黒原イトの青春 作:ナポリタン
翌朝、目が覚めた時、まず天井が見えた。
知らない天井ではない。
自分の部屋の天井だった。
それだけで、少し遅れて息が抜けた。
ブラックマーケットでは、眠って起きた時にまず周囲の音を確認する癖がついていた。足音。銃声。知らない呼吸。薬剤の匂い。獣のコール。そういうものがないことを確かめてからでなければ、体を起こせなかった。
ここには、それがない。
廊下を走る誰かの足音は聞こえる。遠くで爆発音もした。寮のどこかから「だからそれは私の朝食だって!」という叫び声も聞こえた。
ゲヘナとしては、平和な朝だった。
私はベッドから起き上がり、顔を洗うために洗面台へ向かった。鏡を見る。
目元が少し腫れていた。
「……誰だこれ」
軽口のつもりで言った。
返ってくる声はない。
短くなった髪。少し伸びた背。黒い隈。前より少し硬くなった顔。
黒原イト。
そのはずだった。
でも、鏡の中の自分は、去年の私とはずいぶん違って見えた。
机の上に、水と簡単な食べ物が置かれていることに気づいた。
横に、小さなメモ。
『食べてから行きな』
カヨコちゃんの字だった。
私はしばらくそれを見ていた。
「……お母さんかな」
そう呟いてから、水を飲んだ。
喉を通る冷たさが、妙に現実的だった。
学校へ向かう道は、昨日より少し明るく見えた。
夜のうちに少し雨が降ったらしく、地面の砂埃は薄く湿っている。とはいえ、ゲヘナの街が綺麗になったわけではない。壊れた看板は壊れたままだし、路地には焦げ跡が残っているし、登校途中の生徒が普通に銃を担いで歩いている。
懐かしい。
今度は、少しそう思えた。
校舎に入ると、視線が集まった。
「あれ、黒原さん?」
「帰ってきたんだ」
「髪短くなってる」
「なんか雰囲気変わった?」
聞こえている。
聞こえていないふりをする。
ブラックマーケットでは、自分が周囲からどう見られているかを気にしている余裕なんてなかった。見られる時は、だいたい敵か、取引相手か、助けを求める誰かだった。
でも、ここでは違う。
学校の廊下。
教室のざわめき。
自分の席。
机の上に置かれた教科書。
全部が、あまりにも普通だった。
私は席に座った。
机を指で軽く叩く。
何も起きない。
爆発もしない。誰も襲ってこない。薬剤の匂いもしない。
ただ、授業が始まるだけ。
「……平和って怖いね」
小さく呟いたところで、端末が震えた。
ヒナちゃんからだった。
『少し時間ある?』
胸が跳ねた。
昨日、私はヒナちゃんから逃げた。
話したいことがあると言ってくれたのに、疲れているからと断った。嘘ではない。疲れていたのは本当だ。でも、それだけではない。
私は、逃げた。
端末の画面を見たまま、少しだけ指が止まる。
それから返信した。
『あるよ』
すぐに返ってくる。
『別室に来て』
任務だろうか。
説教だろうか。
どちらにしても、逃げない方がいい。
私は席を立った。
指定された別室に入ると、ヒナちゃんが先にいた。
机の上には、資料の束が置かれている。
その量を見て、私は直感した。
これは銃弾よりまずい。
「ヒナちゃん」
「イト」
ヒナちゃんはいつも通り静かだった。
静かだったけれど、昨日より少しだけ目が柔らかい気がした。気のせいかもしれない。そう思いたいだけかもしれない。
「何かあった?」
「任務じゃない」
「じゃあ、説教?」
「違うよ」
ヒナちゃんは少し笑ってから、机の上の資料を指で示した。
「一年間、ブラックマーケットに出向していた分、未完了の教育課程が残ってる」
私は固まった。
「……なんだって?」
「一年間、ブラックマーケットに出向していた分、未完了の教育課程が残ってる」
「……あぁー、あぁ」
「通常授業に戻る前に、代替課題を終わらせる必要がある」
「これ全部?」
「全部」
京極夏彦の小説ぐらいに分厚いこれを?
