黒原イトの青春 作:ナポリタン
翌朝、私はちゃんと学校へ向かった。
昨日はヒナちゃんと課題をやって、模擬戦をして、ファミレスに行った。ファミレスで広げた課題はほとんど進まなかったけれど、ハンバーグとパスタはちゃんと食べた。ヒナちゃんには「食べすぎ」と言われたが、ブラックマーケット帰りの胃袋としてはまだ余裕があった。たぶん。
帰ってきた。
昨日は、少しだけそう思えた。
ヒナちゃんに謝れた。ヒナちゃんはそれを受け取ってくれた。模擬戦では勝てたし、ファミレスでは普通に迷って、普通に食べて、普通に間違えた課題を直してもらった。
だから、今日は少しだけ足取りが軽かった。
軽かった、はずだった。
校舎に入ってすぐ、放送が鳴った。
『風紀委員会所属生徒、ならびに関係各員は、至急会議室へ集合してください。繰り返します――』
声はアコちゃんだった。
緊急事態の時の声ではない。けれど、普段の連絡よりずっと硬い。慌てているのではなく、余計な揺れを押し殺している声だった。
私は足を止める。
周囲の生徒たちも放送を聞いてざわついていた。風紀委員会全体への招集は珍しくない。珍しくはないが、こういう声の時は、だいたい珍しくないだけでは済まない。
「……昨日ファミレス行っててよかったな」
そう呟いてから、私は会議室へ向かった。
会議室には、すでに人が集まっていた。
キミカ会長、イツキ先輩、ヒナちゃん、アコちゃん、カヨコちゃん。そのほかにも、各部門の担当者や前線に出る予定の風紀委員たちが席についている。いつもの会議室なのに、そこに流れている空気は明らかに重かった。
私はヒナちゃんの近くに座る。
ヒナちゃんがこちらを見る。
「おはよう」
「おはよう。課題の追撃じゃないよね」
「違う」
ヒナちゃんは小さく首を振った。
「まだ詳しくは聞いてない」
それだけで、胃の奥が少し冷えた。
ヒナちゃんにも事前共有されていない。つまり、かなり上の判断か、あるいは共有する余裕がなかった内容だ。
アコちゃんが端末を操作すると、会議室の正面に地図が表示された。映し出されたのはゲヘナ東側、生徒会の管理区域だった。そこには複数の赤い印が並び、補給路や警戒区域を示す線が、重なるように引かれている。
キミカ会長が立ち上がった。
いつものように堂々としている。強い人が強い声で話す時の迫力はあった。ただ、今日はその下に、長い間押し込めてきた何かがあるように見えた。
「全員、よく集まった」
会議室が静まり返る。
「これより、ゲヘナ生徒会への本格介入について説明する」
誰も声を上げなかった。
でも、空気が一段重くなったのは分かった。
イツキ先輩が資料を開く。
「まず前提から整理する。アビドスで確認された列車砲シェマタは破壊済み。ブラックマーケット地下の超人薬製造工場も、先日の作戦で機能停止に追い込んだ」
画面が切り替わる。
アビドスのシェマタ跡地と、ブラックマーケット地下工場の図面が並ぶ。薬剤タンクの位置、破壊された区画、搬出車両の痕跡、そしてゲヘナ東側へ伸びる輸送経路が、赤い線で示されていた。
「ブラックマーケットの工場は、黒服側の薬剤供給網における主要製造拠点の一つだった。破壊によって、生徒会側の獣化個体、強化個体の増産能力は大きく低下したと見ている」
アコちゃんが補足する。
「ただし、研究中枢そのものではありません。上位の設計データや一部薬剤は、作戦開始前に搬出されています。搬出先はゲヘナ東側の可能性が高いと判断されています」
ゲヘナ東側。
私は、無意識に手を握っていた。
ヒナちゃんがそれに気づいたのか、ほんの少しだけこちらへ視線を向ける。私は気づかないふりをした。
キミカ会長が言う。
「ここ一年、生徒会側に大きな動きはなかった。だが、それは奴らが諦めたからではない」
イツキ先輩が画面を切り替える。
今度は、内部協力者から届いた報告が表示された。日時、場所、目撃内容、異音、ロカの私室周辺で確認された異常な反応。それらの記録は断片的だったが、同じ方向を示していた。
「内部協力者からの情報によれば、五摂ロカの状態は悪化している。人の形を保てなくなっているとの報告だ」
会議室の空気が少し変わった。
ロカが弱っている。
