黒原イトの青春 作:ナポリタン
それでも
ブラックマーケットへ向かってから、一年が経った。
夕方のゲヘナは、相変わらず騒がしかった。どこかで爆発が起き、少し遅れて誰かの怒鳴り声が響く。看板の折れた店先では不良たちが言い争い、路地の奥では壊れた自販機を叩く音がしていた。空は赤く、建物の影は長く伸び、砂埃と煙と油の匂いが混ざっている。
久しぶりに戻ってきたはずなのに、懐かしいというより、変わっていないことに少し驚いた。
私は風紀委員会本部へ向かって歩いていた。肩にかかっていた髪は、今は耳のあたりで切りそろえている。ブラックマーケットでは、長い髪は掴まれるし、燃えるし、薬剤に浸るし、ろくなことがなかった。身長も少し伸びた。制服の着方も、前より実戦寄りになっている。
これが垢抜けというやつだろうか。
自分ではあまり変わったつもりはなかったけれど、窓ガラスに映る姿を見ると、去年とは随分姿格好が変わっている。
路地裏から、誰かの声が聞こえた。
「だからさぁ、ちょっと貸してくれって言ってんだよ」
「持ってないって……」
「嘘つけよ。隠してんだろ」
見ると、細い路地の奥で、少女が三人のチンピラに囲まれていた。逃げ道を塞ぐような立ち位置。わざと距離を詰める動き。相手が怯えるのを楽しむ声。
「デジャヴュってやつだね」
あの時の私は、何もできなかった。体が固まって、声も出なくて、どうすればいいのか分からなかった。結局、ヒナちゃんに助けられた。ヒナちゃんは強くて、私はその後ろで守られていた。
「やめなよ」
三人がこちらを見る。
少女も、泣きそうな顔のまま振り向いた。
チンピラの一人が、私を上から下まで見て、笑った。
「あ? 何だお前」
「ゲヘナ一の平和主義者で博愛主義者」
「ハッ、そう言うんだったらあたしらに金を恵んでくれよ」
「それは無理かな」
私は少女の前に立った。
「金欠なんだ」
背中の向こうで、少女が息を呑む気配がする。
「この子、困ってるでしょ」
「困ってんのはこっちなんだよ。金がねぇんだから」
「それは君たちの都合」
「生意気言ってんじゃねぇぞ」
別の一人が、私の肩へ手を伸ばした。
その手首を取る。
力を入れる位置は分かっている。捻る角度も、相手が崩れる重心も、逃がす方向も。考えるより先に体が動いた。
手首を捻る。
膝を払う。
背中から落とす。
一人目が地面に転がる頃には、二人目が銃を抜こうとしていた。私は一歩詰め、肘を打ち、銃口を外へ逸らす。暴発した銃弾が壁に弾け、黒い跡を残す。
三人目が叫ぶ。
「何もんだよぉ! てめぇ!」
「何者でもない」
チンピラは意味が分からないという顔をした。
それでいい。
私にも分からない。
相手が踏み込んでくる。私は半歩下がり、伸びてきた拳を避けて、足を払った。最後の一人が倒れる音が、路地の奥に短く響く。
誰も死んでいない。
骨も折れていない。
ただ、もう立ってくる気はなさそうだった。
私は少女を見る。
「大丈夫?」
少女は何度も頷いた。
「あ、ありがとう、ございます」
「帰り道、気をつけて」
少女はもう一度頭を下げて、路地の外へ走っていった。
私は倒れている三人を見下ろす。
「……あー、この子たち連行しないとなぁ」
ため息をついてから、私は風紀委員会へ連絡を入れた。
風紀委員会本部の訓練室では、空崎ヒナと公佳キミカが向かい合っていた。
互いの銃に装填されているのは、実弾ではない。着弾すると色が弾ける訓練用のペイント弾だ。とはいえ、撃ち合っている二人の動きは模擬戦という言葉から受ける印象よりもはるかに鋭かった。
キミカが先に動く。
大きく踏み込み、遮蔽物を蹴って角度を変え、ヒナの視界の外へ回り込む。豪快に見えて、動きは雑ではない。撃つ場所も、詰める距離も、相手が逃げる先も読んでいる。
ヒナは下がらない。
小さな体を低く沈め、飛び込んでくる弾道の隙間を抜ける。翼がわずかに広がり、空中で軌道が変わった。落ちると見せて、止まる。止まったと見せて、横へ流れる。キミカの照準が一瞬だけ遅れた。
