黒原イトの青春 作:ナポリタン
ゲヘナに戻ってから、数日が経った。風紀委員会本部の廊下は、相変わらず騒がしかった。どこかで誰かが怒鳴り、どこかで書類の山が崩れ、アコちゃんが誰かに説教している声が遠くから聞こえてくる。
窓の外では、ゲヘナらしい爆発音が一つ響き、その直後に「今のは事故です!」という言い訳になっていない声が続いた。全部、いつも通りだった。いつも通り、のはずだった。
「黒原さん」
アコちゃんの声で、私は顔を上げる。
「はい」
「はい、ではありません。今、私の話を聞いていましたか」
「聞いてました」
「では、私が最後に言った内容を復唱してください」
「ええと……」
私は机の上の書類を見る。そこにはシェマタ事件後の報告書、負傷者の確認、アビドス側への補償案、トリニティとの情報共有範囲、黒服関与の可能性についての資料が積み上がっていた。文字は読める。意味も分かる。なのに、頭の中へ入ってこない。
「……アコちゃんの髪が今日も綺麗ですね、みたいな話でしたっけ」
「一文字も合っていません」
「惜しい」
「惜しくありません」
いつもなら、そこでアコちゃんがもう少し長めの説教に入る。私は適当に受け流して、カヨコちゃんが横から呆れた顔をする。ヒナちゃんが近くにいれば、静かに「イト」と呼んで、私が少しだけ背筋を伸ばす。
けれど、今日はアコちゃんの声が途中で止まった。
彼女は私の手を見ていた。私も、自分の手を見る。何も持っていない。黒い刃もない。黒い羽根も出ていない。それなのに、指先にはまだ、何かを斬った感触が残っている。煙羅トモリ。トモリを、私は斬った。
トモリは敵だった。放っておけば、ヒナちゃんも、アコちゃんも、イツキ先輩も、ホシノちゃんも、ユメさんも、トリニティの人たちも殺されていた。だから止めた。止めるために殺した。守れた。でも、殺した。その二つは、どちらか片方だけにはなってくれなかった。
「……黒原さん」
アコちゃんの声が、少しだけ柔らかくなる。
「具合が悪いなら、救急医学部へ」
「大丈夫」
私はすぐに答えた。早すぎたと思った。
「ちょっと疲れてるだけ」
アコちゃんは眉を寄せる。
「ここ数日、ずっと同じことを言っています」
「疲れが長期滞在してるのかもしれない」
「笑えません」
「今のはそこそこ自信あったんだけど」
「余計に笑えません」
アコちゃんはそれ以上追及しなかった。追及しなかったのではなく、できなかったのかもしれない。彼女は知っている。
私がアコちゃんとイツキ先輩を庇って一度死んだことを。私が戻ってきたことを。そのあと、トモリを殺したことを。知っているからこそ、何を言えばいいのか分からないのだと思う。
「イト」
廊下の方から、静かな声がした。ヒナちゃんだった。彼女も、まだ完全には回復していない。腕には包帯が巻かれていて、普段より少し動きが硬い。それでも、立っている姿はいつも通りに見えた。小さくて、静かで、それでも誰よりも強い。私は笑う。
「ヒナちゃん」
「顔色が悪い」
「アコちゃんにも言われた」
「なら、悪いんだと思う」
「多数決に弱いな、私の体調」
ヒナちゃんは笑わなかった。赤い目が、私を見ている。煙の中でも、異形になった私の前でも、逃げなかった目。私は、その目が怖かった。見られたら、隠しているものが全部見つかる気がした。
「本当に、大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
ヒナちゃんは少しだけ黙った。
「それも、もう聞いた」
「じゃあ、そろそろ新しい言い訳を考えないと」
「イト」
低い声だった。私は喉の奥で言葉を止める。ヒナちゃんは怒っているわけではない。ただ、悲しそうに見えた。それが一番困る。
「何か、隠してる」
「隠し事が顔に出るタイプではないと思うんだけど」
