黒原イトの青春 作:ナポリタン
黒い羽が、瓦礫の向こうへ消えていく。
ヒナは一瞬だけ、その背中を目で追った。イトはイツキとともに雷の気配がする方へ走っていく。引き止める言葉はなかった。行かないでと言えば、イトは止まるかもしれない。あるいは、止まらなくても、ほんの一瞬だけ振り返ってしまうかもしれない。
だから、言わなかった。
ヒナは視線を戻す。
目の前には、獣化個体の群れがいる。人の形を残したもの、四肢が獣に近づいたもの、もはや誰だったのか分からないもの。唸り声と銃声、折り紙が空気を裂く音、地面の下を這う蛇の気配が、崩れた街路に重なっていた。
ここを抜かれれば、イトたちの背後を取られる。
そうなれば、雷の区画へ向かった二人は挟まれる。キミカも中枢へ向かっている。アコの指揮があっても、戦線がこれ以上崩れれば、作戦全体が押し潰される。
ヒナはデストロイヤーを構え直した。
焦りはある。
イトの方へ行きたいという衝動も、胸の奥で暴れている。
けれど、今ここで自分がやるべきことは、それではない。
「ヒナさん、周囲の敵影が増えています。正面だけでなく、左右の建物内部にも反応あり。下がってください」
通信越しに、アコの声が届く。
いつもより早口だった。焦りを隠しきれていない。それでも指示は明瞭で、戦場のどこを見ているかが分かる声だった。
ヒナは視線だけで周囲を確認する。
右手の半壊した校舎には、紙片がいくつも貼りついている。左手の路地は瓦礫で塞がれているように見えるが、その下を何かが動いていた。正面の獣化個体群は、こちらの弾幕を嫌がりながらも、じりじりと距離を詰めている。
「下がれない」
ヒナは言った。
「ここを抜かれたら、イトたちの背後を取られる」
通信の向こうで、アコが息を呑む気配があった。
「ですが、その位置は包囲されます」
「問題ないわ」
ヒナは短く答えた。
分かっている。
それでも、ここを空けるわけにはいかない。
数秒の沈黙の後、アコの声が戻った。
「……分かりました」
その声から、迷いが消えていた。
「ヒナさんを下げられないなら、ヒナさんが戦える場所に戦場を作り替えます」
ヒナは少しだけ目を細めた。
「お願い」
「はい」
アコの声が複数の回線に飛んでいく。
「狙撃班、右手校舎外壁の紙片を優先して撃ち落としてください。包丁型、鳥型、蛇型の順です。補給班は二番通り側へ移動。ヒナさんの弾薬消費が増えます。通信班、妨害波の穴を探してください。カヨコさん、聞こえていますか」
『聞こえてる』
「ヒナさんの側へ回れますか」
『行ける。右は罠が多いから、左から入る』
「お願いします」
通信が切り替わる。
ヒナは、そのやり取りを聞きながら引き金を引いた。
デストロイヤーの弾丸が、正面から突っ込んできた獣化個体の脚を撃ち抜く。転倒した個体の背を踏み越え、別の個体が飛びかかってくる。ヒナは銃口を上げず、逆に踏み込んだ。
巨銃の側面を、鈍器のように叩きつける。
骨が軋む音がした。獣化個体が横へ吹き飛び、崩れた壁にめり込む。すぐさま背後から別の影が迫るが、ヒナは翼をわずかに広げ、急制動に近い動きで体を半歩ずらした。
爪が髪をかすめる。
そのまま、デストロイヤーの銃床が相手の顎を打ち抜いた。
キミカから一本取った時の動き。
イトとの模擬戦で、近接に潜られた時の感覚。
どちらも、今のヒナの体の中に残っている。
ただ撃つだけでは間に合わない。
ただ避けるだけでも足りない。