その間隙を突き、ヒナが弾を放つ。
青いペイントが、キミカの肩に弾ける。
訓練室に短い電子音が鳴った。
記録用端末が結果を告げる。
キミカは肩の青い跡を見て、低く笑った。
「今のは見事だ」
ヒナは銃口を下げ、息を整える。
「まだ、読まれてます」
「読めていても当てられないなら、十分厄介だ」
「十分じゃない」
キミカはその返答を聞いて、少しだけ目を細めた。
ヒナの動きは、一年前より明らかに変わっていた。速くなったというだけではない。空中での急制動、翼を使ったフェイント、銃撃に移るまでの無駄のなさ。既にエースと言っていいほどの実力を備えていた。
次の記録を取ろうとした時、訓練室の扉が勢いよく開いた。
「キミカ委員長、ヒナさん!」
アコが入ってきた。
普段の冷静な様子とは違い、息を切らした彼女を見て、二人は構えていた銃を下ろした。
「どうしたの」
「イツキ副会長と黒原さんが、帰還しました」
ヒナの動きが止まる。
アコが何か続けようとする前に、ヒナは銃を置いた。
「行く」
「ヒナさん、まだ装備が」
「後で」
ヒナは訓練室を出ていく。
アコが追おうとして、キミカが手で制した。
「行かせろ」
「ですが」
「一年待ったんだ」
キミカは、ヒナの背中が消えた扉を見る。
「今は走らせてやれ」
風紀委員会本部の玄関口に着いた時、私はイツキ先輩と並んで受付の前にいた。
イツキ先輩は一年経ってもあまり変わっていないように見える。ただ、よく見ると目の下に薄く疲労が残っていた。ブラックマーケットで一年過ごして、まったく変わらない方がおかしい。変わっていないように見せるのが、イツキ先輩の上手いところなのだと思う。
受付の風紀委員が何かを確認している途中で、廊下の向こうから足音が聞こえた。
ヒナちゃんがいた。
一年前と同じようで、違った。背は大きく変わっていない。声も、顔も、私の知っているヒナちゃんだった。でも、立ち方が少し違う。肩の力の抜き方も、目の奥の静けさも、前より深くなっている。私がいない一年の間、ヒナちゃんも止まっていなかったのだと、すぐに分かった。
ヒナちゃんは私の前で立ち止まった。
「イト」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「ヒナちゃん」
昔みたいに呼べた。
それだけで、何かが戻った気がした。でも、その何かはすぐに手の中から逃げていく。
ヒナちゃんが私を見る。
髪。
背。
制服。
傷。
目。
「おかえり」
ヒナちゃんは、そう言った。
私は頷く。
「うん。ただいま」
言いたいことはたくさんあった。
久しぶりに会えてうれしい気持ち。黙ってゲヘナを出ていたことへの罪悪感。この一年であったことを話したい気持ち。
いろんなものがごちゃ混ぜになって、うまく形にならない。
「再会の途中で悪いけど」
イツキ先輩が言った。
「報告が先だ」
私は頷く。
「分かってます」
ヒナちゃんの目が、わずかに揺れた。たぶん、私があまりにも自然に仕事へ戻ったからだと思う。
でも、そうしないと立っていられなかった。
会議室には、風紀委員会の中核メンバーが集まっていた。
キミカ会長、ヒナちゃん、アコちゃん、カヨコちゃん、イツキ先輩。ほかにも数名の担当者が席についている。机の上には、ブラックマーケットで回収した記録媒体、薬剤反応の分析資料、破壊済み工場の簡易図面、死亡者と負傷者の一覧が並んでいた。
私はイツキ先輩の隣に座った。
アコちゃんが端末を操作し、室内の画面に報告書を表示する。
イツキ先輩が話し始めた。
「ブラックマーケット地下において、超人薬の大規模製造工場を確認した。拠点は黒服側の薬剤供給網における主要製造拠点の一つと判断している」
画面に、地下工場の図が映る。
侵入経路。
撤退経路。
破壊した薬剤タンク。
回収地点。
死亡地点。
私はその図を見て、何も思わないようにした。