「出てる」
「そっか。改善点だね」
ヒナちゃんは、それ以上踏み込まなかった。踏み込めないように、私がしているのだと分かっていた。
それでも、私は話せなかった。トモリを殺したことが怖い。でも、それ以上に怖いことがある。
トモリを殺しても、ロカは止まっていない。シェマタは破壊した。ビナーは沈んだ。トモリは死んだ。でも、ゲヘナ生徒会は健在だ。
超人薬が各所に流れている。獣はまだ生まれるかもしれない。守れたものはある。それでも、足りなかった。私は、まだ足りない。
シェマタ事件の後処理会議は、数日後に行われた。場所は風紀委員会本部の作戦室。アビドス側とは通信を繋ぎ、トリニティ正義実現委員会からは羽川ハスミさんが正式な記録担当として参加した。
ナナナさんとツルギさんは負傷のため現地参加ではなかったが、必要な証言はすでに共有されているらしい。
画面の向こうに、ユメさんとホシノちゃんが映る。ユメさんはいつものように柔らかい顔をしていたが、腕には包帯が巻かれていた。ホシノちゃんはその横に立っていて、明らかに機嫌が悪い。無理もない。アビドスは巻き込まれた側だ。
ゲヘナの内輪揉めで、砂漠にシェマタを作られた。獣が現れ、煙の超人がいて、巨大な兵器が発射された。そこまでされて、穏やかに話し合える方がおかしい。イツキ先輩は、淡々と資料を並べる。
「シェマタは現在、一時的に機能停止している。ただし、完全破壊には至っていない。基部にロカの血由来と思われる反応が残っており、生徒会側の機材も確認されている」
アコちゃんが続ける。
「現時点で再発射の兆候はありませんが、放置すれば修復、あるいは再利用される可能性があります」
ハスミさんが静かに言う。
「トリニティとしても、あの砲がこちらへ向けられる可能性があった以上、無関係とは判断できません」
ホシノちゃんは画面越しに、私たちを睨むように見ていた。
「それで、ゲヘナはどう責任を取るんですか」
作戦室の空気が重くなる。正しい問いだった。だから、誰もすぐには答えられない。イツキ先輩だけが、表情を変えずに口を開いた。
「一つ提案がある」
「提案?」
ホシノちゃんの声が低くなる。
「アビドスを、形式上ゲヘナの分校にする」
沈黙。ホシノちゃんの目が、明確に冷えた。
「それって、アビドスがアビドスじゃなくなるってことですか」
「そう見えるだろうね」
「見えるんじゃなくて、そうなんです」
ホシノちゃんは即座に返した。
「勝手に壊されて、勝手に危険なものを埋められて、今度は助けてやるから名前を貸せってことですか」
イツキ先輩は反論しなかった。ヒナちゃんも、アコちゃんも、何も言えない。私も同じだった。
アビドスから見れば、その通りだ。ゲヘナの問題を持ち込まれ、その後始末として、今度はゲヘナの制度に組み込まれる。理屈がどうであれ、怒らない方がおかしい。ユメさんが、静かに口を開いた。
「ホシノちゃんの言うことは正しいよ」
ホシノちゃんは、少しだけ驚いた顔をする。ユメさんは続けた。
「でも、正しいだけじゃ学校は残らない」
その声は柔らかい。けれど、揺れていなかった。
「借金はまだあるし、生徒も減り続けてる。復興に使えるお金も人手も足りない。砂漠化も進んでる。それに今回、アビドスの土地が外の人たちに利用される危険もはっきりした」
「だからって」
「うん。だからって、すぐに納得できる話じゃないよね」
ユメさんは頷く。
「でも、私はね、ホシノちゃんたちに、廃校寸前の学校を守るためだけに青春を使ってほしくない」
ホシノちゃんが黙る。
「これは、アビドスを渡す話じゃないよ」
「でも、ゲヘナの分校になるんですよね」
「うん」
「それって、同じじゃないですか」
「違うよ」
ユメさんは、はっきりと言った。
「アビドスを残すために、使えるものを使うだけ」