銃撃、近接、翼による軌道変更。すべてを繋げなければ、この数は抑えられない。
ヒナは息を整える暇もなく、次の敵へ銃口を向けた。
折り紙が空から降ってきた。
最初は鳥の形をしていた。白い鳥。紙でできているはずなのに、羽ばたくたびに風を切る音がする。狙撃班の弾が一羽を撃ち落とすと、鳥は空中でばらけ、細い刃の束へ変わった。
ヒナは翼を閉じ、体を低くする。
紙の刃が頭上を通り過ぎ、背後の壁に突き刺さった。紙でできた刃が、コンクリートへ深々と食い込んでいる。見た目は紙でも、切れ味は本物と変わらない。
畳紙メルリの能力。
折ったものの形が、そのまま性質になる。包丁を折れば本物の包丁のように切れ、鳥を折れば空を飛び、獣を折ればその特徴を得る。紙の薄さと軽さを保ったまま、意味だけが現実へ引きずり出されているような力だった。
地面に貼りついていた紙が立ち上がる。
折り目が増え、白い板が組み合わさり、盾になる。ヒナの銃弾がそこへ当たると、盾は破れずにたわみ、弾を受け流した。直後、盾の裏側から紙の獣が飛び出してくる。
ヒナは一歩下がり、デストロイヤーを振り抜く。
紙の獣が砕ける。
しかし、砕けた紙片はそのまま地面へ落ちない。空中で再び折れ曲がり、小さな刃へ変わって戻ってくる。
鬱陶しい。
そう思った瞬間、足元の瓦礫がわずかに動いた。
ヒナは飛んだ。
翼を広げた直後、地面の下から黒い蛇が飛び出す。蛇はさっきまでヒナが立っていた場所を噛み砕き、瓦礫を巻き込んで地面へ潜った。もし反応が遅れていれば、足を取られていた。
だが、空中は安全ではない。
折り紙の鳥が上から襲う。
ヒナは空中で体をひねり、デストロイヤーを撃つ。鳥が撃ち落とされると同時に、蛇が建物の壁を這い上がってくる。地面だけではない。壁、瓦礫、割れた窓、配管の隙間。どこからでも来る。
マヤの蛇と、メルリの折り紙。
二つが噛み合うと、戦場そのものが罠になる。
「よく避けるねぇ」
壊れた校舎の二階から、声がした。
瓦礫の縁に、ひとりの少女が腰かけている。蛇のような目でこちらを見下ろし、楽しそうに笑っていた。マヤだった。
「でもさ、ずっと避けられるかなぁ」
別の声が、紙の壁の向こうから聞こえる。
「堕ちろや、カトンボ」
メルリの声。
姿は見えない。だが、紙片はそこら中にある。どの紙の向こうに本人がいるのか分からない。あるいは、最初から見える位置に出るつもりがないのかもしれない。
ヒナはデストロイヤーを構えたまま、二階のマヤを見上げる。
「退きなさい」
マヤはきょとんとした顔をした後、声を上げて笑った。
「退く? ここで? こんなに楽しいのに?」
蛇がマヤの周囲を這う。彼女はその頭を撫でながら、目を細めた。
「この祭りを楽しまないなんてさぁ! 嘘だよねぇ!?」
メルリも笑う。
紙の壁が左右に揺れ、その向こうから関西訛りの声が流れてくる。
「おどれらが死ぬか、うちらが死ぬか。ぞくぞくするやろ?」
その言葉を聞いて、ヒナの中で何かが冷えていった。
怒りではない。
もっと低いものだった。
理解できない。
同情の余地がない。
ヒナの目から、温度が消えていく。
「もう、いいわ」
声は静かだった。
マヤの笑みが少しだけ止まる。
ヒナはデストロイヤーを構え直した。
「あなたたちは、ここで止める」
カヨコが合流したのは、ヒナが三度目の包囲を抜けた直後だった。
横合いから撃ち込まれた弾が、ヒナの足元へ伸びていた蛇の頭を弾き飛ばす。続けて、紙の壁の端を正確に撃ち抜き、そこに隙間を作った。
「遅れた」