「ロカの血を加工したと思われる薬剤反応を確認。黒服由来と見られる研究装置、記録媒体の一部を回収した。ただし、研究中枢そのものではない。上位の設計データや主要研究記録は、作戦開始前に搬出されていた可能性が高い」
イツキ先輩が資料を読み上げる。
「薬剤タンク五基のうち、三基を破壊。残り二基は作戦開始前に搬出された形跡があります。流通経路の一部は遮断できましたが、供給網全体の停止には至っていません」
「つまり、工場は潰したが、根は残っている」
キミカ会長が言った。
イツキ先輩は頷く。
「そういうことになる。ただし、薬剤の生産能力は大きく削れた。少なくとも、生徒会側がこれまで通り獣や強化個体を増やすことは難しい」
ヒナちゃんは黙って聞いている。
カヨコちゃんも、私を見ないようにしているようで、ずっとこちらを見ていた。
「搬出先は」
キミカ会長が問う。
イツキ先輩は画面を切り替えた。
地下工場から伸びる輸送経路の先に、赤い線が引かれている。
「搬出車両の痕跡から、ゲヘナ東側へ向かった可能性が高い」
その言葉で、室内の空気が少し重くなる。
「人的損耗は」
キミカ会長が問う。
イツキ先輩は一瞬だけ間を置いた。
「設楽クヌギが死亡した」
室内の空気がさらに重くなる。
私は指を動かさないようにした。
「撤退経路確保のため、後方に残った。回収はできていない」
淡々とした報告だった。
イツキ先輩は続ける。
「現地協力者も複数名死亡した」
手元の資料を見る。
名前の一覧。
通称。
あだ名。
識別番号。
顔写真は載っておらず、それがどこか彼女たちの死を現実から遠ざけているような気がした。
「イト君」
イツキ先輩が言った。
「補足を」
「はい」
思っていたより、ちゃんと声が出た。
「西側搬入口からの侵入は失敗しました。内部警備が想定より厚く、超人薬による強化個体が二体。どちらも完全な超人ではなく、獣化の手前に近い状態でした」
「薬剤タンクは三基破壊。工場設備も主要部分は機能停止しています。ただ、搬出されていた二基と記録媒体の一部は回収できていません。搬出先は不明ですが、車両の痕跡から、ゲヘナ東側へ向かった可能性があります」
「以上です」
私は座った。
会議室は、しばらく静かだった。
キミカ会長が口を開く。
「よく戻った」
その言葉を、私は受け止めきれずにいた。
会議が終わると、資料はアコちゃんと担当者たちによって整理されていった。イツキ先輩はキミカ会長に追加報告を求められ、別室へ移動する。カヨコちゃんは少し離れた場所で、私に何か言いたそうにしていたが、すぐには来なかった。
私は席を立つ。その時、ヒナちゃんに呼ばれた。
「イト」
「うん?」
ヒナちゃんは少しだけ迷ったように見えた。
「このあと、時間ある?」
私は動きを止める。
「久しぶりだから。話したいことが、たくさんある」
私は、目を逸らした。
「ごめん」
声が小さくなる。
「帰ってきたばっかりで、ちょっと疲れてる」
ヒナちゃんは黙った。
「少しだけでも」
その声は、いつもより弱かった。だから余計に、私は逃げた。
「今日は、休ませて」
ヒナちゃんは、それ以上言わなかった。
「……分かった」
私は笑おうとしたけど、うまくできてる気はしない。
「また後で」
そう言って、私は会議室を出た。背中にヒナちゃんの視線があることを、気にしないように。
寮の部屋に戻って、私は上着を椅子にかけた。
荷物を整理する気にはなれなかった。ベッドに座り、靴も脱がないまま、しばらく床を見ていた。
「入るよ」
カヨコちゃんは扉を開けて、部屋に入ってきていた。
「……お疲れ」
カヨコちゃんは、私の隣ではなく、少し離れた床に座った。近すぎない。遠すぎない。逃げ道を塞がない距離だった。
しばらく、私もカヨコちゃんも何も言わなかった。
外から、遠くの騒ぎ声が聞こえる。寮の廊下を誰かが走る音もした。ゲヘナは、夜になっても静かにならない。
「……ブラックマーケットってさ」