そう聞けば、普通なら好機に思える。けれど、シェマタを見た者、超人薬を知る者、ロカの異常を知る者にとって、それは単純な弱体化ではなかった。
肉体が壊れている。
それは、檻が壊れているということだ。
中身が外へ出る。
その時、何が起きるのか。
考えたくなかった。
「奴の不調は好機だ」
キミカ会長は言った。
「同時に、放置すれば今より悪くなる。三年の卒業まで待つ理由はない」
少しの沈黙。
「ここで、因縁にケリをつける」
作戦配置が表示された。
最初に示されたのは、キミカ会長と五摂ロカの対峙だった。その一文だけで、会議室の空気が変わる。
公佳キミカ。
風紀委員会会長。
ゲヘナでも指折りの強者。
その人が、ロカを相手にする。
私は画面を見る。
次の配置には、私とイツキ先輩の名前が並んでいた。
担当は、東宮斎ホノカ。
喉が、少しだけ乾いた。
「私とイツキ先輩で、東宮斎ホノカを」
思わず呟く。
イツキ先輩がこちらを見る。
「そうだ」
「胃が痛いですね」
「胃で戦うわけではないから問題ない」
「そういうところですよ」
東宮斎ホノカ。
雷の超人。
反抗作戦の記録によると、五摂ロカに次いで多くの損害をもたらした生徒会側の主力。
その相手を、私とイツキ先輩で止める。
次に表示されたのは、ヒナちゃんの配置だった。ヒナちゃんは、マヤ、メルリ、そして獣化個体群の抑えに回る。つまり、生徒会側の面制圧を任されるということだった。
ヒナちゃんは静かに画面を見ている。
アコちゃんは支援と指揮に入り、通信、補給、損耗管理、撤退路確保を担う。カヨコちゃんは遊撃と後方支援を担当し、必要に応じて前線の穴を埋める。ほかの風紀委員たちも、それぞれの役割に割り振られていった。
「決行は一週間後」
キミカ会長が言った。
「それまで、各員は抜かりなく準備を整えろ。これは演習ではない。失敗すれば、ゲヘナ全体が生徒会に呑まれる」
会議室は静かだった。
誰も冗談を言わない。
誰も頷かない。
私は、自分の名前が表示された画面を見つめていた。
また、誰かを斬るのかもしれない。
会議の後半では、避難計画が説明された。
生徒会との決戦に合わせて、一年生や二年生のうち、風紀委員会所属ではない生徒たちは、アビドス分校へ一時的に移籍、もしくは避難することになる。
アビドス分校。
その名前を聞くと、砂漠の風を思い出す。
シェマタの砲身が砂の中から伸びていたことも、煙の向こうでビナーが動いていたことも、トモリが最後に見ていた夢のことも、まだ忘れられない。そして、その場所にはユメさんとホシノちゃんがいた。
ユメさんは卒業した。
今、アビドス生徒会長はホシノちゃんだ。
通信が繋がると、画面の向こうにホシノちゃんが映った。
最初、少しだけ誰か分からなかった。
いや、顔はホシノちゃんだ。目も、声も、あの時のホシノちゃんだった。でも、雰囲気がずいぶん変わっている。短く切りそろえられていた髪は、前より少し伸びていた。話す前の表情も、どこか柔らかい。
「お久しぶりです、風紀委員会の皆さん」
声も少し緩い。
私は思わず言った。
「ホシノちゃん、なんかユメさんっぽくなった?」
画面の向こうで、ホシノちゃんが固まった。
「うへ……そんなに分かる、ンン、分かります?」
「髪とか、喋り方とか」
ホシノちゃんは少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「新しく後輩が入ってくるんですよ。今の私、ちょっと硬いし怖い印象を与えちゃうので」
少し間があく。
「どんな先輩がいいかなって考えたら、ユメ先輩が思い浮かんだんです」
その言葉で、少し胸が温かくなった。
ユメさんはここにはいない。
けれど、ホシノちゃんの中に残っている。
ホシノちゃんは照れを振り払うように咳払いした。
「私は前線には出られません。アビドス分校を空けるわけにはいかないので」
そして、声が少しだけ真面目になる。
「でも、後方は守ります。避難してくる生徒も、物資も、通信も、できる限りこっちで支えます。だから、安心して臨んでください」
ヒナちゃんが頷く。
「助かるわ」
アコちゃんも正式に礼を述べた。
「アビドス側の協力に感謝します。避難生徒の名簿と物資輸送計画は、この後共有します」
「はい。こちらでも受け入れ態勢を整えます」