カヨコはそう言って、壊れた車の陰に身を滑り込ませる。
「充分」
ヒナは短く返す。
カヨコは周囲を一瞥した。瓦礫に貼られた紙片、割れた窓の内側に隠れた折り紙、地面に残る蛇の這った跡。
「右は無視、左から来る」
ヒナは迷わなかった。
右から折り紙の鳥が群れを成して飛んでくる。普通ならそちらに意識を取られる数だった。だが、ヒナは左へ銃口を向ける。
半壊した壁の裏から、蛇が飛び出した。
弾丸がその口腔を貫く。
蛇は崩れ、黒い泥のように地面へ溶けた。
ヒナは正面を押さえ、カヨコは罠と奇襲を読む。イトと並ぶ時とは違う。イトはヒナの速度に追いつき、同じ場所へ飛び込んでくる。カヨコは違った。彼女はヒナの後ろや横に立ち、ヒナが見落としそうなものを拾う。
戦い方は違う。
けれど、噛み合っている。
通信にアコの声が入る。
「狙撃班、メルリの折り紙は右手校舎三階の窓から供給されています。そこを落としてください」
数秒後、三階の窓が撃ち抜かれた。
紙片の流れが一瞬だけ弱まる。
「カヨコさん、マヤの本体位置は」
「二階から移動してる。今は地下通路側かな。たぶん、ヒナの背後を取るつもり」
「ヒナさん、後方注意」
「分かってる」
ヒナはあえて前へ踏み込んだ。
正面から獣化個体が二体飛びかかってくる。デストロイヤーの銃撃で一体を止め、もう一体の爪を銃身で受ける。衝撃が腕に響くが、引かない。翼を広げ、体を軸にして回転するように敵を振り払った。
その背後で、地面が割れる。
マヤの蛇がヒナの背中を狙って飛び出した。
カヨコの弾が、その目を撃つ。
蛇が怯んだ瞬間、ヒナは振り返らずにデストロイヤーの銃床を後方へ叩き込んだ。鈍い音とともに、蛇の頭が砕ける。
「なんで見えるかなぁ」
どこかで、マヤが不満そうに笑う。
「見えてない」
カヨコが答えた。
「動きが単純だから、読みやすい」
「嫌な女」
「お互い様」
カヨコの声は冷たいが、わずかに呼吸が荒い。
ヒナはそれに気づいた。
カヨコはヒナほど正面から押し切れるわけではない。蛇を読み、罠を潰し、射線を作る。だが、そのたびに危険な位置へ入っている。少しでも判断を誤れば、彼女が先に飲まれる。
ヒナは前へ出た。
自分が圧力を引き受ければ、カヨコは読むことに集中できる。
自分がここを支えれば、アコは戦場を組み替えられる。
自分が止めれば、イトたちは背後を取られない。
その全部が、ヒナの足を前へ進ませた。
メルリの折り紙が、巨大な獣の形を取った。
白い紙の塊が何重にも折り重なり、四足の獣になる。紙のくせに重い足音を響かせ、割れた道路を踏み砕きながらヒナへ突進してきた。背中からは包丁型の紙刃がいくつも生え、近づけば全身を切り刻まれる。
「ヒナさん、正面は危険です。左へ」
アコの指示。
「左は駄目」
カヨコが即座に否定する。
「蛇がいる。右へ誘導されるのも罠。上」
上。
ヒナは迷わず地面を蹴った。
翼を広げ、紙の獣の突進を上からかわす。直後、左の瓦礫から蛇が飛び出し、右の路地から紙の刃が雨のように降った。どちらも、地上にいれば避けきれなかった。
空中へ出たヒナを、メルリは待っていた。
鳥型の折り紙が一斉に襲いかかる。
「撃ち落とします!」
アコの指示を受けた狙撃班が、鳥の群れを撃つ。すべては落とせない。だが、進路は開いた。
ヒナは翼をたたみ、急降下する。
デストロイヤーを両手で握り、紙の獣の頭部へ叩きつけた。銃声ではなく、衝撃音が響く。紙の獣の頭が潰れ、折り目が崩れる。
その瞬間、カヨコが叫んだ。