ホシノちゃんは何か言おうとして、言えなかった。ユメさんは優しい。でも、優しいだけではない。自分の学校を守るためなら、悔しい選択もできる人だった。イツキ先輩が資料を送る。
「条件はこちらで作る。アビドス生徒会は存続。校名も残す。ゲヘナ本校による直接支配は禁止。風紀委員会の常駐目的は、シェマタ跡地と超人関連反応の監視に限定する。債務整理と復興支援については、ゲヘナ側が責任を持つ」
アコちゃんが、補足するように言った。
「外部勢力が再度介入することも防ぐ必要があります」
ハスミさんは眉をひそめる。
「トリニティとしては、ゲヘナ単独管理には同意できません」
「当然だろうね」
イツキ先輩は頷く。
「だから監査権を渡す。正義実現委員会が定期的に確認すればいい」
画面越しに、ハスミさんはしばらく考えた。
「……その条件であれば、検討に値します」
ホシノちゃんは、まだ納得していない顔をしていた。
「私は、納得してません」
「うん」
ユメさんが頷く。
「でも、ユメ先輩が決めるなら、従います」
「ありがとう」
「ただし、ゲヘナが変なことをしたら、私が追い出します」
ユメさんは少しだけ笑った。
「その時は、一緒に追い出そう」
ホシノちゃんは、それ以上何も言わなかった。
アビドスは残る。形は変わり、名前の横にゲヘナ分校という言葉が付く。それでも、ユメさんは残すと決めた。
ホシノちゃんは納得しないまま、それを支えると決めた。
私は、自分の手を机の下で握った。斬った感触は、まだ消えない。
会議の後半で、話題はトリニティとの関係に移った。ハスミさんは、シェマタ事件を重く見ていた。当然だ。ロカの血を使った超人薬。獣化した元生徒たち。アビドスに隠されたシェマタ。未完成でもビナーを撃破した兵器。どれも、ゲヘナ内部の問題では済まない。
「今回の件は、トリニティへ正式に報告します」
ハスミさんは言った。
「シェマタがトリニティ方面へ向けられる可能性があった以上、黙認はできません」
アコちゃんが警戒するように顔を上げる。
「それは、トリニティがゲヘナに対して強硬姿勢を取るという意味ですか」
「そうならないようにするための報告でもあります」
ハスミさんの声は冷静だった。
「問題は、ゲヘナそのものではなく、ゲヘナ内部で制御されていない勢力と、超人化技術です。そこを見誤れば、全面衝突になります」
ナナナさんは通信越しではなかったが、事前に共有された発言記録が読み上げられていた。
『ゲヘナを殴れば終わるって話じゃねぇだろ、これ。』
その乱暴な一文が、妙に重かった。イツキ先輩は少しだけ目を細める。
「ゲヘナとトリニティが本格的に衝突する前に、互いを縛る仕組みが必要になる」
ハスミさんが頷いた。
「停戦協定では足りません。危険技術への共同対応と、相互監視を含む条約が必要になるかもしれません」
「条約、か」
イツキ先輩はその言葉を、静かに繰り返した。条約。その時の私には、それがどれほど大きな言葉になるのか分からなかった。ただ、シェマタの砲声がまだ耳の奥に残っている気がした。
ゲヘナとトリニティが本当に戦えば、あれと同じようなものが、もっと大きな形で起こるのかもしれない。そう思うと、手の感触がまた強くなった。トモリを殺しても、何も終わっていない。むしろ、始まってしまったものの方が多い。
会議が終わった後、私は作戦室に残った。ヒナちゃんは別件で呼ばれ、アコちゃんも資料整理に戻った。カヨコちゃんは最初から会議には出ていなかった。イツキ先輩だけが、端末の前に座ったまま、何かの資料を並べている。
「黒原イト君」
「はい」
「君に別件の任務がある」
別件。その言葉に、私は少しだけ反応した。任務がある。動ける理由がある。そう思ってしまったことに、自分でも気づいた。止まると、手の感触が追いついてくる。だから、動きたい。あまりよくない考え方だと思う。それでも、私はイツキ先輩を見る。