「ヒナちゃん、私さ、昨日帰ってきたばっかりで」
「だから今日は別室。無理に通常授業へ出なくていい」
「これ、武器に使えそうなぐらい厚いよ?」
「必要なことだから」
「自由を謳うゲヘナで?」
「ある」
ヒナちゃんは真面目に言う。
私は椅子に座った。
課題の一枚目を見る。
「ヒナ先生」
「何」
「ここ分かりません」
「まだ名前も書いてないのに」
「名前からもう難しい」
「黒原イト」
「天才正解大正解」
「先に進んで」
厳しい。
ヒナちゃんは自分の端末を開き、映像授業を流し始める。私の横で、自分の勉強を進めながら、こちらが詰まると手を止めて教えてくれる形だった。
机を並べる。
鉛筆を持つ。
分からないところで詰まる。
ヒナちゃんが静かに教えてくれる。
それは、昔にもあった光景だった。
高等部に上がる前、テスト前になると、私はよくヒナちゃんに勉強を見てもらっていた。私はすぐに机へ突っ伏し、ヒナちゃんは「起きて」なんて言ってたな。
「イト」
ヒナちゃんの声で、私は顔を上げた。
「そこ、止まってる」
「あ、うん」
「分からない?」
私は紙を見る。
確かに分からない。
でも、それだけではなかった。
「違う」
ペンを置く。
ヒナちゃんが私を見る。
私は、少しだけ息を吸った。
「ごめんね、ヒナちゃん」
ヒナちゃんは黙る。
「ブラックマーケットに行くこと、言わなかったこと」
ようやく言えた。
言葉にすると、胸の奥が少し痛かった。
ヒナちゃんはすぐには答えなかった。
私は続ける。
「ヒナちゃんを信用してなかったわけじゃない」
「うん」
「むしろ、逆で」
言葉を選ぶ。
逃げないように。
昨日みたいに、また後でと言って逃げないように。
「ヒナちゃんに言ったら、たぶん止めてくれると思った。危ないから行かないでって言ってくれると思った。私が守るって言ってくれると思った」
ヒナちゃんの目が、少し揺れる。
「それが……怖かった」
「怖かった?」
「うん」
私は自分の手を見る。
もう黒い刃はない。
でも、斬った感触は残っている。
「ヒナちゃんに守られるの、嫌じゃないんだよ。嬉しいってのも変だけど、大事にされてるんだなって」
喉が詰まりかける。
「だから、甘えたくなると思った。守られる側に戻りたくなると思った」
ヒナちゃんは、何も言わずに聞いている。
「トモリを殺した後、ずっと足りないって思ってた。もっと強くならないと、また誰かが死ぬって。ヒナちゃんの隣に立ちたいって。でも、言ったら、たぶん行けなくなる。そう思った」
言い訳だ。
そう思った。
どれだけ言葉を並べても、私はヒナちゃんに言わずに行った。それでヒナちゃんを傷つけた。
その事実は変わらない。
「それは、ヒナちゃんを傷つけていい理由にはならない」
私は頭を下げる。
「ごめん」
長いような、短いような沈黙。
ヒナちゃんは、ゆっくり口を開いた。
「悲しかった」
私は顔を上げられない。
「危ない場所へ行ったことも。でも、それ以上に、言ってくれなかったことが悲しかった」
「……うん」
「イトが私を必要ないって思ったのかもしれないって、少し思った」
胸が刺されたみたいに痛んだ。
「違う」
「うん」
ヒナちゃんは小さく頷いた。
「今は、分かる」
私はようやく顔を上げた。
ヒナちゃんは私を見ていた。
その目の美しさに、一瞬息が止まる。
「私たちは、互いに互いを大切にしているんだって」
ヒナちゃんは言った。
「だから、今はそれでいい」
その言葉で、少しだけ息ができた。
全部許されたわけではない。
何もなかったことになったわけでもない。
でも、受け取ってもらえた。
「次は、言ってね」
私は少しだけ迷った。
そして、頷いた。
「うん」
ヒナちゃんは静かに頷く。
「じゃあ、続き」
「え」
「課題」
「今、いい話の流れだったよね」
「課題」
「ヒナちゃん、そういうところ揺るがないね」
「イトが留年しちゃう」
中々に痛いところを突いてくる。
「そういや、イツキ先輩は?あの人も私とブラックマーケットに行ってたけど」
いつも余裕綽々なあの人の困り果てた姿が見てみたい。
「あの人は確か、一年生のころには全過程を履修したって聞いたけど」
「何それ!?」
あまりにもの衝撃の事実に私は両手を机について立ち上がる。
「な、それ、なん、変でしょ!」
「それを私に言われても」
困ったように眉を寄せるヒナちゃん。
私は机に突っ伏した。
「無理。脳が燃える」
「まだ半分もいってないのに」
「半分? 今、半分って言った?」
「半分もいってない」