「下!」
ヒナは銃を引き戻さず、逆に手を離した。
重いデストロイヤーが紙の獣の体に食い込んだまま残る。ヒナは身軽になった体で半歩ずれ、地面から突き出した蛇の牙をかわした。
すぐに銃を取り戻す。
その動きに合わせて、カヨコが蛇の胴体を撃ち抜いた。
蛇が崩れる。
紙の獣も形を保てなくなり、ばらばらの紙片になって散った。
「メルリの供給、落ちています」
アコの声が入る。
「狙撃班、続けてください。カヨコさん、マヤの位置は」
「近い。たぶん、焦れて出てくる」
その予測通り、マヤが瓦礫の陰から飛び出した。
蛇をまとい、低い姿勢でヒナへ迫る。手には短い刃。蛇の動きに合わせて、自分の体も蛇のようにくねらせている。正面からではなく、視界の端を滑るような動きだった。
ヒナは迎え撃つ。
デストロイヤーの銃口を向けると、マヤは笑った。
「当たるかなぁ?」
蛇が銃身に絡みつく。
引き金を引くより早く、銃口が横へ逸らされた。マヤの刃がヒナの懐へ入る。
だが、ヒナは銃を撃つつもりではなかった。
デストロイヤーごと腕を振り下ろす。
巨銃の重さが、絡みついた蛇ごとマヤの動きを押さえ込んだ。マヤの目が見開かれる。
ヒナは片翼を広げ、体を回す。
銃を支点にして、足を叩き込む。
マヤの体が吹き飛び、壁に激突した。
その瞬間、紙の壁の向こうからメルリが姿を現す。手には折り紙の束。包丁型、針型、鳥型。すべてが一斉に形を持とうとしていた。
カヨコが撃つ。
紙の束が弾けた。
アコが叫ぶ。
「今です!」
ヒナは走った。
足元に蛇が残っている。頭上に紙刃が降る。横から獣化個体が飛び込んでくる。だが、全部が一拍遅い。アコが穴を作り、カヨコが罠を読み、ヒナがその隙間を抜ける。
デストロイヤーの銃床が、メルリの腹部を正確に打った。
メルリは声を漏らし、膝から崩れ落ちる。
ヒナはすぐに振り返る。
壁際で起き上がろうとしていたマヤへ銃口を向ける。
マヤは一瞬、まだ笑おうとした。
だが、ヒナの目を見て、その笑みが止まった。
「終わり」
銃声が響く。
マヤの肩と脚を撃ち抜き、壁にもたれたまま崩れ、蛇の群れが力を失って地面へ溶けていく。
メルリも倒れたまま、もう折り紙を持ち上げられない。
ヒナは二人を見下ろした。
「マヤ、メルリ、戦闘不能」
ヒナは通信へ告げる。
アコの声が少しだけ震えて返ってくる。
「確認しました。ヒナさん、戦線を再構築します。獣化個体群の残存反応あり。まだ抜けられません」
「分かってる」
ヒナは答えた。
その時、遠くで雷鳴が響いた。
続けて、腹の底を揺らすような重低音が来る。
普通の爆発ではない。
ホノカの雷とも違う。
もっと奥。
旧ゲヘナ本校舎の方角から、重い何かがぶつかり合う気配がした。
ヒナはそちらを向く。
イトがいる方。
イツキが向かった方。
そして、キミカが向かった方。
行きたい。
今すぐにでも走り出したい。
だが、周囲にはまだ獣化個体が残っている。マヤとメルリを止めても、戦線そのものは終わっていない。ここを放棄すれば、後方が崩れる。イトたちの背後も、アコたちの指揮線も、全部が危うくなる。
通信にアコの声が入った。
「ヒナさん、ここを維持してください」
ヒナは目を閉じなかった。
遠くの雷鳴を聞きながら、デストロイヤーを握り直す。
悔しさを飲み込む。
「分かってる」
答えは短かった。
だが、その声は揺れていなかった。
ヒナは再び、前を向く。
イトの方へ行けないまま。
それでも、イトが帰ってくる場所を守るために。