、それを握った。
トモリは、初めて明確に動揺した。目の前に立つものは、黒原イトではあって、黒原イトではなかった。
全身を黒い羽根に覆われている。顔はない。口だけが存在する。無貌の頭部が、わずかに傾く。腕は四本あった。四本の腕それぞれに、黒い刃が握られている。
刃は金属ではなく、煙でも炎でもない。黒い羽根を極限まで押し固め、神秘を殺すための形だけを取り出したようなものだった。
「イト……?」
ヒナが、掠れた声で呼ぶ。黒い影は、ほんの少しだけヒナの方を向いた。返事はない。けれど、反応はあった。完全には消えていない。まだ、そこにいる。トモリは、その姿を見て、小さく息を吐いた。
「そうか」
煙が足元で揺れる。
「君だったのか」
トモリは最後の煙を広げた。体力は限界に近い。煙も薄い。シェマタを守り、ビナーを呼び、夜明けまで戦い、砲撃の余波まで受けた体は、すでに崩れかけている。それでも、彼女は退かなかった。
「ロカ」
小さく呟く。その声に、祈りに似たものがあった。
黒い影が動いた。美しい動きではなかった。剣技でもない。人間の動きでもない。四本の腕がばらばらに動き、黒い刃が煙を裂く。
トモリの作った煙の腕が伸びるが、刃に触れた瞬間、形を保てずにほどけた。熱を帯びた煙も、視界を奪う煙も、切られたところから崩れていく。煙が死んでいく。
トモリは距離を取ろうとした。身体を煙に変え、後ろへ逃げる。しかし、黒い刃が届いた場所だけは煙になれなかった。肩の輪郭が戻り、腕の一部が実体へ引き戻される。逃げられない。トモリはそれを悟った。
それでも、彼女は最後まで煙を展開した。
黒い影が踏み込む。一本目の刃が煙を裂く。二本目の刃が熱を切る。三本目の刃がトモリの退路を断つ。四本目の刃が、本体へ届いた。
トモリの体が、斜めに裂かれる。血が出た。赤い血だった。煙ではない。人の体から流れる血だった。トモリは膝をつく。体を煙に逃がそうとして、できなかった。黒い刃に斬られた場所から、煙になる力そのものが失われていく。
黒い影は、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。トモリは、砂の上に倒れた。
遠い日のことを、煙羅トモリは思い出していた。
ロカが、やけに嬉しそうにしていた日があった。普段から気まぐれに笑う人間ではあったが、その日はいつもより機嫌がよかった。何かを見つけた子どものようで、同時に、戦場の匂いを嗅いだ獣のようでもあった。
「何か良いことでもあったのか」
トモリが尋ねると、ロカは振り返って笑った。
「夢を見たんだ」
ロカの夢。それを、ただの夢だと思う者は少ない。少なくとも、トモリはそうではなかった。
「どんな夢だ」
「黒い人影が、私を切り殺す夢」
普通なら、不吉な夢だ。けれど、ロカは嬉しそうだった。心の底から。
「すごく綺麗だったよ。怖くて、痛くて、でも、なんだか嬉しかった」
トモリには、その時は分からなかった。死を語るロカが、なぜそんな顔をするのか。黒い人影に、何を見たのか。
ただ、ロカが見た夢なのだと思っていた。彼女自身の終わり。彼女だけの夢。
だが、今なら分かる。黒い人影は、目の前にいる。ロカの夢に現れた影は、トモリを切った。いつか、彼女へも届くのかもしれない。トモリは、薄く笑った。
「あれは……君が見た夢だと思ってたよ……ロカ」
声は掠れていた。けれど、穏やかだった。悔しさでも、怒りでもない。少しだけ、納得したような声だった。その言葉を最後に、煙羅トモリは死んだ。
煙が薄れていく。トモリが死んだことで、シェマタの周囲を覆っていた煙の制御が失われたのだろう。黒く濃かった煙は少しずつほどけ、焼けた砲身と壊れかけた基部が、朝の光の中に露出していく。
砂漠は静かだった。さっきまでの地響きも、煙のざらつきも、嘘みたいに遠い。残っているのは、熱を持った砂と、倒れた仲間と、トモリの死体。それから、黒い異形。
「イト」
ヒナちゃんが呼んだ。黒い影が、ゆっくりと振り返る。顔はない。目も口もない。それなのに、私はヒナちゃんを見ているのだと分かった。
ヒナちゃんは立ち上がろうとして、膝をつく。それでも、逃げなかった。怖くないはずがない。目の前にいるものは、もう人の姿をしていない。それでも、ヒナちゃんは逃げなかった。
「戻ってきて」
短い声だった。黒い羽根が揺れる。四本の腕に握られていた黒い刃が、少しずつ崩れていく。刃は羽根の影に戻り、指の間からほどけるように消えた。腕が消える。羽根が縮む。顔のない頭部に、少しずつ輪郭が戻る。
痛みが戻ってきた。熱も、砂の感触も、焼けた喉も、全部戻ってくる。私は崩れ落ちた。ヒナちゃんが受け止めようとして、二人で砂の上に倒れる。
「イト」
声が近い。私は返事をしようとした。でも、声が出なかった。視界の端に、トモリが倒れているのが見える。
動かない。私が殺した。その事実だけが、やけにはっきりしていた。守れたのかもしれない。止められたのかもしれない。
でも、私は初めて、自分の願いのために誰かを殺した。手にはもう、黒い刃はない。それなのに、何かを斬った感触だけが、いつまでも残っていた。