ホシノちゃんは一度だけ、私を見る。
「イトちゃん」
「うん?」
「勝ってね」
あの頃のホシノちゃんなら、もう少し皮肉を混ぜたかもしれない。ゲヘナに巻き込まれた側として、もっと棘のある言い方をしたかもしれない。
でも、今のホシノちゃんはただそう言った。
守る者として。
ユメさんから受け取ったものを抱えている者として。
「絶対勝つ」
その後、キミカとイツキは別室へ移動し、トリニティ正義実現委員会との通信を繋いだ。
会議室に残っていた喧騒は遠く、別室には端末の起動音だけが低く響いている。画面が明るくなり、通信先の映像が表示された。
画面の向こうには、剣先ツルギと羽川ハスミがいた。
正義実現委員会は代替わりしていた。梶噛ナナナは卒業し、次代委員長には剣先ツルギ、副委員長には羽川ハスミが就いている。
イツキは、いつもの淡々とした調子で口を開いた。
「委員長就任、おめでとう。剣先ツルギ君」
ツルギは少し居心地悪そうに目を逸らした。
「……どうも」
その横で、ハスミが丁寧に補足する。
「正式には、まだ移行後の調整中ですが、実務上はこの体制です」
「なら、実務上の責任者として話を進める」
キミカはそう言って、すぐ本題に入った。
決戦当日のトリニティ側の動き。
そこに期待できるものが多くないことは、通信を繋ぐ前から分かっていた。けれど、確認しないわけにはいかない。
ハスミは、淡々とした口調で説明した。
「ティーパーティーの意向により、正義実現委員会は前線には出られません。ゲヘナ内部の決戦にトリニティが直接介入すれば、全面衝突の火種になりかねないという判断です」
シェマタ事件以降、トリニティは超人薬とロカを危険視している。だが、それでも表立ってゲヘナの内戦に踏み込めば、政治的には別の意味を持ってしまう。敵が危険だからといって、トリニティがゲヘナの生徒会と風紀委員会の争いへ直接兵力を出せば、その瞬間に別の戦争が始まる。
ツルギは短く息を吐いた。
「……申し訳ないです」
キミカは笑った。
「構わん。政治というやつだろう」
その言葉には皮肉もあったが、責める響きはなかった。
ハスミは続ける。
「正義実現委員会が行えるのは、アビドス分校の護衛、ゲヘナとトリニティ境界線の警備、そして風紀委員会が敗北した場合の対応です」
画面上に、簡易的な配置図が表示される。
アビドス分校へ避難する生徒たちの受け入れ経路。トリニティとの境界線上に置かれる警戒部隊。さらに、ゲヘナ側の戦況が崩れた場合に備えた追撃、または被害拡大防止のための待機位置。
「風紀委員会が生徒会側を大きく損耗させた状態で敗北した場合には、連邦生徒会が手配するSRT部隊とともに追撃部隊として動く可能性があります。ただし、その判断は状況次第です」
「つまり、私たちを勝たせるための援軍ではなく、私たちが負けた後に被害を広げないための配置ということか」
キミカが言う。
ハスミは否定しなかった。
「はい」
イツキは画面を見たまま、静かに頷く。
「それで十分だよ。少なくとも、背後に避難民を抱えたまま戦うよりはずっといい」
キミカも頷いた。
「十分だ」
ツルギは少しだけ顔を上げた。
「無事を祈ります」
キミカは少し間を置いてから、返した。
「祈られるほど弱くはない」
そして、続けた。
「と言いたいところだが、今回はありがたく受け取っておく」
通信が切れる直前、ツルギは何か言いたそうにしていた。だが、最後まで言葉にはしなかった。ハスミもまた、静かに頭を下げるだけだった。
通信が終了し、画面が暗くなる。
別室に沈黙が落ちた。
イツキは端末を閉じながら言った。
「連邦生徒会長は、本来なら増援を出す意向だった」
キミカは窓の外を見る。
「だが、出せなかった」
「過去の反抗作戦で、当時のSRT部隊のほとんどが死亡している。その傷がまだ残っているんだろうね。再投入に反対する声が多く、前線への直接増援は棄却された」
「SRTは後詰め。正義実現委員会も前線には出られない」
キミカは、確認するように言った。
「つまり、私たちはほぼ単独で生徒会の支配領域へ入る」
イツキは頷く。
「そうなる」
その事実だけが、静かに残った。
一週間は、思っていたより短かった。
