黒原イトの青春 作:ナポリタン
目を覚ますと、まず誰かの体温が近くにあった。
右側にはヒナちゃんがいて、左側にはカヨコちゃんがいる。昨夜、三人で並んで眠ることになったのは覚えていたが、こうして朝になってから改めて状況を確認すると、思っていた以上に妙な絵面だった。
ヒナちゃんは静かに寝息を立てていた。普段の張り詰めた表情が少しだけ解けていて、年相応に見える。カヨコちゃんは、眠っているのか起きているのか分かりにくい顔で横になっていた。目を閉じているのに、何かあればすぐ起きそうな気配がある。
私はしばらく、動けなかった。
昨夜は、完全に眠れたわけではない。浅い眠りの中で何度も目が覚めたし、遠くの爆発音に体が反応してしまうこともあった。それでも、一人で朝を迎えるよりはずっとましだった。目を開けた時、隣に誰かがいる。それだけで、胸の奥に残っていた硬いものが少しだけ緩む。
「……起きてる?」
左から声がした。
カヨコちゃんだった。
「寝てる」
「その返し、昨日もヒナにしてた」
「流行ってるんだよ」
「流行らせないで」
カヨコちゃんは目を開け、こちらを見る。寝起きのはずなのに、表情はいつもとあまり変わらなかった。ただ、目元に少しだけ眠気が残っている。
ヒナちゃんが小さく身じろぎする。
目がゆっくり開く。数秒だけぼんやりして、それから私とカヨコちゃんを見た。
「……おはよう」
「おはよう、ヒナちゃん」
「おはよ」
風紀委員会本部前には、すでに多くの生徒が集まっていた。
校舎前の広場には、各班ごとに風紀委員たちが整列している。装備を確認する者、通信端末を調整する者、弾倉を数える者、救護用品を抱えて走る者。普段の騒がしさとは違う、戦いの前のざわめきが広がっていた。
空は薄く曇っている。
雨が降りそうなほどではないが、日差しは弱い。ゲヘナの建物の影はいつもより濃く見え、壊れた外壁や焦げた看板が、朝の光の中で妙にくっきりと浮かび上がっていた。
アコちゃんが端末を片手に、次々と確認を進めている。
「通信班、全系統の確認を」
「第一、第二、第三系統、いずれも接続確認済みです」
「撤退路の確保状況は」
「西側二経路、南側一経路を確保。東側は敵支配区域のため未確認です」
「補給班、弾薬と医療品の配備は」
「前線用補給三班、後方二班。救護班は本部と西側退避路に配置済みです」
アコちゃんは頷き、別の表示へ切り替える。
「アビドス分校への避難状況は」
「非戦闘員の移送、八割完了。残りは午前中に完了予定です」
「トリニティ境界線の警備は」
「正義実現委員会が配置完了。直接介入はありませんが、境界封鎖と避難路保護は予定通りです」
淡々とした確認が続く。
広場の前方には、キミカ会長が立っていた。
イツキ先輩がその横にいる。キミカ会長はいつも通り背筋を伸ばし、風紀委員たちを見渡していた。その姿に迷いは見えない。いつもと同じ強い会長に見えた。
強くて、豪快で、先頭に立つ人。
だからこそ、皆がその背中を見る。
キミカ会長が一歩前に出ると、広場のざわめきが少しずつ静まっていった。
「過去に報いるために、私たちの明日のために」
長い演説ではなかった。
ただ、その声は広場の隅まで届いた。
「勝つぞ」
風紀委員たちの顔つきが変わる。恐怖が消えたわけではない。緊張がなくなったわけでもない。それでも、誰も目を逸らさなかった。
イツキ先輩が端末を確認する。
「作戦開始。全隊、前進」
その声を合図に、風紀委員会は東へ向かった。
ゲヘナ東側は、同じ学園の中にある場所とは思えなかった。
境界を越えた瞬間、街の音が変わる。西側の騒がしさは乱暴で、雑で、どこか日常の延長にあるものだった。けれど東側に入ると、音はもっと乾いていた。壊れた建物の隙間を風が抜け、割れた窓枠がかすかに鳴る。遠くで何かが倒れる音がしても、それに反応する人の声はない。
学園というより、占領地だった。
あるいは廃墟。
あるいは、実験場。