「何ですか」
イツキ先輩は端末をこちらへ向けた。そこには、複数の地図と取引記録、獣化個体の発生地点、超人薬の流通経路と思われる線が表示されていた。
「今回の件で、いくつかの点が繋がった。ロカの血を使った超人薬は、どこかで製造され、ブラックマーケットを経由して流れている可能性が高い」
「ブラックマーケット」
「製造拠点の一つが、そこにあると見ている」
イツキ先輩は、別の資料を開く。
「すでに設楽クヌギ、私の同期だ。彼女を先行調査に出している。君には、彼女と合流してもらう」
「私が、ですか」
「君の感知能力は、超人薬や獣化個体の反応を追うのに向いている。加えて、相手側が超人を使ってくる可能性もある」
「つまり、危ないところに危ない私を投入するわけですね」
「自覚があるなら話が早い」
イツキ先輩は、表情を変えない。私は少しだけ笑った。でも、うまく笑えなかった。
「黒原イト君」
「はい」
「君はまだ弱い」
その言葉は、思っていたより深く刺さった。私は返事ができなかった。イツキ先輩は続ける。
「トモリを倒したのは、君が強かったからだけではない。状況、消耗、レイズ、異形化。いくつもの条件が重なった結果だ。次も同じことができるとは限らない」
「……分かってます」
「だが、超人相手の実戦経験を積める場所がある。ついでに製造拠点を潰せるなら、こちらにとって悪くない」
「言い方が冷たいですね」
「冷たく言っているからね」
イツキ先輩は淡々としていた。
「これは、君が求めていたものだと、私は思うがね」
私は端末を見る。ブラックマーケット。超人薬の製造拠点。設楽クヌギ先輩との合流。薬の流通経路。理由はいくつもあった。
でも、その奥にあるものは一つだった。まだ足りない。もっと強くならないと、また誰かが死ぬ。ヒナちゃんに守られるだけでは駄目だ。ヒナちゃんの隣に立ちたい。
守られる側のままでは、駄目だ。
「行きます」
イツキ先輩はすぐには頷かなかった。
「ヒナ君には話さなくていいのかい」
私は黙った。沈黙が答えになった。
「大丈夫です」
イツキ先輩は目を細めた。
「話さないことが、必ずしも優しさになるとは限らない」
「分かってます」
「分かっていて、話さないのか」
「はい」
「最低だね」
「……イツキ先輩に言われると、なかなか来るものがありますね」
「褒めてはいない」
「知ってます」
イツキ先輩は、小さく息を吐いた。
「クヌギとの合流地点は、出発前に送る。単独行動は禁止。製造拠点の確認を優先。破壊は現地判断。ただし、生存を最優先にしろ」
「はい」
「私は冗談を言っていない」
「分かってます」
分かっている。たぶん。でも、その言葉を自分で信用できなかった。
風紀委員会本部を出た後、いつもの巡回路の外れで、カヨコちゃんは立ち止まった。彼女は何も聞いていないはずなのに、こちらを見る目だけで、もう何かを察していた。
「どこか行くの」
逃げられなかった。
「……ブラックマーケット」
「任務?」
「うん。超人薬の製造拠点があるかもしれない。設楽クヌギ先輩が先に調査してるから、合流する」
カヨコちゃんは少し黙った。
「ヒナには」
「言わない」
「どうして」
その問い方は静かだった。責めるより先に、理由を聞こうとしている声だった。
「ヒナちゃんに言ったら、たぶん止める」
「止めるだろうね」
「それか、私が守るって言う」
「言うだろうね」
「そう言われたら、私はまた守られる側に戻りたくなる」
カヨコちゃんは何も言わなかった。私は続ける。
「ヒナちゃんに守られるのは、嫌じゃないんだよ。たぶん、嬉しい。すごく嬉しい」
「うん」
「だから駄目なんだと思う。甘えたら、私は戻れなくなる」