作戦の確認や装備の調整、通信手順の確認に加えて、避難誘導やアビドス分校への移送手配、薬剤反応への対処法、ホノカの想定行動、マヤとメルリの能力確認、獣化個体への対応まで、やることは山ほどあった。
課題もあった。
これは本当にどうかと思う。
私は忙しさを理由に何度か逃げようとしたが、そのたびにヒナちゃんに見つかった。
「イト、課題」
「今、ゲヘナの命運が」
「課題」
「はい」
決戦前なのに、なぜ私は教育課程と戦っているのだろう。
でも、その時間がなかったら、私はたぶんもっと悪い方向へ考え込んでいた。
問題を解いて、間違えて、ヒナちゃんに直される。その単純な繰り返しが、心を変な場所へ行かせないための重しになっていた。
そして、決戦前夜が来た。
眠れなかった。
いや、眠ろうとはした。
ベッドに横になり、目を閉じる。すると、思い出したくないものが順番に浮かんでくる。
トモリの煙。黒い刃。クヌギ先輩の声。ヘルメット団の子たちの笑い声。薬剤工場の赤い光。ホノカの名前。ロカの笑い声。
私は目を開けた。
端末が震えたのは、その時だった。
ヒナちゃんからだった。
『起きてる?』
私は少しだけ笑った。
『寝てる』
すぐに返ってくる。
『嘘』
『ばれた』
少し間があってから、次の文が届いた。
『少し、歩かない?』
今日のゲヘナは、いつもと打って変わって静寂に満ちていた。
いつもならどこかで鳴り響いている爆発音だったり銃声が、全く聞こえない。
私たち以外の生徒や市民は皆アビドスに行ったから、なんだか映画のセットのように感じる。
ヒナちゃんは、校舎の外で待っていた。
制服の上に薄い上着を羽織っている。銃は持っていない。
「眠れなかった?」
私が聞くと、ヒナちゃんは少しだけ頷いた。
「イトも」
「私は寝てたよ」
「嘘」
「はい」
二人で歩き出す。
特に目的地はなかった。風紀委員会本部の周囲を抜け、少しだけ街へ出る。夜の風は少し冷たかった。
「今日は静かだね」
「うん」
「映画の撮影みたいじゃない?」
「……素敵ね」
「ミュージカル。そう、一曲歌っちゃおうか」
「他にも寝てる子はいるでしょう?」
「それもそうだね」
くだらない話をする。
明日、生徒会と戦うとは思えないくらい、くだらない話だった。
でも、そのくだらなさに救われた。
しばらく歩いてから、ヒナちゃんが言った。
「戦いが終わったら」
「終わったら?」
ヒナちゃんは少し迷ったように見えた。
「どこかに行きたい」
「ヒナちゃんが?」
「うん」
「どこ?」
「どこでもいい。トリニティでも、アビドスでも、ミレニアムでも」
少し間。
「普通の生徒みたいに」
普通の生徒。
ずっと遠くにあるものみたいに聞こえた。
でも、本当はそうじゃなかった。昨日、私たちは課題をして、模擬戦をして、ファミレスへ行った。普通のことは、まだ完全に失われたわけではない。
私は言った。
「じゃあ、修学旅行しよう」
ヒナちゃんがこちらを見る。
「修学旅行?」
「うん。公式じゃなくても、勝手に。キヴォトスの学園を見て回るやつ」
私は指を折る。
「トリニティでお茶して、アビドスで砂漠見て、ミレニアムで変な機械に巻き込まれて」
「最後のは嫌」
「でもありそう」
「あるかもしれない」
二人で少し笑った。
「アコちゃんも、カヨコちゃんも誘おう。イツキ先輩も」
「来るかな」
「来るよ。なんだかんだで」
「キミカ会長は?」
私は少し考える。
「たぶん引率の先生みたいになる」
ヒナちゃんは想像したのか、少しだけ目を細めた。
「似合うかもしれない」
「絶対途中で何か壊すよ」
「それもありそう」
笑ったあと、少しだけ沈黙が落ちる。
私はヒナちゃんを見る。
「約束ね」
ヒナちゃんもこちらを見た。
「うん。約束」
その言葉は、小さかった。
でも、確かにそこにあった。
戦いが終わったら、修学旅行へ行く。
普通の生徒みたいに。
その約束を、私は胸の奥にしまった。
寮へ戻る前に、私はカヨコちゃんを呼んだ。
理由は簡単だった。
「寝よう」
カヨコちゃんは、少しだけ目を細めた。
「急に?」
「一人だと寝られないでしょ。私もたぶん寝られない。ヒナちゃんもたぶん寝られない」
ヒナちゃんは否定しなかった。
カヨコちゃんは少しだけ息を吐く。
「子どもみたい」
「決戦前夜なので」
「理由になってるようで、なってない」