建物は壊れたまま放置され、壁には生徒会の旗と落書きが残っている。道路には焦げ跡がいくつも重なり、薬剤の甘く腐ったような匂いが、湿った空気の底に沈んでいた。路地の奥には、誰かの死体が転がっている。制服は汚れ、顔は見えない。敵か味方かも分からない。ただ、もう起き上がらないことだけは分かった。
一般生徒の姿はほとんどなかった。
代わりに見えるのは、生徒会側の兵らしき生徒、薬剤で強化された不良、そして人の形を残しながらも、もう人の目をしていない獣化しかけた生徒たちだった。
私は奥に見える建物を見上げた。
旧ゲヘナ本校舎。
東側の中心に残る、古い校舎。外壁は半分崩れ、塔の一部は折れている。それでも、そこだけは他の廃墟とは違って見えた。瓦礫の山の向こうに沈む黒い塊のようで、近づくほどに空気が重くなる。
そこから、複数のコールを感じる。
普通の獣のコールではない。超人のものとも少し違う。いくつもの気配が絡み合い、混ざり、互いの境目を失っている。蛇、煙、雷、紙、獣。知っている気配も、知らない気配も、全部がひとつの黒い沼のように沈んでいた。
その中心に、ロカがいる。
そう思った瞬間、足が少し重くなった。
奥の通りから異音がした。
爪が地面を引っ掻く音。複数の足音。喉の奥から漏れる唸り。まだ姿は見えないが、近づいてくる数は多い。
黒い刃が手の中に形を持つ。
金剛星刀。
その名前をつけたのは、ブラックマーケットで出会ったヘルメット団の子だった。リーダー格の彼女は、妙に得意げな顔で「姐さんの武器なんだから、名前がないと締まらないっしょ」と言っていた。あの時は大げさな名前だと思って笑ったし、周りの子たちも呆れながら楽しそうにしていた。
けれど今、その名前を思い出すと、胸の奥が静かに痛んだ。
それでも、刃は手の中にある。
「来る」
私が言うと、ヒナちゃんがデストロイヤーを構えた。
キミカ会長がショットガンを肩に乗せる。
「正面から来るなら分かりやすい」
その声は、いつも通りだった。
獣化個体群が通りの向こうに現れる。
人型を保っているものもいれば、すでに四肢の形が崩れかけているものもいた。目は血走り、口元からは涎が落ちている。こちらを見た瞬間、群れ全体が地面を蹴った。
ヒナちゃんの弾幕が、その突進を迎え撃つ。
デストロイヤーの連射音が廃墟の通りに響き、先頭の個体が次々と足を崩される。殺すための弾ではなく、突進の勢いを削ぐための弾。ヒナちゃんは敵の数と速度を見ながら、群れの流れそのものを狭めていく。
弾幕を抜けた個体へ、キミカ会長が踏み込んだ。
ショットガンの轟音。
獣化個体が吹き飛び、崩れた壁へ叩きつけられる。キミカ会長は反動をものともせず、次の個体へ銃口を向けた。その動きは荒々しいのに、無駄がない。強い人の戦い方だった。
私はヒナちゃんの弾幕の隙間を抜ける。
足だけを獣化し、加速する。目の前の個体が爪を振り下ろすより先に、金剛星刀を横へ走らせた。肉を斬る感触ではない。もっと奥にある、獣化を支える核のようなものに刃が触れ、それを断つ。
個体が膝から崩れ落ちる。
「第一列、今」
通信にイツキ先輩の声が入る。
「撃て」
後続の風紀委員たちが一斉に斉射する。
ヒナちゃんとキミカ会長、私が勢いを殺したところへ、後方からの射撃が重なる。獣化個体群の先頭が崩れ、後続が足を取られる。そこへさらに第二列が撃ち込む。
「第二列、間を空けるな。第一列は左右へ展開。突出した個体を囲め」
イツキ先輩の指示は淡々としていた。
戦場に熱があればあるほど、その声は冷たく響く。だが、その冷たさが全体を保っていた。誰がどこへ動くべきか、どの群れを先に潰すべきか、どこに穴が開きそうか。イツキ先輩は、戦場を少し上から見ている。
アコちゃんはさらに後方で、損耗と通信を整理していた。
「第三班、右側へ寄りすぎています。左後方に空白が発生。カヨコさん、補助に回れますか」
「了解」
カヨコちゃんの短い返答が入る。
初戦は、こちらが押していた。
ヒナちゃんの弾幕、キミカ会長の突破力、金剛星刀による獣化反応の切断、イツキ先輩の指揮、アコちゃんの調整。噛み合っている。少なくとも、正面から来るだけなら対処できる。
けれど、敵の数は多すぎた。