言葉にすると、思っていたより情けなかった。ヒナちゃんを信用していないわけではない。
むしろ逆だった。ヒナちゃんが優しいと分かっているから、話せない。ヒナちゃんの隣にいたい。でも、その隣へ行く前に、守られる側へ戻りたくなる自分がいる。それが怖い。
「話さないことが優しさだと思ってるなら、それは違うと思う」
カヨコちゃんは言った。
「うん」
「分かっててやるんだ」
「うん」
「最低」
「だよね」
少しの沈黙。カヨコちゃんは、深く息を吐いた。
「でも、行くんでしょ」
「行く」
「止めても」
「行く」
「そう」
カヨコちゃんは、もう止めなかった。
「帰ってきて」
短い言葉だった。私は少しだけ笑おうとした。
「お土産は?」
「いらない。無事に帰ってきて」
胸の奥が詰まる。
「一回死んだとか、二回目は死ななかったとか、そういう報告もなし?」
「なし」
「厳しい」
「普通」
「そっか」
私は頷いた。
「帰ってくる」
それが約束として成立したのかは分からない。でも、言わないよりはましだと思った。
出発前に、ヒナちゃんと会った。風紀委員会本部の裏手、訓練場へ続く通路だった。ヒナちゃんは一人で立っていた。待っていたのか、偶然なのかは分からない。
「イト」
「うん?」
「何か隠してる」
また、直球だった。
「隠し事が顔に出るタイプではないと思うんだけど」
「出てる」
「そっか。かなり改善が必要だね」
ヒナちゃんは笑わない。
「どこか行くの」
心臓が、少し跳ねた。完全な嘘はつけなかった。でも、全部を言うこともできなかった。
「ちょっと、情報部の仕事」
「危ない?」
「いつものゲヘナ基準では、たぶん普通」
「それは危ないって意味」
「まあ、ゲヘナだからね」
ヒナちゃんは私を見ていた。赤い目が、少しだけ揺れているように見えた。
「イト」
「うん」
「話して」
その一言で、全部が崩れそうになった。話したいと思った。
ブラックマーケットへ行くこと。クヌギ先輩と合流すること。超人薬の製造拠点を探すこと。怖いこと。強くなりたいこと。ヒナちゃんに守られるのが嬉しくて、だから怖いこと。
全部、話してしまいたかった。でも、話せば止まる。止められたら、私はきっと安心する。安心して、守られる側に戻りたくなる。それが怖かった。
「大丈夫」
私は言った。また同じ言葉だった。
「また後で」
ヒナちゃんは、少しだけ黙った。
「……うん」
その声を聞いて、胸が痛くなった。私はそれ以上何も言わなかった。行ってきます、とも言えなかった。それを言えば、戻る約束になる。戻る約束をしたら、行けなくなる。だから私は、普通の別れみたいな顔をして、ヒナちゃんの前から歩き出した。
ヒナちゃんがブラックマーケット行きを知ったのは、私が出発した後だった。アコちゃんが業務連絡の中で、何気なく口にしたらしい。
「黒原さんのブラックマーケット行きについてですが――」
その言葉で、ヒナちゃんが止まった。
「今、何て言ったの」
アコちゃんは、そこで初めて気づいたのだと思う。ヒナちゃんには、知らされていなかった。
「……申し訳ありません。ヒナさんには、すでに共有されているものと」
「いい。アコのせいじゃない」
ヒナちゃんの声は静かだった。静かすぎた。危険な場所へ行ったことも辛かった。
けれど、それ以上に、相談されなかったことが痛かった。イトが自分に隠して行った。自分は必要ないと判断された。そう感じてしまうには、十分すぎる沈黙だった。
ヒナちゃんは、すぐに追いかけようとはしなかった。追いかけたかったのだと思う。でも、ゲヘナ本校を空けることはできない。ロカも、生徒会も、黒服も、まだ動いている。自分が感情だけで飛び出せば、風紀委員会の守るべきものが崩れる。だから、動けない。その場に立ったまま、動けなかった。
「ヒナ」