私は、ぽつりと言った。
「道が、滅茶苦茶分かりにくいんだよね」
「……うん」
「いや、ほんとに。似たような看板多いし、変な匂いするし、道聞いたら逆に騙されるし」
「騙されたの」
「三回くらい」
「そんなにやばいんだ」
「……クヌギ先輩に、道教えてもらったんだ」
口に出した瞬間、喉の奥が少し詰まった。
クヌギ先輩。
設楽クヌギ。
イツキ先輩の訓練で心が折れかけた時、慰めてくれた人。面倒見がよくて、優しくて、頼りになった。
「クヌギ先輩、よく面倒見てくれた」
カヨコちゃんは黙っている。
「イツキ先輩の指導が、本当にスパルタで。風紀委員会ってそういうところあるけど、あれはちょっと度を越してた。何度か心が折れかけた」
「折れた?」
「折れかけた。クヌギ先輩に毎回泣きついてたんだよ」
私は笑おうとする。
「一緒にイツキ先輩の悪口言って盛り上がってた」
「……大丈夫なの? それ」
「次の日、クヌギ先輩も吐くほど走らされてた」
「やっぱり」
カヨコちゃんは笑った。
言葉にすると、少しずつ戻ってくる。
ブラックマーケットの細い路地。
油の匂い。
薬剤の甘い匂い。
ヘルメットに落書きをしていた子。
私に妙に懐いていた子。
助けたのは一度だけだったのに、ずっと後ろをついてきた子。
「行き倒れになりかけてたヘルメット団の子たちがいて」
私は手を見る。
「助けたんだよ。最初は、たまたま。放っておけなくて」
「うん」
「そしたら、変に懐かれて」
声が少し震える。
「私のこと、姐さんって呼ぶんだよ。やめてって言ったのに、全然やめないの」
「似合わない」
「でしょ。私もそう思う」
あの子たちは笑っていた。
汚れたヘルメットを被って、安いご飯を分け合って、ブラックマーケットの隅で、それでも楽しそうにしていた。
クヌギ先輩は、その子たちにご飯を分けていた。
私はそれを見て、少しだけ居場所みたいなものを感じていた。
任務で来ただけの場所なのに。
早く帰らないといけない場所なのに。
それでも、少しだけ。
「作戦の時」
視界が少しぼやける。
「最初にクヌギ先輩が死んだ」
言ってしまうと、急に現実になった。
「撤退経路を開けるために。私たちを逃がすために」
手が震える。
「ヘルメット団の子たちも、陽動に回った。やめてって言ったのに、全然やめないの」
言葉がまとまらない。
自分でも何を言っているのか分からなかった。
「あの子たちは、私が行くって言ったから行った。私が止めきれなかった。クヌギ先輩も、私を逃がすために残った」
「イト」
「守るために行ったんだよ」
カヨコちゃんは、私の名前を呼んだだけで、それ以上は言わなかった。
「もっと強くなれば、守れると思った」
喉が震える。
「煙羅トモリを殺した時は、守るためだった。ブラックマーケットでも、守るためだった。製造拠点を潰せば、薬が減ると思った。皆のためになるって、守れるって」
私は手を握る。
まだ、何かを斬った感触がある。
「でも、クヌギ先輩も、あの子たちも死んだ」
そこで、声が崩れた。
「私、何のために強くなりたかったんだろう」
自分でも驚くくらい、涙が止まらなかった。
トモリを殺した時も、泣けなかった。
ブラックマーケットで逃げた時も、泣けなかった。
帰ってきた時も、ヒナちゃんの顔を見た時も、会議で報告している時も、泣けなかった。
なのに、今になって。
「私たちは死なない。だから大丈夫」
カヨコちゃんは、静かに言った。
でも、すぐに首を振った。
「なんてことは、言えない」
私は顔を上げられなかった。
「どれだけ言葉を重ねても、イトの苦しみを全部理解してあげることはできない」
その言葉は、優しくなかった。
優しい嘘ではなかった。
だから、胸の奥に落ちた。
「それでも」
カヨコちゃんが、少しだけ近くへ来る。
「それでも、私はそばにいるから」
カヨコちゃんの腕の中で私は泣いた。
明日、朝になったら、私は元気になるから。
だから、今だけ。
今だけ。