倒しても、止めても、次が来る。
長引けば削られる。
そう感じた時、足元で紙が擦れるような音がした。
最初に現れたのは、白い折り紙だった。
壁に貼りついていた紙片が、風もないのに一斉に開く。鳥の形に折られた紙が空へ舞い、蛇の形に折られた紙が地面を這い、刃物の形に折られた紙が陽光を受けて鈍く光った。
「畳紙メルリ」
ヒナちゃんが低く言う。
折り紙が壁になる。
視界が遮られ、戦線が左右に分断される。紙の壁とは思えないほど硬く、銃弾を受けてもすぐには破れない。むしろ弾を受けた場所からさらに折れ目が増え、別の形へ変わっていく。
次の瞬間、地面が割れた。
蛇が出てくる。
本物の蛇ではない。超人の力で生まれたものだ。黒く濡れたような胴体が地面の下から伸び、風紀委員の足首へ絡みつく。引き倒された生徒の悲鳴が上がるより早く、別の蛇が銃を弾いた。
「マヤもいる」
カヨコちゃんの声が通信に入る。
戦場が一気に崩れた。
折り紙が視界を遮り、蛇が足元を奪い、獣化個体群がその隙を突いて雪崩れ込んでくる。正面から来る敵なら押し返せた。けれど、視界を奪われ、足元を崩され、隊列を裂かれた状態では同じようにはいかない。
アコちゃんの声が飛ぶ。
「全隊、予定通り再編。無理に合流しないでください。各担当ごとに行動を継続」
予定通り。
その言葉で、これは完全な想定外ではないのだと分かった。
ただ、予定より早い。
戦線は、もう三つに裂け始めている。
キミカ会長は旧本校舎の方角を見た。
折り紙の壁の向こう、瓦礫の奥。ロカのいる中枢方面。
「私は先に行く」
短くそう言って、キミカ会長は前へ出た。
何人かの風紀委員が後に続こうとするが、イツキ先輩が止める。
「追わなくていい。キミカは予定通り中枢へ向かう」
「でも」
「予定通りだ」
その声に、誰も反論できなかった。
ヒナちゃんの周囲には、獣化個体群がさらに集まっている。折り紙の刃が舞い、蛇が地面を走る。そこを抜かれれば、私たちの背後を取られる。
「ヒナさん、そちらを維持してください」
アコちゃんが言う。
「分かってる」
ヒナちゃんは答えた。
その横へ、カヨコちゃんが走る。
「右は誘導。左が本命」
「助かるわ」
私はそちらへ行きかける。
ヒナちゃんのところへ。
でも、イツキ先輩が私の肩を掴んだ。
「君はこちらだ」
その声で足が止まる。
イツキ先輩は、東側のさらに奥を見ていた。
雷の気配。
東宮斎ホノカのコール。
まだ姿は見えないのに、肌の表面がちりちりと痛む。
「東宮斎ホノカ」
私が呟くと、イツキ先輩は頷いた。
「行くよ」
私はヒナちゃんを見る。
ヒナちゃんも、こちらを見ていた。
「ヒナちゃん」
「イト」
「あとで」
「うん。あとで」
その約束が、どれほど不確かなものかは分かっていた。
それでも言わないよりはいい。
私はイツキ先輩とともに、雷の気配がする方へ走った。
ホノカのいる区画へ近づくほど、空気が変わっていった。
焦げた匂いが濃くなる。壁の金属部分は歪み、手すりは熱で曲がっていた。割れた窓ガラスの縁には、焼けたような黒い跡が残っている。地面には水たまりと薬液が混ざり合い、そこへ細い電光が走るたびに、小さな泡が立った。
髪がわずかに逆立つ。
肌の表面に、細い針を当てられているような感覚があった。
「雷って、こう、避雷針とかで何とかならないかな」
冗談のつもりだった。
イツキ先輩が何か返すより早く、空が白く裂けた。
雷鳴は遅れてやってきた。
遠くの建物が一瞬だけ昼間のように照らされ、次の瞬間、屋上の一部が爆ぜる。砕けたコンクリートが雨のように落ち、焼けた空気がこちらまで流れてきた。
その光の向こうに、東宮斎ホノカがいる。
私は息を吸った。
昨日ヒナちゃんと約束した未来が、まだ胸の奥にある。
修学旅行に、行く。
けれど、その未来へ行くためには、まずこの雷を越えなければならない。
白い雷が、私たちの進路を塞ぐように地面を焼く。
焦げた空気の向こうから、声がした。
「与太は良い」
低く、静かな声だった。
光の奥で、東宮斎ホノカがこちらを見ていた。