「ヒナちゃん、私のこと嫌いになった?」
「なってない」
「じゃあこの量は何?」
「教育課程」
「教育課程、許すまじ」
「敵じゃない」
ヒナちゃんは少しだけ笑った。
それだけで、机に突っ伏していた顔を少し上げる気になった。
それからしばらく、私は課題と戦った。
「ヒナ先生」
「何」
「ここで出てきたこの文字、さっきまで敵だったよね」
「敵でじゃないわよ」
「でも急に増えた」
「式変形」
「増援じゃん」
「違う」
ヒナちゃんは丁寧に教えてくれる。
私は理解しようとする。
理解しようとはする。
でも、一年分の空白はなかなか重かった。
「無理。知恵熱で死ぬ」
「死なない」
「超人でも学力には勝てない」
「勉強して」
「はい」
返事だけは立派だった。
中身は伴っていなかった。
ヒナちゃんは私の解答用紙を確認し、少し考えたあと、端末を閉じた。
「少し休憩しましょう」
私は顔を上げる。
「寝ていい?」
「体を動かした方がいい」
「急に体育会系」
ヒナちゃんは静かにこちらを見る。
「どれくらい強くなったのか、見てあげる」
煽られた。
静かな顔で、確かに煽られた。
私はゆっくり体を起こす。
「言ったね、ヒナちゃん」
「うん」
「ブラックマーケット帰りの私を舐めてもらっては困りますな」
「なら、見せてみて」
ヒナちゃんの目が、少しだけ楽しそうに見えた。
私は笑う。
「知恵熱明けのハゲタカを見せてあげよう」
そう言って、私たちは訓練室へ向かった。
訓練室には、アコちゃんとキミカ会長も来ていた。
呼んだわけではない。
ただ、ヒナちゃんと私が模擬戦をするという話が流れた時点で、自然と見学者が集まったらしい。ゲヘナの生徒はこういう話に敏感だ。
私は訓練用の棒を手に取る。
軽い。
でも、頼りないほどではない。
ヒナちゃんは終幕:デストロイヤーに訓練弾を装填している。銃口がこちらへ向く前から、少し背筋が伸びた。
ヒナちゃんは私を見る。
「全部は使わないの?」
たぶん、完全獣化のことを言っているのだと思った。
黒い羽根。
異形の体。
黒い刃。
あれを見たことがあるから、ヒナちゃんは警戒している。
私は棒を肩に乗せる。
「知恵熱明けなので省エネで」
「そう」
「それに、全部使うと後片付けが面倒でしょ」
「……泣き言は言わないでよ」
軽口で返した。
でも、本当は少し違う。
完全獣化に頼らずに戦う方法を、この一年で叩き込まれた。
足だけ。
翼だけ。
爪だけ。
完全に獣になれば、強い。
でも、それだけでは足りなかった。
人の形を残したまま戦えなければ、守れない場面が多すぎた。
アコちゃんが記録端末を構える。
「両者、準備はよろしいですか」
「大丈夫」
「いけます」
電子音。
開始。
私は足だけを獣化した。
床を蹴る。
視界が前へ飛ぶ。
ヒナちゃんは即座に撃った。
弾道が見える。
全部を避ける必要はない。
当たる位置をずらせばいい。
翼を片側だけ出し、急制動。棒を振り、飛んできた弾を弾く。正確に叩き落とすというより、軌道をずらす。ペイント弾が壁に弾けた。
ヒナちゃんの目が細くなる。
次の弾が来る。
私は踏み込みを止める。
足の獣化を一瞬だけ解除する。
急に速度が落ちる。
ヒナちゃんの照準が、私の先を撃った。
次の瞬間、もう一度足を変える。
加速。
「そういう使い方」
ヒナちゃんが呟く。
「どうよ」
「厄介ね」
「褒め言葉として受け取る」
距離を詰める。
ヒナちゃんは下がらない。
デストロイヤーを構えたまま、銃口を私の中心に合わせる。私は棒で銃身をそらす。重い。銃なのに、鈍器みたいに重い。
いや、ヒナちゃんの扱いが鈍器だった。
次の瞬間、デストロイヤーが横から振られる。
私は棒で受けた。
金属音が鳴る。
「ヒナちゃん、銃ってそう使うものだっけ!?」
「必要なら」
「物騒な答え」
ヒナちゃんは小柄な体を活かして、私の懐へ入る。
速い。
低い。
見失う。
私は翼を広げ、半歩だけ浮く。足元をすり抜けるようなヒナちゃんの動きから逃げ、上から棒を落とす。ヒナちゃんはデストロイヤーで受け、体をひねって反動を逃がした。
強い。
知っていたけど、強い。
ブラックマーケットで何度も死にかけた私が、そう思うくらいに。
でも、追いつけないほどではない。
私は棒を引き、左足だけを獣化する。
片側だけの加速。
体が斜めに飛ぶ。
ヒナちゃんの照準が遅れる。
棒がデストロイヤーを叩く。
銃口が外れる。
ヒナちゃんはすぐに後退し、壁を蹴って距離を取った。
来る。
連射。
私は翼を大きく広げた。