低い声がした。キミカ会長だった。いつからいたのか、アコちゃんも気づいていなかったらしい。彼女は腕を組んだまま、ヒナちゃんを見ていた。
「イトは君から離れたんじゃない」
ヒナちゃんは黙る。
「君に並ぼうとしている」
「相談してくれませんでした」
「そうだな」
キミカ会長は否定しない。
「それはイトが悪い。だが、君が必要なくなったからではない」
ヒナちゃんは目を伏せる。
「守られる側でいたくないのだろう。君の隣に立ちたい。だから、危うい方向へ進む」
「止めるべきでした」
「止めても、行っただろう」
「……はい」
「なら君も、立ち止まるな」
キミカ会長の声は、優しくはなかった。でも、冷たくもなかった。
「待つだけでは届かん。追うだけでも足りん。あいつが並ぼうとしているなら、君も前へ進め」
ヒナちゃんは、しばらく何も言わなかった。それから、訓練場へ向かった。誰に命じられたわけでもない。怒りだけでもない。悲しみだけでもない。私がいない場所で、ヒナちゃんは銃を構えた。静かに。ただ、前を見るために。
同じ頃、ゲヘナの東側では、別の報告が届いていた。生徒会棟の廊下は静かだった。静かすぎた。普段なら、誰かの怒鳴り声か、金属のぶつかる音か、ロカの気まぐれな笑い声くらいは聞こえてくる。
けれど、その日は何もなかった。代わりに、閉ざされた私室の奥から、湿った音が響いていた。
肉をこねるような音。骨を押し曲げるような音。金属をこすり合わせるような音。それらが、扉一枚隔てた向こうで、ゆっくりと混ざっていた。東宮斎ホノカは、扉の前で足を止めた。
「ロカ、今話せるか」
少し遅れて、部屋の奥から声が返ってくる。
「あー、うん。ちょっと待ってて、すぐ『戻る』から」
明るい声だった。いつもと同じように軽く、どこか眠たげで、何も問題などないと言っているような声だった。
しかし、その声の直後に、部屋の中で何かが潰れた。粘ついた音がする。次に、硬いものが壁に擦れる音。それから、息を整えるような長い沈黙。
ホノカは扉に手を伸ばしかけ、止めた。開けてはいけない。そう思った。中で何が起きているのか、知らないわけではない。
ロカの神秘は、もう彼女自身の肉体に収まりきらなくなっている。戦争の超人。雷帝。そう呼ばれるものの内側で、彼女の形は少しずつほどけ、戻るたびに別の何かを押し込めている。
しばらくして、扉が開いた。ロカは、いつもの顔で立っていた。制服も乱れていない。髪も整っている。口元には、薄い笑みさえ浮かんでいた。ただ、部屋の奥は暗かった。ホノカは、見ないことにした。
「お待たせ。話って何?」
ロカは軽く首を傾げる。ホノカは、少しだけ拳を握った。
「トモリが死んだ」
ロカは瞬きをした。
「シェマタも……破壊された」
廊下の空気が止まった。ロカは、すぐには答えなかった。怒るでもなく、笑うでもなく、ただ少しだけ遠くを見る。その沈黙が、ホノカにはかえって怖かった。
「……ふーん、そっかぁ」
ようやく返ってきた声は、軽かった。軽すぎた。
「なぁ、ロカ」
ホノカは一歩踏み出す。
「他に、他に方法はあるはずだ。お前が――」
「ホノカ」
ロカの声が、少しだけ低くなった。
「少し黙っててよ」
ホノカは言葉を止める。ロカは廊下の窓へ視線を向けた。東側の空は、薄く曇っていた。遠くで煙が上がっている。ゲヘナでは珍しくもない光景のはずなのに、その煙は妙に静かに見えた。
「……あーあ、こうなっちゃったかぁ」
ロカは、困ったように笑った。その笑みは、子どもが大事な玩具を壊された時のものにも、最初から壊れると知っていたものを見届けた時のものにも見えた。
「しょうがないね」
「ロカ」
ホノカの声には、怒りよりも焦りがあった。ロカは振り返らなかった。
「ちゃんと」
彼女は、誰に向けるでもなく呟く。
「ちゃんと私を殺してね、黒原イトちゃん」