「いいから」
結局、三人で並んで眠ることになった。
正確には、眠ろうとした。
部屋の明かりを落とし、布団を並べる。私は真ん中にされかけて、さすがにそれは恥ずかしいと抗議したが、カヨコちゃんに「逃げるから」と言われて却下された。ヒナちゃんは何も言わなかった。何も言わないのが一番強かった。
暗い部屋の中で、三人の呼吸だけが聞こえる。
眠れるかどうかは分からなかった。
けれど、一人ではなかった。
それだけで、目を閉じることはできた。
同じ夜。
イツキは風紀委員会本部の屋上で通話を行っていた。
「どうしたんだい、君から電話なんて」
風が吹き、イツキの髪を揺らす。
端末の向こうから聞こえる声は、屋上の静けさに溶けるほど小さかった。
「ああ、そういうことか」
イツキは目を伏せる。
「また夢の中で会えるというのに」
少し間を置いて、イツキは薄く笑った。
「生憎、僕はロマンチストじゃないからね」
端末の向こうの声が、何かを告げる。
イツキはしばらく黙っていた。
「……でも、そうだね」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「ありがとう」
夜のゲヘナを見下ろしながら、イツキは言う。
「君のおかげでこの未来を描けた」
短い沈黙。
「さようなら、百合園セイア」
通話が切れた直後、屋上の扉が開いた。
キミカがそこに立っていた。
「……ここにいたのか」
普段の彼女を知っている人間が見れば驚くほど、キミカの顔色は悪かった。
「少し友人と連絡をね」
イツキがそう返すと、キミカはそれ以上追及しなかった。
彼女はフェンスにもたれ、しばらく何も言わなかった。イツキも急かさない。いつものように冷静な顔で、隣に立っている。
「私は」
やがて、キミカが口を開いた。
「ロカには勝てない」
その声は、会議室の時とは違っていた。
会長の声ではない。
一人の少女の声だった。
「反抗作戦の時点で分かっていた。あれは、私がどうこうできる相手ではない。格が違う」
イツキは何も言わない。
「最近はヒナにも一本取られることが増えた。悪いことじゃない。むしろ、あの子が伸びているのは喜ばしい。イトは、そんなヒナから一本取った」
キミカは少しだけ笑った。
「後輩が育つのは、いいことだ」
「そうだね」
「だけど、それは同時に、私の役目が終わりに近づいているということ」
風が吹いた。
キミカの髪が揺れる。
「死にたくない」
その言葉は、あまりにも小さかった。
「戦うのが怖い」
イツキは、キミカを見る。
キミカの肩が震えていた。
「私は、ロカに勝てない」
彼女は強かった。
誰よりも強く見えた。
豪放で、迷いがなく、皆の前に立つ人だった。
けれど今ここにいるのは、人より少し強く、人より少し正義感があって、人より少し多く責任を背負ってしまった十七歳の少女だった。
イツキは知っていた。
キミカではロカに勝てない。
彼女の知る未来に、キミカはいなかった。
自分がこれから言うことは、死にに行けと言うことと同じだった。
それでも、言わなければならない。
ゲヘナのため。
死んでいった仲間のため。
後輩たちのため。
そして、キミカ自身がそれを分かっていても、誰かに命じられなければ進めないことも、イツキは分かっていた。
「キミカ」
イツキは言った。
キミカは顔を上げない。
「死ぬまで、ロカから時間を稼げ」
風の音が、一瞬強くなる。
「ゲヘナのために死ね」
キミカの顔が歪んだ。
次の瞬間、彼女は泣き崩れた。
イツキはその体を抱きとめる。
普段なら、キミカは誰かの前で泣かない。弱さを見せない。怖いと言わない。
でも、今は泣いた。
声を殺しきれず、肩を震わせて、イツキの服を掴んだ。
「嫌だ」
「うん」
「死にたくない」
「うん」
「怖い」
「うん」
イツキは否定しなかった。
励ましもしなかった。
ただ、抱きしめた。
「大丈夫」
それから、耳元でささやく。
「君を一人になんかしない」
キミカが息を呑む。
イツキの声は静かだった。
「僕も、すぐそこに行く」
屋上の下では、決戦前夜のゲヘナが眠れないまま息をしていた。
翌朝、風紀委員会は東へ向かう。
生きて帰るための約束と、死ぬための命令を抱えたまま。
夜は、ゆっくりと明けようとしていた。