黒い羽根が視界を覆う。
ヒナちゃんの弾が私を撃ち抜く。
弾けるペイント。
崩れる羽根。
でも、そこに私はいない。
羽で作ったダミー。
ブラックマーケットで覚えた小細工の一つだった。
ヒナちゃんが気づく。
速い。
でも、一瞬遅い。
私は背後に回り込んでいた。
棒を捨て、ヒナちゃんの腕を取る。デストロイヤーを押さえ、体勢を崩し、床へ組み伏せる。
電子音。
「勝者、黒原イト」
訓練室が一瞬、静かになった。
私も、ヒナちゃんも息を切らしていた。
床に押さえられたヒナちゃんが、こちらを見る。
紫の目が、少しだけ見開かれている。
私は息を整えながら言った。
「私の勝ち」
「……強くなったね」
その言葉が、思っていたより胸に入ってきた。
ブラックマーケットで誰に評価されるより、イツキ先輩に認められるより、任務報告が成功になるより、ずっと。
「ヒナちゃんに言われると、ちょっと嬉しい」
「本当に、強くなった」
ヒナちゃんはもう一度言った。
私は手を離し、ヒナちゃんが起き上がるのを手伝う。
ヒナちゃんの手は温かかった。
アコちゃんが記録端末を見たまま、何とも言えない顔をしている。
「黒原さん、今の羽根のダミーはいつから」
「ブラックマーケット生活の知恵」
「嫌な生活の知恵ですね」
キミカ会長が低く笑った。
「ヒナから一本取るとはな」
「やりました。これで私もゲヘナの強者ランキングに載れますか」
「十本の指くらいには入るんじゃないか」
「やった」
模擬戦の後、私は訓練室の壁際に座り込んだ。
体よりも頭が疲れていた。
結局、課題から逃げるために模擬戦をしたはずなのに、より疲れた気がする。
「課題やってた方が楽だったかも」
私がそう言うと、ヒナちゃんは隣に座りながら少し呆れた顔をした。
「じゃあ戻りましょ」
「はい」
私は素直に返事をした。
返事だけは。
ヒナちゃんはそれを見て、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が緩む。
一年前に戻ったわけではない。
私は変わった。
ヒナちゃんも変わった。
失ったものもある。
もう戻らない人もいる。
それでも、今ここにいるヒナちゃんは、私の隣に座っている。
それだけで、少しだけ息ができた。
帰り道、空はもう暗くなり始めていた。
ゲヘナの街灯は半分くらい壊れていて、残りの半分は妙に眩しい。路地の奥では相変わらず何かが爆発していたけれど、二人で歩く道は、少しだけ静かだった。
「そういえば」
ヒナちゃんが言った。
「近くに、ファミレスができたわ」
私は反応する。
「ファミレス?」
「うん」
「ゲヘナに?」
「ゲヘナに」
「爆発しない?」
「たぶん」
「たぶん」
そこは確定してほしかった。
ヒナちゃんは少しだけ目を逸らす。
「行ってみたいと思ってた」
その言い方が、妙に控えめだった。
私はすぐに言った。
「じゃあ行こう」
ヒナちゃんは少し驚いたようにこちらを見る。
「今?」
「今」
「課題は」
「ファミレスでやる」
「……やらないでしょ」
「ヒナちゃんがいればやる」
「本当に?」
「少しは」
ヒナちゃんは小さく息を吐いた。
新しくできたファミレスは、外壁の一部がすでに焦げていた。
ゲヘナで営業するには、まず耐爆性が必要なのかもしれない。
店内は意外と普通だった。明るい照明。テーブル席。メニュー。呼び出しボタン。窓際の席からは、少しだけ街の灯りが見えた。
私はメニューを開いた。
選択肢が多い。
多すぎる。
「……選べない」
ヒナちゃんが向かいの席から見る。
「ゆっくり選んでいいから」
「そういうの、久しぶり」
言ってから、少しだけ黙った。
ブラックマーケットでは、食べられるものを選ぶ余裕はあまりなかった。あるものを食べる。食べられる時に食べる。そうしないと動けなくなる。
今は、どれを食べるかで迷っている。
それだけのことが、少し苦しいくらい嬉しかった。
ヒナちゃんは静かに言った。
「これから、増やせばいい」
「何を?」
「普通のこと」
私はヒナちゃんを見る。
ヒナちゃんはメニューを見ているふりをしていた。
でも、耳が少し赤い気がした。
「うん」
私は頷く。
「増やそう」
ハンバーグとパスタで悩んだ末に、結局両方頼んだ。
ヒナちゃんは少し驚いていた。
「食べられる?」
「ブラックマーケット帰りの胃袋を舐めてはいけない」
「無理しないで」
「無理じゃない。これは希望」
「希望」
「そう。食の希望」
ヒナちゃんは少しだけ笑った。
結局、課題はあまり進まなかったけどね。